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彼の羽根布団は水色の柄で私の布団はピンク。同じ布団でいいじゃないか、と言う彼に私は説明した。夫婦の布団なんだから対になっていなくちゃ格好が付かない。同じ柄で色違い、って決まっている。そういうものかな、と彼。そういうものよ、と私は自信を持って答えた。夫婦なんだからお揃いでなくちゃ。

 

明日から彼の布団で寝よう、と私は決心する。彼の匂い、彼が残した温もりに包まれて眠ったならばこの悪夢から逃れられるような気がする。そう、願いたい。私は彼の体温を、愛撫を想い出そうと努める。私をきつく抱き締める太い腕。あんなに逞しかった人がいなくなってしまうことなど、有り得なかった。

 

七日目になって隣町の避難所で私は宝石店の店主さんに逢った。行方不明者の台帳があるデスクで彼の名を挙げ消息を尋ねていた私に、声を掛けてきたのだ。あのペンダント、気に入っていただけました?と問いかけられ、私は怪訝な顔をしたに違いない。彼女は失言に気づいたらしく慌てて表情を取り繕った。

 

主人を見知っているのか、と彼の写真を手に思わず彼女を問い詰めずにはいられなかった。ええ、まあ、と店主さんは躊躇しながら答えた。プレゼントするから、と先月彼が女性用のペンダントを買ったとの話を彼女から聞き、一瞬頭をガンと殴られたような気がする。だって彼からプレゼントなど、貰っていない。

 

ひょっとして、彼には誰か他に女の人でもいるのだろうか、と胸の裡に怪しげな疑惑が沸く。もしかして、それで彼はまだ家に帰って来ていないのだろうか。まさか、と思いつつも、彼が女性のところに身を寄せている光景を想起してしまいかねない。私よりその人の身を案じてそちらへ行っているとしたら?

 

どうやら私の顔は蒼白になったらしく、女主人は慌てて、あら、勘違いだったかも知れません、と言い足した。どんなペンダントでした?と私は彼女の言葉が聞こえなかった振りをして問い質す。どんなって、と宝石店の店主は言葉を濁したが、諦めて付け加えた。小さなダイヤだったかしら。忘れちゃったわ。


その日、私はこれまでになく落ち込んだ。彼が一ヶ月も前に誰かにダイヤを買った。買ったらしい。この数週間、彼の素振りに不可解なものがあっただろうか、と私は振り返る。正直言って、まったく思い当たらなかった。誠実だと信じていた夫、その彼がもしかして浮気をしていた可能性など、あるだろうか。

 

前にこの町の宝石店の前を二人で通りかかった時の会話を思い浮かべる。あっ、綺麗!と私はショーウィンドウの前で足を止めた。脇を歩いていた彼は振り返って覗くと、やけに高いな、とだけコメントした。だって、一応ダイヤだもの、と私。ダイヤってのは金持ちが買うものだろう?と彼は呆気なく答えた。

 

その、やけに高いダイヤ、を彼は先月買ったのだ。私に内緒で。私の胸は押し潰されたように苦しくなる。津波さえなかったらこんな事実を知らされないですんだのに、と再びこの大震災を恨まずにはいられなかった。彼を神隠しにした憎い津波。そして、その彼はこれまで信じていた誠実な男では、なかった。

 

避難所や仮安置所巡りを機械的にこなしながら心の中に重石のようなものが痞えはじめた。あの宝石店主に偶然出逢うまでは、私は行方不明の夫を必死で探す貞淑な妻だったのだ。知らなくてすむことは知らないですませたかったのに、彼女が口を滑らせた一言で、私の胸の裡には醜い疑惑が居座りついてしまった。

 

嫉妬?と私は自分の胸に尋ねる。短い交際期間だったので、本当は彼のことを何も知らなかったのかもしれない、と無性に不安になる。愛されていると信じていたのに、その彼には他にも誰かがいたらしい。私は思わず両手で顔を蔽った。厭だった。彼に他に好きな人がいたなんて、とても耐えられなかった。

 

どうかしましたか?声にハッとして顔を上げると、階下に住むスギウラさんだった。彼の家は土砂やがらくたが流れ込んで住める状態ではないのでこの小学校に避難している。いえ別に、と私は取り繕った。奥さんも大変でしょうが、みんなで頑張りましょう。ご主人、きっと見つかります、と彼は私を励ました。


スギウラさんのところは隣町に住む姪ごさんの消息がまだわからない、と聞いた。もうあの災害から一週間が経っており、救助活動から遺体の回収活動に比重が置かれる事になるらしいと報道されている。生きていれば何処かの避難所に名前が登録されているはずで、それより何より家に戻っているはずだった。

 

避難所の給食の配膳を手伝いながら、いっそこの小学校で寝泊りしようか、と薄っすら思いはじめている。アパートは浸水しないですんだとはいえ、電気やガスや水道という生活に必要なサービスは停止したままだったし、一人アパートで彼の消息に悶々と心を痛める毎夜は、心をきりりと絞られるようで辛い。

 

それに、彼の不貞という新たな疑惑が持ち上がった今となっては、どうやって胸の中で彼と対話をしたらよいものか、私は途方に暮れていた。でも、やっぱり私は家に戻った。一人でゆっくりと考えるには避難所は煩わし過ぎたし、霊というものがあるとしたら、話ができるのは、私達の家以外では有り得ない。

 

アパートの扉を開けると、生臭い厭な臭いがした。室温が外気と同じく低いとはいえ、電気が切れてしまった冷蔵庫の中で何かが腐乱しているに違いなく、私は残っているなま物をベランダへ出す。卵は鉢植えの土に混ぜ肥料にすることにした。ベランダのガラス戸を開けると、冷たい外気が部屋に踊り込んだ。

 

雪が降りはじめた。私はスコップを持った手を止めて天から舞い落ちる粉雪を眺める。ふわりとした雪は手の平で受け止めると綺麗な結晶が見えるように感じられた。手の温度で暖められて、儚く消えてしまう雪。空から音もなく降り積もる雪は、醜い瓦礫の山を真綿のような白化粧で蔽い、津波の記憶を消す。

 

この冬、彼と二人で近くのスキー場までドライブしたことを想い出す。雪山って好きなんだ、と彼。スキーができない、と私が打ち明けると、今度教えてやるよ、と彼は言い、結局スキーのできない私に付き合ってくれて、ゲレンデのレストランで雪を眺めながら紅茶とケーキのセットを食べただけで帰った。


チョコレートケーキを食べたと記憶している。これ、凄く美味しい!と私がケーキを堪能していると、そういうのを食べると腹黒になりそうだ、とチョコが苦手な彼は軽口を叩いた。俺は白って好きなんだ。白いサーフボート、ヨットの帆、それに雪山。そんな話をする時、彼は瞳を煌めかせて銀世界を眺めた。

 

白い肌の女の子も好きでしょ?と私は冗談めかして囁く。最初に抱かれた晩、彼は照れ臭いのか私の肌の白さを褒めた。ほら比べてご覧よ、と彼は自分の浅黒い脚を私の白い腹に巻き付けて得意そうだった。どうしてこんなに灼けているの?と私が尋ねると、労働しているからさ、と彼は白い歯を見せて笑った。

 

すっかり雪に蔽われはじめた町を見下ろしながら、私は胸の裡で彼に向かって呟く。遼クン、私、やっぱりあなたのことがとても好きなの。もしかして他に誰かいるとしても、それでもやっぱり遼クンが好き。帰って来て!あなたがいない毎日に、これ以上耐えられない。白銀の世界が揺れ、私は思い切り泣いた。

 

津波に押し流された屋根の一部に乗って海を漂流し、海上保安庁のヘリコプターに奇跡的に発見された人がいる、との噂を耳にしたのはあの頃だった。凍るような海に流されたとしても、もしかして掴まる物があったかもしれない。家と一緒に食糧だって流されており飢えや寒さを凌ぐことができるかもしれない。

 

たくさんの奇跡がなければ生存が難しいはずだとしても、私はその奇跡に賭けたかった。だってそうじゃない、と私は避難所の給食に並ぶ人々に皿を渡しながら考える。私も含め、この人達は神社や高台に避難して助かった。ヘッドフォーンで音楽を聴いていたり警報に気づかなかった不運な人もいたに違いない。

 

昔祖母が、巡り合わせ、という言葉を口にしたことを思い出す。その頃祖母はまだ元気で、母は男運が悪いと子供の私に愚痴を吐いた。アッコちゃん、人生には巡り合わせというものがあるんだよ。いい子にしていれば、きっと良い巡り合わせに恵まれる。きっとアッコちゃんを生涯大事にしてくれる人が現れる。


彼に出逢ったのはその良い巡り合わせだったはずではなかっただろうか。結婚式で、彼は病める時も貧しい時も私を慈しむと誓ってくれたはずで、その彼が一年間の結婚生活も終えないままに呆気なく神に召されるとは信じ難かった。仲良く給食のラインに並んでいる老夫婦を眺めながら、私は彼の面影を追う。

 

結婚式は隣町のペンションの傍にできたチャペルのような結婚式場で執り行った。神社と寺しかないような田舎に尖がり屋根の教会風の建物はミスマッチで、お寺さんの息子がバイトで神父役を務めるという滑稽な式場だったが、下見の際に私は一目でその式場が気に入り、絶対ここにしよう、と彼に宣言した。

 

ウェディングドレスを着るのが昔からの憧れで、その為にも早く結婚したかった。すっごく綺麗だな。当日式場で彼の隣に並ぶと、彼は眼を丸くして私に耳打ちし、かなり大きな囁きだったので小耳に挟んだ誰かが噴き出したものだ。勤め先の人とか内輪だけの小さな式だったけれど、夢のような結婚式だった。

 

その数日後、私達は町の片隅にある彼の家の墓を訪れた。彼は洗剤とタワシまで持って行って丁寧に墓石を洗っており、私はそんなに大事に思える両親を持った彼のことを羨しく思った。一緒に墓石を擦りながらそう言うと、彼は、そのうちにここが俺達の終の棲家になるんだぜ、と当たり前のような顔だった。

 

一緒にお墓に入るはずだったのだ。この老夫婦のように長い歳月を連れ添い、子供を育てて孫達にも恵まれ、お爺ちゃんお婆ちゃんになって一緒に縁側で日向ぼっこをしたり、雪を眺めたり春の桜をお花見に行ったり。そう考えると不意に涙が零れそうになり、私は思わず老夫婦から目を逸らしてそっぽを向く。

 

その晩アパートへ戻ってから、私は机の引き出しを開けて結婚式のアルバムを取り出した。あの幸せな日が確かに存在したことを、確かめずにはいられなかったのだ。スナップ写真をたくさん撮ってもらい、後で綺麗に三冊のアルバムに整理してあった。お墓にお参りに行った時の写真も一緒に貼ったはずだった。



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