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彼に傍にいて欲しかった。大丈夫だよ、とあの逞しい腕で支えて欲しかった。勤めに出ているはずの彼が、ひょっとして奇跡のように舞い戻って来て私をここから救ってくれるのではないだろうか、と怯えた頭で、必死で念じていた。早く帰って来て、と胸の中で繰り返しながら、柵を掴む以外は手立てがない。

 

白いシーツに遮られた世界の向こうで物が落ちて割れる音や柱が揺れて軋む音がし、いったいこの揺れは何時まで続くのだろうか、と私は不安に怯える。築三年との二階建てアパートには一年前に入居したばかり。このあたりでは一番新しくて頑丈です、と案内してくれた不動産屋のオジサンは太鼓判を押した。

 

陽が燦々と照りつけているらしく、シーツを透かしてその向こうに海が煌くさまが見えるような気がした。先々週末に二人で散歩した海岸。潮の香りってやっぱいいな、と深呼吸しながら笑いかけていた彼の顔。海岸を走りはじめた彼の後を追いながら、待ってよ!と息を切らせて走った午後。穏やかな陽の光。

 

その時ふと、彼が何処にいるのか心配になった。トラックの運転手をしている夫は、今朝もいつもと同じようにご飯と味噌汁と目玉焼きの朝食を食べて出勤した。うちの目玉焼きはベーコンをカリカリに焼いてから卵を二つ割り落とし、半熟のまま一度裏返しにして、黄味の表面だけほんのり焼いてできあがり。

 

シーツの向こうで大音響がし、食器棚が傾き仕舞ってあった食器が割れたらしい。幸いベランダの床が抜ける気配はなかったので、私は鉄柵をしっかり両手で握り締めたまま、目玉焼きをご飯にのせて箸で掻き込むように食べていた夫の顔を想い浮かべた。彼の蒼い絵付けの伊万里の茶碗は、どうしただろうか。

 

どれほどの間そうしていたのか、はっきりした記憶がない。揺れがようやく収まりシーツの外の世界に出た私は、棚が倒れて本や雑誌やCDが狭い畳の部屋に無残に散らかっている様子を見て嘆息したが、それでもあの時は、屋根がちゃんと残っており窓が壊れていないことを知って、心底ほっとしていたのだ。


ダイニングの食器棚は案の定倒れており、ガラスや瀬戸物の破片が床に散乱している。テーブルに置いたあったバッグから急いで携帯電話を取り出して彼に電話をしてみたが、何度掛け直しても全く繋がらない。まさか地震の最中に運転しているのだろうか、とメモリーに入れた彼の電話番号を押す手が震えた。

 

いや、きっと皆が電話を掛けているので回線がパンクしているだけかもしれない、と気づく。きっと彼は私のことを心配しているに違いなく、今、まさにこの瞬間に電話をしようと試みてくれているのかもしれない。私は携帯を見つめて、胸の裡で見えない彼に伝える。凄い地震だったけれど、平チャラだったわ。

 

心配して仕事を早めに切り上げ様子を見に帰って来てくれるかも知れない彼の為に、私は扉を開け放ち片付けを始めることにした。ダイニングの割れ物を掃き出さないと、と思って屈むと、床に散らかっている破片の中に蒼い欠片を見つけた。無残に割れてしまった彼の茶碗。その時、サイレンの音が聴こえた。

 

不吉な音。今になってもあのサイレンの音が耳の底で鳴り響いている。津波が来る、という警戒警報だったことは憶えている。津波が来たら裏山の神社へ逃げましょう。その教えは町の避難訓練でも回覧板に書いてあったとうっすら記憶していた。いったい何を持って逃げたらいいのか、私は咄嗟にリストする。

 

週末の遠出に使うナップサックを押し入れから取り出し、買い物に行く時に使っているバッグを突っ込み、冷蔵庫からミネラルウォーターとチョコを出して入れる。と、玄関の外で、急いで逃げて下さい、と誰かの緊迫した声が聴こえた。サックを掴んで慌てて外へ飛び出そうとした途端に忘れ物を想い出した。

 

急いで畳の間へ戻った私は散らかっている本やCDの間から額に入れた結婚式の記念スナップを探し出し、それをナップサックに突っ込んで運動靴を突っ掛けた。皆が駆けているようなので私もサックを背負って人の波に続く。あの時は津波と言われてもさしたる実感はなく避難訓練のごとき軽い気持ちだった。


蒼い絵付けの茶碗は私が使っている赤い絵付けの茶碗とペアで買ったものだった。奮発して仙台のデパートで購入した伊万里焼きの夫婦茶碗。普通の茶碗でいいよ、という彼を、結婚記念なんだからちゃんとした物を買わなくちゃ、と説き伏せて選んだ大切な茶碗だ。蒼い破片を思い起こしてふと哀しくなった。

 

裏山の神社へ続く急な石段を町人に続いて登りながら、夫は私が神社へ向かったことに気づくだろうか、と心配になる。いや、きっと彼が帰宅する前には家に戻れるに違いない。皿が割れて散乱していたダイニングの様子を思い起こし、彼が帰って来る前に掃除をして夕ご飯を用意しておかなくては、と考えた。

 

前を横町のお婆ちゃんが歳に似合わず健脚ですたすた石段を登って行く。お元気ですね、と声を掛けると、振り向いた顔は蒼白で、その時初めて私は厭な予感がした。凄い津波が来る、とお婆ちゃんは顔を引き攣らせた。ビッグウェイブ。彼と一緒に観に行ったサーフィンの映画を、その時なぜか思い浮かべた。

 

小さい頃はサーファーになりたかったんだ、と彼が教えてくれたことがある。彼はこの町の出身で、私が働いていた茨城の高速道路のインターチェンジにある食堂によく顔を出した。茶髪の若い男は笑顔が爽やかで、ひょろりと細いくせに大食いだった。この茶髪は海灼けなんだ、と彼は照れ臭そうに微笑した。

 

両親が既に亡くなっているという打ち明け話をしてもらった頃から、彼の存在が気になり出した。私は父を昔に亡くし、母とは彼女の再婚以来関係がぎくしゃくしたままだ。高校を卒業し食堂で勤め始めてからは、忙しいから、と生まれ育った街に戻ることも稀で、新たな故郷を探していた折に、彼に出逢った。

 

あの日、石段を登り切ると神社の境内に町の人々が集まり眉をひそめて喋っていた。向かいに住むヤマコシ夫人を見つけて話しかけようとした時だった。怒涛のような音が迫り、境内の痩せた雑木の合間から海が見えたのだ。家の屋根や塀、車や船、あらゆる残骸を物凄い勢いで運んでいる黒ずんだ激流だった。


あまりの光景に私は言葉を喪った。それは陽を受けて煌めく碧いビッグウェイブなどではなくて、土砂のごとき色の死の匂いが漂う怖しい奔流だ。誰かの悲鳴が聴こえ、一瞬激流がこの神社を呑み込むのではと恐怖に慄き、どうやらこの高台を避けて平地を襲うらしい津波をやり過ごせたことに束の間安堵した。

 

アツコ。ふと名前を呼ばれたような気がして思わず振り向いたが、誰もいない。雑木林の梢から鳥が飛び立った気配があった。濁流に眼を向け直した途端に、呼びかけたのは彼だったことに突然気づき、心臓が凍りついた。私の名を呼ぶ優しい声は夫以外の誰かであるはずがなく、あの声は、彼の声に違いない。

 

まさか、と思いつつもナップサックから携帯電話を取り出し、彼の番号を再び押す。電話はやはり繋がらない。回線が切れているのだから、と自分を納得させようとするのだけれど、彼の声を聴けないことが急に不安になった。もしかして、と津波がもたらした黒い濁流のような不安が胸の中で渦巻きはじめる。

 

騒がしく話し合っている人声が奇妙に霞んで聴こえる。繋がらない電話を耳に当てたまま、私は胸の裡で祈る。早く電話に出て安心させてちょうだい。声だけでもいいから聴かせてちょうだい。彼は毎晩、今から帰るよ、と電話をかけてくれる人だった。運送会社のオフィスがあるのは隣街でここより海岸に近い。

 

濁流が引き始めても、また津波が来るかもしれない、と皆は神社に留まることにした。余震らしく、踏み締めている大地が時おり思い出したように大きく揺れる。津波が町に残した残骸に驚愕と悲嘆の声を上げている人々に背を向けて、私は鄙びた神社に手を合わせた。どうか早く彼の顔を見て安心させて下さい。

 

アツコ。先ほどの声がまだ耳許で弱々しく木霊している。前の職場ではアッコと呼ばれていた私を、きちんとアツコと呼んでくれた最初の男。眼を瞑って神様に祈りながら、私は彼に尋ねる。いったい今、何処にいるの?どうか無事で早く帰って来て。私のことは心配しないで。みんなで神社に避難しています。


そろそろ大丈夫じゃないか、と誰かが言ったらしく、皆で山を降りることになった。そうでなくとも私は日暮れまでには絶対に家へ帰ろうと決めていた。慌てて飛び出したので書き置きを残すのも忘れており、もしかしたら彼はもう戻って来て、心配しているかもしれない。早く彼に逢いたくて、私は駆ける。

 

町道には土砂や家具や家の一部らしき材木、ひっくり返された車までが残されており、まるでテレビや映画に出て来る焼き払われた戦場か竜巻の後を想起させた。現実の光景とは納得できないままに、私は憑かれたように瓦礫の隙間を探して歩を進め、いったい家はどうなったのだろうか、と不安に苛まれた。

 

夕刻が迫っているので空は薄暗くなっており、津波に洗われて汚くなってはいるが残っているどの家にも灯りが点いていないことに初めて気づいた。どうやら町全域が停電しているらしい。流されて来た大きなソファーを乗り越えながら、これでは車で通勤している彼が戻って来られないのでは、と心配になる。

 

角を曲がるとアパートが見えて来て、私は家が流されていないことにほっと安堵した。アパートの脇にも瓦礫がうず高く積もっており、二階のユニットを借りた幸運に思わず感謝する。彼は戻って来ているだろうか。私は無我夢中で駆け出し、道を塞いでいた木材の何かに躓きながらも一目散に家を目指した。

 

遼クン!声を振り絞りながら二階への階段を駆け上がる。渡り廊下にまで土砂が残っている。扉を勢い良く開けると、玄関も半分ほど水浸し。灯りが消え薄暗い我が家を覗いた途端に氷のように冷たい戦慄が全身を駆け抜けた。彼は、いない。ダイニングと畳の間しかない狭い家は、死んだように静かだった。

 

きっとこの土砂と瓦礫で帰れなくなっているのだ、と私は自分に言い聞かせる。ベランダへ通じるガラス戸から薄い西日が射し込んでおり、後少しすれば完全に闇に呑み込まれるであろうことがわかった。懐中電灯は彼の車のトランクの中。クリスマスに買ったキャンドルが残っていることをふと思い起こした。



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