閉じる


<<最初から読む

5 / 21ページ

鋼の男子

 あいつは本当に万能だったから誰も手に負えなかった。
 テストでいい点取ったって、ドッヂボールで最後まで生き残ったって、
 「テツローにはかなわないよ」
 みんな口を揃えてそう言った。サッカー少年団のエースストライカーをしているジョー君だってみんなと同じことを言うのだ。
 その頃、俺はまだ日の浅い転校生だった。他の教室に目を向ける余裕はなく、自分のクラスに馴染むことで精一杯。そうでなくとも視野の狭いガキだった。日々の興味と言えば、灯油漬けにしたカチカチのカー消しゴム、給食のソフトメン、放課後のザリガニ釣り。ちょっと困ってしまうのは、隣の席の意地悪な女の子。テツローって誰だろう。そうは思っても、離れた教室を訪ねてまで、その顔を拝んでやろうという気にはならなかった。
 それでも、度々耳にするテツローの名前。否が応でも気にはなる。みんなの憧れ。女子にとってはアイドルなのかもしれない。勝手な想像を膨らませていると、ついにテツローを目にする機会が訪れた。
 合同体育の授業だ。年に三回、同学年の全児童が集まって運動競技をするのだ。その日は、みんな大好きで、昼休みにも腕を磨いているドッヂボールだった。
 そこで俺はテツローの圧倒的な存在感を知る。体育館には上履きの擦れる音がキュッキュと響き、ボールに合わせてみんな行ったり来たりと駆け回る。テツローは陣地の中央最前線に立ち、自分に向けて飛んできたボールならどんな角度からでも受け取った。そして、すぐさま相手に投げ返す。テツローに挑めば最後。誰もが返り討ちにされた。
 俺は陣地の隅で姑息に逃げ回る。たまにこぼれ玉を拾いあげ、外野へ投げる。外野から当てた方がメリットあるからね。テツローはそんなことお構いなし。そりゃそうだ。自分さえいれば一対一〇でも負けないのだから。
 逃げ回るだけの俺は相手にされない。気付けば最後の一人になっていた。そこで、はじめて視線が向けられた。さらさらした髪。想像していたより色白で華奢な体格。どちらかと言えばハンサムな男だ。そして、俺はまっすぐに飛んでくる速球を受け止めた。
 テツローは投球フォームのままポカンと口を開けている。俺は薄い胸板に痺れを感じながらそのボールをガッチリと捕まえていた。
 予想外の展開に歓声が響きわたった。俺は随分気分が良くなった。そして、いつもならば外野に投げるところを、テツローに向けてへなちょこボールを放ったのだ。
 そのせいもあったろうか。翌年、同じクラスになった俺とテツローは随分親しい間柄になっていた。友達というヤツだ。
 俺の放ったへなちょこボールは、勿論、軽々キャッチされニ投目にしてジ・エンド。力の差は歴然。俺たちの付き合いには何となく上下関係があった。
 同じクラスになってみて、テツローの名前がクラスを越えて知れ渡っている別の、否、本当の理由を知った。勉強もできます。運動もできます。そして、非道なことだって平気でできるのだ。
 そのやり方は、気弱は男子を集団で虐めるような類のものではない。昼休みになれば、カモとなった一人の男子を教室の隅に追いやる。そして、殴る、蹴る。教室にあるものを駆使して、叩く、ぶつける。次々と繰り出される暴力に誰もが唖然とし、泣き叫ぶ男子を見守ることしかできない。
 お前もやれよ。そんなことは言はない。ただ真っ直ぐにターゲットを見つめたまま徹底的に痛めつけた。
 幸いと言っていいものか、俺がターゲットになることはなかった。それは友達だから。放課後になればテツローの家へ招かれた。友達と言ってもいいだろう。
 「いらっしゃぁい」
 テツローの家へ遊びに行くと派手なおばさんが俺を出迎えた。そして、栗毛を揺らしながら満面の笑みでおやつを差し出すのだ。
 「今日はクッキーを焼いてみたのよ。チョコチップでしょ。アールグレイに、メープル」
 テツローはテレビゲームのコントローラーを握ったまま、眉間にしわを寄せる。
 「ママ、いいからそこに置いといてよ」
 おばさんは顔を歪めて舌を見せながら部屋を出ていった。
 「食いな。ママのクッキーは旨いよ。俺は食い飽きたけど」
 テツローはブラウン管を見入ったままクッキーを勧めた。ひたすらレベルアップに励むゲーム画面を横目に、俺は随分と甘ったるいクッキーを噛んだ。
 そして、学校に行けばその日のターゲットを痛めつける。
 テツローは俺たちの周りでは珍しくラグビークラブに所属していた。歳を重ねるにつれて腕力もついてくる。学校は黙ってはいられない。保護者会だって黙っちゃいない。
 やがて学校に居づらくなったのだろう。テツローは卒業を待たずに引っ越していった。とは言え、自転車で行けるほどの隣町だ。学区が変わって転校したが、俺たちの友達関係はもう少しだけ続いた。
 その頃、俺はジョー君と同じサッカー少年団に所属していた。ある日、俺とテツローはサッカーボールでリフティングを競い合っていた。俺は頑張って一四回。テツローはなんとか二〇回。
 サッカーを習いはじめた俺は悔しかったのだろう。
 「ジョー君は50回できるらしいよ」
 俺は負け惜しみのように言った。一息の間をおいて、テツローの不機嫌な声が返ってきた。
 「ヒトの自慢してないで、自分の自慢しろよ」
 あいつのキャラクターも重なって、その言葉は俺に強い印象を残した。

そろそろおしまい

 あと一杯だけ飲んだら寝るとしよう。
 湯飲みに湯を七分目、続いてなみなみと焼酎を注ぐ。節電意識から解放されず、暖房は付けずに部屋の中で鼻をすする。両手で湯飲みを包み込めば、熱がジンジン伝わってくる。嗚呼。湯気が鼻をくすぐり、俺は湯飲みを持ち上げゴクリと飲み込む。温かいね。襖の向こうには幼子を寝かしつける女房。額を寄せ合って美しいじゃないの。
 俺はもう一口焼酎を含む。続いて、湯飲みを握った両手の親指を突き立てると、おもむろに鼻の穴に突っ込んだ。勿論、両の鼻だよ。焼酎を飲み込むか、吐き出すか。さもないと俺は窒息してしまう。段々と苦しくなってくるのを耐えながら、襖の向こうに思いを馳せる。朝になって母子が目を覚ますと、両の鼻に親指をつっこんだまま親父が死んでいる。
 それはとてもみっともなくて、申し訳ないね。俺は親指を引き抜いて鼻で大きく息を吸う。続いて焼酎を飲み込んだ。
 夜な夜な勝手に目を覚まして一人ダイニング。暖房も付けずに一人ダイニング。侘びしい気分に浸っていたい夜。今、俺は楽しんでいるんだよ。
 なんて、楽しいもんかい。ちっとも楽しかないよ。
 茶箪笥のお菓子籠には柿ピーがあったはずだ。そう思いながらも手を付けようか悩んでいる。あまり夜遅く菓子など食うものではない。時計を見上げれば直に四時。夜中と言うより早朝に近いか。かと言って、このまま夜が明けるまで起きているつもりはない。飲み続けていては朝からの運転に支障をきたす。酒を飲んだなら一度は寝た方がいい。逆に言えば、一度眠りさえすれば朝からの運転も問題ではない。
 「問題ない ような気がする 俺ルール」
 不意に浮かんだ五七五を口にしてみた。
 もう一度眠るとなれば、やはり菓子を食わない方が得策だ。寝る前に食い過ぎるなと昔から言われてきた気がする。誰に?女房か母親か産業医か。忘れた。どうあれ、眠る前に取り込んだ糖質はクチャクチャと音を立てながら脂肪へと合成されていく。そんな気がするのだ。俺はもう一度口ずさむ。
 「問題ない ような気もする 俺ルール」
 そうと決まれば、あまり眠る直前にならない方がいい。善は急げ。否、悪だろうが急ぐに越したことはない。結局、俺は小分けにされた柿ピーの小袋に手をかけ、茶碗に開けた。
 ぬるくなった焼酎を一口すすり、ピーナッツを一粒摘み上げる。
 「なんと!これで六.五キロカロリー」
 いつだかどこかで聞いたことがある。四〇粒でご飯一杯。「なんと!」と前置きされても、無難な数値のように思えてリアクションに困った。それでも、ピーナッツ=高カロリーとインプットされている。あまり噛み砕かなければ消化、吸収を妨げるだろうか。そんな素人発想で、奥歯で荒く挽いただけのピーナッツを焼酎で流し込んだ。
 両手でピーナッツをつまみ上げて、テーブルに両肘をつく。目の前には二粒の豆。こみ上げる衝動。ジャストフィットなんだから♪頭を巡る陽水の独特な声。俺は一口焼酎を含むと歌にあわせて両の鼻にピーナッツを突っ込んだ。
 段々と苦しくなってくるのを耐えながら、襖の向こうに思いを馳せる。朝になって母子が目を覚ますと、ピーナッツを鼻につっこんだまま親父が死んでいる。
 それはとてもみっともなくて、救いがたいね。俺はピーナッツを抜き取ろうと鼻に指を突っ込んだ。すると、案の定ピーナッツは鼻の奥地へ。俺は狼狽。反対の鼻に無理矢理親指と人差し指を突っ込んで、なんとかピーナッツの胚芽を捕まえる。しかし、抜き取れたのは胚芽のみ。嗚呼、死が迫る。
 「ピーナッツの胚芽って身体に悪いらしいよ」
 いい加減なことを言って、いちいち引っこ抜いていたあいつ。まるごと鼻に突っ込んだ方がはるかに死に近いわ。俺は気が遠くなり、酔いも相俟ってい、あ、なんかいい感じ。

 不意に反射神経が発動。くしゃみとともに焼酎を噴霧。両の鼻からピーナッツ発射。俺は咽せ返り、夜のダイニングで悶える。疲れ切った女房はタダでは起きないが、驚いた幼子が泣き声をあげて寝室から飛び出した。
 俺は四つん這いになって、目は充血、涎を垂らした酷い顔で我が子を見上げた。
 「だあじょうぶ」
 途端に絶句。それでも勇敢な我が子はこんなにも酷いなりした親父のもとへ駆け寄ってくる。俺はその小さな身体を両手で包み込んだ。何より温かい発熱体。冷え切った俺の身体が癒やされていく。
 「さあ、寝よ寝よ」
 俺は息を整え、幼子を抱えて立ち上がる。そして、ダイニングの明かりを消して寝室へ戻っていった。布団へと潜り込むと、俺の冷たい腕に抱かれた幼子はすぐに眠りについた。
 俺は思う。水を飲んでから寝ないと朝が辛いよな。女房より先に起きて掃除をせねばな。次第に熱が全身へ伝播する。嗚呼、温かい。そして、俺は眠りについた。


コーヒー通

 ここのパスタ屋、コーヒーが美味いんだよ。あそこのコーヒー屋、コーヒーはいまいちだけどパンが美味いね。俺はコーヒー通。なんてことはない。ないない。それでもちょっとだけ言わせてもらう。
 美味いコーヒーは苦くない。美味いコーヒーは香ばしい。パンが美味いあそこのコーヒー屋、ちょっとばかり湯を足してくれれば俺は満足だよ。コーヒーの湯割り。苦いコーヒーは美味くない。いつまでも口にまとわりつくヤツなんて最低だよ。それでもコーヒー飲むならブラック派。お砂糖とミルクは?いらんです。
 実家のお袋さまもやたらとコーヒーを飲んでいた。豆からいれる立派なものではない。それでも少しは奮発して、例の上質を知る人向けインスタントコーヒー。カフェオレ押しの銘柄よりは確かに香ばしいね。だから俺も家では例のコーヒー。
 出勤前にはコンビニエンスストアに立ち寄る。購入する缶コーヒーの銘柄も決めている。これは唯一香ばしいんですよ。会社の後輩からそう聞いた。ボトル缶のキャップをひねれば確かに香る。あれって香料なんですよ。また別の後輩からそう聞いた。ウチの嫁さんが香料会社で働いてるんですよね。随分とハイカラなこと。それにしてもコーヒーにコーヒー香料とは酷いもんだ。なんでもコーヒーの香味は熱とともに飛んでしまうのだとか。ならば仕方がないと、いつもの缶コーヒーを嗜む。嗚呼、このコーヒーは香ばしいね。でも、この香りは香料なんだよね。
 外出先では仕事の合間にコーヒー屋。
 「マグカップでいいですか?」
 いいよいいよ。効果があると思えないけれど、ECOへの貢献は気分がいいじゃない。俺は通りに面した窓辺のカウンターに腰を下ろす。そして、次の用件までの間、PCを開いてのらくらメールのチェックをする。いつでも仕事は山積している。それでも今できることは限られる。終わりの見えない課題の山に重圧を感じながらも、日々の大半はのらりくらり。
 多くのメールは目を通してすぐ削除。中には、大した用件ではないのに、手間ばかりかかる依頼。俺はコーヒーを啜る間もなく作業をこなす。
 ガラスの向こうでキュルキュルとタイヤを擦る音が響いた。顔をあげれば、交差点で車体を大きく傾けたワンボックス。そのまま転倒して店に突っ込んでくるのでは。そんな不安に駆られ俺は仰け反った。ワンボックスの右折で加速は禁止です。
 面倒なPC作業をこなして、ようやくメール添付で送信した。マグカップのコーヒーはすっかり冷めた。湯気と一緒に香味も消えた。スーツの袖をめくれば、そろそろ移動の時間だ。紙コップでもらうべきだったと後悔先に立たず。
 鞄にPCをしまって立ち上がる。そして、腰に手をあてて冷めたコーヒーを呷った。途端、俺は顔をしかめる。嗚呼、苦い。
 ドント・トラスト・オーバー・サーティー♪
 店に流れる歌のワンフレーズを俺の耳が拾い上げた。ヒッピー・ムーブメントの中で反体制指導者が使いはじめたメッセージだ。響きがいいもんだから誰もが乱用する。軽薄なバックトラックに乗せて、三〇過ぎのオッサンがカタカナ語で歌っていた。
 今月、俺は三五になった。

ひょんな女

 ひょんなことから女と二人、バーカウンターで肩を並べている。

 「最近、猪木に殴られたい男の気持ちがなんとなく分かるわ」

 女はグラスを置いて、自分の頬を軽くニ、三度張った。

 実際、ひょんなことと言うほど予期せぬ展開でここに至ったわけではない。ニ時間前には出会い目的のパーティーで、お互い溢れていたのだ。知り合って間もないこの女の発言の方がよほど想定外だ。

 「なんか、あった?」

 「なんか」と「あった?」の間には、「嫌なこと」とか、「辛いこと」とか、どちらかと言えばネガティブな言葉が入る。嬉しいことがあったわけでは無かろう。しかし、なるべく限定的な問いかけは避けたい。そう思ったのは、やはりその発言があまりに突飛だったからだ。

 「なんとかネーゼとか言うなじゃない」

 ほら来た。そこからどうして俺の問いかけに対する答えに至るのか。

 「シロガネーゼとか?」

 「そんなのもあったわね」

 ほかになにがあるだろうか。

 「マヨネーズ?」

 女はグラスを持ち上げて氷を鳴らす。俺の声が聞こえなかったわけではあるまい。

 「マヨ」

 もう一度言い掛けて躊躇う。女は中年男のようにグラスの揺すり、氷は忙しなく音を立てた。

 「ネーゼって、イタリア語のヒトやモノの属性を示す接尾語だよ」

 少しは知性を示せたろうか。しかし、女の反応はない。薄い知識をひけらかす男を内心で嘲笑したろうか。俺は少々不安になる。

 「英語でいうとジャパニーズのニーズだね」

 「ああ」

 あまり賢い女ではないのかもしれない。因みにフランス語だとネーズ。だからマヨネーズね。マヨの語原は諸説あるようだよ。話すべきか、控えるべきか。

 人生一度きり、やろうかやるまいか悩んだらやってみることだ。人生を達観したある男の助言を思い出す。

 「マヨネーズ」

 再び切り出して、やはり飲み込む。同時に女が呟いたからだ。

 「やってられネーゼ」

 「え」

 俺は目を丸めた。鼻の穴をおっ広げ、口を尖らせ、耳を疑った。女は俺の顔を見ることなく話を続けた。

 「自分は誰にも認められていない。自分には秀でたものが何もない。そんな気がして何もかもやる気がしない。そういう人種がいるらしいのよ」

 ああ、なんとかネーゼね。

 俺は一息ついてから、二、三度頷いた。カウンターバーを選んだのは正解だった。テーブルで向かい合っていたら、今頃、毛穴まで全開にした珍妙な顔をさらす羽目になっていた。

 「でもね」

 女は豊かな髪を揺らしながら俺に向き合った。咄嗟に穴という穴を閉じる。アルコールでリラックスした穏やかな表情は、なんというか、美しい。見とれていると、女は眉を持ち上げ、少女のような眼差しをくれる。俺は唇をかみしめて首を振った。

 「なんでもない」

 そう言ったのは女のほうだ。何かを言い掛けてやっぱり止めたというような口振り。俺は視線を合わせたまま首を傾げ、その先を促す。

 「なんでもないわ」

 猪木に殴られたい男の気持ちがなんとなく分かる。そこに至った女の心理がちっとも見えてこない。俺は酒の力で少し気が大きくなっていたようだ。すっかり氷の溶けたウィスキーグラスを干し、攻勢に出た。

 「俺が殴ってやろうか?」

 拳を握って下顎を突き出す。するとどうだろう。女はきつく目を瞑って首を伸ばすではないか。それは殴って下さいと言わんばかり。次々に繰り出される想定外に俺は身動きがとれない。咄嗟に浮かんだのは、バブル期に見たトレンディードラマのワンシーンだった。女の頬を張っておいて、いきなり抱きしめるなり「好きだ」。あれね。

 女はなおも目を閉じている。俺は下顎を引っ込めて、拳を広げた。再びあの男の助言が浮かぶ。そして、俺は大きく振りかぶった。

 待てよ。

 そこで俺はあることに気付いた。彼女は俺に闘魂ビンタを求めているのだ。ひっぱたいておいて「好きだ」はないだろう。猪木は何と言う?ひっぱたいた後に何と言う?俺には格闘趣味がなかった。猪木に関する情報は乏しい。今すぐスマホを取り出してWikipediaしたいところだが、そんなことをしてる間に女は目を開けてしまうだろう。

 ばっしょん

 不意に親父臭い嚔が響いたかと思えば、目の前の女が口元を押さえている。そして、ごめんなさいと言いながらハンドバックからハンカチを取り出した。戦慄が走った。嚔が出そうで目を閉じただけだ。俺は危うく嚔待ちの女に闘魂を注入するところだったのだ。

 右手を挙げたままの俺に、女は怪訝な表情を浮かべた。俺はそのまま垂直に手を伸ばす。

 「はいっ」

 「なに?」

 「因みに言わせていただくと、フランス語ではネーズだね。だからマヨネーズだね。マヨの語原は諸説あるよ。地名だったり、人名だったり、フランス語の卵黄モヨォが訛ったんだとかね。日本のクイズ番組じゃ複数解答ありの問題で裁判沙汰にもなってたね。それから、マヨネーズと言えば忘れちゃならないのがキユーピーだっ」

 女のリアクションは極めて薄い。それでも俺は必死になってマヨネーズに関する知識を語り続けた。そして、俺は願った。今すぐ猪木が現れて、首が千切れるくらいの激しいビンタが繰り出されることを、切に願った。


天紙を折る

 基本的にアルバイトというものが好きだ。無心になって作業をこなす。それが労働と評価され賃金になる。頭も使わず、重ねた時間によって体得した技術で目の前のものをひたすらこなしていると、単に時間を金に換えているような感覚になる。時間を売って金に換え、残された時間を過ごすための資金とする。悪くない。
 和食レストランでアルバイトをしていたことがある。キッチンスタッフだ。和食のキッチンとは、なんとなく違和感がある。厨房というのも何処となく洋風だ。台所?厨(くりや)?とはいえ、所詮、外食チェーンの和食レストランだ。キッチンスタッフでいいだろう。その中で、一番好きだった仕事といえば、寿司を握ることでも、天ぷらを揚げることでもない。皿洗いも捨てがたいが、何よりも天紙を折ることだ。天紙。天ぷら敷紙。
 天ぷらは手付きの籠に盛られて出されていた。その籠には必ず天紙が敷かれ、簡単ながらも必要分を決められた形に折っておく必要があった。鶴だの白鳥だのと凝った形に折るわけではない。弔事用の折り方にならないように気をつけて、右上にずらしながら半分に折るだけである。
 繰り返し折り続けていると、すべてがほぼ同じ角度に折れるようになる。天紙職人として生きていけるのではないかと思えたほどだ。勿論そんな職業はない。大学を出たばかりの間抜けな店長だって、そんなことを評価してくれるわけがない。
 天紙を折っていられる時間は一日のアルバイトのうち、僅か一〇分程度である。自給九〇〇円で換算すると一五〇円分だ。それでも、六時間のアルバイトのうち、その一〇分が何よりも楽しみだった。無心になって一〇分を浪費する。長い長い六時間のうち、その一〇分だけはタイムマシンに跨ったかのようにあっという間に過ぎてゆく。
 無心になって天ぷらを揚げ、無心になって寿司を握れば、あっというまに六時間を浪費できそうなものだが、そうはいかない。空腹のお客様が待っている。高い食材を無駄にはできない。基本的に気が弱いのだ。間違いが許されないという圧力を背負っているのだ。
 真っ白な天紙に向かっている時だけ、圧力から解放される。時間を飛び越える。もし、この世に天紙職人なる職業があって、それに従じていたなら、きっと解放されないのだろう。全て同じ角度で折られた天紙を待っているクライアントを思うと、圧力に潰され、弱気になるのだ。
 基本的にアルバイトというものが好きだ。無心になって作業をこなす。そんな時間を少しでも見いだし、時間を金に換えた時、なんと言おうか、とても安らかな気持ちで身銭を得ることができるのだ。


読者登録

puzzzleさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について