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そろそろ大丈夫じゃないか、と誰かが言ったらしく、皆で山を降りることになった。そうでなくとも私は日暮れまでには絶対に家へ帰ろうと決めていた。慌てて飛び出したので書き置きを残すのも忘れており、もしかしたら彼はもう戻って来て、心配しているかもしれない。早く彼に逢いたくて、私は駆ける。

 

町道には土砂や家具や家の一部らしき材木、ひっくり返された車までが残されており、まるでテレビや映画に出て来る焼き払われた戦場か竜巻の後を想起させた。現実の光景とは納得できないままに、私は憑かれたように瓦礫の隙間を探して歩を進め、いったい家はどうなったのだろうか、と不安に苛まれた。

 

夕刻が迫っているので空は薄暗くなっており、津波に洗われて汚くなってはいるが残っているどの家にも灯りが点いていないことに初めて気づいた。どうやら町全域が停電しているらしい。流されて来た大きなソファーを乗り越えながら、これでは車で通勤している彼が戻って来られないのでは、と心配になる。

 

角を曲がるとアパートが見えて来て、私は家が流されていないことにほっと安堵した。アパートの脇にも瓦礫がうず高く積もっており、二階のユニットを借りた幸運に思わず感謝する。彼は戻って来ているだろうか。私は無我夢中で駆け出し、道を塞いでいた木材の何かに躓きながらも一目散に家を目指した。

 

遼クン!声を振り絞りながら二階への階段を駆け上がる。渡り廊下にまで土砂が残っている。扉を勢い良く開けると、玄関も半分ほど水浸し。灯りが消え薄暗い我が家を覗いた途端に氷のように冷たい戦慄が全身を駆け抜けた。彼は、いない。ダイニングと畳の間しかない狭い家は、死んだように静かだった。

 

きっとこの土砂と瓦礫で帰れなくなっているのだ、と私は自分に言い聞かせる。ベランダへ通じるガラス戸から薄い西日が射し込んでおり、後少しすれば完全に闇に呑み込まれるであろうことがわかった。懐中電灯は彼の車のトランクの中。クリスマスに買ったキャンドルが残っていることをふと思い起こした。


キッチンの引き出しを開けて使いかけの紅いキャンドルを取り出す。彼のライターが何処かにあったはず。結婚したんだから、煙草、やめたら?私がそう提案すると彼は苦笑した。じゃ、ベランダで吸うよ。蛍族の仲間入りだ。煙草を美味そうに燻らす彼の傍でベランダから外を眺める時間を、私は好きだった。

 

言ったっけ、俺の親父は漁師だったんだ。遠洋航海に出掛けるとしばらく帰って来ない。台風が来る度にお袋が心配そうに外へ出て空を眺めていた。ああいう仕事は厭だな、って子供心に思ったよ。海は好きだが、漁師なんて真っ平だ、って誓った。そんな話をする時、彼は口を真一文字に結び彼方の海を睨んだ。

 

キャンドルをガラスの灰皿に乗せ、彼のライターで火を点けようとしてから思い留まった。もしかしたらガスが洩れているかもしれないと不意に気づいたからだ。キャンドルを乗せた灰皿を持ってベランダへ移動する。幸いガラス戸は軋みながらも開いてくれたので、私はベランダにしゃがみ恐る恐る火を点けた。

 

ベランダの柵の向こうには今まで眼にしたことのない瓦礫の山と化した街並みが続いている。陽が沈み、空は薄い茜色をわずかに残すばかりで紫を帯びた闇色の雲に蔽われていた。紅いキャンドルの黄金色の炎を眺めながら、私は再び言いようのない不安に襲われる。いったい彼は今何処にいるのだろうか、と。

 

クリスマスケーキは電灯を消してキャンドルの灯りで食べよう、と私が提案すると、彼は笑った。町に一軒しかないケーキ屋で苺のショートケーキを二つ買って来て、それにヒイラギの葉を差し込むと立派なクリスマスケーキになった。結婚したらクリスマスをきちんとやろうと決めていた私は大満足だった。

 

クリスマスって飲み屋でパーっと騒ぐものかと思っていた、と彼が軽口を叩き、クリスマスは家族の日よ、と私は知ったかぶりをした。本当は子供の頃、クリスマスを祝う家の友達が羨ましくて仕方がなかったのだ。クリスマスにも朝帰りをするような母だったからこそ、私は早く自分の家庭を築きたかった。


私はベランダの手摺に凭れ掛かり、すっかり暗くなった闇の中を瓦礫に埋もれた道の向こうから、彼がひょっこり姿を現わしてくれないだろうか、と祈る。オフィスからここまで歩いたらどれぐらいの時間がかかるのだろう、と推し量る。電話が通じない彼とどうやって連絡を取ればいいのか、何度も自問した。

 

不意に玄関で物音がして、私の胸が高鳴った。遼クンはやっぱり戻って来てくれたのだ!急いで玄関に走り戻ると、しかしそこに立っていたのは階下に住むスギウラさんだった。電気もガスも電話も遮断され余震でまた津波が起こる可能性もあるので、町民は高台の小学校に避難するように、との指示だった。

 

まだ主人が帰って来ていないので、と私が口篭ると、彼は同情を込めた哀しそうな眼差しを向け、途端に、私の胸に嵐時のような黒い雲が広がった。まさか・・。私は勇気を振り絞って夫のオフィスがある隣町の状況を尋ねる。あそこはここよりずっと海に近いからねえ。スギウラさんは困った顔で眼を伏せた。

 

教えて下さい!私が振り絞った声は自分の耳にも悲痛に聴こえ、その時初めて、私は家族の安否を気づかう被災者の一人となってしまったことを認めざるを得なかった。それまで最悪の事態なるものは考えないようにと無意識に自制していたのに、気づくと涙が溢れて頬を伝い、私は茫然として宣告を待った。

 

いや、はっきりした事はわからんが、あのあたりでは車がずいぶん流されたらしい。さっき町長さんのところで警察の人に逢ったんだが、津波が来るからと県道に立って運転者に注意していた巡査さんも流されたそうだ。なんせ、こんな大津波だとは、誰も予想できなかったからねえ。全部押し流されちまって。

 

スギウラさんの声が朧げに響き、私は話に耳を傾けてはいるのだが理解できなかった。納得したくはなかった。夫はきっと高台方面に配達に行っていたに違いない。きっと何処かの丘の上からひどい濁流を眺め、大変な事になった、と驚愕したに違いない。道路が水浸しになり、それで未だ帰って来れないのだ。


主人が戻ったら一緒に避難所へ向かいます、と私が涙声で訴えると、スギウラさんは再びあの哀しそうな顔を振り向け、余震に十分注意して下さい、と言い残して立ち去った。彼が階下に去った後、私は急に怖しくなる。他の人達は皆小学校へ避難したらしく、半ば廃墟と化した町に私は一人取り残されたのだ。

 

暗い家をふらりと見廻して、皆と一緒に避難し小学校で彼を待つべきだろうか、と私は迷う。いや、彼はきっとこの家へ戻って来るはずだ。この町は私の生まれ故郷ではないけれど、この二間の狭いアパートこそが私達二人の唯一の故郷なのだ。朝方、行って来るよ、と出勤した彼の姿がくっきり瞼に浮かんだ。

 

彼が戻って来れるように、私はそれまでしっかりこの家を守らなければいけないはずだった。ダイニングの床に飛び散ったガラスの破片や瀬戸物の欠片。闇に慣れてきた眼で私は惨状を把握し、彼が帰って来る前に片付けよう、と自分を奮い立たせる。テーブルに倒れていた食器戸棚を、力いっぱい壁に押し戻す。

 

スーパーのビニール袋を出して来て、私は手を切らないように注意深く破片を拾い集め袋に入れていく。彼の蒼い茶碗の残骸だけはどうしても捨てられず、一枚一枚欠片を丁寧に除けておいた。私の紅い茶碗は端が少し欠けた程度で奇跡的に形を留めていたが、結婚祝いにもらった夫婦の湯呑みは見事に割れた。

 

気味悪いほどの静寂の中で、私は眼を凝らし機械的に欠片を拾い集めていく。結婚生活の短い軌跡が白いポリ袋の中に呆気なく葬られているように感じる。彼と過ごした日々が束の間の幻であったと錯覚させる厭な予感に、私は思わず作業中の手を止め、彼が使っていた茶碗の破片でできた蒼い山を見つめた。

 

瀬戸物の欠片をセメダインで繋ぎ合わせることができたら、パズルのようにしっかり元の形に組み合わせる事ができたら、そうしたら彼は戻って来れるのだろうか。そう考えた途端に、私は自分が怖れているものの正体がわかった。心の奥底で先ほどから蠢いている、どうしても認めたくない可能性は、彼の死。


何を莫迦な、と私はその恐怖を振り払う。彼はたまたま遠くにいて、それで未だここへ辿り着けていないだけ。町民が小学校へ避難したと聞いてそちらへ向かったのかもしれない。妻の私が彼の生存を信じなくて、誰が彼の為に祈ることができようか。後で今夜のことは笑い話になるに違いない、と信じたかった。

 

私は再び指を動かし、欠けた皿やグラスを黙々とビニール袋に入れ続けた。ビールは缶のままでいいよ、と彼は言ったっけ。でも、ちゃんとグラスを冷蔵庫で冷やしておいたんだ、と私は得意がり、彼に感心されたっけ。お疲れ様でした、と帰宅した彼と晩酌を交わし、彼はいかにも美味しそうにビールを飲んだ。

 

ありふれた日常。今となってみるとそんな小さな日課がすべて愛おしく感じられる。漁師の息子のくせに肉が大好きな彼の為に、私はよくハンバーグを作った。牛肉は高いのでキャベツと玉ネギ、それに牛乳でふやかしたパンをたくさん入れて量増ししたハンバーグを、彼は美味しいといつも褒めてくれたものだ。

 

遼クン、何、食べたい?蒼い茶碗の欠片を見つめながら私は胸の裡で尋ねる。電気もガスもないけれど、ポータブルのコンロがあることを思い出した。やっぱ冬は鍋だろう?と彼が提案し、この冬にコンロを買ったのだ。魚のアラを入れた鍋やスキヤキ、白菜ベーコン鍋に豆乳鍋、あらゆる鍋を二人でつついた。

 

俺、毎日鍋でもいいぜ。猛烈な勢いで白菜を平らげながら彼が言い、これって料理としては簡単過ぎてちょっと良心が痛むな、と私は笑った。スーパーだけではなく漁港にある直営店にも足を伸ばして彼が好きそうな海鮮類を買い、このあたりはホタテがたくさん採れる海なので豪華にホタテ鍋も作ったものだ。

 

鍋の締めにうどんを入れるか、ご飯を入れて雑炊にするか、私達は楽しく迷った。どちらも美味しくて、中華麺が食べたい気分だ、と彼が言えば鍋の最後はラーメンになった。具の旨味が充分に滲み出た鍋の汁は絶品で、麺々亭のやつより美味い、と彼は嬉しそうに宣言し私も忙しく箸を動かしながら同意した。



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