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観とは何か(止観と定慧)

  観は、言ってみれば思索を超えた思索である。ただし、それは通常の思索ではない。観は、世間的・学究的な思索とは違うものだからである。

 たとえば、音と一口に言っても、いわゆる音と声に分けられるであろう。さらに声には情報を伝達することを目的とした言葉と、さらに情緒を伝える詩や歌がある。観もまたそのようである。通常の思索が「これは何か?」を追求する知的考研の一手段であるのに対して、観は「真実の真相は何か?」を追求する究極の思索方法なのである。

 ところで、観は本来”止観”と表記すべきものである。なんとなれば、観は単独では存在せず、観ある時には止(シャマタ)があり、止ある時には観(ヴィパサナー)があるからである。そして、観を実践する結果、最終段階では止は定に関連づけられるものとなり、観は智慧に関連づけられるものとなる。つまり、観(=止観)とは定慧を完成する道に他ならない。

 定慧を完成したとき諸仏の智慧が出現する。諸仏の智慧とは、無量の智慧がおさめられた智慧の蔵である。たとえば定慧の慧が一つの赤色だとするならば、智慧の蔵は無数の赤色全体にあたる。赤色の何たるかを知らなかった人でも、一つの赤色を知ることによってすべての赤色が認識できるようになるであろう。それと同じく、定慧によって一つの智慧を完成したとき、無量の智慧を同時に獲得することになるのである。この意味では、観は智慧の蔵に人を導く道だとも言えよう。

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観の対象

 観は、真実の真相を知るための方法である。また、観は思索を超えた思索である。──と言うが、具体的には何を対象として、どのように行えばよいのであろうか? それについて述べたい。

 そもそも、修行者が知るべき真実とは何であるかが対象として明らかでないと観を行ないようがないであろう。まず、これについて説明したい。

 修行者が知るべき真実とは、ずばり「苦」である。苦の本質を識ることによって苦を滅することができる。これが仏道の本道であり、メカニズムとしての法(ダルマ)そのものである。

 『苦の本質など分かり切っている。』 人々はそう言うであろう。しかしながら、実際には人々は苦の本質を知らずにいる。それどころか苦に安住しているのである。つまり、人々は苦を離れることがなく、苦から脱れようともしない。それどころか、まるで好むように苦を甘受している。そして苦を甘受するだけでなく、それによって自身を次の苦の輪廻へと結んで果てしがない。本人は知らずにいるが、これが人々(衆生)の現実のすがたである。

 もちろん、人々は苦が何かということを体験としては知っている。苦を味わえば苦しいからである。しかしながら、それは苦であって本当の苦ではない。本当の苦は安楽のすがたをもって人々を粉砕してしまうものだからである。

 苦は意外なところにある。驚くべきことに、苦は楽しいことの中にあり、それどころか楽しいことそのものが実は苦の本体である。たとえば、おそろしい毒が無味無臭どころか美味で香りよいようなものである。賢者でなければこの毒を脱れることは難しい。

 さて、観の対象が苦であることまでは了知したこととしよう。それでもまだ観を実行するには足りないであろう。苦がどこにあり、どのような特性を持っているかを知らなければ、見つけようがないからである。それについて述べよう。

 結論を言えば、苦は衆生の中にあり、その特性は歓喜である。歓喜があるゆえに衆生は苦をつくり出し、苦を感受しているのである。

 そこで、「衆生とは何か?」について思索することが観の具体的な実践方法と言うことになる。そうして、真の衆生を観た人は仏を観る。そのとき、解脱は起こるのである。

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観の一般的な注意

 観は、真実の真相を知るための方法である。そこで真実の真相を知りたい修行者は観を実行するであろう。しかしながら、その実行したものが正しく観になるとは限らない。と言うのは、修行者にとって自分が実行しているものが正しい観であるのか、あるいはそうではないのかを確認する術がないからである。

 このため、ともすると観ではないものを観であると見なし考え、本来辿り着く筈の真実の真相に到達せず、他の誤った結論に行き着いてしまうことがあり得る。その最たるものが道の袋小路たる不毛の境涯であり、また魔境である。

 道の袋小路には二つある。一つは無所有処であり、もう一つは非想非非想処である。これらは言ってみれば覚りに似て非なるものであり、人がこれらの境涯に陥るとその住み心地の良さゆえにそれを覚りだと誤って見なしてしまう怖れがある。もしそのようになってしまうと、真の覚りをさらに求める気持ちを起こすことは難しいであろう。それでこれらを道の袋小路と言うのである。

 さて、もう一つの誤った結論が魔境である。魔境とは麻薬を打ったようなものである。魔境に陥ると感覚的な心地よさを感受すると言う。それで瞑想(メディテーション)の深みに入ってしまい、無駄に時間を過ごすだけでなく解脱そのものから遠のいて行くこととなる。あるいはまた、魔境に陥ると神通力に似たものが出現したりする。遠くのことが分かったり、微細なものを察知したり、未来が見えたりする。しかしながら、それらは幻覚であり悪魔のしわざに過ぎず、ニルヴァーナに役立たない。

 どうすればこれらの誤った結論に行き着かずに済むのだろう。それは修行者の心構えの正しさに尽きると言えよう。心構えの正しさとは聖求のことである。聖求ある人は、ニルヴァーナの真実をこころに察知して、ニルヴァーナならざる境涯を誤ってニルヴァーナであると見なすことはないからである。聖求ある人は、ニルヴァーナに到達するまで道の歩みを決して止めない。それで仮に誤った境涯に陥ることがあっても抜け出すことができるのである。

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公案の意義および最後の一関の提示

 公案は、ある程度まで観の代用品となるものであるが、代用品はどこまで行っても代用品に過ぎない。まして、公案で覚りに近づき、至ることができるなどと考えてはならない。精神統一をしたいのに、精神集中で代用するようなものである。円を描きたいのに、多角形で代用するようなものである。根本的に、まるで本質を欠いた行為なのである。

 ただし、公案を解く過程においてそれが観になる場合がある。公案が観に化けたのではない。公案を解いているつもりで、実は観を実践してしまったのである。この場合に限り、公案は観を援用するものとして働いたと認められる。

 このようなことが起こるのは、取り組んだ公案がまるで曖昧な表現を持ち、しかもより本質的なものだったからである。そのような公案として(久松真一氏の)基本的公案が挙げられる。すなわち、

 『どうしてもいけなければどうするか

を公案とするのである。そして、これは世に存するあらゆる公案の、最後の一関であると認められるものである。

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SRKWブッダの公案

 以下に、SRKWブッダの公案を提示する。

1) 苦い薬の(準)公案

 『苦い薬があったとき、その苦さも薬効であると考えなければならない。苦ければ苦いほど薬効も高い。

 ヒント: 人はなぜ薬を飲むのであるか? もし薬が苦くなかったらどうなるか? 味も、匂いも、色も、飲みやすさも良好な薬が良薬に違いないのであろうが、しかしそれではその良薬は良薬とはならない。薬を飲む病人の気持ち(ひいては人というものの気持ち)が分かったとき、苦さが薬効の一つであると考えなければならない根底の理由が見える筈である。もちろん、だからといって苦みを薬に恣意的に加えてしまってはこの公案は公案として成立しない。 この(準)公案を通過したとき、修行者は真の修行者になったと認められる。


2) そろばんの(準)公案

 『江戸時代の話。 幕府にそろばんの名人を登用することになった。その登用試験を切れ者で知られる老中が行うことになった。幕府の面々が居並ぶ中に進み出たそろばんの名人。老中は、厳かに試験問題を出した。その問題とは何か? そろばん名人はどう対応したか? 試験の合否は? その根拠は? それを示せ。

 ヒント: 苦い薬の(準)公案 の延長上にある(準)公案。普通の人と、名人との決定的な違いについて述べよ...と言っているのである。試験問題を出した老中も、おそらくはそろばんのたしなみがあるのであろう。彼はそろばんがどのような計算器であるか熟知した上で見事な問題を出しています。居並ぶ幕府の面々からは、その問題が提示されたとき一瞬どよめきが起きたが、最後は一同納得の結末となる。 この(準)公案を通過したとき、修行者は決して道を踏み外すことがなくなったと認められる。


3) 一円の公案

 『もし人にお金を与えるならば、一円が最もすぐれている。これはなぜであるか?

 ヒント: ヒント無し。この公案を通過すれば、初期の心解脱を認めます。


4) 医師と患者の公案

 『癌患者が手術を受けることになった。彼は、この手術が成功すれば生きながらえることができると信じ、それにも増してその医師を信じていた。手術が始まったが、開腹してみるととても手術できる状態ではなかった。医師は何もせずにそのまま閉じた。数時間後麻酔が覚めた患者は、医師の顔を見て安堵の表情を浮かべ、言う。 「私は助かったのですね!」 そのとき、医師は何と言うか? 患者はそれにどう答えるか? さらに二人はどのような会話をして、その後どうなるか? 答えてみよ。

 ヒント: そのとき、一人の悪人ともう一人の極悪人を生じるが、同時にかれらは二人の善人に転じる。善悪の軛を超克する公案。この公案の通過者は、悪魔とその軍勢を撃破・殲滅して、この世で恐れるものは無くなる。心解脱の完成の一歩手前にいることを認めます。なお、この公案は、衆生を外に完成させることの意味を理解することに役立つ。そして、この衆生を外に完成させるとは、維摩経に言う「へつらわない衆生」のことである。実際に、衆生を外に完成させることができたならば、智慧が現れ、修行者は観の完成を超えて仏となるであろう。


5) (SRKWブッダ版)黒い鏡の公案
 『同じ鏡ならば、一点の光輝もない黒い鏡がこの世で最もすぐれている。相手と自分とがいて、さらにギャラリーの目がある中で、もしも黒い鏡に徹するならばそれが最上の行ないである。このとき、二人の悪人は、そのままにおいて大いなる二人の善人に転じるだろう。それはなぜか?

 ヒント: 医師と患者の公案を一般化したもの。シチュエーションは自分で任意に選んでよい。自分の得意なものをシチュエーションに据えるとよい。ただし、自由度があるだけに公案の答えはある意味では極端に難しくなる。この公案を通過すれば、基本的には心解脱が完成したと考えてよいでしょう。

6) 弟子の覚りについての公案

 『如来は、弟子が覚ることなど何の興味もない。これはどういうことであるか?


 ヒント: 如来とは何者であるか? 如来は、なぜこの世に存在するのか? それが分かれば、この公案は通過できるでしょう。なお、この公案を通過すれば、基本的には心解脱が完成したと考えてよいでしょう。


お知らせ) 自分の回答が正しいかどうか知りたい方は、メールにて受付けます。通過者には、認定証を返信メールにて発行します。
        
     [苦い薬の(準)公案]              [一円の公案]

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経典を読む意義

 この世には、種々さまざまな経典や論典、釈、仏教の解説書などが存在している。これらはすべて釈尊以来の2500年間に作られたものである。初学の者は、その量と質に圧倒されてしまうかも知れない。

 しかしながら、修行者は心配する必要はない。すべての経典は、ただ一つのことを語っているからである。それは次のことである。

  『真実にやさしい人は必ずあなたの身近に現れる それを自ら発見せよ』

 すなわち、時として世に出現する善知識(化身)を見て、その言葉(法の句)を聞いたならば、因縁ある人は直ちに覚ると言うことである。

 経典は、すべてそのことを語っている。経典を読む意義はただそのことに求められる。

 ところが、経典を読むことはそれだけにとどまらず、さらに利益(りやく)があることである。それは、経典を読んでいる時に、ふと解脱が起こるという事実である。経典を理解したことによってその解脱が起こるのではない。経典の記述を理解していなくても、その解脱が起こることがあるのである。私の細君(涼風尊者)は、実際にそのようにして形態(rupa)の解脱(身解脱)を果たして阿羅漢となった。

 これは本当に不可思議なことである。しかしながら、目の前で起こったこの事実を曲げることはできない。それで、経典はただ理法を記した本以上のものであると知られることになる。


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