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ジュンヤ 2

 この気持ちを何と呼ぼう。たぶん、焦燥とか、そういう名前が付いているのだと思う。
 真上からテニスボールの弾む音が聞こえてくる。四階建ての高校の、狭い中庭に響く音はすぐ隣の校庭からなのにやけに遠い。
 昼は何とかごまかした、と言うより、そもそも話題になるのを避けたけれど僕は、内心気が気でなかった。
 本を失くした。
 ライトコートの浅い人工芝に手を差し入れてくすぐったさを楽しんでみても、そんな所に隠れているわけがない。僕は溜息一つ吐いて立ち上がると臀部の草を払った。
 立ち上がったはいいが次にするべきことが思い浮かばない。
 心当たりはどこも探した。家、教室はもちろん、よく立ち寄るショップ、コンビニ、ファーストフード、果てはそれぞれのトイレまで……。
 そんな中思い出したのが、学校にある二つのライトコート、一度ここでカヤを見付けて、入ってきたことがあった。でも、どちらにもなかった今、僕は途方に暮れていた。まだ一つ、探していないところがあると言えばあるけれど……。
 ひとまず食堂に向かうことにした。食堂と言ってもそう機能するのは昼休みのことで、放課後は帰る踏ん切りのつかない連中がぽつりぽつりとだべっているか、あるいは僕のように人を待っている。
 斜めの廊下を二度曲がって食堂に辿り着くと、並んだ長テーブルの左奥の二つ分がぽっかりと空いていたので、紙コップのコーヒーを買ってから腰掛けた。
 もう、明後日には僕の誕生日、一月三十日が来てしまう。
 カヤが毎年誕生日にくれる本。その贈り物を僕は失くしてしまった。
「ジュンヤさん」
 いつの間にかコーヒー片手にじっとテーブルの隅を睨んでいた僕はその声に顔を上げた。
「ここ、いいですか」
 と言って律義に立ったまま僕の顔を見下ろしているトリくん。
「うん、もちろん。どうぞ」
 椅子を引いて座ろうと下向くと長めの髪が下りて見えなくなるけど、トリくんは高一の割に幼い顔をしていると思う。いまだにふっくらしている頬と大きな黒目がそう見せているんだろう。
「姉ですか」
「そう、待ってろって言われた」
「そうですか」
 それだけ言うとトリくんは鞄から本を取り出して栞を抜き取った。
 自分から目の前に座って、いきなり、一人で本を読むところがトリくんの面白いところだ。でももっと面白いところもある。
「ねえ、トリくん」
「はい」
 兎の絵が描かれた栞を本に挟み込み、机の上に置き、僕に向き直る。八割が黒目のこの目でじっと見られるとまるで犬のよう。
「トリくんは、なんでトリくんなの」
 え、と意図を探るように僕の顔を覗き込んだ後に、閉じたハードカバーのタイトルに視線を落とす。『Fork N Push』。とても答えが載っているようには見えない。
 一拍待ってから
「どういう意味ですか」
 と尋ねる時になぜか僕を見ないトリくん、面白い。
「いや、カヤがトリくんトリくん言うから僕もそう呼んでいたけど、実は本名知らないなと思って」
 トリくんは本を見たまま「N」の辺りを左手の人差し指と中指でさすり始める。
 面白い。
「本名です」
「そうなの。どんな字書くの」
「ええっと」
 トリくんは隣の椅子に置いた鞄を開けて、手を中に突っ込んだ。そこから革表紙のノートを取り出す。
そのノートを見て僕はどきりとした。毎年カヤから貰っているプレゼントと同じ表紙だった。
「それ」
 と指差す僕に、トリくんは開きかけたノートを置く。
「どこで売ってるの」
 聞いてから後悔する。そんなことを知ったって、ノートだけ買い直したって、何の意味もない。
「自分で作ったんです」
 嫌な予感が走る。
「父の教育方針で、中学に上がる時には、自分のノートを作るように、って。授業には使わない、自分の大事なことを書き留めるのを十冊」
 これは七冊目なので、高校の間に使い切りそうですね、と付け足すトリくんの声が遠かった。
 カヤに初めてプレゼントを貰ったのは中学一年の誕生日だった。遠めの高校を受けて同じ中学の仲間がいなかったので、カヤとは高校に入ってからよく話すようになっていた。
 表紙は革の立派な物だけどタイトルも作者もない本に、正直面食らいながら開いたら、別の意味で面食らった。手書きで、物語が、書き込まれていた。
 童話のような、小説のような物で最初の十ページくらいが文字で埋まり、残りが白紙の本。それまでカヤの文字を見たことはなかったけれど、カヤが書いたことは疑いようがなかった。
 翌年、中二の一月にも同じように本をくれた。でも、その年には前の年の本をカヤは引き取っていった。その理由が分かったのがさらに翌年、十五歳の誕生日。最初の本の後に白紙のページを挟んで、カヤが撮った僕の写真が並んでいた。
 つまり二冊を交互に使って、どんどん本の内容を更新していこうというのだった。
 それを理解してから僕は、誕生日が近付くと、手元にある分を読み返すようにしている。次の本を読む時に、前年の分を思い出していられるように。
 それを僕は失くしてしまった。
「ジュンヤ!」と呼ぶ声が食堂に響いた。
  跳び上がりそうだった。顔を上げると、食堂の他の連中も入口のカヤを見遣ってからこちらに視線を移す。目が合うとカヤは早足で向かってきた。

カヤ 1

 足元ばかりを見て歩いていた。
 カヤの頭の中には、自分のパンプスの底がアスファルトをこする音だけが響いている。
 靴のつま先の向こうを長い影が歩いていて、カヤが三歩を踏み出す間に、正確に二度、歩みを進めた。左肩から手の先まで火照っているのだけがはっきり分かるがそれ以外には何も考えられなかった。
 二人でいることがここ数日はなかった。前は、朝や放課後にはよく話しながら歩いていたが、それがなくなっても、別に付き合っているわけでもないカヤに何か言うつもりはなかった。ジュンヤの方もそうだろう。教室で二人で話すのは変わらず自然なのに、二人になることに怖れが生まれていることをカヤは自覚していた。
 それなのに今日帰りにジュンヤを待たせたのは、もう一月二八日になってしまっていたからだ。このままの状態で明後日を迎えるのは耐え難かった。
「ねえカヤ」鞄を左肩から右に持ち替えたところで隣のジュンヤが口を開いた。
 心臓が大きく一つ脈打って、うわんうわんと体中に響き渡る。その音が喉から漏れるかと思うほどだった。
 ジュンヤの声を何か月間も聞いていなかったような気がした。
「今日カヤんち行ってもいい?」
「え」
 耳を疑った。
 あんなことがあったのに。
 左手の熱が全身に回り始める。
「うん」
 嬉しい。
 すごく、嬉しい。
 世界が生まれ変わったようだった。それについてこられなかった足が歩き方を忘れて前につんのめる。
「おっと」
 視界が塞がったと思ったらカヤの肩がジュンヤの左手に支えられていた。
「ごめん」
「うん」
 カヤは顔を上げられず、足元しか見えなかった。

ジュンヤ 3

 カヤが僕を部屋に通してから階下に降りると、僕は立ち上がってカヤの部屋を見回した。
 まず目を引いたのは、この間まで僕が読んでいたのと同じ、革表紙の本の背表紙だった。何気ない風を装ってカヤが雑誌の間に挟み込んでいたけど、今年の誕生日プレゼントにくれるつもりの本だろう。それを覗き見るのに後ろめたい気持ちはもちろんある。カヤが今まさに準備している物を、去年の物と間違えているわけがないとも思う。
 深呼吸を一つ。
 机の引き出しを開けた。下敷き、プリクラ、などなど。本は入っていなかったから見なかったことにして閉じた。
 次はクローゼット。さっきカヤが入れていたコート、休日に会うと見るやつ、秋もの、バタン。見なかったことにする。
 収納。見なかったことに。
 そんなことを繰り返して自己嫌悪を大分ため込んだけれど、その甲斐なく本は見付からない。でも、先週この部屋に来た時に置き忘れたくらいしか、他に本の在り処を思い付けない。
 改めて部屋を見回す僕の目を捕らえるのは、やっぱり雑誌の陰に隠れている本なのだった。考えてみれば、一ページ目、二ページ目はもう見ているのだから、今見ても大丈夫だろう。それに、実は何日も前にカヤが作業を終えていて、それ以来中身を確かめていないということも考えられる。
 耳を澄ませてみる。まだカヤが上がってくる気配はない。
 そっと雑誌の束に近付き一番上の物を除けると、タイトルも作者も書かれていない革表紙が姿を現す。
 これは今年もらう分の筈だ、と頭の奥で囁きが聞こえる。恐る恐る、重量感のある表紙をめくり、ページを繰っていく。
 写真が出てきた。そこには、ピントが合っていないけれど、僕が写っている。
 今年もらう分だった。ついこの間、今年カヤに返す分を読み始めたので間違えようがない。つまり、結局失くした方の本は見付からなかったということだ。
 それでも僕は安堵している自分に気付いた。
 気を取り直すために深呼吸をしたところで、階段を昇る音が聞こえた。僕は慌てて本を元の状態に戻し、読みかけだったマンガをカヤの本棚から取り出して開いた。
 足音が近付くに連れて奥歯に力が入り背中に汗が滲み、マンガの内容はまるで頭に入ってこないけれど、なんとなくページをめくってみたりする。という工作は無駄で、そのまま隣の部屋のドアが閉まる音が聞こえたのできっとトリくんが帰ってきたのだろう。
 そういえばカヤが降りてからずいぶん時間が経っている気がする。

カヤ 2

 リビングに入ってまず、カヤはソファに座り込んだ
 動ける気がしない。
 今まで体を動かしていたエネルギーが全部抜き出てしまった心地がした。
 両手で自分の頬を挟んでみると熱を持っている。目元も震えて涙が滲み出てくる。ジュンヤには気付かれなかっただろうか。気付かれていないわけはない。だがどう思われただろうか。
 まさかジュンヤの方からうちに来ると行ってくれるとは。
 カヤはそのことばかり何度も反芻して今でも他のことを考えられなかった。思い返す度に頬が緩む。二階の自分の部屋に待たせているのだから早くお茶を入れて向かうべきなのに体が言うことを聞かず、ソファに持たせかけた背中を起こす方法さえ忘れてしまったようだった。
 それなのに、リビングのドアノブを回す音に体が跳ね上がる。
「ただいま」
 振り向くとトリくんだった。
 応えもせずにまた体をソファに沈みこませる。
「ジュンヤさん来てるの」
「んー」うん、と言うのさえままならない。
 伝わったのか伝わらなかったのか、トリくんはキッチンへ向かうと、水を出したり電子レンジを鳴らしたり、ごそごそと何事かしてからリビングへと戻って来た。
「お姉ちゃん」
「んー」
「どうぞ」と差し出す手には、子豚がデフォルメされたイラスト入りのマグカップが握られている。
 姿勢を正してカップを受け取ると、湯気と共に甘い香りがカヤの鼻へと届いた。
「ココアだ」
「うん」
 照れくさそうに視線を外しながら隣に腰掛けるトリくん、小さい頃から恥ずかしがるポイントがつかめない。
 ココアをすするといつもよりも強い苦味が口の中に広がり、すぐ後に同じところが甘みで満たされる。
 カヤはその一口で落ち着いた。
「ありがと」
「うん」相変わらずのトリくん。
「ありがとう」左手をその頭に乗せてくしゃくしゃと髪を乱す。
 そこでカヤは自室に放置しているジュンヤのことを思い出した。
「まだあるの、これ」
 トリくんは頷く。
「もらってもいいかな」
 考えた様子を見せてからカヤと目を合わせ
「ごめん、おれの分しかない」
「そっか」
「そう」
「じゃあ自分で紅茶でも入れるかな」
「そうして」
「でもこれ飲み切ってからかなー?」
 トリくんはそこで、カヤのカップの柄に目を移すと、
「着替える」と言ってリビングを出た。

カヤ 3

 こうしてトリくんの部屋に三人でいることに、カヤは正直ほっとしていた。
 家でジュンヤと二人だと、何を話していいか分からない。
 ジュンヤもきょろきょろと視線が定まらないのは、同じように落ち着かないのだろうか。
「そのノートってどこかにまとめてるの」
「はい」
 とトリくんが立ち上がって本棚のガラス戸を開けると、几帳面に並べられた本が姿を表す。その左下の一角を数冊の革の背表紙が占めていた。
「ここです。この三冊が未使用の三冊で、こちらが使い切った分です」
 ノートたちをじっと見つめるジュンヤに、トリくんは一番左の一冊を抜き出して、差し出した。
「びっしりだね」
 ジュンヤはノートを開くとゆっくりとめくり始めた。
「これ面白いなあ。『人が物に名前を付ける度、付けられなかった名前たちの寄り合いが持たれる』だって」
 それを聞いてトリくんは、ジュンヤの手元に向けてた目を泳がせる。普段は話題の中心をじっと見て視線を外さないのに、照れると途端にどこを見ていいかわからなくなるのが可愛い。そして何に照れているのか全く分からないのがもっと可愛い。
「こういうの毎日書いてるんだね」
 トリくんは視線を外したまま頷く。
「カヤちゃんは」
「ん?」
「何に使ってるの、このノート」
「え」
「おじさんの教育方針で、作ったって、聞いたけど」と、ジュンヤは顔の向きだけでトリくんを示す。
 カヤは少し悲しくなった。
「んー。内緒」
「何、それ」ジュンヤが笑う。
 明後日には分かるのだから、言う必要はない。
「そろそろおれ」
 トリくんが立ち上がった。
「夕食の買い物に行きます」
「あ、そうなの」
「わたしが行くよ」
「いや、おれが行く」とトリくんはカヤの目を見つめた。
 今日はわたしの当番だよ、と言いかけてカヤはトリくんが気を遣っていることに気づいた。そして、気を遣っているということは、カヤの気持ちを分かっているのだとも気がついた。
「ん、ありがと」


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