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今日の結論

 半年切らずに伸びきった髪をかきあげ、週末になればほったらかしの無精髭を撫でる。
 「イメージ。イメージ。イメージが大切だ」
 想像の力は意志の力の二乗に比例する。
 かつての恩人に教わったエミール・クーエの自己暗示。そいつを思いだしながらブルーハーツを口ずさむ。
 俺のしていることは大人めいたことなのだろうか。みんな色々なことをよく知っているね。よく実践しているね。俺はつくづく感心してしまう。おまえに、おまえに、おまえだよ。それに対して俺はどうなのか。いつも心配している。そして、口ずさむ。
 「イメージ。イメージ。イメージが大切だ。 中身がなくてもイメージがあればいいよ」
 あれはきっと前向きな自己暗示ではない。俺のような愚か者を皮肉った歌なのだ。でも、いいよ。中身がなくてもイメージがあればいい。愚かな心に平穏が訪れるなら、それでいいよ。
 できることなら窓辺に横たわって尻でも掻いて暮していたいのだ。如何にして尻を掻いて暮らすか。年間計画を立てよう。まったく馬鹿げている。だから、俺は思い描く。温かい日差しを浴びながら優雅に尻を掻く俺。高級車はいらない。大型テレビもいらない。たまの焼き肉だって我慢するよ。贅沢なんて一つも望んじゃいない。他人様に迷惑をかけようなんて企んじゃいない。只只、俺は窓辺に横たわり、西日を浴びながら黄金色に輝く。タイの坊さんみたいに暖色の袈裟でもあればいい。そんなものはないからブランケットくるまる。
 顎を撫でれば髭。太陽を浴びながら暮らす俺に髭は似合わない。長い髪も要らない。寒さに震えるヒッピーさんではないのだ。俺は洗面所に立って髭剃りを握った。ハンドソープを口の周りに広げて、三枚刃を撫で回す。しばらく替え刃を買い置きしていないものだから、案の定、顎を傷つけた。プックリと血の液的が浮かび上がり、俺は千切ったティシュペーパーを張り付けた。
 続いて、部屋の真ん中に何枚もの新聞紙を敷き詰める。服を全て脱ぎ捨てて冷たい新聞紙の上に胡座をかいた。ハサミを持ち上げて後頭部にあてると露わになった下腹部が見苦しい。トランクスだけは履いておくことにした。
 再びハサミを持ち上げた。布地の裁断バサミだ。普段から裁縫をするわけではないが、実家の母が服を縫っていたから馴染みがある。幼少の頃、勝手に拝借してダンボール紙やナイロン弦などを裁断してはよく叱られたものだ。文房具としてのあたえられるハサミに比べるとはるかによく切れる。一人で暮らするようになって、すぐに自分専用の裁断バサミを購入した。こうして散髪に使用するとは思いもしなかった。
 思い切って乱切りにする。髪の束を掴んでは根本からハサミを通す。どうせ全て切り落とすのだ。その課程などどうでもいい。櫛を通す必要もない。鏡も要らない。束を掴んで切り落とす。乱切り、乱切り、乱乱乱♪
 粗方切り落として、俺は毛にまみれる。思いの外、白いものが多くて驚かされた。その場に立ち上がり、身体を揺すって毛を落とす。両手で全身を叩きながら激しく頭を振る。乱心、乱心、乱乱乱♪
 足の裏に張り付いた毛を左右交互にはたきながら再び洗面所へ向かう。鏡に映った自分と対峙し、目を見開く。アバンギャルドなベリーショートウルフ。切りそこなった長髪が幾本も飛び出し、死に損ないの田舎侍を髣髴させた。乾いた笑い声を響かせ、飛び出した毛を順番に引き抜いていった。口元を歪め、眉を顰め、奥歯を食いしばり、涙を浮かべる。最後の一本を引き抜くと、瞼に溜った滴がこぼれ落ちた。
 飛び出した毛を引き抜くと、途端に現代的だわね。ウルフというよりはハイエナだ。最近急激に痩せはじめて頬も痩けた。そんな俺に似つかわしいスタイルだよ。目を見開く。
 「現代的だわね♪」
 ハンドソープで頭を泡立て、縦横無尽に髭剃りを滑らせていった。ジョリージョリッと音を立て、髭剃りにまとわりつく毛を洗面器に振り落とす。ジョリージョリッと音を立て、髭剃りにまとわりつく毛を洗面器に振り落とす。何度も繰り返し、時折、鋭い痛みが走る。頭の上には次々と真っ赤な液滴がプックリと生じ、ファンキーな大仏のようになる。最後、眉に刃をあてる。ひと思いに剃り落とそうという直前で躊躇った。
 俺はひげ剃りを置いた。続いて、パンツを脱ぎ捨て風呂場に入る。熱いシャワーを浴びて全身に張り付いた毛を洗い流した。シャンプーに手を伸ばし、やはり石鹸に持ち替える。両手にたくさんの泡をホイップし、首から上を一緒くたに泡立てた。もう一度、熱いシャワーを浴びて風呂をでる。

 新しい下着を身につけて、もう一度、太陽でも浴びようかと思えばすっかり日は暮れていた。つけっぱなしのテレビには磯野家の群像劇。俺の心臓は高鳴りはじめる。
 嫌な予感ははじめからしていた。無敵の結末を夢見てなんだい。俺は明日に怯えている。

宍戸ギビング・ツリー

 居酒屋のカウンターで肩を並べた宍戸は、いつものようにクチャクチャと牛スジを噛みながら一冊の本を取りだした。
 「この本を知っているか?」
 俺はジョッキを下ろし、居酒屋には不釣り合いな絵本を手に取った。どこかで見たような鮮やかな緑の表紙、そこには英語で表題が記されていた。

 

 THE GIVING TREE
 by Shel Silverstein
 BILINGUAL EDITION ENGLISH/JAPANESE

 

 「おおきな木だっけ?」
 「よく知ってるな」
 「割と有名な本じゃないか?どこで見たんだっけな。学級文庫か」
 「なつかしいね。学級うんこ」
 宍戸は口の中に人差し指を突っ込んで頬を引っ張る。
 「俺も見覚えがあったんだ。児童書コーナーを物色していたら目についてよ。村上訳だっていうからミーハー心も擽られたね。で、手に取ったら最後。年甲斐もなく涙だよ」
 涙しながらレジに並ぶのは憚り、そそくさ書店を後にしたが、どうにも気になる。家に帰ってWeb検索すれば、各国語に翻訳されたものの他、バイリンガル版も手に入ることを知った。この程度の英語ならば原作のまま読んでみるのも悪くない。そこで、絶版となっているバイリンガル版を中古で注文することにした。
 読者レビューを見てみれば、あらまぁ、賛否両論。あの木は健気すぎる。少年は我が儘すぎる。そして、どこか腑に落ちないハッピーエンド。確かに子供に読ませたいかと言えば、疑問符が浮かぶ。
 「それでも俺は本屋で泣いたんだよな」
 「おまえにはいい話だったんだな」
 「おまえはどうだった?」
 「ガキの頃だからな。覚えてないよ。泣いた記憶もないけど、悪い印象もないね」
 「煮え切らんヤツだな」
 「小学生が絵本に持つ印象なんてそんなもんだろ」
 カウンターに毛むくじゃらの太い腕が伸び、追加の牛すじ煮込みが差し出された。俺は絵本をめくりながらチビチビとビールを啜る。宍戸はそれを覗き見ながらすじ肉を摘んだ。
 「そいつを読み直した時は、さすがに泣けなかったな」
 「村上訳のほうが良かったのか?」
 「内容が分かってたからだろう。バイリンガルってのもよくないね。英語と日本語の読み比べなんかして変に頭使っちまう」
 続いて、宍戸は仕入れたばかりの蘊蓄を語り出した。
 「涙ってのは、本来、目玉の動きをスムーズにさせたり、細菌感染を防いだりするために、涙腺から漏れ出す血液らしいよ。赤血球なんかが除かれて透明になるんだと。元々、血なんだってよ」
 「へぇ。赤血球を除いてくれて良かったよ」
 「でなきゃオカルトだ。おまえんとこの息子君よく泣くもんな」
 「いい加減に名前くらい覚えろ」
 「しかし、泣けたからっていい本とは限らないようだ。感情が高ぶると自律神経のうち交感神経が働く。そうなるとバランスをとるためにもう一方の副交感神経が優位になる。平常心を取り戻そうとするんだな。この副交感神経が涙のトリガーらしい。つまり、俺はあの本にひどく興奮したんだよ」

 宍戸はすじ肉を持ち上げた。脂身が間接照明を浴びてテラテラ輝く。
 「何度食ってもここの牛すじ煮込みは旨い。俺はこれを食うためにつまらぬアルバイトに励んでいるんだ。でも、食いながら泣いたことはないね」
 マスターは朗らかな笑みを浮かべたまま口元を歪めた。
 「すんませんね。発言に遠慮がないヤツで」
 「レビュアーの反論も分かるが、実際、俺は興奮したんだよね。いいもんに出会ったなぁってさ。でも、強制的に読まされたら嫌な気するかもね。例えば、思春期になった小僧が、親父の本棚からエロ本をあさっているうちに、たまたまこの本に出会っちまった。なんてシチュエーションがベストだね」
 「エロ本探してた小僧が、絵本に興奮するか?」
 「例えばだ」 
 本を閉じると、裏表紙には不機嫌なヒールレスラーかと見紛う肖像写真。本人だろうか。
 「この写真、要らないよな」
 俺は宍戸と顔を見合わせ、大きく頷く。スキンヘッドにラウンド髭。一見、恵比寿顔のマスターに似ているが、その表情はまるで対照的なヒール。絵本に載せる写真として何故これを選んだのか。理解に苦しむ。
 「村上訳にはその写真がなかったはずだ。あったら忘れないだろう。子供向けの絵本と考えれば、あの写真をなくしたのは正解だ。でも、こいつを見てしまった以上、無いのは寂しいね」
 俺は曖昧に頷いた。
 ところで、さっきからどうしても気になることがある。
 「一つ聞いていいか?」
 「なんだ?」
 「なんでおまえは子供の本など探していたんだ?」
 宍戸は一度マスターと目を合わせ、そして俺に向き直る。
 「どうやら、親父になるらしい」
 どうりで。おおきな木に興奮するわけだ。俺は年甲斐もなく涙を浮かべた。


鋼の男子

 あいつは本当に万能だったから誰も手に負えなかった。
 テストでいい点取ったって、ドッヂボールで最後まで生き残ったって、
 「テツローにはかなわないよ」
 みんな口を揃えてそう言った。サッカー少年団のエースストライカーをしているジョー君だってみんなと同じことを言うのだ。
 その頃、俺はまだ日の浅い転校生だった。他の教室に目を向ける余裕はなく、自分のクラスに馴染むことで精一杯。そうでなくとも視野の狭いガキだった。日々の興味と言えば、灯油漬けにしたカチカチのカー消しゴム、給食のソフトメン、放課後のザリガニ釣り。ちょっと困ってしまうのは、隣の席の意地悪な女の子。テツローって誰だろう。そうは思っても、離れた教室を訪ねてまで、その顔を拝んでやろうという気にはならなかった。
 それでも、度々耳にするテツローの名前。否が応でも気にはなる。みんなの憧れ。女子にとってはアイドルなのかもしれない。勝手な想像を膨らませていると、ついにテツローを目にする機会が訪れた。
 合同体育の授業だ。年に三回、同学年の全児童が集まって運動競技をするのだ。その日は、みんな大好きで、昼休みにも腕を磨いているドッヂボールだった。
 そこで俺はテツローの圧倒的な存在感を知る。体育館には上履きの擦れる音がキュッキュと響き、ボールに合わせてみんな行ったり来たりと駆け回る。テツローは陣地の中央最前線に立ち、自分に向けて飛んできたボールならどんな角度からでも受け取った。そして、すぐさま相手に投げ返す。テツローに挑めば最後。誰もが返り討ちにされた。
 俺は陣地の隅で姑息に逃げ回る。たまにこぼれ玉を拾いあげ、外野へ投げる。外野から当てた方がメリットあるからね。テツローはそんなことお構いなし。そりゃそうだ。自分さえいれば一対一〇でも負けないのだから。
 逃げ回るだけの俺は相手にされない。気付けば最後の一人になっていた。そこで、はじめて視線が向けられた。さらさらした髪。想像していたより色白で華奢な体格。どちらかと言えばハンサムな男だ。そして、俺はまっすぐに飛んでくる速球を受け止めた。
 テツローは投球フォームのままポカンと口を開けている。俺は薄い胸板に痺れを感じながらそのボールをガッチリと捕まえていた。
 予想外の展開に歓声が響きわたった。俺は随分気分が良くなった。そして、いつもならば外野に投げるところを、テツローに向けてへなちょこボールを放ったのだ。
 そのせいもあったろうか。翌年、同じクラスになった俺とテツローは随分親しい間柄になっていた。友達というヤツだ。
 俺の放ったへなちょこボールは、勿論、軽々キャッチされニ投目にしてジ・エンド。力の差は歴然。俺たちの付き合いには何となく上下関係があった。
 同じクラスになってみて、テツローの名前がクラスを越えて知れ渡っている別の、否、本当の理由を知った。勉強もできます。運動もできます。そして、非道なことだって平気でできるのだ。
 そのやり方は、気弱は男子を集団で虐めるような類のものではない。昼休みになれば、カモとなった一人の男子を教室の隅に追いやる。そして、殴る、蹴る。教室にあるものを駆使して、叩く、ぶつける。次々と繰り出される暴力に誰もが唖然とし、泣き叫ぶ男子を見守ることしかできない。
 お前もやれよ。そんなことは言はない。ただ真っ直ぐにターゲットを見つめたまま徹底的に痛めつけた。
 幸いと言っていいものか、俺がターゲットになることはなかった。それは友達だから。放課後になればテツローの家へ招かれた。友達と言ってもいいだろう。
 「いらっしゃぁい」
 テツローの家へ遊びに行くと派手なおばさんが俺を出迎えた。そして、栗毛を揺らしながら満面の笑みでおやつを差し出すのだ。
 「今日はクッキーを焼いてみたのよ。チョコチップでしょ。アールグレイに、メープル」
 テツローはテレビゲームのコントローラーを握ったまま、眉間にしわを寄せる。
 「ママ、いいからそこに置いといてよ」
 おばさんは顔を歪めて舌を見せながら部屋を出ていった。
 「食いな。ママのクッキーは旨いよ。俺は食い飽きたけど」
 テツローはブラウン管を見入ったままクッキーを勧めた。ひたすらレベルアップに励むゲーム画面を横目に、俺は随分と甘ったるいクッキーを噛んだ。
 そして、学校に行けばその日のターゲットを痛めつける。
 テツローは俺たちの周りでは珍しくラグビークラブに所属していた。歳を重ねるにつれて腕力もついてくる。学校は黙ってはいられない。保護者会だって黙っちゃいない。
 やがて学校に居づらくなったのだろう。テツローは卒業を待たずに引っ越していった。とは言え、自転車で行けるほどの隣町だ。学区が変わって転校したが、俺たちの友達関係はもう少しだけ続いた。
 その頃、俺はジョー君と同じサッカー少年団に所属していた。ある日、俺とテツローはサッカーボールでリフティングを競い合っていた。俺は頑張って一四回。テツローはなんとか二〇回。
 サッカーを習いはじめた俺は悔しかったのだろう。
 「ジョー君は50回できるらしいよ」
 俺は負け惜しみのように言った。一息の間をおいて、テツローの不機嫌な声が返ってきた。
 「ヒトの自慢してないで、自分の自慢しろよ」
 あいつのキャラクターも重なって、その言葉は俺に強い印象を残した。

そろそろおしまい

 あと一杯だけ飲んだら寝るとしよう。
 湯飲みに湯を七分目、続いてなみなみと焼酎を注ぐ。節電意識から解放されず、暖房は付けずに部屋の中で鼻をすする。両手で湯飲みを包み込めば、熱がジンジン伝わってくる。嗚呼。湯気が鼻をくすぐり、俺は湯飲みを持ち上げゴクリと飲み込む。温かいね。襖の向こうには幼子を寝かしつける女房。額を寄せ合って美しいじゃないの。
 俺はもう一口焼酎を含む。続いて、湯飲みを握った両手の親指を突き立てると、おもむろに鼻の穴に突っ込んだ。勿論、両の鼻だよ。焼酎を飲み込むか、吐き出すか。さもないと俺は窒息してしまう。段々と苦しくなってくるのを耐えながら、襖の向こうに思いを馳せる。朝になって母子が目を覚ますと、両の鼻に親指をつっこんだまま親父が死んでいる。
 それはとてもみっともなくて、申し訳ないね。俺は親指を引き抜いて鼻で大きく息を吸う。続いて焼酎を飲み込んだ。
 夜な夜な勝手に目を覚まして一人ダイニング。暖房も付けずに一人ダイニング。侘びしい気分に浸っていたい夜。今、俺は楽しんでいるんだよ。
 なんて、楽しいもんかい。ちっとも楽しかないよ。
 茶箪笥のお菓子籠には柿ピーがあったはずだ。そう思いながらも手を付けようか悩んでいる。あまり夜遅く菓子など食うものではない。時計を見上げれば直に四時。夜中と言うより早朝に近いか。かと言って、このまま夜が明けるまで起きているつもりはない。飲み続けていては朝からの運転に支障をきたす。酒を飲んだなら一度は寝た方がいい。逆に言えば、一度眠りさえすれば朝からの運転も問題ではない。
 「問題ない ような気がする 俺ルール」
 不意に浮かんだ五七五を口にしてみた。
 もう一度眠るとなれば、やはり菓子を食わない方が得策だ。寝る前に食い過ぎるなと昔から言われてきた気がする。誰に?女房か母親か産業医か。忘れた。どうあれ、眠る前に取り込んだ糖質はクチャクチャと音を立てながら脂肪へと合成されていく。そんな気がするのだ。俺はもう一度口ずさむ。
 「問題ない ような気もする 俺ルール」
 そうと決まれば、あまり眠る直前にならない方がいい。善は急げ。否、悪だろうが急ぐに越したことはない。結局、俺は小分けにされた柿ピーの小袋に手をかけ、茶碗に開けた。
 ぬるくなった焼酎を一口すすり、ピーナッツを一粒摘み上げる。
 「なんと!これで六.五キロカロリー」
 いつだかどこかで聞いたことがある。四〇粒でご飯一杯。「なんと!」と前置きされても、無難な数値のように思えてリアクションに困った。それでも、ピーナッツ=高カロリーとインプットされている。あまり噛み砕かなければ消化、吸収を妨げるだろうか。そんな素人発想で、奥歯で荒く挽いただけのピーナッツを焼酎で流し込んだ。
 両手でピーナッツをつまみ上げて、テーブルに両肘をつく。目の前には二粒の豆。こみ上げる衝動。ジャストフィットなんだから♪頭を巡る陽水の独特な声。俺は一口焼酎を含むと歌にあわせて両の鼻にピーナッツを突っ込んだ。
 段々と苦しくなってくるのを耐えながら、襖の向こうに思いを馳せる。朝になって母子が目を覚ますと、ピーナッツを鼻につっこんだまま親父が死んでいる。
 それはとてもみっともなくて、救いがたいね。俺はピーナッツを抜き取ろうと鼻に指を突っ込んだ。すると、案の定ピーナッツは鼻の奥地へ。俺は狼狽。反対の鼻に無理矢理親指と人差し指を突っ込んで、なんとかピーナッツの胚芽を捕まえる。しかし、抜き取れたのは胚芽のみ。嗚呼、死が迫る。
 「ピーナッツの胚芽って身体に悪いらしいよ」
 いい加減なことを言って、いちいち引っこ抜いていたあいつ。まるごと鼻に突っ込んだ方がはるかに死に近いわ。俺は気が遠くなり、酔いも相俟ってい、あ、なんかいい感じ。

 不意に反射神経が発動。くしゃみとともに焼酎を噴霧。両の鼻からピーナッツ発射。俺は咽せ返り、夜のダイニングで悶える。疲れ切った女房はタダでは起きないが、驚いた幼子が泣き声をあげて寝室から飛び出した。
 俺は四つん這いになって、目は充血、涎を垂らした酷い顔で我が子を見上げた。
 「だあじょうぶ」
 途端に絶句。それでも勇敢な我が子はこんなにも酷いなりした親父のもとへ駆け寄ってくる。俺はその小さな身体を両手で包み込んだ。何より温かい発熱体。冷え切った俺の身体が癒やされていく。
 「さあ、寝よ寝よ」
 俺は息を整え、幼子を抱えて立ち上がる。そして、ダイニングの明かりを消して寝室へ戻っていった。布団へと潜り込むと、俺の冷たい腕に抱かれた幼子はすぐに眠りについた。
 俺は思う。水を飲んでから寝ないと朝が辛いよな。女房より先に起きて掃除をせねばな。次第に熱が全身へ伝播する。嗚呼、温かい。そして、俺は眠りについた。


コーヒー通

 ここのパスタ屋、コーヒーが美味いんだよ。あそこのコーヒー屋、コーヒーはいまいちだけどパンが美味いね。俺はコーヒー通。なんてことはない。ないない。それでもちょっとだけ言わせてもらう。
 美味いコーヒーは苦くない。美味いコーヒーは香ばしい。パンが美味いあそこのコーヒー屋、ちょっとばかり湯を足してくれれば俺は満足だよ。コーヒーの湯割り。苦いコーヒーは美味くない。いつまでも口にまとわりつくヤツなんて最低だよ。それでもコーヒー飲むならブラック派。お砂糖とミルクは?いらんです。
 実家のお袋さまもやたらとコーヒーを飲んでいた。豆からいれる立派なものではない。それでも少しは奮発して、例の上質を知る人向けインスタントコーヒー。カフェオレ押しの銘柄よりは確かに香ばしいね。だから俺も家では例のコーヒー。
 出勤前にはコンビニエンスストアに立ち寄る。購入する缶コーヒーの銘柄も決めている。これは唯一香ばしいんですよ。会社の後輩からそう聞いた。ボトル缶のキャップをひねれば確かに香る。あれって香料なんですよ。また別の後輩からそう聞いた。ウチの嫁さんが香料会社で働いてるんですよね。随分とハイカラなこと。それにしてもコーヒーにコーヒー香料とは酷いもんだ。なんでもコーヒーの香味は熱とともに飛んでしまうのだとか。ならば仕方がないと、いつもの缶コーヒーを嗜む。嗚呼、このコーヒーは香ばしいね。でも、この香りは香料なんだよね。
 外出先では仕事の合間にコーヒー屋。
 「マグカップでいいですか?」
 いいよいいよ。効果があると思えないけれど、ECOへの貢献は気分がいいじゃない。俺は通りに面した窓辺のカウンターに腰を下ろす。そして、次の用件までの間、PCを開いてのらくらメールのチェックをする。いつでも仕事は山積している。それでも今できることは限られる。終わりの見えない課題の山に重圧を感じながらも、日々の大半はのらりくらり。
 多くのメールは目を通してすぐ削除。中には、大した用件ではないのに、手間ばかりかかる依頼。俺はコーヒーを啜る間もなく作業をこなす。
 ガラスの向こうでキュルキュルとタイヤを擦る音が響いた。顔をあげれば、交差点で車体を大きく傾けたワンボックス。そのまま転倒して店に突っ込んでくるのでは。そんな不安に駆られ俺は仰け反った。ワンボックスの右折で加速は禁止です。
 面倒なPC作業をこなして、ようやくメール添付で送信した。マグカップのコーヒーはすっかり冷めた。湯気と一緒に香味も消えた。スーツの袖をめくれば、そろそろ移動の時間だ。紙コップでもらうべきだったと後悔先に立たず。
 鞄にPCをしまって立ち上がる。そして、腰に手をあてて冷めたコーヒーを呷った。途端、俺は顔をしかめる。嗚呼、苦い。
 ドント・トラスト・オーバー・サーティー♪
 店に流れる歌のワンフレーズを俺の耳が拾い上げた。ヒッピー・ムーブメントの中で反体制指導者が使いはじめたメッセージだ。響きがいいもんだから誰もが乱用する。軽薄なバックトラックに乗せて、三〇過ぎのオッサンがカタカナ語で歌っていた。
 今月、俺は三五になった。


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