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寒さの為に歯が鳴っていたが、しばらくすると凍えは或る種の鈍い陶酔に変わってきた。遼クン、と私は瞼の裏の彼の面影に話しかける。今度一緒にサーフィンをやろう、って言ったよね。天国には綺麗な海岸もあるの?そこでサーフィンを習おうかな。金槌だけれど、死んじゃったら溺れる心配はいらないもの。

 

アツコ。彼が呼びかける声が遠くから聴こえたような気がする。遼クン、何処にいるの?私は立ち込めた白い靄の合間を彼を求めて手探りする。靄はとても深くて、前に二人で訪れた山の霧のようだ。彼の姿が見えずに私は不安になる。私を置いて行かないで。戻って来て!不安に胸が張り裂けそうになった。

 

アツコ。再び呼びかけられて振り向くと、すぐ後ろに彼が心配そうな顔で立っていた。どうしたんだよ、こんなに濡れちゃって。風邪ひいちゃうから、早く中に入ろう。彼の手が肩に触れたのを、確かに感じた。入ろうって、遼クンが帰って来ないからここで待っていたの、と私が口を尖らせると彼は微笑した。

 

その後のことは憶えていないのだ。巡査さんが朝見廻りに来たとも考えられるし、避難所に移されたらしくヤマコシさんがいたと思える。夢も見ない泥のように長い眠りを貪っていたようであり、ずっと目覚めていたようでもある。私の周囲で世界は廻っているらしかったけれど、私にはもう関係がなかった。

 

いったいどうしたらいいの、と私は胸の中で彼に問い掛け続けた。遼クンがいなくちゃ、どうしたらいいのかわからない、と毛布を頭まで被って声を押し殺し呻くようにして泣いた。涙がちっとも出ないぐらいのショックだったのだ。覚悟していたつもりだったのに、私は自分が考えていたほど強くはなかった。

 

徐々に意識が戻ってきて、深海の底を漂っているかのごとく真っ暗だった瞼の裏に、彼が現われた。迎えに来てくれたの?と私が喜ぶと彼は怪訝な顔をした。そういうことじゃないけれど、と彼は口篭った。じゃ、何なの?と私は困惑する。あのさ、渡したかったものがあったし、どうしているのかって心配で。


そこまで言うと彼の姿が段々薄れていった。彼はこちらを向いているのに、すぐ傍に立っているのに、透き通るように翳が薄くなっていく。行かないで!と私は身を捩って声を出そうとするが一言も発する事ができない。待って、私を一人にしないで、と私は彼に手を伸ばすけれど彼は白い闇の中へ消えて行く。

 

絶望のあまり声にならない声をあげたのかもしれず、夢の中の自分の声に揺り起こされた。うっすらと眼を開けると白い高天井が見え、白いカーテンが閉められており、腕には何やらチューブが巻きつけられていて、どうやら私は病棟に寝かされているらしかった。いったいいつ運び込まれたのか、記憶にない。

 

しばらくすると老先生が看護婦さんを従えてやって来た。ゆっくり眠れましたか?と先生に尋ねられ、私は頷く。だいぶ体力が衰えているようなので栄養を補充するためにリンゲルを打っておきました。若いからって無理しちゃいけない。しっかり食べなきゃ駄目ですよ。先生は父親のごとき口調で私を諭した。

 

私、もうどうなってもいいんです、と言いかけて口を噤む。凍死してやろうとの試みは失敗したらしく、大災害の忙しい折にこうしてベッドで介護されていることが申し訳なく思えてきたからだ。どうしてこの町の人はこうも優しくお節介なのだろう。私みたいな余所者の為にリンゲルまで打ってくれたりして。

 

先生の背後で若い看護婦さんが微笑した。奥さん、おめでたですよ。すぐには言葉の意味がわからなかった。突然の知らせに私が唖然としていると、先生は仏様に似たにこやかな笑みを皺くちゃの顔に湛えた。辛いでしょうけれど、今はお腹の赤ちゃんのことだけを考え美味しい物を食べて力を付けましょう。

 

赤ちゃん。それはまったく想像していなかった展開だった。早く子供を作りたいと二人で話し合ってはいたけれど、その兆候はこれまでまったくなかったのだから。それが、彼が亡くなった今になって妊娠とは。正直なところ、私は喜ぶよりも途方に暮れていた。いったいどうやって一人で育てたらいいの?


老先生は顔を引き締めると再び父親のような口調で私を諭した。奥さん、巡査さんから伺いました。ご主人のことは本当にご愁傷様です。でも、あなたはご主人の忘れ形見を授かった。立派なお子さんを生んで、ご主人の分もしっかり愛情を注いで育ててあげて下さい。それが母親の努めです。わかりますね?

 

私は頷いたが、実感はなかった。先生と看護婦が病室を立ち去ってから、私は毛布を捲り上げ自分のお腹を摩ってみる。赤ちゃん。ここに彼の子供がいる。もしかしたら男の子で彼に似た赤ちゃん。そう考えた途端、まるで乾いた土地に水が吸収されるように、自分が身篭ったという実感が唐突に沸いてきた。

 

精力が漲ったというべきだろうか。枯れ果てた身体と心に、何かが芽生えたのだ。それは希望と呼びうるものかもしれない。自分一人だったらどうなってもいいと捨て鉢になっていたのに、この身体はもう私だけのものではなく、彼の赤ちゃんを育む大事なベッドであり大地で肥やしなのだ。私は胸の裡で誓う。

 

遼クン、私、どうにか頑張ってみる。もうメゲてなんていられないから、この子の為に踏ん張ってみる。だから応援してね。私がメソメソしていたら、泣いたりしちゃ胎教に悪いぞって、叱ってね。だって、本当はとても不安なの。彼が生きていたら妊娠をすごく喜んだに違いないと思えて、私はそっと泣いた。

 

この世の中に奇跡というものがあるとしたら、彼の子供を授かったこともその一つではないだろうか。避妊しない夫婦に子供ができるのは当たり前かもしれないけれど、私には妊娠した事が信じられないほどの奇跡に思えた。そして、これ以上の奇跡を贅沢に望んだりしてはいけない、と自分を戒めたのだった。

 

 遺体安置所に通う日々が続いたが彼らしい遺体が上がったという報告はなかった。遺体無くしてどうやってお葬式をしたらいいのだろう、と私は悩む。それに、彼の葬式など、本当は出したくない。避難所でいつものように給食の配膳を手伝っていると巡査さんが複雑な表情を浮かべて現われ、私を手招きした。


奥さん、ちょっと耳寄りな知らせが入ったのでお知らせしたいと思いましてね。彼は珍しく歯切れが悪い。咄嗟に、私は夫の遺体が発見されたという知らせに違いない、と覚悟した。何処の、安置所ですか?私は震える声で尋ねる。すると不思議なことに巡査さんは口許にかすかな笑みを浮かべ、私を戸惑わせた。

 

それがですね、実は身元不明の若い男性が入院しているとの知らせがあったんですよ。巡査さんの口から出たのはここから遥かに離れた大都市の病院だった。どういう意味かわからずに私が言葉を喪っていると、彼は渋い顔に戻って続けた。その人は昏睡状態らしく、それで身元が判明しないとのことだそうです。

 

昏睡状態。その言葉は私の胸で稲妻のように閃いた。あのお婆さんは彼が何かにぶつかって海へ消えたと語っていた。もしかして・・。私は逸る胸を押さえる。失望させられたくはないのだ。でも、微かな、万が一の可能性だとしても、私はそれに縋り付きたかった。もしかして、という希望の光に頼りたかった。

 

人違いの可能性は大いにありますが、と釘を刺す巡査さんに連れられて私は車でその大病院に向かった。幹線道路は瓦礫を除けてあったが両側には津波で荒廃した街並みが続いている。巡査さんが連絡を受けたところでは、その人は震災の翌日海岸に流れ着いており、ひどく頭を打ったらしく意識が無いそうだ。

 

あの辺には丸ごと流された村も数箇所あるそうで、どうやらそこの人達の戸籍を中心に姓名を割り出そうとしていたようです。なにしろ行方不明者の数が多いので、と巡査さんは言葉を濁した。確かに夫と同じような年齢の男達もたくさん行方不明になっているに違いなく、失望しないように、と私は身構える。

 

津波の悲惨な爪痕が残る街は、それでも大都市の活気のようなものを取り戻していた。車が辿り着いたのは白いコンクリート造りの立派な病院で、門の脇にはまだ多くの瓦礫が積み上げられていたが、多くの人が忙しく出入りし、笑い声さえ洩れ聞こえて来た。もしかしたら、彼がここにいるかもしれないのだ。


私は両手を組んで神に祈る。いや、胸の裡で彼に語りかけた。遼クン、待っていて。私達の赤ちゃんと一緒にやって来ました。もしあなたがここにいるのだとしたら、私はもう二度と遼クンの傍から離れない。眠り続けていようと、私が来たことがわからなくても、これからずっとずっとあなたと一緒にいます。

 

巡査さんと私は医師に案内されてその病室へ向かい、巡査さんは気を使って私に一人で病室へ入いるようにと無言で合図してくれた。私は呼吸を整えてから、病室の扉をそっと押し開ける。ふと、耳許で彼の声が木霊したような気がした。アツコ、とあの津波の日に神社で聴いた、遼クンが私を呼びかける声が。

 

(了)



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