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たいした儀式ではないけれど、私は買って来たクッキーをお皿に綺麗に並べ、ミルクを温めてミルクティーを入れ、寝転がって雑誌を読んだりテレビを見ている彼をダイニングテーブルに招く。要するにおやつの時間ってことだな、と彼はからかい、私はちょっと膨れ、それでも気取った顔で彼にお茶を勧めた。

 

昔から外国というものに憧れていた自分がどうして彼のように純和風を好む男に惹かれたのか、都会を夢見ていたものが何故こんな田舎に嫁に来たのか、振り返ると可笑しくなることがある。ロックンローラーのような長めの茶髪の彼の風貌を誤解したとも言えるし、結局、そんなことはどうでもよかったのだ。

 

プロポーズされた日のことはよく憶えている。ドライブに誘われてこの町まで来て、ここが彼の故郷だと教えられた。海沿いに車を停めて、二人で海岸を散歩した。ずっと言葉少なでどこか緊張していた彼は海に石を投げると、さり気ない口調で、一緒に住もうか、と私を振り向きもせずに海に向かって呟いた。

 

愕いて私が彼の横顔を見つめると、彼は真っ直ぐな視線を投げかけて、ここで一緒に住もうか、って言ったんだ、ともう一度繰り返した。それって、プロポーズ?と私が尋ねると、彼は困ったような照れ臭そうな顔で、結婚して欲しい、と付け足した。私が噴き出すと彼もつられて笑い、私は彼の首に縋り付いた。

 

私達はそれまで四回ほどドライブデートをしただけだった。結婚に漠然と憧れていたし彼のことを好きになりつつあったけれど、正直言ってあの頃は、この人と結婚することになるとの確信はまだなかった。でも婚約して二人の生活を計画しながら、そして結婚後に二人で暮らしはじめてから、私は恋に陥ちた。

 

俺は奥さんを働きに出したくないんだ、と昔気質なことを言う彼の為に、私は二人の住まいを整え、家計簿を付け、ご飯を作り、彼を仕事に送り出す。食堂で働いていた頃に比べて自由な時間が増え、将来のことを計画するという新たな楽しみができた。これからは何をやるにも二人、そして子供も作ろう、と。


すっかり冷めてしまった紅茶を薄闇の中で見つめながら、私は占うようにカップに問いかける。もしかしたらこれは単なる試練なのだろうか。あまりに幸せで舞い上がっていたので、神様は彼を一時隠して私を困らせているだけ?彼に甘え寄りかかり過ぎていた私を、こらしめてやろうとの冗談なのだろうか。

 

避難所で分けてもらった白い蝋燭を一輪挿しに立てて火を点け、あたかも仏壇か神棚に祈るかのように私は眼を瞑り手を合わせる。どうか彼が無事で早く私の元へ帰って来てくれますように、と。瓦礫の山を乗り越えながら、彼が家への道を歩いて戻って来る様子を想像する。彼の笑顔を、瞼に思い浮かべる。

 

五日目に県道の交差点で彼と話したという警察官に出逢った。アルバムから剥がして捜索の為に持ち歩いている彼の写真を見て、確かに彼だったと言うのだ。どうやら配送車は県道を隣町へ戻るべく走っており、津波が来るから逃げろと警告したところ、忘れ物を取りに戻ってからすぐ避難すると答えたそうだ。

 

それで、津波までどれぐらいの時間が残っていたのでしょうか、と私は不吉な予感に胸を塞がれながら尋ねる。さあ、あそこから町まで十分はかかるでしょうが、と警察官は眼を伏せた。彼はその後車の往来が途絶えた事を確認して土手に上ったそうだ。それがあんた、津波が凄い速さでやって来ましてなあ・・。

 

神社から見た黒い激流が瞼に焼き付いている。避難所のテレビではこれでもかと津波に車や家屋が呑み込まれる映像を何度も放映しており、あまりの惨さにもうテレビに近寄る気が起きなかった。彼が車の中にいて波に呑み込まれたのだとしたら、と想像するだけで自分の肺に水を入れられたように苦しくなる。

 

いったい彼は何を忘れたというのだろう。身の危険が迫っている時に何故すぐ山の方角へ逃げずに隣町へ戻ったりしたのだろう。まさかこんな津波が来るとは誰も想像さえしなかったのだから、彼もまだ時間があると踏んだのかもしれない。いや、途中で危険に気づき山へハンドルを切った事だって、ありえる。


ヤマコシさんの息子夫婦も行方不明のままで、私は説得されて遺体安置所に足を運ぶ事を承諾した。信じたくないお気持ちはよくわかります。でもね、もし遺体が上がっているのだとしたら奥さん以外の誰が見つけてあげることができます?それにご主人の遺体ではないと確認できれば安堵にも繋がるでしょう?

 

あの経験だけは思い出したくない。性別や年恰好が一致するとの遺体を見せられたのだけれど、幸いにも彼ではなく、私は最初の仮安置所を出た途端に道にしゃがみ込んで思わず地面に吐いた。ろくに食事も採っていない胃から溢れ出したのは粘液のようなものと痙攣だった。これ以上惨い死体を眼にしたくない。

 

夜になると私は魘された。水が入った車の中で彼が必死でもがいているのだ。彼の髪が海藻のように広がり、彼の顔は遺体安置所でみた仏様のように恐怖に歪んでいる。私は車の扉を開けようとするのだが扉はびくともしない。彼が顔を引き攣らせ瞼を閉じる。遼クン!絶望のあまりに悲鳴を上げて私は目覚めた。

 

布団の中で私は真っ暗な天井を見上げてここが何処だったのか思い出そうと試みる。ぼんやりと浮かんだ電灯に気づき、ここが自宅で布団の上に横たわっているという事実を思い起こした。でも、隣に彼はいない。これまでいつだって私の傍らで安らかな寝息をたてていた彼は、今何処にいるとも知れないのだ。

 

私達は六畳の間にいつも二枚の布団をぴったり寄せて寝ていた。彼は寝た振りをして私が電灯を消して布団に入るのを待つ。そして自分の布団からゆっくり手を伸ばしてパジャマを着た私の身体を弄り、寒いだろう?とか、こっちに来たら?とか囁く。それを合図に私は笑って彼の布団に転がり込むのだった。

 

ベッドとか、いいな。と私がデパートの家具売り場で呟いたことがある。すると彼は、畳に布団を敷いて寝る方が合理的だ、と言い張った。そうだろう?昼間は押入れに閉まっておけるし、布団だったら上で跳ねても変な音がしないさ。布団の上で跳ねるの?と私がからかうと、彼は笑って私の手を強く握った。


彼の羽根布団は水色の柄で私の布団はピンク。同じ布団でいいじゃないか、と言う彼に私は説明した。夫婦の布団なんだから対になっていなくちゃ格好が付かない。同じ柄で色違い、って決まっている。そういうものかな、と彼。そういうものよ、と私は自信を持って答えた。夫婦なんだからお揃いでなくちゃ。

 

明日から彼の布団で寝よう、と私は決心する。彼の匂い、彼が残した温もりに包まれて眠ったならばこの悪夢から逃れられるような気がする。そう、願いたい。私は彼の体温を、愛撫を想い出そうと努める。私をきつく抱き締める太い腕。あんなに逞しかった人がいなくなってしまうことなど、有り得なかった。

 

七日目になって隣町の避難所で私は宝石店の店主さんに逢った。行方不明者の台帳があるデスクで彼の名を挙げ消息を尋ねていた私に、声を掛けてきたのだ。あのペンダント、気に入っていただけました?と問いかけられ、私は怪訝な顔をしたに違いない。彼女は失言に気づいたらしく慌てて表情を取り繕った。

 

主人を見知っているのか、と彼の写真を手に思わず彼女を問い詰めずにはいられなかった。ええ、まあ、と店主さんは躊躇しながら答えた。プレゼントするから、と先月彼が女性用のペンダントを買ったとの話を彼女から聞き、一瞬頭をガンと殴られたような気がする。だって彼からプレゼントなど、貰っていない。

 

ひょっとして、彼には誰か他に女の人でもいるのだろうか、と胸の裡に怪しげな疑惑が沸く。もしかして、それで彼はまだ家に帰って来ていないのだろうか。まさか、と思いつつも、彼が女性のところに身を寄せている光景を想起してしまいかねない。私よりその人の身を案じてそちらへ行っているとしたら?

 

どうやら私の顔は蒼白になったらしく、女主人は慌てて、あら、勘違いだったかも知れません、と言い足した。どんなペンダントでした?と私は彼女の言葉が聞こえなかった振りをして問い質す。どんなって、と宝石店の店主は言葉を濁したが、諦めて付け加えた。小さなダイヤだったかしら。忘れちゃったわ。


その日、私はこれまでになく落ち込んだ。彼が一ヶ月も前に誰かにダイヤを買った。買ったらしい。この数週間、彼の素振りに不可解なものがあっただろうか、と私は振り返る。正直言って、まったく思い当たらなかった。誠実だと信じていた夫、その彼がもしかして浮気をしていた可能性など、あるだろうか。

 

前にこの町の宝石店の前を二人で通りかかった時の会話を思い浮かべる。あっ、綺麗!と私はショーウィンドウの前で足を止めた。脇を歩いていた彼は振り返って覗くと、やけに高いな、とだけコメントした。だって、一応ダイヤだもの、と私。ダイヤってのは金持ちが買うものだろう?と彼は呆気なく答えた。

 

その、やけに高いダイヤ、を彼は先月買ったのだ。私に内緒で。私の胸は押し潰されたように苦しくなる。津波さえなかったらこんな事実を知らされないですんだのに、と再びこの大震災を恨まずにはいられなかった。彼を神隠しにした憎い津波。そして、その彼はこれまで信じていた誠実な男では、なかった。

 

避難所や仮安置所巡りを機械的にこなしながら心の中に重石のようなものが痞えはじめた。あの宝石店主に偶然出逢うまでは、私は行方不明の夫を必死で探す貞淑な妻だったのだ。知らなくてすむことは知らないですませたかったのに、彼女が口を滑らせた一言で、私の胸の裡には醜い疑惑が居座りついてしまった。

 

嫉妬?と私は自分の胸に尋ねる。短い交際期間だったので、本当は彼のことを何も知らなかったのかもしれない、と無性に不安になる。愛されていると信じていたのに、その彼には他にも誰かがいたらしい。私は思わず両手で顔を蔽った。厭だった。彼に他に好きな人がいたなんて、とても耐えられなかった。

 

どうかしましたか?声にハッとして顔を上げると、階下に住むスギウラさんだった。彼の家は土砂やがらくたが流れ込んで住める状態ではないのでこの小学校に避難している。いえ別に、と私は取り繕った。奥さんも大変でしょうが、みんなで頑張りましょう。ご主人、きっと見つかります、と彼は私を励ました。



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