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町は徐々に春に向かっているのに、私は段々生気を抜かれたようになってきた。風邪ではないということだったがいつも微熱がまとわりついている。物理的な熱ではなくて、ひょっとしてこれは燃え尽きつつある魂の熾火のようなものだろうか、とふと思う。つがいだったのだから、彼が消えたら私も消えたい。

 

ある日避難所の洗面所の鏡で自分の顔を見て茫然とした。ただでさえ白い顔が蒼褪めて亡霊のようだったからだ。こんな顔を見たらきっと遼クンに嫌われちゃうだろうな、と私は苦笑し、彼が心配するだろうな、と考えてから彼はもういないにことに気づく。元気出せよ、と肩を抱いてくれる人は、もういない。

 

洗面所で啜り泣いているとヤマコシさんがやって来た。私は慌てて笑顔を取り繕うとしたが、駄目だった。ヤマコシさんは傍に来ると肩を摩ってくれた。泣きたい時には人目なんか気にしないで泣いた方がいいですよ。でも、ご飯をちゃんと食べないと泣く力もなくなっちゃう。彼女の言葉に私は黙って頷いた。

 

頭も身体も気怠く、これからアパートへ帰って家で一人で休もうと思っていた時に巡査さんがやって来た。夫に逢ったという人を見つけたというのだ。私は逸る胸を押さえて巡査さんの後に続いた。その人はなんでも海上を漂流している時に救出されたそうで、今まで近くの病院に収容されていたとのことだった。

 

どういう意味なのだろうか、と私は不安に襲われながら避難者達の床の間を抜け、巡査さんと一緒にその夫の目撃者が移ったという避難所へ車で向かった。その人が救出されたのは震災後二日目だったと聞いて私の胸は沈む。であれば旧い話で、彼の最後を聞くことになるのかもしれないと思うと、すごく怖い。

 

避難所の畳の面会室で出逢ったのはお婆さんだった。巡査さんから私が彼の妻だと告げられると、彼女は涙を流して私の両手を握り締め、すみません、と蚊が泣くような声を出した。見知らぬお婆さんに手を握られて困惑していると、お婆さんはもう一度、すみません、と繰り返し、啜り泣きはじめたのだった。


私にはわけがわからなかったが、これが悪い話であることは直感できた。お婆さんはしばらく泣いた後で、話を始めた。あの日、私は町の皆さんと避難しかけてから、忘れ物を思い出して家へ戻ったのです。主人の位牌です。亡くなってからもう十年以上経ちますけれど、主人一人を家に残すわけにもいかなくて。

 

二階に上がった時に津波がやって来ましてねえ。あれは凄かった。家がメキメキ破れる音がすると、それがなんと、屋根の一部と一緒に二階が波に呑まれたのです。私はもうおっかなくて無我夢中で柱にしがみ付きました。ええ、津波に流されるような旧い木造家屋ですけれど、ヒノキの柱だけは立派なものです。

 

もうこれでお陀仏だと覚悟いたしましたけれど、不思議なことに屋根はどうやら水面に出ているんです。御日様がキラキラしていましてね。でもとにかく水が冷たい。柱を握る力も残っておらず、やっぱりこれでもうおしまいで主人が呼んでいるんだと観念しました。そうしたら、お婆ちゃん、頑張れ!と声が。

 

そのお婆さんによると、夫はお婆ちゃんの身体を屋根の上に押し上げてくれたそうだ。膝の上に置いた両手が緊張のあまり汗ばんだ。今までこちらを見て話していたお婆さんは眼を伏せた。その時波で大きな丸太のような物がぶつかって来て、それっきり彼の姿は海中に消え、見えなくなってしまったという。

 

私はしばらく息もできなかった。言葉も発することができない。動くことも、できなかった。夫は津波に呑まれた後も無事だったのだ。しかし、きっとその丸太のような浮遊物に殴られて、それで海の底に葬り去られてしまったのだろうか。最後を見た人がいるということは、認めたくなくとも彼は死んだのだ。

 

私が放心したように黙って座り続けていると、お婆さんは床に頭を擦りつけて、すみません、私のせいで・・、と涙声を出した。私は思わずそのお婆さんの手を取って、黙って被りを振った。声が上手く出せなかったからだ。ようやく、お婆さんがご無事で主人も喜んでいると思います、と声を振り絞った。


他にどういえば良いのだろう。彼が死んだのはお婆さんのせいなどではなく、木材にぶつかって海へ叩き落とされたからなのだから。他人のことなど心配せずに自分が先ず助かるように努めるべきだった、と彼を非難すべきだろうか。遼クンがそういう男でないということなど、この自分が一番良く知っている。

 

私のような年寄りが生き残ってしまって、と嘆くお婆さんを、ご主人の分までしっかり生きて下さい、と励ましてから、私は巡査さんにアパートの近くまで送ってもらい、夫の最後の目撃者を発見してくれたことに礼を述べて別れた。奥さん、気を落としちゃいけませんよ、そう言って巡査さんは眼を伏せた。

 

アパートのベランダに脚を抱えて蹲り、私は親に叱られた子供のように声を潜めて泣いた。もう大きな喚き声を出す気力も残っていなかったからだ。彼は死んだのだ。冷たい海の底へ深く沈んだのだ。この数日間、半ば覚悟していた事実ではあったけれど、目撃者から聞く彼の死の知らせは私を打ちのめした。

 

遼クン・・。私は胸の中で呼びかける。痛かったでしょうね。苦しかったでしょう?それとも、ドスンとぶつけられて脳震盪でも起こして、意識がないまま波に呑みこまれたの?あなたが少しでも痛い想いをしないですんだことを祈っています。私・・遼クンがいないと駄目なの。生きている気が、しないの。

 

私はしっかり瞼を閉じる、いっそのことこのまま死んで彼の元へ行きたいと思った。彼のいない人生なんて、まるで半身をもぎ取られたようなもので、生きるに値しない。彼の笑顔が見られない毎日なんて、陽が上らない日々のようなものだ。彼がいない明日をどうして生きたらよいものか、途方に暮れている。

 

こうしていたら死ねるのだろうか、と私はずっとベランダに蹲り続けていた。早春の夜は寒い。こうして座り続けていたら凍死できるかもしれない、と私は微かな希望を見出す。気弱な私は自殺なんて大それた企みは実行に移せないけれど、戸外で凍死するぐらいだったら、この自分にもできるような気がした。


寒さの為に歯が鳴っていたが、しばらくすると凍えは或る種の鈍い陶酔に変わってきた。遼クン、と私は瞼の裏の彼の面影に話しかける。今度一緒にサーフィンをやろう、って言ったよね。天国には綺麗な海岸もあるの?そこでサーフィンを習おうかな。金槌だけれど、死んじゃったら溺れる心配はいらないもの。

 

アツコ。彼が呼びかける声が遠くから聴こえたような気がする。遼クン、何処にいるの?私は立ち込めた白い靄の合間を彼を求めて手探りする。靄はとても深くて、前に二人で訪れた山の霧のようだ。彼の姿が見えずに私は不安になる。私を置いて行かないで。戻って来て!不安に胸が張り裂けそうになった。

 

アツコ。再び呼びかけられて振り向くと、すぐ後ろに彼が心配そうな顔で立っていた。どうしたんだよ、こんなに濡れちゃって。風邪ひいちゃうから、早く中に入ろう。彼の手が肩に触れたのを、確かに感じた。入ろうって、遼クンが帰って来ないからここで待っていたの、と私が口を尖らせると彼は微笑した。

 

その後のことは憶えていないのだ。巡査さんが朝見廻りに来たとも考えられるし、避難所に移されたらしくヤマコシさんがいたと思える。夢も見ない泥のように長い眠りを貪っていたようであり、ずっと目覚めていたようでもある。私の周囲で世界は廻っているらしかったけれど、私にはもう関係がなかった。

 

いったいどうしたらいいの、と私は胸の中で彼に問い掛け続けた。遼クンがいなくちゃ、どうしたらいいのかわからない、と毛布を頭まで被って声を押し殺し呻くようにして泣いた。涙がちっとも出ないぐらいのショックだったのだ。覚悟していたつもりだったのに、私は自分が考えていたほど強くはなかった。

 

徐々に意識が戻ってきて、深海の底を漂っているかのごとく真っ暗だった瞼の裏に、彼が現われた。迎えに来てくれたの?と私が喜ぶと彼は怪訝な顔をした。そういうことじゃないけれど、と彼は口篭った。じゃ、何なの?と私は困惑する。あのさ、渡したかったものがあったし、どうしているのかって心配で。


そこまで言うと彼の姿が段々薄れていった。彼はこちらを向いているのに、すぐ傍に立っているのに、透き通るように翳が薄くなっていく。行かないで!と私は身を捩って声を出そうとするが一言も発する事ができない。待って、私を一人にしないで、と私は彼に手を伸ばすけれど彼は白い闇の中へ消えて行く。

 

絶望のあまり声にならない声をあげたのかもしれず、夢の中の自分の声に揺り起こされた。うっすらと眼を開けると白い高天井が見え、白いカーテンが閉められており、腕には何やらチューブが巻きつけられていて、どうやら私は病棟に寝かされているらしかった。いったいいつ運び込まれたのか、記憶にない。

 

しばらくすると老先生が看護婦さんを従えてやって来た。ゆっくり眠れましたか?と先生に尋ねられ、私は頷く。だいぶ体力が衰えているようなので栄養を補充するためにリンゲルを打っておきました。若いからって無理しちゃいけない。しっかり食べなきゃ駄目ですよ。先生は父親のごとき口調で私を諭した。

 

私、もうどうなってもいいんです、と言いかけて口を噤む。凍死してやろうとの試みは失敗したらしく、大災害の忙しい折にこうしてベッドで介護されていることが申し訳なく思えてきたからだ。どうしてこの町の人はこうも優しくお節介なのだろう。私みたいな余所者の為にリンゲルまで打ってくれたりして。

 

先生の背後で若い看護婦さんが微笑した。奥さん、おめでたですよ。すぐには言葉の意味がわからなかった。突然の知らせに私が唖然としていると、先生は仏様に似たにこやかな笑みを皺くちゃの顔に湛えた。辛いでしょうけれど、今はお腹の赤ちゃんのことだけを考え美味しい物を食べて力を付けましょう。

 

赤ちゃん。それはまったく想像していなかった展開だった。早く子供を作りたいと二人で話し合ってはいたけれど、その兆候はこれまでまったくなかったのだから。それが、彼が亡くなった今になって妊娠とは。正直なところ、私は喜ぶよりも途方に暮れていた。いったいどうやって一人で育てたらいいの?



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