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麺々亭というのは町の角にあるラーメン屋で二人でよく食べに行った。彼の仕事がオフの日には近くまでドライブに出かけ、帰りにスーパーへ食材を買いに行ったり、ラーメン屋や寿司屋に寄って食べて帰ることもあった。ささやかな週末デートだったけれど、私にはそれで、普段着の暮らしで十分幸せだった。

 

彼が帰って来たら今夜は鍋を作ろう、と冷蔵庫を開け、電気が切れて不気味に薄暗い庫内に再び現実に引き戻される。帰って来たら、という昨晩まで当たり前だった日常が喪われていることに気づく。白菜もベーコンも残っているけれど、彼のいつもの帰るコールがない。晩飯、何?という弾んだ声が、聴けない。

 

ぐらりと足元が揺れて私は慄いた。大きな揺れで、ビニール袋の中で破片がガチャガチャとぶつかり合う音が不気味に響く。咄嗟にテーブルの端を掴んで身を支えながら、私は地震の声を聴き取ろうとするかのごとく息を潜め耳を欹てる。幸い先ほどの揺れに比べれば軽微で、しばらくの後に余震は収まった。

 

携帯電話を取り出して見ると既に九時近くになっており私の不安は募る。どうせ繋がらないのでは、と半ば諦めつつももう一度携帯で彼の番号をプッシュした。繋がらない電話に憤りを感じ、この電話のせいでこんな不安に陥れられているような気がする。いったい彼を何処へ隠したのだろうか。いったい誰が。

 

携帯を握り締めたまま、ベランダへと向かった。キャンドルの炎は燃え尽きる寸前で弱々しく、私は慌てて両手で囲いを作り小さな炎が吹き消されないようにと願う。この灯りを消してしまったら、彼は何処へ戻って来るのかわからなくなってしまう。燃え尽きてしまうのは炎ではなく、命の灯りに想えてくる。

 

あの晩、私は寒いベランダで毛布と布団に包まって休み、まんじりともしなかった。キャンドルがついに燃え尽きて消えてしまった後もそこを離れる気にはならず、彼は絶対戻って来ると自分に言い聞かせながら、心の裡で不気味に膨れ上がりはじめた、もしかして・・、という悪い予感と必死に戦っていたのだ。


三月はまだ夜の冷え込みがひどい。服を着て布団を巻き付けているにもかかわらず、全身が寒さで震えてくるのがわかった。歯が鳴っていたが、ここで部屋に戻ったら彼を見捨てるような気がして、私は部屋に戻れないでいる。悪寒に震えながら、彼を私の元に帰してくれるよう、誰にともなく一心に祈った。

 

寒さで風邪を引いたら、莫迦だな、と帰って来た彼は呆れるに違いない。遼クンの為にお祈りしていたの、と彼の胸に飛び込んで甘えたかった。彼はいつものようにギュッと抱き締めてくれるはずで、疲れと寒さのあまり微睡みながら、私は彼の抱擁を想い出そうと努めた。もうすぐ全ては解決するはずだった。

 

私は耳を欹て、彼が帰宅した気配を聴き取ろうとした。冷たい静寂の中で玄関のブザーが鳴ったように錯覚し、扉が開いたのではと転寝から我に帰った。徐々に自分が何処にいるのかわからなくなってきており、これはすべて悪夢に過ぎず眼が覚めればいつものように隣に彼がいるに違いない、と信じたかった。

 

彼の夢を見た。苦しそうだった。どうしたの、と私は尋ねる。ここまで駆けて来たんだ、と彼は息を切らせながら告げる。そんな無理をしなくてもよかったのに、と私は彼の顔を見られた嬉しさに涙を堪えながら彼に向かう。しかし、どうしても彼に手が届かないのだ。おかしいと訝りながら、無性に不安になる。

 

アツコ。彼が諦めに似た表情で呟きこちらに手を伸ばしたように想う。彼の手を掴みさえすればいいことが、わかっている。そして彼の姿が消えた。恐怖のあまり私は夢を巻き戻すことを願う。意識の底でこれは夢に過ぎないと知っており、今度彼の姿を見かけたら全速力で彼の胸に飛び込もうと身構えている。

 

しかし彼は二度と現われず、苦しさのあまり私は眼を開けた。苦渋を浮かべた彼の表情が脳裏に焼き付いており、錐で穴を開けられたような胸の痛みに息をすることもできない。闇に眼が馴れてくると、どうやら空が白みはじめているようだった。昨晩、彼は帰ってこなかった。結婚して以来、初めてのことだ。


うっすらと蒼を帯びはじめた闇に家々の屋根が黒く広がっている。町並みの背丈が低くなったように感じる。それとも地面が陥没したのだったろうか。明けゆく空をぼんやりと眺めながら、まだ夕方なのかそれとも早朝なのか時間の感覚を喪っていた。彼は、帰って来なかった。その事実が私に重く圧し掛かる。

 

どうやら風邪をひいたらしく身体が火照っており、鈍痛に見舞われた重い頭で私は一生懸命に考える。先ずは避難所の小学校へ行って彼があちらにいるかどうか確かめて来よう。隣町で避難したかもしれないから、そちらへも探しに行こう。入れ違いになるかもしれないから、家に置手紙を置いておかなくちゃ。

 

待っていて、と私は胸の裡で彼に告げる。今探しに行くから、絶対に待っていてね。そう口に出して唱えると、凍えた身体に血が巡り闇に一筋の光線が射し込んだごとく急に意識が鮮明になった。彼は何処かで倒れて私の救いを待っているかもしれず、その私がこんなことでメゲていてはいけないはずだった。

 

行って来るよ、と私が作った弁当を持っていつものように出勤した彼。夕食の残りの鶏の唐揚げと彼が好きな卵焼き、それに鮭の塩焼きをフレークにして混ぜた大きなおむすびを三つ。私は何時も渡り廊下から彼が車を出すのを見送る。駐車場を出る時に彼はいつも窓から手を振る。いつもの朝と同じだった。

 

私は彼の笑顔を想い出そうと努める。今日は天気が良さそうだな、と朝方ベランダから外を眺めて彼はご機嫌だった。この冬は天候が悪く彼は運転に神経を擦り減らしていたように思えたので、私も晴天になりそうな朝の陽射しが嬉しかった。明日は週末で彼にゆっくり休んでもらえることにもほっとしていた。

 

空が白々と明け、津波で崩れ落ち流された屋根や泥まみれの家財道具、横転した車の影がくっきりと露わになり、昨日の出来事が悪夢ではなく現実だったことを思い知らされる。無残な瓦礫の山と化した町を見つめながら、それでも実感が湧かない。まるで映画で怖しい映像を見せつけられているように感じる。


チャンネルを変えたら昨日の朝に時を戻すことができるだろうか、と私は廃墟を茫然と見つめる。空を見上げると今日も快晴になりそうで、朝陽を浴びて眼を瞑りながら、彼がどこかで同じ空を見上げていることを願う。彼はきっと生きているはずだ。そう胸の裡で唱えてから、不吉に感じられる祈りに気づく。

 

小学校は神社とは反対側の丘の上に立っている。話によると昔津波に襲われた時に海岸近くにあった当時の小学校は児童もろとも流され、それ以来小学校は丘の上に移動されたのだという。土砂と瓦礫が夥しく残る道をそれでもなんとか小学校に一歩一歩近づきながら、私は彼がそこに避難していることを祈る。

 

旧いコンクリート造りの小学校が見えて来た。彼に逢えたら何と言おうかと考える。戻って来てくれなかったからいっぱい心配させられた、って怒ろうか。いや、きっと安堵のあまり言葉など口に出せなくて夢中で彼にしがみついてしまうに違いない。彼の顔を見ることさえできたら、もう他には何もいらない。

 

小学校の薄汚れた白壁が近づくにつれ私は不安になる。人々が集っており警察のパトカーやら白いバンが数台停まっているが、期待していた嬉しい胸騒ぎが起きないのだ。莫迦な、と私は自分を奮い立たせ、校庭で立ち話をしている集団の間に彼の姿を探し求めた。体育館が避難所になっていると聞きそこへ走る。

 

体育館には皆が持ち込んだらしい毛布や布団が雑然と並べられており、まだ床に横たわっている人々も多いようだった。私は注意深く端から端まで床の間を何度も歩き廻って主の顔を確認し、避難所の取りまとめ役をしている町役場の人に逢い、夫はこの避難所には来ていないらしいと納得せざるを得なかった。

 

そうですか、ご主人が。町役場の人は重い口調でそう呟くと、眼を伏せた。今回の地震は未曾有の規模で、県内では海岸線に近い町で津波に丸ごと流されたところもあるという。隣町は半分以上が津波に襲われたそうで、湾岸の道路は完全に浸水したとのことだった。まだ正確な状況は把握できていないらしい。


行方不明者の名前を記す台帳があるとのことで、私は言われるままに無言でそちらに向かう。周りでは人々が押し殺した声で地震と津波の恐怖を語っている。何処そこの村が壊滅したらしいとか、誰それさんが亡くなったらしいとの噂話が私を取り囲み、まるで渦のようにぐるぐると執拗に響きながら迫って来た。

 

思わず耳を両手で押さえたところまでは憶えている。気づいたら、誰かの布団の上に寝かされ、向かいのヤマコシさんの奥さんが心配そうな顔で覗きこんでいた。眼を開けた私に気づくと、ヤマコシさんは安堵したような微笑を浮かべた。それと同時に私は嗚咽し、一端溢れはじめた涙は止まりそうになかった。

 

遼クンが、と口にしたところで私はやっと自分を取り戻し、慌てて半身を起こして姿勢を正し、主人が、と言い換えた。主人が戻って来ていないんです、とそこまで言葉にしてから唇を噛む。彼は行方不明なだけであって他の避難所にいるかもしれないし、もうこの時間には家に戻っているかもしれないと願う。

 

ヤマコシさんは黙ってバッグを探るとクリネックスを手渡してくれた。うちも息子夫婦と連絡が取れないんです、と彼女は言う。そういえばあちらの息子さんは隣町に住んでいると聞いたことを思い起こした。でも、諦めちゃいけませんよ。私達が神社に避難したように、きっと向こうも避難しているはずです。

 

ヤマコシさんの励ましで私は少し生き返った。連絡が取れないだけ、という彼女の話には説得力があったし、皆で一緒に無事を祈りましょう、との言葉に私も思わず頷いた。避難所の小学校も停電していたが発電機があるらしく、体育館の片隅にはテレビが一台置かれて大地震と津波の惨状を刻々と放映していた。

 

その日から毎日、私は朝方避難所の小学校を訪れて情報を収集し、隣町へ向かう人々の車に乗せてもらってあちらの避難所を廻った。背中に背負っているナップサックにはまだ結婚式のスナップを入れたままで、避難所の名簿に彼の名前を見つけられずに落胆する度に彼の写真をそっと眺めて自分を勇気づけた。



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