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ヤマコシさんの息子夫婦も行方不明のままで、私は説得されて遺体安置所に足を運ぶ事を承諾した。信じたくないお気持ちはよくわかります。でもね、もし遺体が上がっているのだとしたら奥さん以外の誰が見つけてあげることができます?それにご主人の遺体ではないと確認できれば安堵にも繋がるでしょう?

 

あの経験だけは思い出したくない。性別や年恰好が一致するとの遺体を見せられたのだけれど、幸いにも彼ではなく、私は最初の仮安置所を出た途端に道にしゃがみ込んで思わず地面に吐いた。ろくに食事も採っていない胃から溢れ出したのは粘液のようなものと痙攣だった。これ以上惨い死体を眼にしたくない。

 

夜になると私は魘された。水が入った車の中で彼が必死でもがいているのだ。彼の髪が海藻のように広がり、彼の顔は遺体安置所でみた仏様のように恐怖に歪んでいる。私は車の扉を開けようとするのだが扉はびくともしない。彼が顔を引き攣らせ瞼を閉じる。遼クン!絶望のあまりに悲鳴を上げて私は目覚めた。

 

布団の中で私は真っ暗な天井を見上げてここが何処だったのか思い出そうと試みる。ぼんやりと浮かんだ電灯に気づき、ここが自宅で布団の上に横たわっているという事実を思い起こした。でも、隣に彼はいない。これまでいつだって私の傍らで安らかな寝息をたてていた彼は、今何処にいるとも知れないのだ。

 

私達は六畳の間にいつも二枚の布団をぴったり寄せて寝ていた。彼は寝た振りをして私が電灯を消して布団に入るのを待つ。そして自分の布団からゆっくり手を伸ばしてパジャマを着た私の身体を弄り、寒いだろう?とか、こっちに来たら?とか囁く。それを合図に私は笑って彼の布団に転がり込むのだった。

 

ベッドとか、いいな。と私がデパートの家具売り場で呟いたことがある。すると彼は、畳に布団を敷いて寝る方が合理的だ、と言い張った。そうだろう?昼間は押入れに閉まっておけるし、布団だったら上で跳ねても変な音がしないさ。布団の上で跳ねるの?と私がからかうと、彼は笑って私の手を強く握った。


彼の羽根布団は水色の柄で私の布団はピンク。同じ布団でいいじゃないか、と言う彼に私は説明した。夫婦の布団なんだから対になっていなくちゃ格好が付かない。同じ柄で色違い、って決まっている。そういうものかな、と彼。そういうものよ、と私は自信を持って答えた。夫婦なんだからお揃いでなくちゃ。

 

明日から彼の布団で寝よう、と私は決心する。彼の匂い、彼が残した温もりに包まれて眠ったならばこの悪夢から逃れられるような気がする。そう、願いたい。私は彼の体温を、愛撫を想い出そうと努める。私をきつく抱き締める太い腕。あんなに逞しかった人がいなくなってしまうことなど、有り得なかった。

 

七日目になって隣町の避難所で私は宝石店の店主さんに逢った。行方不明者の台帳があるデスクで彼の名を挙げ消息を尋ねていた私に、声を掛けてきたのだ。あのペンダント、気に入っていただけました?と問いかけられ、私は怪訝な顔をしたに違いない。彼女は失言に気づいたらしく慌てて表情を取り繕った。

 

主人を見知っているのか、と彼の写真を手に思わず彼女を問い詰めずにはいられなかった。ええ、まあ、と店主さんは躊躇しながら答えた。プレゼントするから、と先月彼が女性用のペンダントを買ったとの話を彼女から聞き、一瞬頭をガンと殴られたような気がする。だって彼からプレゼントなど、貰っていない。

 

ひょっとして、彼には誰か他に女の人でもいるのだろうか、と胸の裡に怪しげな疑惑が沸く。もしかして、それで彼はまだ家に帰って来ていないのだろうか。まさか、と思いつつも、彼が女性のところに身を寄せている光景を想起してしまいかねない。私よりその人の身を案じてそちらへ行っているとしたら?

 

どうやら私の顔は蒼白になったらしく、女主人は慌てて、あら、勘違いだったかも知れません、と言い足した。どんなペンダントでした?と私は彼女の言葉が聞こえなかった振りをして問い質す。どんなって、と宝石店の店主は言葉を濁したが、諦めて付け加えた。小さなダイヤだったかしら。忘れちゃったわ。


その日、私はこれまでになく落ち込んだ。彼が一ヶ月も前に誰かにダイヤを買った。買ったらしい。この数週間、彼の素振りに不可解なものがあっただろうか、と私は振り返る。正直言って、まったく思い当たらなかった。誠実だと信じていた夫、その彼がもしかして浮気をしていた可能性など、あるだろうか。

 

前にこの町の宝石店の前を二人で通りかかった時の会話を思い浮かべる。あっ、綺麗!と私はショーウィンドウの前で足を止めた。脇を歩いていた彼は振り返って覗くと、やけに高いな、とだけコメントした。だって、一応ダイヤだもの、と私。ダイヤってのは金持ちが買うものだろう?と彼は呆気なく答えた。

 

その、やけに高いダイヤ、を彼は先月買ったのだ。私に内緒で。私の胸は押し潰されたように苦しくなる。津波さえなかったらこんな事実を知らされないですんだのに、と再びこの大震災を恨まずにはいられなかった。彼を神隠しにした憎い津波。そして、その彼はこれまで信じていた誠実な男では、なかった。

 

避難所や仮安置所巡りを機械的にこなしながら心の中に重石のようなものが痞えはじめた。あの宝石店主に偶然出逢うまでは、私は行方不明の夫を必死で探す貞淑な妻だったのだ。知らなくてすむことは知らないですませたかったのに、彼女が口を滑らせた一言で、私の胸の裡には醜い疑惑が居座りついてしまった。

 

嫉妬?と私は自分の胸に尋ねる。短い交際期間だったので、本当は彼のことを何も知らなかったのかもしれない、と無性に不安になる。愛されていると信じていたのに、その彼には他にも誰かがいたらしい。私は思わず両手で顔を蔽った。厭だった。彼に他に好きな人がいたなんて、とても耐えられなかった。

 

どうかしましたか?声にハッとして顔を上げると、階下に住むスギウラさんだった。彼の家は土砂やがらくたが流れ込んで住める状態ではないのでこの小学校に避難している。いえ別に、と私は取り繕った。奥さんも大変でしょうが、みんなで頑張りましょう。ご主人、きっと見つかります、と彼は私を励ました。


スギウラさんのところは隣町に住む姪ごさんの消息がまだわからない、と聞いた。もうあの災害から一週間が経っており、救助活動から遺体の回収活動に比重が置かれる事になるらしいと報道されている。生きていれば何処かの避難所に名前が登録されているはずで、それより何より家に戻っているはずだった。

 

避難所の給食の配膳を手伝いながら、いっそこの小学校で寝泊りしようか、と薄っすら思いはじめている。アパートは浸水しないですんだとはいえ、電気やガスや水道という生活に必要なサービスは停止したままだったし、一人アパートで彼の消息に悶々と心を痛める毎夜は、心をきりりと絞られるようで辛い。

 

それに、彼の不貞という新たな疑惑が持ち上がった今となっては、どうやって胸の中で彼と対話をしたらよいものか、私は途方に暮れていた。でも、やっぱり私は家に戻った。一人でゆっくりと考えるには避難所は煩わし過ぎたし、霊というものがあるとしたら、話ができるのは、私達の家以外では有り得ない。

 

アパートの扉を開けると、生臭い厭な臭いがした。室温が外気と同じく低いとはいえ、電気が切れてしまった冷蔵庫の中で何かが腐乱しているに違いなく、私は残っているなま物をベランダへ出す。卵は鉢植えの土に混ぜ肥料にすることにした。ベランダのガラス戸を開けると、冷たい外気が部屋に踊り込んだ。

 

雪が降りはじめた。私はスコップを持った手を止めて天から舞い落ちる粉雪を眺める。ふわりとした雪は手の平で受け止めると綺麗な結晶が見えるように感じられた。手の温度で暖められて、儚く消えてしまう雪。空から音もなく降り積もる雪は、醜い瓦礫の山を真綿のような白化粧で蔽い、津波の記憶を消す。

 

この冬、彼と二人で近くのスキー場までドライブしたことを想い出す。雪山って好きなんだ、と彼。スキーができない、と私が打ち明けると、今度教えてやるよ、と彼は言い、結局スキーのできない私に付き合ってくれて、ゲレンデのレストランで雪を眺めながら紅茶とケーキのセットを食べただけで帰った。


チョコレートケーキを食べたと記憶している。これ、凄く美味しい!と私がケーキを堪能していると、そういうのを食べると腹黒になりそうだ、とチョコが苦手な彼は軽口を叩いた。俺は白って好きなんだ。白いサーフボート、ヨットの帆、それに雪山。そんな話をする時、彼は瞳を煌めかせて銀世界を眺めた。

 

白い肌の女の子も好きでしょ?と私は冗談めかして囁く。最初に抱かれた晩、彼は照れ臭いのか私の肌の白さを褒めた。ほら比べてご覧よ、と彼は自分の浅黒い脚を私の白い腹に巻き付けて得意そうだった。どうしてこんなに灼けているの?と私が尋ねると、労働しているからさ、と彼は白い歯を見せて笑った。

 

すっかり雪に蔽われはじめた町を見下ろしながら、私は胸の裡で彼に向かって呟く。遼クン、私、やっぱりあなたのことがとても好きなの。もしかして他に誰かいるとしても、それでもやっぱり遼クンが好き。帰って来て!あなたがいない毎日に、これ以上耐えられない。白銀の世界が揺れ、私は思い切り泣いた。

 

津波に押し流された屋根の一部に乗って海を漂流し、海上保安庁のヘリコプターに奇跡的に発見された人がいる、との噂を耳にしたのはあの頃だった。凍るような海に流されたとしても、もしかして掴まる物があったかもしれない。家と一緒に食糧だって流されており飢えや寒さを凌ぐことができるかもしれない。

 

たくさんの奇跡がなければ生存が難しいはずだとしても、私はその奇跡に賭けたかった。だってそうじゃない、と私は避難所の給食に並ぶ人々に皿を渡しながら考える。私も含め、この人達は神社や高台に避難して助かった。ヘッドフォーンで音楽を聴いていたり警報に気づかなかった不運な人もいたに違いない。

 

昔祖母が、巡り合わせ、という言葉を口にしたことを思い出す。その頃祖母はまだ元気で、母は男運が悪いと子供の私に愚痴を吐いた。アッコちゃん、人生には巡り合わせというものがあるんだよ。いい子にしていれば、きっと良い巡り合わせに恵まれる。きっとアッコちゃんを生涯大事にしてくれる人が現れる。



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