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主人が戻ったら一緒に避難所へ向かいます、と私が涙声で訴えると、スギウラさんは再びあの哀しそうな顔を振り向け、余震に十分注意して下さい、と言い残して立ち去った。彼が階下に去った後、私は急に怖しくなる。他の人達は皆小学校へ避難したらしく、半ば廃墟と化した町に私は一人取り残されたのだ。

 

暗い家をふらりと見廻して、皆と一緒に避難し小学校で彼を待つべきだろうか、と私は迷う。いや、彼はきっとこの家へ戻って来るはずだ。この町は私の生まれ故郷ではないけれど、この二間の狭いアパートこそが私達二人の唯一の故郷なのだ。朝方、行って来るよ、と出勤した彼の姿がくっきり瞼に浮かんだ。

 

彼が戻って来れるように、私はそれまでしっかりこの家を守らなければいけないはずだった。ダイニングの床に飛び散ったガラスの破片や瀬戸物の欠片。闇に慣れてきた眼で私は惨状を把握し、彼が帰って来る前に片付けよう、と自分を奮い立たせる。テーブルに倒れていた食器戸棚を、力いっぱい壁に押し戻す。

 

スーパーのビニール袋を出して来て、私は手を切らないように注意深く破片を拾い集め袋に入れていく。彼の蒼い茶碗の残骸だけはどうしても捨てられず、一枚一枚欠片を丁寧に除けておいた。私の紅い茶碗は端が少し欠けた程度で奇跡的に形を留めていたが、結婚祝いにもらった夫婦の湯呑みは見事に割れた。

 

気味悪いほどの静寂の中で、私は眼を凝らし機械的に欠片を拾い集めていく。結婚生活の短い軌跡が白いポリ袋の中に呆気なく葬られているように感じる。彼と過ごした日々が束の間の幻であったと錯覚させる厭な予感に、私は思わず作業中の手を止め、彼が使っていた茶碗の破片でできた蒼い山を見つめた。

 

瀬戸物の欠片をセメダインで繋ぎ合わせることができたら、パズルのようにしっかり元の形に組み合わせる事ができたら、そうしたら彼は戻って来れるのだろうか。そう考えた途端に、私は自分が怖れているものの正体がわかった。心の奥底で先ほどから蠢いている、どうしても認めたくない可能性は、彼の死。


何を莫迦な、と私はその恐怖を振り払う。彼はたまたま遠くにいて、それで未だここへ辿り着けていないだけ。町民が小学校へ避難したと聞いてそちらへ向かったのかもしれない。妻の私が彼の生存を信じなくて、誰が彼の為に祈ることができようか。後で今夜のことは笑い話になるに違いない、と信じたかった。

 

私は再び指を動かし、欠けた皿やグラスを黙々とビニール袋に入れ続けた。ビールは缶のままでいいよ、と彼は言ったっけ。でも、ちゃんとグラスを冷蔵庫で冷やしておいたんだ、と私は得意がり、彼に感心されたっけ。お疲れ様でした、と帰宅した彼と晩酌を交わし、彼はいかにも美味しそうにビールを飲んだ。

 

ありふれた日常。今となってみるとそんな小さな日課がすべて愛おしく感じられる。漁師の息子のくせに肉が大好きな彼の為に、私はよくハンバーグを作った。牛肉は高いのでキャベツと玉ネギ、それに牛乳でふやかしたパンをたくさん入れて量増ししたハンバーグを、彼は美味しいといつも褒めてくれたものだ。

 

遼クン、何、食べたい?蒼い茶碗の欠片を見つめながら私は胸の裡で尋ねる。電気もガスもないけれど、ポータブルのコンロがあることを思い出した。やっぱ冬は鍋だろう?と彼が提案し、この冬にコンロを買ったのだ。魚のアラを入れた鍋やスキヤキ、白菜ベーコン鍋に豆乳鍋、あらゆる鍋を二人でつついた。

 

俺、毎日鍋でもいいぜ。猛烈な勢いで白菜を平らげながら彼が言い、これって料理としては簡単過ぎてちょっと良心が痛むな、と私は笑った。スーパーだけではなく漁港にある直営店にも足を伸ばして彼が好きそうな海鮮類を買い、このあたりはホタテがたくさん採れる海なので豪華にホタテ鍋も作ったものだ。

 

鍋の締めにうどんを入れるか、ご飯を入れて雑炊にするか、私達は楽しく迷った。どちらも美味しくて、中華麺が食べたい気分だ、と彼が言えば鍋の最後はラーメンになった。具の旨味が充分に滲み出た鍋の汁は絶品で、麺々亭のやつより美味い、と彼は嬉しそうに宣言し私も忙しく箸を動かしながら同意した。


麺々亭というのは町の角にあるラーメン屋で二人でよく食べに行った。彼の仕事がオフの日には近くまでドライブに出かけ、帰りにスーパーへ食材を買いに行ったり、ラーメン屋や寿司屋に寄って食べて帰ることもあった。ささやかな週末デートだったけれど、私にはそれで、普段着の暮らしで十分幸せだった。

 

彼が帰って来たら今夜は鍋を作ろう、と冷蔵庫を開け、電気が切れて不気味に薄暗い庫内に再び現実に引き戻される。帰って来たら、という昨晩まで当たり前だった日常が喪われていることに気づく。白菜もベーコンも残っているけれど、彼のいつもの帰るコールがない。晩飯、何?という弾んだ声が、聴けない。

 

ぐらりと足元が揺れて私は慄いた。大きな揺れで、ビニール袋の中で破片がガチャガチャとぶつかり合う音が不気味に響く。咄嗟にテーブルの端を掴んで身を支えながら、私は地震の声を聴き取ろうとするかのごとく息を潜め耳を欹てる。幸い先ほどの揺れに比べれば軽微で、しばらくの後に余震は収まった。

 

携帯電話を取り出して見ると既に九時近くになっており私の不安は募る。どうせ繋がらないのでは、と半ば諦めつつももう一度携帯で彼の番号をプッシュした。繋がらない電話に憤りを感じ、この電話のせいでこんな不安に陥れられているような気がする。いったい彼を何処へ隠したのだろうか。いったい誰が。

 

携帯を握り締めたまま、ベランダへと向かった。キャンドルの炎は燃え尽きる寸前で弱々しく、私は慌てて両手で囲いを作り小さな炎が吹き消されないようにと願う。この灯りを消してしまったら、彼は何処へ戻って来るのかわからなくなってしまう。燃え尽きてしまうのは炎ではなく、命の灯りに想えてくる。

 

あの晩、私は寒いベランダで毛布と布団に包まって休み、まんじりともしなかった。キャンドルがついに燃え尽きて消えてしまった後もそこを離れる気にはならず、彼は絶対戻って来ると自分に言い聞かせながら、心の裡で不気味に膨れ上がりはじめた、もしかして・・、という悪い予感と必死に戦っていたのだ。


三月はまだ夜の冷え込みがひどい。服を着て布団を巻き付けているにもかかわらず、全身が寒さで震えてくるのがわかった。歯が鳴っていたが、ここで部屋に戻ったら彼を見捨てるような気がして、私は部屋に戻れないでいる。悪寒に震えながら、彼を私の元に帰してくれるよう、誰にともなく一心に祈った。

 

寒さで風邪を引いたら、莫迦だな、と帰って来た彼は呆れるに違いない。遼クンの為にお祈りしていたの、と彼の胸に飛び込んで甘えたかった。彼はいつものようにギュッと抱き締めてくれるはずで、疲れと寒さのあまり微睡みながら、私は彼の抱擁を想い出そうと努めた。もうすぐ全ては解決するはずだった。

 

私は耳を欹て、彼が帰宅した気配を聴き取ろうとした。冷たい静寂の中で玄関のブザーが鳴ったように錯覚し、扉が開いたのではと転寝から我に帰った。徐々に自分が何処にいるのかわからなくなってきており、これはすべて悪夢に過ぎず眼が覚めればいつものように隣に彼がいるに違いない、と信じたかった。

 

彼の夢を見た。苦しそうだった。どうしたの、と私は尋ねる。ここまで駆けて来たんだ、と彼は息を切らせながら告げる。そんな無理をしなくてもよかったのに、と私は彼の顔を見られた嬉しさに涙を堪えながら彼に向かう。しかし、どうしても彼に手が届かないのだ。おかしいと訝りながら、無性に不安になる。

 

アツコ。彼が諦めに似た表情で呟きこちらに手を伸ばしたように想う。彼の手を掴みさえすればいいことが、わかっている。そして彼の姿が消えた。恐怖のあまり私は夢を巻き戻すことを願う。意識の底でこれは夢に過ぎないと知っており、今度彼の姿を見かけたら全速力で彼の胸に飛び込もうと身構えている。

 

しかし彼は二度と現われず、苦しさのあまり私は眼を開けた。苦渋を浮かべた彼の表情が脳裏に焼き付いており、錐で穴を開けられたような胸の痛みに息をすることもできない。闇に眼が馴れてくると、どうやら空が白みはじめているようだった。昨晩、彼は帰ってこなかった。結婚して以来、初めてのことだ。


うっすらと蒼を帯びはじめた闇に家々の屋根が黒く広がっている。町並みの背丈が低くなったように感じる。それとも地面が陥没したのだったろうか。明けゆく空をぼんやりと眺めながら、まだ夕方なのかそれとも早朝なのか時間の感覚を喪っていた。彼は、帰って来なかった。その事実が私に重く圧し掛かる。

 

どうやら風邪をひいたらしく身体が火照っており、鈍痛に見舞われた重い頭で私は一生懸命に考える。先ずは避難所の小学校へ行って彼があちらにいるかどうか確かめて来よう。隣町で避難したかもしれないから、そちらへも探しに行こう。入れ違いになるかもしれないから、家に置手紙を置いておかなくちゃ。

 

待っていて、と私は胸の裡で彼に告げる。今探しに行くから、絶対に待っていてね。そう口に出して唱えると、凍えた身体に血が巡り闇に一筋の光線が射し込んだごとく急に意識が鮮明になった。彼は何処かで倒れて私の救いを待っているかもしれず、その私がこんなことでメゲていてはいけないはずだった。

 

行って来るよ、と私が作った弁当を持っていつものように出勤した彼。夕食の残りの鶏の唐揚げと彼が好きな卵焼き、それに鮭の塩焼きをフレークにして混ぜた大きなおむすびを三つ。私は何時も渡り廊下から彼が車を出すのを見送る。駐車場を出る時に彼はいつも窓から手を振る。いつもの朝と同じだった。

 

私は彼の笑顔を想い出そうと努める。今日は天気が良さそうだな、と朝方ベランダから外を眺めて彼はご機嫌だった。この冬は天候が悪く彼は運転に神経を擦り減らしていたように思えたので、私も晴天になりそうな朝の陽射しが嬉しかった。明日は週末で彼にゆっくり休んでもらえることにもほっとしていた。

 

空が白々と明け、津波で崩れ落ち流された屋根や泥まみれの家財道具、横転した車の影がくっきりと露わになり、昨日の出来事が悪夢ではなく現実だったことを思い知らされる。無残な瓦礫の山と化した町を見つめながら、それでも実感が湧かない。まるで映画で怖しい映像を見せつけられているように感じる。



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