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私にはわけがわからなかったが、これが悪い話であることは直感できた。お婆さんはしばらく泣いた後で、話を始めた。あの日、私は町の皆さんと避難しかけてから、忘れ物を思い出して家へ戻ったのです。主人の位牌です。亡くなってからもう十年以上経ちますけれど、主人一人を家に残すわけにもいかなくて。

 

二階に上がった時に津波がやって来ましてねえ。あれは凄かった。家がメキメキ破れる音がすると、それがなんと、屋根の一部と一緒に二階が波に呑まれたのです。私はもうおっかなくて無我夢中で柱にしがみ付きました。ええ、津波に流されるような旧い木造家屋ですけれど、ヒノキの柱だけは立派なものです。

 

もうこれでお陀仏だと覚悟いたしましたけれど、不思議なことに屋根はどうやら水面に出ているんです。御日様がキラキラしていましてね。でもとにかく水が冷たい。柱を握る力も残っておらず、やっぱりこれでもうおしまいで主人が呼んでいるんだと観念しました。そうしたら、お婆ちゃん、頑張れ!と声が。

 

そのお婆さんによると、夫はお婆ちゃんの身体を屋根の上に押し上げてくれたそうだ。膝の上に置いた両手が緊張のあまり汗ばんだ。今までこちらを見て話していたお婆さんは眼を伏せた。その時波で大きな丸太のような物がぶつかって来て、それっきり彼の姿は海中に消え、見えなくなってしまったという。

 

私はしばらく息もできなかった。言葉も発することができない。動くことも、できなかった。夫は津波に呑まれた後も無事だったのだ。しかし、きっとその丸太のような浮遊物に殴られて、それで海の底に葬り去られてしまったのだろうか。最後を見た人がいるということは、認めたくなくとも彼は死んだのだ。

 

私が放心したように黙って座り続けていると、お婆さんは床に頭を擦りつけて、すみません、私のせいで・・、と涙声を出した。私は思わずそのお婆さんの手を取って、黙って被りを振った。声が上手く出せなかったからだ。ようやく、お婆さんがご無事で主人も喜んでいると思います、と声を振り絞った。


他にどういえば良いのだろう。彼が死んだのはお婆さんのせいなどではなく、木材にぶつかって海へ叩き落とされたからなのだから。他人のことなど心配せずに自分が先ず助かるように努めるべきだった、と彼を非難すべきだろうか。遼クンがそういう男でないということなど、この自分が一番良く知っている。

 

私のような年寄りが生き残ってしまって、と嘆くお婆さんを、ご主人の分までしっかり生きて下さい、と励ましてから、私は巡査さんにアパートの近くまで送ってもらい、夫の最後の目撃者を発見してくれたことに礼を述べて別れた。奥さん、気を落としちゃいけませんよ、そう言って巡査さんは眼を伏せた。

 

アパートのベランダに脚を抱えて蹲り、私は親に叱られた子供のように声を潜めて泣いた。もう大きな喚き声を出す気力も残っていなかったからだ。彼は死んだのだ。冷たい海の底へ深く沈んだのだ。この数日間、半ば覚悟していた事実ではあったけれど、目撃者から聞く彼の死の知らせは私を打ちのめした。

 

遼クン・・。私は胸の中で呼びかける。痛かったでしょうね。苦しかったでしょう?それとも、ドスンとぶつけられて脳震盪でも起こして、意識がないまま波に呑みこまれたの?あなたが少しでも痛い想いをしないですんだことを祈っています。私・・遼クンがいないと駄目なの。生きている気が、しないの。

 

私はしっかり瞼を閉じる、いっそのことこのまま死んで彼の元へ行きたいと思った。彼のいない人生なんて、まるで半身をもぎ取られたようなもので、生きるに値しない。彼の笑顔が見られない毎日なんて、陽が上らない日々のようなものだ。彼がいない明日をどうして生きたらよいものか、途方に暮れている。

 

こうしていたら死ねるのだろうか、と私はずっとベランダに蹲り続けていた。早春の夜は寒い。こうして座り続けていたら凍死できるかもしれない、と私は微かな希望を見出す。気弱な私は自殺なんて大それた企みは実行に移せないけれど、戸外で凍死するぐらいだったら、この自分にもできるような気がした。


寒さの為に歯が鳴っていたが、しばらくすると凍えは或る種の鈍い陶酔に変わってきた。遼クン、と私は瞼の裏の彼の面影に話しかける。今度一緒にサーフィンをやろう、って言ったよね。天国には綺麗な海岸もあるの?そこでサーフィンを習おうかな。金槌だけれど、死んじゃったら溺れる心配はいらないもの。

 

アツコ。彼が呼びかける声が遠くから聴こえたような気がする。遼クン、何処にいるの?私は立ち込めた白い靄の合間を彼を求めて手探りする。靄はとても深くて、前に二人で訪れた山の霧のようだ。彼の姿が見えずに私は不安になる。私を置いて行かないで。戻って来て!不安に胸が張り裂けそうになった。

 

アツコ。再び呼びかけられて振り向くと、すぐ後ろに彼が心配そうな顔で立っていた。どうしたんだよ、こんなに濡れちゃって。風邪ひいちゃうから、早く中に入ろう。彼の手が肩に触れたのを、確かに感じた。入ろうって、遼クンが帰って来ないからここで待っていたの、と私が口を尖らせると彼は微笑した。

 

その後のことは憶えていないのだ。巡査さんが朝見廻りに来たとも考えられるし、避難所に移されたらしくヤマコシさんがいたと思える。夢も見ない泥のように長い眠りを貪っていたようであり、ずっと目覚めていたようでもある。私の周囲で世界は廻っているらしかったけれど、私にはもう関係がなかった。

 

いったいどうしたらいいの、と私は胸の中で彼に問い掛け続けた。遼クンがいなくちゃ、どうしたらいいのかわからない、と毛布を頭まで被って声を押し殺し呻くようにして泣いた。涙がちっとも出ないぐらいのショックだったのだ。覚悟していたつもりだったのに、私は自分が考えていたほど強くはなかった。

 

徐々に意識が戻ってきて、深海の底を漂っているかのごとく真っ暗だった瞼の裏に、彼が現われた。迎えに来てくれたの?と私が喜ぶと彼は怪訝な顔をした。そういうことじゃないけれど、と彼は口篭った。じゃ、何なの?と私は困惑する。あのさ、渡したかったものがあったし、どうしているのかって心配で。


そこまで言うと彼の姿が段々薄れていった。彼はこちらを向いているのに、すぐ傍に立っているのに、透き通るように翳が薄くなっていく。行かないで!と私は身を捩って声を出そうとするが一言も発する事ができない。待って、私を一人にしないで、と私は彼に手を伸ばすけれど彼は白い闇の中へ消えて行く。

 

絶望のあまり声にならない声をあげたのかもしれず、夢の中の自分の声に揺り起こされた。うっすらと眼を開けると白い高天井が見え、白いカーテンが閉められており、腕には何やらチューブが巻きつけられていて、どうやら私は病棟に寝かされているらしかった。いったいいつ運び込まれたのか、記憶にない。

 

しばらくすると老先生が看護婦さんを従えてやって来た。ゆっくり眠れましたか?と先生に尋ねられ、私は頷く。だいぶ体力が衰えているようなので栄養を補充するためにリンゲルを打っておきました。若いからって無理しちゃいけない。しっかり食べなきゃ駄目ですよ。先生は父親のごとき口調で私を諭した。

 

私、もうどうなってもいいんです、と言いかけて口を噤む。凍死してやろうとの試みは失敗したらしく、大災害の忙しい折にこうしてベッドで介護されていることが申し訳なく思えてきたからだ。どうしてこの町の人はこうも優しくお節介なのだろう。私みたいな余所者の為にリンゲルまで打ってくれたりして。

 

先生の背後で若い看護婦さんが微笑した。奥さん、おめでたですよ。すぐには言葉の意味がわからなかった。突然の知らせに私が唖然としていると、先生は仏様に似たにこやかな笑みを皺くちゃの顔に湛えた。辛いでしょうけれど、今はお腹の赤ちゃんのことだけを考え美味しい物を食べて力を付けましょう。

 

赤ちゃん。それはまったく想像していなかった展開だった。早く子供を作りたいと二人で話し合ってはいたけれど、その兆候はこれまでまったくなかったのだから。それが、彼が亡くなった今になって妊娠とは。正直なところ、私は喜ぶよりも途方に暮れていた。いったいどうやって一人で育てたらいいの?


老先生は顔を引き締めると再び父親のような口調で私を諭した。奥さん、巡査さんから伺いました。ご主人のことは本当にご愁傷様です。でも、あなたはご主人の忘れ形見を授かった。立派なお子さんを生んで、ご主人の分もしっかり愛情を注いで育ててあげて下さい。それが母親の努めです。わかりますね?

 

私は頷いたが、実感はなかった。先生と看護婦が病室を立ち去ってから、私は毛布を捲り上げ自分のお腹を摩ってみる。赤ちゃん。ここに彼の子供がいる。もしかしたら男の子で彼に似た赤ちゃん。そう考えた途端、まるで乾いた土地に水が吸収されるように、自分が身篭ったという実感が唐突に沸いてきた。

 

精力が漲ったというべきだろうか。枯れ果てた身体と心に、何かが芽生えたのだ。それは希望と呼びうるものかもしれない。自分一人だったらどうなってもいいと捨て鉢になっていたのに、この身体はもう私だけのものではなく、彼の赤ちゃんを育む大事なベッドであり大地で肥やしなのだ。私は胸の裡で誓う。

 

遼クン、私、どうにか頑張ってみる。もうメゲてなんていられないから、この子の為に踏ん張ってみる。だから応援してね。私がメソメソしていたら、泣いたりしちゃ胎教に悪いぞって、叱ってね。だって、本当はとても不安なの。彼が生きていたら妊娠をすごく喜んだに違いないと思えて、私はそっと泣いた。

 

この世の中に奇跡というものがあるとしたら、彼の子供を授かったこともその一つではないだろうか。避妊しない夫婦に子供ができるのは当たり前かもしれないけれど、私には妊娠した事が信じられないほどの奇跡に思えた。そして、これ以上の奇跡を贅沢に望んだりしてはいけない、と自分を戒めたのだった。

 

 遺体安置所に通う日々が続いたが彼らしい遺体が上がったという報告はなかった。遺体無くしてどうやってお葬式をしたらいいのだろう、と私は悩む。それに、彼の葬式など、本当は出したくない。避難所でいつものように給食の配膳を手伝っていると巡査さんが複雑な表情を浮かべて現われ、私を手招きした。



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