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行方不明者の名前を記す台帳があるとのことで、私は言われるままに無言でそちらに向かう。周りでは人々が押し殺した声で地震と津波の恐怖を語っている。何処そこの村が壊滅したらしいとか、誰それさんが亡くなったらしいとの噂話が私を取り囲み、まるで渦のようにぐるぐると執拗に響きながら迫って来た。

 

思わず耳を両手で押さえたところまでは憶えている。気づいたら、誰かの布団の上に寝かされ、向かいのヤマコシさんの奥さんが心配そうな顔で覗きこんでいた。眼を開けた私に気づくと、ヤマコシさんは安堵したような微笑を浮かべた。それと同時に私は嗚咽し、一端溢れはじめた涙は止まりそうになかった。

 

遼クンが、と口にしたところで私はやっと自分を取り戻し、慌てて半身を起こして姿勢を正し、主人が、と言い換えた。主人が戻って来ていないんです、とそこまで言葉にしてから唇を噛む。彼は行方不明なだけであって他の避難所にいるかもしれないし、もうこの時間には家に戻っているかもしれないと願う。

 

ヤマコシさんは黙ってバッグを探るとクリネックスを手渡してくれた。うちも息子夫婦と連絡が取れないんです、と彼女は言う。そういえばあちらの息子さんは隣町に住んでいると聞いたことを思い起こした。でも、諦めちゃいけませんよ。私達が神社に避難したように、きっと向こうも避難しているはずです。

 

ヤマコシさんの励ましで私は少し生き返った。連絡が取れないだけ、という彼女の話には説得力があったし、皆で一緒に無事を祈りましょう、との言葉に私も思わず頷いた。避難所の小学校も停電していたが発電機があるらしく、体育館の片隅にはテレビが一台置かれて大地震と津波の惨状を刻々と放映していた。

 

その日から毎日、私は朝方避難所の小学校を訪れて情報を収集し、隣町へ向かう人々の車に乗せてもらってあちらの避難所を廻った。背中に背負っているナップサックにはまだ結婚式のスナップを入れたままで、避難所の名簿に彼の名前を見つけられずに落胆する度に彼の写真をそっと眺めて自分を勇気づけた。


三日目に避難所で夫の同僚だという老年の男性に逢うことができた。私が名前を言うと、彼は黙って眼を伏せた。あの時間、彼は配送の途中だったはずで事業所には戻っていなかったという。でも地震に気づいて車を止め何処か高台へ逃げたのでは、と私が執拗に尋ねると、彼は私を見つめて同情を露わにした。

 

実際のところ、わからないんです。会社の方では行方不明の運転手を把握しようと試みているんですが、無線が繋がらない。奥さんがおっしゃるように旦那さんは車を離れて無事だったということはあり得る。避難できたこともあり得る。しかし・・。彼が言葉を濁したのは何処の避難所にも彼がいないからだ。

 

ヤマコシさんや顔見知りの町内の人々は避難所で暮らすようにと誘ってくれたが、二階で浸水もしていないので、と私は丁重に断った。実のところは、戻って来てくれるに違いない彼を家で待って迎えたかったのだ。二人の家を空けるのはその望みを捨て彼を見捨てることになるような気がして、できなかった。

 

彼の同僚の話から、どうやら彼は湾岸を走っていたらしいことが薄々わかった。でも津波警報は出たはず。車を山側に向けて走らせ逃げおおせたとの可能性は大いにある。たとえ世界中の皆がお前の夫は死んだと言ったとしても、私だけは彼の無事を信じていたかった。私の元へきっと戻って来るはずなのだから。

 

避難所で配給されたおむすびを、私は食べずに家へ持ち帰った。もしかして遠くから徒歩で疲れ果てて帰ってくるかもしれない彼におむすびぐらい出してあげたかったし、食欲というものを完全に喪っていた。私はポータブルコンロでお湯を沸かし、縁が欠けたが割れないで残った紅茶カップで一人紅茶を飲む。

 

紅茶のある生活に憧れていたの。私はスーパーで買い揃えた二組の紅茶茶碗と受け皿、それにパン皿のセットを彼に披露した。イギリス製の野苺の柄のセットで、私の一番の嫁入り道具だったかもしれない。日本茶でいいんだけれど、と笑いながらも彼は私が時おり催すティータイムに付き合ってくれたものだ。


たいした儀式ではないけれど、私は買って来たクッキーをお皿に綺麗に並べ、ミルクを温めてミルクティーを入れ、寝転がって雑誌を読んだりテレビを見ている彼をダイニングテーブルに招く。要するにおやつの時間ってことだな、と彼はからかい、私はちょっと膨れ、それでも気取った顔で彼にお茶を勧めた。

 

昔から外国というものに憧れていた自分がどうして彼のように純和風を好む男に惹かれたのか、都会を夢見ていたものが何故こんな田舎に嫁に来たのか、振り返ると可笑しくなることがある。ロックンローラーのような長めの茶髪の彼の風貌を誤解したとも言えるし、結局、そんなことはどうでもよかったのだ。

 

プロポーズされた日のことはよく憶えている。ドライブに誘われてこの町まで来て、ここが彼の故郷だと教えられた。海沿いに車を停めて、二人で海岸を散歩した。ずっと言葉少なでどこか緊張していた彼は海に石を投げると、さり気ない口調で、一緒に住もうか、と私を振り向きもせずに海に向かって呟いた。

 

愕いて私が彼の横顔を見つめると、彼は真っ直ぐな視線を投げかけて、ここで一緒に住もうか、って言ったんだ、ともう一度繰り返した。それって、プロポーズ?と私が尋ねると、彼は困ったような照れ臭そうな顔で、結婚して欲しい、と付け足した。私が噴き出すと彼もつられて笑い、私は彼の首に縋り付いた。

 

私達はそれまで四回ほどドライブデートをしただけだった。結婚に漠然と憧れていたし彼のことを好きになりつつあったけれど、正直言ってあの頃は、この人と結婚することになるとの確信はまだなかった。でも婚約して二人の生活を計画しながら、そして結婚後に二人で暮らしはじめてから、私は恋に陥ちた。

 

俺は奥さんを働きに出したくないんだ、と昔気質なことを言う彼の為に、私は二人の住まいを整え、家計簿を付け、ご飯を作り、彼を仕事に送り出す。食堂で働いていた頃に比べて自由な時間が増え、将来のことを計画するという新たな楽しみができた。これからは何をやるにも二人、そして子供も作ろう、と。


すっかり冷めてしまった紅茶を薄闇の中で見つめながら、私は占うようにカップに問いかける。もしかしたらこれは単なる試練なのだろうか。あまりに幸せで舞い上がっていたので、神様は彼を一時隠して私を困らせているだけ?彼に甘え寄りかかり過ぎていた私を、こらしめてやろうとの冗談なのだろうか。

 

避難所で分けてもらった白い蝋燭を一輪挿しに立てて火を点け、あたかも仏壇か神棚に祈るかのように私は眼を瞑り手を合わせる。どうか彼が無事で早く私の元へ帰って来てくれますように、と。瓦礫の山を乗り越えながら、彼が家への道を歩いて戻って来る様子を想像する。彼の笑顔を、瞼に思い浮かべる。

 

五日目に県道の交差点で彼と話したという警察官に出逢った。アルバムから剥がして捜索の為に持ち歩いている彼の写真を見て、確かに彼だったと言うのだ。どうやら配送車は県道を隣町へ戻るべく走っており、津波が来るから逃げろと警告したところ、忘れ物を取りに戻ってからすぐ避難すると答えたそうだ。

 

それで、津波までどれぐらいの時間が残っていたのでしょうか、と私は不吉な予感に胸を塞がれながら尋ねる。さあ、あそこから町まで十分はかかるでしょうが、と警察官は眼を伏せた。彼はその後車の往来が途絶えた事を確認して土手に上ったそうだ。それがあんた、津波が凄い速さでやって来ましてなあ・・。

 

神社から見た黒い激流が瞼に焼き付いている。避難所のテレビではこれでもかと津波に車や家屋が呑み込まれる映像を何度も放映しており、あまりの惨さにもうテレビに近寄る気が起きなかった。彼が車の中にいて波に呑み込まれたのだとしたら、と想像するだけで自分の肺に水を入れられたように苦しくなる。

 

いったい彼は何を忘れたというのだろう。身の危険が迫っている時に何故すぐ山の方角へ逃げずに隣町へ戻ったりしたのだろう。まさかこんな津波が来るとは誰も想像さえしなかったのだから、彼もまだ時間があると踏んだのかもしれない。いや、途中で危険に気づき山へハンドルを切った事だって、ありえる。


ヤマコシさんの息子夫婦も行方不明のままで、私は説得されて遺体安置所に足を運ぶ事を承諾した。信じたくないお気持ちはよくわかります。でもね、もし遺体が上がっているのだとしたら奥さん以外の誰が見つけてあげることができます?それにご主人の遺体ではないと確認できれば安堵にも繋がるでしょう?

 

あの経験だけは思い出したくない。性別や年恰好が一致するとの遺体を見せられたのだけれど、幸いにも彼ではなく、私は最初の仮安置所を出た途端に道にしゃがみ込んで思わず地面に吐いた。ろくに食事も採っていない胃から溢れ出したのは粘液のようなものと痙攣だった。これ以上惨い死体を眼にしたくない。

 

夜になると私は魘された。水が入った車の中で彼が必死でもがいているのだ。彼の髪が海藻のように広がり、彼の顔は遺体安置所でみた仏様のように恐怖に歪んでいる。私は車の扉を開けようとするのだが扉はびくともしない。彼が顔を引き攣らせ瞼を閉じる。遼クン!絶望のあまりに悲鳴を上げて私は目覚めた。

 

布団の中で私は真っ暗な天井を見上げてここが何処だったのか思い出そうと試みる。ぼんやりと浮かんだ電灯に気づき、ここが自宅で布団の上に横たわっているという事実を思い起こした。でも、隣に彼はいない。これまでいつだって私の傍らで安らかな寝息をたてていた彼は、今何処にいるとも知れないのだ。

 

私達は六畳の間にいつも二枚の布団をぴったり寄せて寝ていた。彼は寝た振りをして私が電灯を消して布団に入るのを待つ。そして自分の布団からゆっくり手を伸ばしてパジャマを着た私の身体を弄り、寒いだろう?とか、こっちに来たら?とか囁く。それを合図に私は笑って彼の布団に転がり込むのだった。

 

ベッドとか、いいな。と私がデパートの家具売り場で呟いたことがある。すると彼は、畳に布団を敷いて寝る方が合理的だ、と言い張った。そうだろう?昼間は押入れに閉まっておけるし、布団だったら上で跳ねても変な音がしないさ。布団の上で跳ねるの?と私がからかうと、彼は笑って私の手を強く握った。



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