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[更新履歴]

 2012年01月23日  第1版完成。

 2012年01月24日  2章-観を完成した後に行なうべきこと を拡充した。
 2012年01月31日  章を追加した。 -「念仏」
 2012年02月02日  誤字を訂正した。
 2012年02月03日  付録を追加した。 「生老病死」
 2012年02月12日  4章2節 「SRKWブッダの公案」に認定書イメージを付加。
 2012年02月17日  4章2節 「SRKWブッダの公案」を拡充。──衆生を外に完成すること
 2012年02月17日  付録を追加した。 「衆生を外に完成させることと内に完成させること」
 2012年04月11日  誤字訂正
 2017年11月29日  3章4節 「チャクラおよびナーダ音」の内容を一部改訂。

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はじめに

 この一なる道を歩めば誰もが覚ることができ得る。修行して解脱すれば一切の苦悩を終滅できる。道の目的地たる覚りの境地は無上の楽しみであり、憂いがない。それをニルヴァーナと呼ぶ。

 しかし、実際にその道を見い出すことができず、首尾よく見い出しても目的地に到達できなければどんな素晴らしい境地も絵空事に過ぎない。そこで、そのための具体的な方法が求められる。それが覚りの修行法である。

 ところが、覚りの修行法などと言うべき固定的な方法は存在しておらず、もろもろの如来は正しく遍歴せよと説くだけである。これでは何をどうしてよいか分からないのは無理もないことである。しかしながら、如来の言葉に嘘いつわりはない。固定的な修行法など無いから無いと説くまでである。ただし、ヒントはある。観によって覚りに近づくと説かれるからである。

 本書は、修行法としての『観』についてその詳細を記したものである。私(=SRKWブッダ)の実体験にもとづき、また細君(涼風尊者)の身に起こった一種不可思議なる解脱のありさまにもとづき、この本を書いた。

 観によって覚りに近づき、今世での解脱を果たしたいと願う人は、本書を読むことをお勧めする。因縁があれば、少なくとも心解脱を果たすことができるであろう。さらに功徳を積んでいる修行者は、身解脱も、慧解脱も夢ではない。すべては本人の心構え次第である。

 ただし、邪な心で本書を読めばニルヴァーナに達するどころか地獄行きとなるであろう。正しい道の案内でも、心得違いをする者にとっては役に立たないどころか身を滅ぼす悪魔の説と化してしまうからである。この点に留意してじっくりと読まれることを願う。

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観とは何か(止観と定慧)

  観は、言ってみれば思索を超えた思索である。ただし、それは通常の思索ではない。観は、世間的・学究的な思索とは違うものだからである。

 たとえば、音と一口に言っても、いわゆる音と声に分けられるであろう。さらに声には情報を伝達することを目的とした言葉と、さらに情緒を伝える詩や歌がある。観もまたそのようである。通常の思索が「これは何か?」を追求する知的考研の一手段であるのに対して、観は「真実の真相は何か?」を追求する究極の思索方法なのである。

 ところで、観は本来”止観”と表記すべきものである。なんとなれば、観は単独では存在せず、観ある時には止(シャマタ)があり、止ある時には観(ヴィパサナー)があるからである。そして、観を実践する結果、最終段階では止は定に関連づけられるものとなり、観は智慧に関連づけられるものとなる。つまり、観(=止観)とは定慧を完成する道に他ならない。

 定慧を完成したとき諸仏の智慧が出現する。諸仏の智慧とは、無量の智慧がおさめられた智慧の蔵である。たとえば定慧の慧が一つの赤色だとするならば、智慧の蔵は無数の赤色全体にあたる。赤色の何たるかを知らなかった人でも、一つの赤色を知ることによってすべての赤色が認識できるようになるであろう。それと同じく、定慧によって一つの智慧を完成したとき、無量の智慧を同時に獲得することになるのである。この意味では、観は智慧の蔵に人を導く道だとも言えよう。

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観の対象

 観は、真実の真相を知るための方法である。また、観は思索を超えた思索である。──と言うが、具体的には何を対象として、どのように行えばよいのであろうか? それについて述べたい。

 そもそも、修行者が知るべき真実とは何であるかが対象として明らかでないと観を行ないようがないであろう。まず、これについて説明したい。

 修行者が知るべき真実とは、ずばり「苦」である。苦の本質を識ることによって苦を滅することができる。これが仏道の本道であり、メカニズムとしての法(ダルマ)そのものである。

 『苦の本質など分かり切っている。』 人々はそう言うであろう。しかしながら、実際には人々は苦の本質を知らずにいる。それどころか苦に安住しているのである。つまり、人々は苦を離れることがなく、苦から脱れようともしない。それどころか、まるで好むように苦を甘受している。そして苦を甘受するだけでなく、それによって自身を次の苦の輪廻へと結んで果てしがない。本人は知らずにいるが、これが人々(衆生)の現実のすがたである。

 もちろん、人々は苦が何かということを体験としては知っている。苦を味わえば苦しいからである。しかしながら、それは苦であって本当の苦ではない。本当の苦は安楽のすがたをもって人々を粉砕してしまうものだからである。

 苦は意外なところにある。驚くべきことに、苦は楽しいことの中にあり、それどころか楽しいことそのものが実は苦の本体である。たとえば、おそろしい毒が無味無臭どころか美味で香りよいようなものである。賢者でなければこの毒を脱れることは難しい。

 さて、観の対象が苦であることまでは了知したこととしよう。それでもまだ観を実行するには足りないであろう。苦がどこにあり、どのような特性を持っているかを知らなければ、見つけようがないからである。それについて述べよう。

 結論を言えば、苦は衆生の中にあり、その特性は歓喜である。歓喜があるゆえに衆生は苦をつくり出し、苦を感受しているのである。

 そこで、「衆生とは何か?」について思索することが観の具体的な実践方法と言うことになる。そうして、真の衆生を観た人は仏を観る。そのとき、解脱は起こるのである。

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観の一般的な注意

 観は、真実の真相を知るための方法である。そこで真実の真相を知りたい修行者は観を実行するであろう。しかしながら、その実行したものが正しく観になるとは限らない。と言うのは、修行者にとって自分が実行しているものが正しい観であるのか、あるいはそうではないのかを確認する術がないからである。

 このため、ともすると観ではないものを観であると見なし考え、本来辿り着く筈の真実の真相に到達せず、他の誤った結論に行き着いてしまうことがあり得る。その最たるものが道の袋小路たる不毛の境涯であり、また魔境である。

 道の袋小路には二つある。一つは無所有処であり、もう一つは非想非非想処である。これらは言ってみれば覚りに似て非なるものであり、人がこれらの境涯に陥るとその住み心地の良さゆえにそれを覚りだと誤って見なしてしまう怖れがある。もしそのようになってしまうと、真の覚りをさらに求める気持ちを起こすことは難しいであろう。それでこれらを道の袋小路と言うのである。

 さて、もう一つの誤った結論が魔境である。魔境とは麻薬を打ったようなものである。魔境に陥ると感覚的な心地よさを感受すると言う。それで瞑想(メディテーション)の深みに入ってしまい、無駄に時間を過ごすだけでなく解脱そのものから遠のいて行くこととなる。あるいはまた、魔境に陥ると神通力に似たものが出現したりする。遠くのことが分かったり、微細なものを察知したり、未来が見えたりする。しかしながら、それらは幻覚であり悪魔のしわざに過ぎず、ニルヴァーナに役立たない。

 どうすればこれらの誤った結論に行き着かずに済むのだろう。それは修行者の心構えの正しさに尽きると言えよう。心構えの正しさとは聖求のことである。聖求ある人は、ニルヴァーナの真実をこころに察知して、ニルヴァーナならざる境涯を誤ってニルヴァーナであると見なすことはないからである。聖求ある人は、ニルヴァーナに到達するまで道の歩みを決して止めない。それで仮に誤った境涯に陥ることがあっても抜け出すことができるのである。

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公案の意義および最後の一関の提示

 公案は、ある程度まで観の代用品となるものであるが、代用品はどこまで行っても代用品に過ぎない。まして、公案で覚りに近づき、至ることができるなどと考えてはならない。精神統一をしたいのに、精神集中で代用するようなものである。円を描きたいのに、多角形で代用するようなものである。根本的に、まるで本質を欠いた行為なのである。

 ただし、公案を解く過程においてそれが観になる場合がある。公案が観に化けたのではない。公案を解いているつもりで、実は観を実践してしまったのである。この場合に限り、公案は観を援用するものとして働いたと認められる。

 このようなことが起こるのは、取り組んだ公案がまるで曖昧な表現を持ち、しかもより本質的なものだったからである。そのような公案として(久松真一氏の)基本的公案が挙げられる。すなわち、

 『どうしてもいけなければどうするか

を公案とするのである。そして、これは世に存するあらゆる公案の、最後の一関であると認められるものである。


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