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書類入れになっている一番下の引き出しを開けると、端に見覚えのなり白い紙袋が仕舞ってあることに気づいた。この引き出しは滅多に開けないはずで何かを仕舞った憶えはなく、不思議に思って出してみると隣町の本屋の袋だった。中にはシンデレラのガラスの靴のイラストが付いた綺麗なカードが入っている。

 

結婚記念日に妻へ。カードに印刷されていたメッセージを読んだ途端に全てが明らかになり、私は号泣した。彼は来月の結婚記念日の為にダイヤを買ってくれたのだ。先月、彼の誕生日の折、食後にケーキとカードをあげて彼を愕かすと、誕生日とか記念日とかさ、面倒じゃん、と照れ臭そうに喜んでくれた彼。

 

でも記念日って大切じゃない、とあの時私は力説したのだ。二人だけの家族なんだから誕生日とか結婚記念日とか、お祝いしましょうよ。そういうのが積み重なって家族の歴史とか、作れるじゃない。でもケーキは食べればなくなっちゃうよ、と今にも食べ始めそうな彼を制して私はデジカメで記念撮影をした。

 

私はカードを手にしたまま茫然としていた。こういうことが苦手な彼がわざわざカードまで用意してくれていたのだ。不意に彼が忘れ物を取りに戻ると語っていたという警察官の話を思い起こし、手が激しく震えはじめた。もしも彼がオフィスに引き返したのが記念日のダイヤのプレゼントの為だったとしたら?

 

そうだとしたら、彼を殺したのはこの私なのだ。そう考えた途端に、私は自分が彼の死を覚悟しているという惨い現実に直面せざるを得なかった。津波から早くも九日が経過しており、奇跡のそのまた奇跡でも起こらない限り、彼はこの家へ、私の元へはもう帰って来ない。苦しさのあまり私は床に突っ伏した。

 

彼の布団で彼のぬくもりに包まれながら、私は胸の裡で彼に問い質す。なんで津波から逃げないでオフィスに引き返したりしたの?ダイヤなんていらない。遼クンが無事でさえいてくれたら、私にはそれで十二分なの。あなたさえいてくれたら、他には何もいらないのに!微睡の中で彼は困惑の表情を浮かべる。


アツコを喜ばせたかっただけなんだ。豆粒みたいに小さなダイヤだから、喜んでもらえるかどうかちょっと心配だったけれど、お店のオバサンは若い人は大きなダイヤなんて付けない方がいい、ってアドヴァイスしてくれたんだよ。オフィスのロッカーに仕舞ってあったんだ。津波に流されちゃたまらない・・。

 

バカ。私は再び溢れだした涙を布団カバーで拭いながら、見えない彼に向って呟く。バカ。どうしてそんなことで津波に巻き込まれたりしたの。遼クンの気持ちだけで十分だよ。私は彼が水の中でスローモーションのように髪を靡かせながら手にペンダントを握り締めてゆっくりと海底に沈んでいく様を想像する。

 

耐えられなかった。前にダイヤを見て、綺麗、と呟いたせいで、それで彼は津波に遭ってしまったのだろうか。結婚記念日とかお祝いしよう、と提案したせいで彼は濁流に呑み込まれて帰らぬ人となってしまったのだろうか。胸の裡で呟いた、帰らぬ人、という言葉が私を打ちのめし、私は布団の中に潜り込む。

 

たぶんあの日に彼の死を覚悟した。到底納得はできなかったけれど、被災者の生存可能性というものからして、と報道で科学的なコメントが流れ、避難所の人々の関心が仮設住宅とか家の復旧や町の復興に移るにつれ、彼は何処かでまだ生きているはずだ、と踏ん張り自分を奮い立たせることが難しくなった。

 

どうやら他の被災者達は親や子供、配偶者を喪ってもそれなりに毅然としているように思え、私は元気づけられるというよりますます落ち込むばかりだった。電気の復旧が何時になるかとの町役場の人の話を聞きながら、私は彼の面影だけを瞼に追い掛けている。彼のいない町はもう二人の故郷とはなり得ない。

 

遼クン、私だけ落ちこぼれなのかな、と私は胸の中で彼に問いかける。遼クンがいないってメソメソしていちゃいけない、って頭ではわかっているけれど、どうしても駄目。他にも不幸に遭われた方がいます、みたいに言われると、わかったようなこと言わないで、って言い返したくなるの。誰にわかるの、って。


町は徐々に春に向かっているのに、私は段々生気を抜かれたようになってきた。風邪ではないということだったがいつも微熱がまとわりついている。物理的な熱ではなくて、ひょっとしてこれは燃え尽きつつある魂の熾火のようなものだろうか、とふと思う。つがいだったのだから、彼が消えたら私も消えたい。

 

ある日避難所の洗面所の鏡で自分の顔を見て茫然とした。ただでさえ白い顔が蒼褪めて亡霊のようだったからだ。こんな顔を見たらきっと遼クンに嫌われちゃうだろうな、と私は苦笑し、彼が心配するだろうな、と考えてから彼はもういないにことに気づく。元気出せよ、と肩を抱いてくれる人は、もういない。

 

洗面所で啜り泣いているとヤマコシさんがやって来た。私は慌てて笑顔を取り繕うとしたが、駄目だった。ヤマコシさんは傍に来ると肩を摩ってくれた。泣きたい時には人目なんか気にしないで泣いた方がいいですよ。でも、ご飯をちゃんと食べないと泣く力もなくなっちゃう。彼女の言葉に私は黙って頷いた。

 

頭も身体も気怠く、これからアパートへ帰って家で一人で休もうと思っていた時に巡査さんがやって来た。夫に逢ったという人を見つけたというのだ。私は逸る胸を押さえて巡査さんの後に続いた。その人はなんでも海上を漂流している時に救出されたそうで、今まで近くの病院に収容されていたとのことだった。

 

どういう意味なのだろうか、と私は不安に襲われながら避難者達の床の間を抜け、巡査さんと一緒にその夫の目撃者が移ったという避難所へ車で向かった。その人が救出されたのは震災後二日目だったと聞いて私の胸は沈む。であれば旧い話で、彼の最後を聞くことになるのかもしれないと思うと、すごく怖い。

 

避難所の畳の面会室で出逢ったのはお婆さんだった。巡査さんから私が彼の妻だと告げられると、彼女は涙を流して私の両手を握り締め、すみません、と蚊が泣くような声を出した。見知らぬお婆さんに手を握られて困惑していると、お婆さんはもう一度、すみません、と繰り返し、啜り泣きはじめたのだった。


私にはわけがわからなかったが、これが悪い話であることは直感できた。お婆さんはしばらく泣いた後で、話を始めた。あの日、私は町の皆さんと避難しかけてから、忘れ物を思い出して家へ戻ったのです。主人の位牌です。亡くなってからもう十年以上経ちますけれど、主人一人を家に残すわけにもいかなくて。

 

二階に上がった時に津波がやって来ましてねえ。あれは凄かった。家がメキメキ破れる音がすると、それがなんと、屋根の一部と一緒に二階が波に呑まれたのです。私はもうおっかなくて無我夢中で柱にしがみ付きました。ええ、津波に流されるような旧い木造家屋ですけれど、ヒノキの柱だけは立派なものです。

 

もうこれでお陀仏だと覚悟いたしましたけれど、不思議なことに屋根はどうやら水面に出ているんです。御日様がキラキラしていましてね。でもとにかく水が冷たい。柱を握る力も残っておらず、やっぱりこれでもうおしまいで主人が呼んでいるんだと観念しました。そうしたら、お婆ちゃん、頑張れ!と声が。

 

そのお婆さんによると、夫はお婆ちゃんの身体を屋根の上に押し上げてくれたそうだ。膝の上に置いた両手が緊張のあまり汗ばんだ。今までこちらを見て話していたお婆さんは眼を伏せた。その時波で大きな丸太のような物がぶつかって来て、それっきり彼の姿は海中に消え、見えなくなってしまったという。

 

私はしばらく息もできなかった。言葉も発することができない。動くことも、できなかった。夫は津波に呑まれた後も無事だったのだ。しかし、きっとその丸太のような浮遊物に殴られて、それで海の底に葬り去られてしまったのだろうか。最後を見た人がいるということは、認めたくなくとも彼は死んだのだ。

 

私が放心したように黙って座り続けていると、お婆さんは床に頭を擦りつけて、すみません、私のせいで・・、と涙声を出した。私は思わずそのお婆さんの手を取って、黙って被りを振った。声が上手く出せなかったからだ。ようやく、お婆さんがご無事で主人も喜んでいると思います、と声を振り絞った。


他にどういえば良いのだろう。彼が死んだのはお婆さんのせいなどではなく、木材にぶつかって海へ叩き落とされたからなのだから。他人のことなど心配せずに自分が先ず助かるように努めるべきだった、と彼を非難すべきだろうか。遼クンがそういう男でないということなど、この自分が一番良く知っている。

 

私のような年寄りが生き残ってしまって、と嘆くお婆さんを、ご主人の分までしっかり生きて下さい、と励ましてから、私は巡査さんにアパートの近くまで送ってもらい、夫の最後の目撃者を発見してくれたことに礼を述べて別れた。奥さん、気を落としちゃいけませんよ、そう言って巡査さんは眼を伏せた。

 

アパートのベランダに脚を抱えて蹲り、私は親に叱られた子供のように声を潜めて泣いた。もう大きな喚き声を出す気力も残っていなかったからだ。彼は死んだのだ。冷たい海の底へ深く沈んだのだ。この数日間、半ば覚悟していた事実ではあったけれど、目撃者から聞く彼の死の知らせは私を打ちのめした。

 

遼クン・・。私は胸の中で呼びかける。痛かったでしょうね。苦しかったでしょう?それとも、ドスンとぶつけられて脳震盪でも起こして、意識がないまま波に呑みこまれたの?あなたが少しでも痛い想いをしないですんだことを祈っています。私・・遼クンがいないと駄目なの。生きている気が、しないの。

 

私はしっかり瞼を閉じる、いっそのことこのまま死んで彼の元へ行きたいと思った。彼のいない人生なんて、まるで半身をもぎ取られたようなもので、生きるに値しない。彼の笑顔が見られない毎日なんて、陽が上らない日々のようなものだ。彼がいない明日をどうして生きたらよいものか、途方に暮れている。

 

こうしていたら死ねるのだろうか、と私はずっとベランダに蹲り続けていた。早春の夜は寒い。こうして座り続けていたら凍死できるかもしれない、と私は微かな希望を見出す。気弱な私は自殺なんて大それた企みは実行に移せないけれど、戸外で凍死するぐらいだったら、この自分にもできるような気がした。



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