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蒼い絵付けの茶碗は私が使っている赤い絵付けの茶碗とペアで買ったものだった。奮発して仙台のデパートで購入した伊万里焼きの夫婦茶碗。普通の茶碗でいいよ、という彼を、結婚記念なんだからちゃんとした物を買わなくちゃ、と説き伏せて選んだ大切な茶碗だ。蒼い破片を思い起こしてふと哀しくなった。

 

裏山の神社へ続く急な石段を町人に続いて登りながら、夫は私が神社へ向かったことに気づくだろうか、と心配になる。いや、きっと彼が帰宅する前には家に戻れるに違いない。皿が割れて散乱していたダイニングの様子を思い起こし、彼が帰って来る前に掃除をして夕ご飯を用意しておかなくては、と考えた。

 

前を横町のお婆ちゃんが歳に似合わず健脚ですたすた石段を登って行く。お元気ですね、と声を掛けると、振り向いた顔は蒼白で、その時初めて私は厭な予感がした。凄い津波が来る、とお婆ちゃんは顔を引き攣らせた。ビッグウェイブ。彼と一緒に観に行ったサーフィンの映画を、その時なぜか思い浮かべた。

 

小さい頃はサーファーになりたかったんだ、と彼が教えてくれたことがある。彼はこの町の出身で、私が働いていた茨城の高速道路のインターチェンジにある食堂によく顔を出した。茶髪の若い男は笑顔が爽やかで、ひょろりと細いくせに大食いだった。この茶髪は海灼けなんだ、と彼は照れ臭そうに微笑した。

 

両親が既に亡くなっているという打ち明け話をしてもらった頃から、彼の存在が気になり出した。私は父を昔に亡くし、母とは彼女の再婚以来関係がぎくしゃくしたままだ。高校を卒業し食堂で勤め始めてからは、忙しいから、と生まれ育った街に戻ることも稀で、新たな故郷を探していた折に、彼に出逢った。

 

あの日、石段を登り切ると神社の境内に町の人々が集まり眉をひそめて喋っていた。向かいに住むヤマコシ夫人を見つけて話しかけようとした時だった。怒涛のような音が迫り、境内の痩せた雑木の合間から海が見えたのだ。家の屋根や塀、車や船、あらゆる残骸を物凄い勢いで運んでいる黒ずんだ激流だった。


あまりの光景に私は言葉を喪った。それは陽を受けて煌めく碧いビッグウェイブなどではなくて、土砂のごとき色の死の匂いが漂う怖しい奔流だ。誰かの悲鳴が聴こえ、一瞬激流がこの神社を呑み込むのではと恐怖に慄き、どうやらこの高台を避けて平地を襲うらしい津波をやり過ごせたことに束の間安堵した。

 

アツコ。ふと名前を呼ばれたような気がして思わず振り向いたが、誰もいない。雑木林の梢から鳥が飛び立った気配があった。濁流に眼を向け直した途端に、呼びかけたのは彼だったことに突然気づき、心臓が凍りついた。私の名を呼ぶ優しい声は夫以外の誰かであるはずがなく、あの声は、彼の声に違いない。

 

まさか、と思いつつもナップサックから携帯電話を取り出し、彼の番号を再び押す。電話はやはり繋がらない。回線が切れているのだから、と自分を納得させようとするのだけれど、彼の声を聴けないことが急に不安になった。もしかして、と津波がもたらした黒い濁流のような不安が胸の中で渦巻きはじめる。

 

騒がしく話し合っている人声が奇妙に霞んで聴こえる。繋がらない電話を耳に当てたまま、私は胸の裡で祈る。早く電話に出て安心させてちょうだい。声だけでもいいから聴かせてちょうだい。彼は毎晩、今から帰るよ、と電話をかけてくれる人だった。運送会社のオフィスがあるのは隣街でここより海岸に近い。

 

濁流が引き始めても、また津波が来るかもしれない、と皆は神社に留まることにした。余震らしく、踏み締めている大地が時おり思い出したように大きく揺れる。津波が町に残した残骸に驚愕と悲嘆の声を上げている人々に背を向けて、私は鄙びた神社に手を合わせた。どうか早く彼の顔を見て安心させて下さい。

 

アツコ。先ほどの声がまだ耳許で弱々しく木霊している。前の職場ではアッコと呼ばれていた私を、きちんとアツコと呼んでくれた最初の男。眼を瞑って神様に祈りながら、私は彼に尋ねる。いったい今、何処にいるの?どうか無事で早く帰って来て。私のことは心配しないで。みんなで神社に避難しています。


そろそろ大丈夫じゃないか、と誰かが言ったらしく、皆で山を降りることになった。そうでなくとも私は日暮れまでには絶対に家へ帰ろうと決めていた。慌てて飛び出したので書き置きを残すのも忘れており、もしかしたら彼はもう戻って来て、心配しているかもしれない。早く彼に逢いたくて、私は駆ける。

 

町道には土砂や家具や家の一部らしき材木、ひっくり返された車までが残されており、まるでテレビや映画に出て来る焼き払われた戦場か竜巻の後を想起させた。現実の光景とは納得できないままに、私は憑かれたように瓦礫の隙間を探して歩を進め、いったい家はどうなったのだろうか、と不安に苛まれた。

 

夕刻が迫っているので空は薄暗くなっており、津波に洗われて汚くなってはいるが残っているどの家にも灯りが点いていないことに初めて気づいた。どうやら町全域が停電しているらしい。流されて来た大きなソファーを乗り越えながら、これでは車で通勤している彼が戻って来られないのでは、と心配になる。

 

角を曲がるとアパートが見えて来て、私は家が流されていないことにほっと安堵した。アパートの脇にも瓦礫がうず高く積もっており、二階のユニットを借りた幸運に思わず感謝する。彼は戻って来ているだろうか。私は無我夢中で駆け出し、道を塞いでいた木材の何かに躓きながらも一目散に家を目指した。

 

遼クン!声を振り絞りながら二階への階段を駆け上がる。渡り廊下にまで土砂が残っている。扉を勢い良く開けると、玄関も半分ほど水浸し。灯りが消え薄暗い我が家を覗いた途端に氷のように冷たい戦慄が全身を駆け抜けた。彼は、いない。ダイニングと畳の間しかない狭い家は、死んだように静かだった。

 

きっとこの土砂と瓦礫で帰れなくなっているのだ、と私は自分に言い聞かせる。ベランダへ通じるガラス戸から薄い西日が射し込んでおり、後少しすれば完全に闇に呑み込まれるであろうことがわかった。懐中電灯は彼の車のトランクの中。クリスマスに買ったキャンドルが残っていることをふと思い起こした。


キッチンの引き出しを開けて使いかけの紅いキャンドルを取り出す。彼のライターが何処かにあったはず。結婚したんだから、煙草、やめたら?私がそう提案すると彼は苦笑した。じゃ、ベランダで吸うよ。蛍族の仲間入りだ。煙草を美味そうに燻らす彼の傍でベランダから外を眺める時間を、私は好きだった。

 

言ったっけ、俺の親父は漁師だったんだ。遠洋航海に出掛けるとしばらく帰って来ない。台風が来る度にお袋が心配そうに外へ出て空を眺めていた。ああいう仕事は厭だな、って子供心に思ったよ。海は好きだが、漁師なんて真っ平だ、って誓った。そんな話をする時、彼は口を真一文字に結び彼方の海を睨んだ。

 

キャンドルをガラスの灰皿に乗せ、彼のライターで火を点けようとしてから思い留まった。もしかしたらガスが洩れているかもしれないと不意に気づいたからだ。キャンドルを乗せた灰皿を持ってベランダへ移動する。幸いガラス戸は軋みながらも開いてくれたので、私はベランダにしゃがみ恐る恐る火を点けた。

 

ベランダの柵の向こうには今まで眼にしたことのない瓦礫の山と化した街並みが続いている。陽が沈み、空は薄い茜色をわずかに残すばかりで紫を帯びた闇色の雲に蔽われていた。紅いキャンドルの黄金色の炎を眺めながら、私は再び言いようのない不安に襲われる。いったい彼は今何処にいるのだろうか、と。

 

クリスマスケーキは電灯を消してキャンドルの灯りで食べよう、と私が提案すると、彼は笑った。町に一軒しかないケーキ屋で苺のショートケーキを二つ買って来て、それにヒイラギの葉を差し込むと立派なクリスマスケーキになった。結婚したらクリスマスをきちんとやろうと決めていた私は大満足だった。

 

クリスマスって飲み屋でパーっと騒ぐものかと思っていた、と彼が軽口を叩き、クリスマスは家族の日よ、と私は知ったかぶりをした。本当は子供の頃、クリスマスを祝う家の友達が羨ましくて仕方がなかったのだ。クリスマスにも朝帰りをするような母だったからこそ、私は早く自分の家庭を築きたかった。


私はベランダの手摺に凭れ掛かり、すっかり暗くなった闇の中を瓦礫に埋もれた道の向こうから、彼がひょっこり姿を現わしてくれないだろうか、と祈る。オフィスからここまで歩いたらどれぐらいの時間がかかるのだろう、と推し量る。電話が通じない彼とどうやって連絡を取ればいいのか、何度も自問した。

 

不意に玄関で物音がして、私の胸が高鳴った。遼クンはやっぱり戻って来てくれたのだ!急いで玄関に走り戻ると、しかしそこに立っていたのは階下に住むスギウラさんだった。電気もガスも電話も遮断され余震でまた津波が起こる可能性もあるので、町民は高台の小学校に避難するように、との指示だった。

 

まだ主人が帰って来ていないので、と私が口篭ると、彼は同情を込めた哀しそうな眼差しを向け、途端に、私の胸に嵐時のような黒い雲が広がった。まさか・・。私は勇気を振り絞って夫のオフィスがある隣町の状況を尋ねる。あそこはここよりずっと海に近いからねえ。スギウラさんは困った顔で眼を伏せた。

 

教えて下さい!私が振り絞った声は自分の耳にも悲痛に聴こえ、その時初めて、私は家族の安否を気づかう被災者の一人となってしまったことを認めざるを得なかった。それまで最悪の事態なるものは考えないようにと無意識に自制していたのに、気づくと涙が溢れて頬を伝い、私は茫然として宣告を待った。

 

いや、はっきりした事はわからんが、あのあたりでは車がずいぶん流されたらしい。さっき町長さんのところで警察の人に逢ったんだが、津波が来るからと県道に立って運転者に注意していた巡査さんも流されたそうだ。なんせ、こんな大津波だとは、誰も予想できなかったからねえ。全部押し流されちまって。

 

スギウラさんの声が朧げに響き、私は話に耳を傾けてはいるのだが理解できなかった。納得したくはなかった。夫はきっと高台方面に配達に行っていたに違いない。きっと何処かの丘の上からひどい濁流を眺め、大変な事になった、と驚愕したに違いない。道路が水浸しになり、それで未だ帰って来れないのだ。



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