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スギウラさんのところは隣町に住む姪ごさんの消息がまだわからない、と聞いた。もうあの災害から一週間が経っており、救助活動から遺体の回収活動に比重が置かれる事になるらしいと報道されている。生きていれば何処かの避難所に名前が登録されているはずで、それより何より家に戻っているはずだった。

 

避難所の給食の配膳を手伝いながら、いっそこの小学校で寝泊りしようか、と薄っすら思いはじめている。アパートは浸水しないですんだとはいえ、電気やガスや水道という生活に必要なサービスは停止したままだったし、一人アパートで彼の消息に悶々と心を痛める毎夜は、心をきりりと絞られるようで辛い。

 

それに、彼の不貞という新たな疑惑が持ち上がった今となっては、どうやって胸の中で彼と対話をしたらよいものか、私は途方に暮れていた。でも、やっぱり私は家に戻った。一人でゆっくりと考えるには避難所は煩わし過ぎたし、霊というものがあるとしたら、話ができるのは、私達の家以外では有り得ない。

 

アパートの扉を開けると、生臭い厭な臭いがした。室温が外気と同じく低いとはいえ、電気が切れてしまった冷蔵庫の中で何かが腐乱しているに違いなく、私は残っているなま物をベランダへ出す。卵は鉢植えの土に混ぜ肥料にすることにした。ベランダのガラス戸を開けると、冷たい外気が部屋に踊り込んだ。

 

雪が降りはじめた。私はスコップを持った手を止めて天から舞い落ちる粉雪を眺める。ふわりとした雪は手の平で受け止めると綺麗な結晶が見えるように感じられた。手の温度で暖められて、儚く消えてしまう雪。空から音もなく降り積もる雪は、醜い瓦礫の山を真綿のような白化粧で蔽い、津波の記憶を消す。

 

この冬、彼と二人で近くのスキー場までドライブしたことを想い出す。雪山って好きなんだ、と彼。スキーができない、と私が打ち明けると、今度教えてやるよ、と彼は言い、結局スキーのできない私に付き合ってくれて、ゲレンデのレストランで雪を眺めながら紅茶とケーキのセットを食べただけで帰った。


チョコレートケーキを食べたと記憶している。これ、凄く美味しい!と私がケーキを堪能していると、そういうのを食べると腹黒になりそうだ、とチョコが苦手な彼は軽口を叩いた。俺は白って好きなんだ。白いサーフボート、ヨットの帆、それに雪山。そんな話をする時、彼は瞳を煌めかせて銀世界を眺めた。

 

白い肌の女の子も好きでしょ?と私は冗談めかして囁く。最初に抱かれた晩、彼は照れ臭いのか私の肌の白さを褒めた。ほら比べてご覧よ、と彼は自分の浅黒い脚を私の白い腹に巻き付けて得意そうだった。どうしてこんなに灼けているの?と私が尋ねると、労働しているからさ、と彼は白い歯を見せて笑った。

 

すっかり雪に蔽われはじめた町を見下ろしながら、私は胸の裡で彼に向かって呟く。遼クン、私、やっぱりあなたのことがとても好きなの。もしかして他に誰かいるとしても、それでもやっぱり遼クンが好き。帰って来て!あなたがいない毎日に、これ以上耐えられない。白銀の世界が揺れ、私は思い切り泣いた。

 

津波に押し流された屋根の一部に乗って海を漂流し、海上保安庁のヘリコプターに奇跡的に発見された人がいる、との噂を耳にしたのはあの頃だった。凍るような海に流されたとしても、もしかして掴まる物があったかもしれない。家と一緒に食糧だって流されており飢えや寒さを凌ぐことができるかもしれない。

 

たくさんの奇跡がなければ生存が難しいはずだとしても、私はその奇跡に賭けたかった。だってそうじゃない、と私は避難所の給食に並ぶ人々に皿を渡しながら考える。私も含め、この人達は神社や高台に避難して助かった。ヘッドフォーンで音楽を聴いていたり警報に気づかなかった不運な人もいたに違いない。

 

昔祖母が、巡り合わせ、という言葉を口にしたことを思い出す。その頃祖母はまだ元気で、母は男運が悪いと子供の私に愚痴を吐いた。アッコちゃん、人生には巡り合わせというものがあるんだよ。いい子にしていれば、きっと良い巡り合わせに恵まれる。きっとアッコちゃんを生涯大事にしてくれる人が現れる。


彼に出逢ったのはその良い巡り合わせだったはずではなかっただろうか。結婚式で、彼は病める時も貧しい時も私を慈しむと誓ってくれたはずで、その彼が一年間の結婚生活も終えないままに呆気なく神に召されるとは信じ難かった。仲良く給食のラインに並んでいる老夫婦を眺めながら、私は彼の面影を追う。

 

結婚式は隣町のペンションの傍にできたチャペルのような結婚式場で執り行った。神社と寺しかないような田舎に尖がり屋根の教会風の建物はミスマッチで、お寺さんの息子がバイトで神父役を務めるという滑稽な式場だったが、下見の際に私は一目でその式場が気に入り、絶対ここにしよう、と彼に宣言した。

 

ウェディングドレスを着るのが昔からの憧れで、その為にも早く結婚したかった。すっごく綺麗だな。当日式場で彼の隣に並ぶと、彼は眼を丸くして私に耳打ちし、かなり大きな囁きだったので小耳に挟んだ誰かが噴き出したものだ。勤め先の人とか内輪だけの小さな式だったけれど、夢のような結婚式だった。

 

その数日後、私達は町の片隅にある彼の家の墓を訪れた。彼は洗剤とタワシまで持って行って丁寧に墓石を洗っており、私はそんなに大事に思える両親を持った彼のことを羨しく思った。一緒に墓石を擦りながらそう言うと、彼は、そのうちにここが俺達の終の棲家になるんだぜ、と当たり前のような顔だった。

 

一緒にお墓に入るはずだったのだ。この老夫婦のように長い歳月を連れ添い、子供を育てて孫達にも恵まれ、お爺ちゃんお婆ちゃんになって一緒に縁側で日向ぼっこをしたり、雪を眺めたり春の桜をお花見に行ったり。そう考えると不意に涙が零れそうになり、私は思わず老夫婦から目を逸らしてそっぽを向く。

 

その晩アパートへ戻ってから、私は机の引き出しを開けて結婚式のアルバムを取り出した。あの幸せな日が確かに存在したことを、確かめずにはいられなかったのだ。スナップ写真をたくさん撮ってもらい、後で綺麗に三冊のアルバムに整理してあった。お墓にお参りに行った時の写真も一緒に貼ったはずだった。


書類入れになっている一番下の引き出しを開けると、端に見覚えのなり白い紙袋が仕舞ってあることに気づいた。この引き出しは滅多に開けないはずで何かを仕舞った憶えはなく、不思議に思って出してみると隣町の本屋の袋だった。中にはシンデレラのガラスの靴のイラストが付いた綺麗なカードが入っている。

 

結婚記念日に妻へ。カードに印刷されていたメッセージを読んだ途端に全てが明らかになり、私は号泣した。彼は来月の結婚記念日の為にダイヤを買ってくれたのだ。先月、彼の誕生日の折、食後にケーキとカードをあげて彼を愕かすと、誕生日とか記念日とかさ、面倒じゃん、と照れ臭そうに喜んでくれた彼。

 

でも記念日って大切じゃない、とあの時私は力説したのだ。二人だけの家族なんだから誕生日とか結婚記念日とか、お祝いしましょうよ。そういうのが積み重なって家族の歴史とか、作れるじゃない。でもケーキは食べればなくなっちゃうよ、と今にも食べ始めそうな彼を制して私はデジカメで記念撮影をした。

 

私はカードを手にしたまま茫然としていた。こういうことが苦手な彼がわざわざカードまで用意してくれていたのだ。不意に彼が忘れ物を取りに戻ると語っていたという警察官の話を思い起こし、手が激しく震えはじめた。もしも彼がオフィスに引き返したのが記念日のダイヤのプレゼントの為だったとしたら?

 

そうだとしたら、彼を殺したのはこの私なのだ。そう考えた途端に、私は自分が彼の死を覚悟しているという惨い現実に直面せざるを得なかった。津波から早くも九日が経過しており、奇跡のそのまた奇跡でも起こらない限り、彼はこの家へ、私の元へはもう帰って来ない。苦しさのあまり私は床に突っ伏した。

 

彼の布団で彼のぬくもりに包まれながら、私は胸の裡で彼に問い質す。なんで津波から逃げないでオフィスに引き返したりしたの?ダイヤなんていらない。遼クンが無事でさえいてくれたら、私にはそれで十二分なの。あなたさえいてくれたら、他には何もいらないのに!微睡の中で彼は困惑の表情を浮かべる。


アツコを喜ばせたかっただけなんだ。豆粒みたいに小さなダイヤだから、喜んでもらえるかどうかちょっと心配だったけれど、お店のオバサンは若い人は大きなダイヤなんて付けない方がいい、ってアドヴァイスしてくれたんだよ。オフィスのロッカーに仕舞ってあったんだ。津波に流されちゃたまらない・・。

 

バカ。私は再び溢れだした涙を布団カバーで拭いながら、見えない彼に向って呟く。バカ。どうしてそんなことで津波に巻き込まれたりしたの。遼クンの気持ちだけで十分だよ。私は彼が水の中でスローモーションのように髪を靡かせながら手にペンダントを握り締めてゆっくりと海底に沈んでいく様を想像する。

 

耐えられなかった。前にダイヤを見て、綺麗、と呟いたせいで、それで彼は津波に遭ってしまったのだろうか。結婚記念日とかお祝いしよう、と提案したせいで彼は濁流に呑み込まれて帰らぬ人となってしまったのだろうか。胸の裡で呟いた、帰らぬ人、という言葉が私を打ちのめし、私は布団の中に潜り込む。

 

たぶんあの日に彼の死を覚悟した。到底納得はできなかったけれど、被災者の生存可能性というものからして、と報道で科学的なコメントが流れ、避難所の人々の関心が仮設住宅とか家の復旧や町の復興に移るにつれ、彼は何処かでまだ生きているはずだ、と踏ん張り自分を奮い立たせることが難しくなった。

 

どうやら他の被災者達は親や子供、配偶者を喪ってもそれなりに毅然としているように思え、私は元気づけられるというよりますます落ち込むばかりだった。電気の復旧が何時になるかとの町役場の人の話を聞きながら、私は彼の面影だけを瞼に追い掛けている。彼のいない町はもう二人の故郷とはなり得ない。

 

遼クン、私だけ落ちこぼれなのかな、と私は胸の中で彼に問いかける。遼クンがいないってメソメソしていちゃいけない、って頭ではわかっているけれど、どうしても駄目。他にも不幸に遭われた方がいます、みたいに言われると、わかったようなこと言わないで、って言い返したくなるの。誰にわかるの、って。



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