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真っ黒けっけ

 360度真っ黒な世界。さて、どうしたらいいものか。
 足の裏には地面の感触。両手をフラフラと漂わせてみるけれど、天井も壁も無いようだ。何も見えない。何も聞こえない。何も臭わない。感覚をなくしたのか。何もないのか。
 意識ならばはっきりしとている。嗚呼、不安。確かに俺はここにいる。両手をヒラヒラと顔に寄せてみるけれど、目の前の両手が見えない。もっと寄せてみれば頬を張った。両手を顔にあてて指先を蠢かす。今朝剃った髭の痕。干からびた唇。飛び出した鼻毛。
 水をすくうように手を丸くして鼻先に寄せる。臭わない。手で作った器に息を吹きかける。ハァと吹きかければ熱く湿った空気。フゥだと冷たいのにハァは温かい。温度を感じる。湿度を感じる。もう一度大きくハァと吐けば、むせかえるほど酷い口臭がした。涙を流して何度も咳をする。臭う。聞こえる。膝に手を付いて腿を叩く。嗚呼、聞こえる。俺の感覚に問題はない。真っ黒けっけの世界で光以外は正常に感知している。
 辺りはどうだ。どうなってんだ。息を整えて耳を澄ます。鼻先をクンクンさせる。両手をヒラヒラさせる。何もない。小股になって少しずつ歩き出す。ジリジリ歩く。行けども行けども何もない。不安に潰されそうになる。ならば潰れてしまえと地面にしゃがみ込む。両手にはつるつると大理石のような冷たい感触。不安を押さえ込むのは身体に悪い。もっと潰れてしまえ。大理石にうつ伏せる。背中にはまだ不安感。捩りながら転がりながら次々に体表面をひずませる。身体中の触覚が発動され、いくらか安心感を覚える。
 もう一度立ち上がり、ジリジリと歩く。耳を澄ませて、鼻先をクンクンさせて、両手をヒラヒラさせてジリジリと歩く。嫌なイメージが浮かんだ。恒星の光が届かない宇宙の孤島。大理石の球体。俺のほか何もない小惑星。
 いつからこんなことになったのか。陽の光も、日常のせわしなさも覚えている。憂鬱が鬱病を呼び、不安が不安病を呼ぶ。何もない小惑星のほうが随分と気が楽だ。何せ何もない。いくらか気が大きく歩幅も大きくなった。このまま空腹に耐えられなくなるまで散歩を続けようか。やがて倒れて意識がなくなるまで歩こうか。消えてしまうのはちょっと怖い。けれども俺は希望の言葉を知っている。
 「無からの創生。その確率はゼロにはならない」
 宇宙誕生の合い言葉。そいつを唱えながらグルグル歩く。すると何かに躓いた。俺は宇宙の片隅で舌打ちを響かせた。

黄色い線の外側で

 予め言っておくが、ことの半分は妄想だよ。
 新卒で入社してから、幾度も部署移動を繰り返してきた。その都度一から仕事を教わるものだから、いつでも新人気分が抜けきれない。最近になって中堅と言われていることに随分驚いた。
 俺が本当に新人だった頃、五年も経った社員となれば気軽に声をかけられない程のベテランだった。今の俺はどうだろう。どうなんだ。
 意識すると変に力が入る。会議では慎重に言葉を選び、以前のように思いつきで発言することは避けるようになった。頭の中ではアイデアが浮かぶのに、結局、声にすることなく会議を終えてしまう。
 何を考えようが発信がなければ意味がない。重々承知しているが、思うようにテンポがつかめない。発言のタイミングが分からない。そして、また冴えない一日を過ごしてしまう。
 沈んだ気分で駅のホームに立つと、酔っぱらいが寝転んでいた。黄色い線の外側で大声であげている。ホームには駅員がおらず、電車を待つ誰もが知らぬ顔をしていた。
 触らぬ神に祟りなし。黙って通り過ぎようとしたところ、タイミング悪く通過電車のアナウンスが流れた。途端に取り巻きの視線が集る。
 そいつをどうにかしろ。
 無言の訴えに気の弱い俺は素通りできない。溜息をついて、男の肩に手を伸ばした。
 「危ないっすよ」
 二、三度叩いてみると、くたくたになったウインドウブレーカーは湿っぽい。酒でできあがった恰幅のいい男は、一見すると若そうだが、覗き込むとそうでもない。三〇前後か。デブの年齢は分かりにくい。
 湿った指先を擦り合わせて眉間に皺をよせた。男は俺のことなど意に介さず、なおも喚き声を上げている。携帯電話を握りしめて、どうやら話し相手がいるようだ。こんなに表現型の派手なヤツだ。俺の存在に気づいていないはずがない。
 「お前のせいで、こんなに惨めな思いをしてんだぞ」
 相手は女か。酒と罵声と男と女。他人が割り込むには最悪のシチュエーションだ。
 プワーンと大きな警笛を響かせながら列車が近づいてきた。このまま蹴り落としてやりたい思いを押し殺し、俺は湿っぽい襟首を掴んだ。そして、あらん限りの力で男を黄色い線の内側へと引きずり入れる。列車は轟音とともに通り過ぎていった。
 残響に顔を顰めると、男はトドのような格好で俺を見上げていた。
 「あんた、いいヤツだな」
 そりゃもう、自分でも嫌になるほど。
 埴輪みたいに腑抜けた顔して、列車に飛び込んでやろうなどという気概はまったく感じられない。誰も手を出さなくたって何も起こらなかっただろう。無駄なことをして面倒に巻き込まれる。そりゃもう、嫌になるほどいいヤツだよ。
 「おい、お前のせいで、迷惑かけちまったじゃねぇか」
 トド男はなおも携帯電話に怒鳴り散らす。一刻も早くこの場を去りたいところだが、目の前にトド男が立ちはだかる。大げさな身振りで喚くものだから後ずさるほかない。
 「お前のせいだろ。全部、お前だよ」
 俺が責められているのかと、思わずトド男に目を向けるが、トド男は視線を交わすことなく、携帯電話に怒鳴り続ける。本当は誰にもつながっていないのではないか。
 立ちはだかるトド男に往生していると、再びアナウンスが流れた。そして、反対ホームに列車がやってくると、たった今まで傍観者だった男女の一団が騒ぎはじめた。
 そこで俺は唖然とした。一人の男が駆け寄って来たかと思えば、突然、地面を蹴って飛び上がる。そして、その靴底でトド男の顎を捕らえたのだ。香港映画で見るような見事な飛び蹴りだった。不意打ちを食らったトド男はよろめいて尻餅をついた。
 飛び蹴り男は華麗に着地する。続いて、何をする気か。期待半分に眺めていると、一団とともに列車へ逃げ込んでいった。

 「てめぇ、なにしやがんだ」
 トド男の怒号も、今回に限っては納得である。発車のベルが鳴り響き、列車のドアが閉まろうとしている。一団の笑い声が重なり、男は勝ち誇ったように中指を突き立てた。その姿を見た瞬間、俺の理性をつなぎ止めていた何かが弾けた。考えるより先に閉まりかけた列車のドアに踏み込んでいた。
 ドアは俺の膝を挟んで止まった。俺はその隙間から腕を突っ込み、戯ける男の襟首を掴まえた。
 「なんですか」
 「なんだろね」
 俺は掴んだ拳をきつく結ぶ。そして、男を引きずり出そうと一気に引っ張った。細身な男ではあったが足一本分の隙間は通れないようだ。激しくドアに打ち付けられて顔を歪めた。女の悲鳴が心地よく鼓膜を振るわす。俺はもう一度男を引いた。どうにか引きずり出そうと試みるが、やはり男はドアに打ち付けられる。無理あるか。そして、もう一度。
 「なにやってんのよ」
 一人の女が駆け寄ってきた。俺はその勇敢さに敬意を表して勢いよく男を差し出す。男の後頭部が女の鼻を砕き、甲高い声とともに崩れ落ちた。
 「嗚呼、君は女の子になんてことをするんだい」
 歪に膨れた男の顔に問いかけた。女の子はいつだって綺麗でいたい。鼻血なんて以ての外。俺はドアに挟まれた膝に男を振り下ろし、その顎を砕いた。正義感だよ。
 ようやくドアが開き、随分と顔が変形した男を引きずり出した。
 「もっと早く開けばよかったね」
 男の返事はない。ドアはすぐに閉まり、鼻血を流す女と群がる一団を乗せたまま走り去った。トド男は濁った瞳をキラキラさせながら立ちあがり、ゆっくりと歩み寄った。
 「あんた、サイコーだな」
 誉められて悪い気はしない。トド男はホームに転がる男をつま先でつついた。
 「生きてんのか?」
 男はグゥと声を漏らす。すると、トド男は思いのほかしなやかに足を振り上げ、強烈なシュートを見舞った。男は仰向けにひっくり返り、再びグゥと鳴く。顎の砕けた顔が露わになると、それがどうにも可笑しかったようで、喉をひきつらせながら何度も顔を蹴りつけた。
 再び列車のアナウンスが流れた。
 「その辺にしておけ」
 俺はトド男の湿った肩を掴んだ。
 「なんでだよ」
 「列車が来る」
 「だからなんだよ」
 「放り込めばいいじゃないの」
 トド男は再び埴輪顔になる。俺は溜息しか出ない。
 「どこまでも世話焼かせんなよ」
 俺は転がる男の襟首をつかんで持ち上げると、そいつをトド男に突きつけた。トド男は崩壊した顔面から目を背けながらダンスでもするように男を抱きかかえた。もう間近まで列車が近づいてきている。トド男は口元に薄い笑いを浮かべて、俺の顔を窺った。
 「いいじゃん」
 俺は優しく微笑み返す。
 トド男はレールを削る列車へ視線を運び、ヘッドライトに目を細めた。そして、再び俺に向き直ると声を裏返した。
 「いかれてんじゃねぇよ」
 俺は眉間に力を込め、靴底で二人を押した。
 列車はプワーンと大げさな汽笛をあげながら通過した。

 実際のところを言えば、跳び蹴り男は腹を抱えて笑いながら一団とともに列車に揺られていった。その後始末に、どれだけ苦労したことか。
 激怒したトド男に、俺はクレーム対応マニュアルをに準じて、まずは耳を傾けることに徹した。すると、出鼻から想定外の事態が起きた。もう一人の酔っぱらいが現れ、トド男に説教しはじめたのだ。
 「酔っぱらって当たり散らすんじぇねぇ。本当に怒るんなら酒が抜けてからにしろ」
 白髪混じりの髭を伸ばした爺さんは、七人のコビトのどれかに似ていた。酒の苦しみを何度も乗り越えてきたような貫禄を見せつけ、トド男を一瞬に説き伏せた。しかし、どうやらトド男の怒りの対象が俺であると勘違いしていたようだ。時折、俺を指さし、眉間に深い皺を寄せるのだった。
 「師匠と呼ばせてください」
 いったい何に共感したのか、トド男は爺さんの足元でひざまずき、聞き分けのいい犬のように、背筋をシャンと伸ばした。そして、酔っぱらい特有の活劇を展開しはじめるのだった。
 「馬鹿野郎。みっともねぇことするんじゃねぇよ」 
 爺さんは、トド男の頭を叩きつつも、気分よさそうな表情を浮かべている。
 俺はようやく解放されたが、どこか惨めな気分になっていた。トド男から謝罪の言葉でも貰わないと納得がいかない。トド男と爺さんの間に分け入って謝罪を求めるか。そんな億劫なことはしたくないだろう。俺は引き際を失い、酔っぱらい劇場を傍観し続けた。
 やがて、一人の駅員が駆け寄ってきた。
 「どうかしましたかぁ?」
 大して走ってもいないだろうが、ふくよかな体型を揺らし、既に息を切らせている。そして、気のよさそうな表情で俺に頭を下げた。
 「すみません。ご迷惑かけました」
 ようやく救われたような気がして鼻の奥がツンとした。
 何とか家に帰りつき、熱いシャワーで頭をかきむしった。浅い眠りにつくと、酷く暴力的な夢を見た。思いも寄らない残酷な夢だ。その暴力を受けているのは俺でない。与えているのも俺でない。
 翌朝、夢から覚めて呆然とした。しばらく布団から立ち上がることができず、背中に朝日を浴びながら気持ちを落ち着かせた。続いて、畳に転がっている携帯電話に手を伸ばす。そして、アシスタントに半休のメールを打った。


今日の結論

 半年切らずに伸びきった髪をかきあげ、週末になればほったらかしの無精髭を撫でる。
 「イメージ。イメージ。イメージが大切だ」
 想像の力は意志の力の二乗に比例する。
 かつての恩人に教わったエミール・クーエの自己暗示。そいつを思いだしながらブルーハーツを口ずさむ。
 俺のしていることは大人めいたことなのだろうか。みんな色々なことをよく知っているね。よく実践しているね。俺はつくづく感心してしまう。おまえに、おまえに、おまえだよ。それに対して俺はどうなのか。いつも心配している。そして、口ずさむ。
 「イメージ。イメージ。イメージが大切だ。 中身がなくてもイメージがあればいいよ」
 あれはきっと前向きな自己暗示ではない。俺のような愚か者を皮肉った歌なのだ。でも、いいよ。中身がなくてもイメージがあればいい。愚かな心に平穏が訪れるなら、それでいいよ。
 できることなら窓辺に横たわって尻でも掻いて暮していたいのだ。如何にして尻を掻いて暮らすか。年間計画を立てよう。まったく馬鹿げている。だから、俺は思い描く。温かい日差しを浴びながら優雅に尻を掻く俺。高級車はいらない。大型テレビもいらない。たまの焼き肉だって我慢するよ。贅沢なんて一つも望んじゃいない。他人様に迷惑をかけようなんて企んじゃいない。只只、俺は窓辺に横たわり、西日を浴びながら黄金色に輝く。タイの坊さんみたいに暖色の袈裟でもあればいい。そんなものはないからブランケットくるまる。
 顎を撫でれば髭。太陽を浴びながら暮らす俺に髭は似合わない。長い髪も要らない。寒さに震えるヒッピーさんではないのだ。俺は洗面所に立って髭剃りを握った。ハンドソープを口の周りに広げて、三枚刃を撫で回す。しばらく替え刃を買い置きしていないものだから、案の定、顎を傷つけた。プックリと血の液的が浮かび上がり、俺は千切ったティシュペーパーを張り付けた。
 続いて、部屋の真ん中に何枚もの新聞紙を敷き詰める。服を全て脱ぎ捨てて冷たい新聞紙の上に胡座をかいた。ハサミを持ち上げて後頭部にあてると露わになった下腹部が見苦しい。トランクスだけは履いておくことにした。
 再びハサミを持ち上げた。布地の裁断バサミだ。普段から裁縫をするわけではないが、実家の母が服を縫っていたから馴染みがある。幼少の頃、勝手に拝借してダンボール紙やナイロン弦などを裁断してはよく叱られたものだ。文房具としてのあたえられるハサミに比べるとはるかによく切れる。一人で暮らするようになって、すぐに自分専用の裁断バサミを購入した。こうして散髪に使用するとは思いもしなかった。
 思い切って乱切りにする。髪の束を掴んでは根本からハサミを通す。どうせ全て切り落とすのだ。その課程などどうでもいい。櫛を通す必要もない。鏡も要らない。束を掴んで切り落とす。乱切り、乱切り、乱乱乱♪
 粗方切り落として、俺は毛にまみれる。思いの外、白いものが多くて驚かされた。その場に立ち上がり、身体を揺すって毛を落とす。両手で全身を叩きながら激しく頭を振る。乱心、乱心、乱乱乱♪
 足の裏に張り付いた毛を左右交互にはたきながら再び洗面所へ向かう。鏡に映った自分と対峙し、目を見開く。アバンギャルドなベリーショートウルフ。切りそこなった長髪が幾本も飛び出し、死に損ないの田舎侍を髣髴させた。乾いた笑い声を響かせ、飛び出した毛を順番に引き抜いていった。口元を歪め、眉を顰め、奥歯を食いしばり、涙を浮かべる。最後の一本を引き抜くと、瞼に溜った滴がこぼれ落ちた。
 飛び出した毛を引き抜くと、途端に現代的だわね。ウルフというよりはハイエナだ。最近急激に痩せはじめて頬も痩けた。そんな俺に似つかわしいスタイルだよ。目を見開く。
 「現代的だわね♪」
 ハンドソープで頭を泡立て、縦横無尽に髭剃りを滑らせていった。ジョリージョリッと音を立て、髭剃りにまとわりつく毛を洗面器に振り落とす。ジョリージョリッと音を立て、髭剃りにまとわりつく毛を洗面器に振り落とす。何度も繰り返し、時折、鋭い痛みが走る。頭の上には次々と真っ赤な液滴がプックリと生じ、ファンキーな大仏のようになる。最後、眉に刃をあてる。ひと思いに剃り落とそうという直前で躊躇った。
 俺はひげ剃りを置いた。続いて、パンツを脱ぎ捨て風呂場に入る。熱いシャワーを浴びて全身に張り付いた毛を洗い流した。シャンプーに手を伸ばし、やはり石鹸に持ち替える。両手にたくさんの泡をホイップし、首から上を一緒くたに泡立てた。もう一度、熱いシャワーを浴びて風呂をでる。

 新しい下着を身につけて、もう一度、太陽でも浴びようかと思えばすっかり日は暮れていた。つけっぱなしのテレビには磯野家の群像劇。俺の心臓は高鳴りはじめる。
 嫌な予感ははじめからしていた。無敵の結末を夢見てなんだい。俺は明日に怯えている。

宍戸ギビング・ツリー

 居酒屋のカウンターで肩を並べた宍戸は、いつものようにクチャクチャと牛スジを噛みながら一冊の本を取りだした。
 「この本を知っているか?」
 俺はジョッキを下ろし、居酒屋には不釣り合いな絵本を手に取った。どこかで見たような鮮やかな緑の表紙、そこには英語で表題が記されていた。

 

 THE GIVING TREE
 by Shel Silverstein
 BILINGUAL EDITION ENGLISH/JAPANESE

 

 「おおきな木だっけ?」
 「よく知ってるな」
 「割と有名な本じゃないか?どこで見たんだっけな。学級文庫か」
 「なつかしいね。学級うんこ」
 宍戸は口の中に人差し指を突っ込んで頬を引っ張る。
 「俺も見覚えがあったんだ。児童書コーナーを物色していたら目についてよ。村上訳だっていうからミーハー心も擽られたね。で、手に取ったら最後。年甲斐もなく涙だよ」
 涙しながらレジに並ぶのは憚り、そそくさ書店を後にしたが、どうにも気になる。家に帰ってWeb検索すれば、各国語に翻訳されたものの他、バイリンガル版も手に入ることを知った。この程度の英語ならば原作のまま読んでみるのも悪くない。そこで、絶版となっているバイリンガル版を中古で注文することにした。
 読者レビューを見てみれば、あらまぁ、賛否両論。あの木は健気すぎる。少年は我が儘すぎる。そして、どこか腑に落ちないハッピーエンド。確かに子供に読ませたいかと言えば、疑問符が浮かぶ。
 「それでも俺は本屋で泣いたんだよな」
 「おまえにはいい話だったんだな」
 「おまえはどうだった?」
 「ガキの頃だからな。覚えてないよ。泣いた記憶もないけど、悪い印象もないね」
 「煮え切らんヤツだな」
 「小学生が絵本に持つ印象なんてそんなもんだろ」
 カウンターに毛むくじゃらの太い腕が伸び、追加の牛すじ煮込みが差し出された。俺は絵本をめくりながらチビチビとビールを啜る。宍戸はそれを覗き見ながらすじ肉を摘んだ。
 「そいつを読み直した時は、さすがに泣けなかったな」
 「村上訳のほうが良かったのか?」
 「内容が分かってたからだろう。バイリンガルってのもよくないね。英語と日本語の読み比べなんかして変に頭使っちまう」
 続いて、宍戸は仕入れたばかりの蘊蓄を語り出した。
 「涙ってのは、本来、目玉の動きをスムーズにさせたり、細菌感染を防いだりするために、涙腺から漏れ出す血液らしいよ。赤血球なんかが除かれて透明になるんだと。元々、血なんだってよ」
 「へぇ。赤血球を除いてくれて良かったよ」
 「でなきゃオカルトだ。おまえんとこの息子君よく泣くもんな」
 「いい加減に名前くらい覚えろ」
 「しかし、泣けたからっていい本とは限らないようだ。感情が高ぶると自律神経のうち交感神経が働く。そうなるとバランスをとるためにもう一方の副交感神経が優位になる。平常心を取り戻そうとするんだな。この副交感神経が涙のトリガーらしい。つまり、俺はあの本にひどく興奮したんだよ」

 宍戸はすじ肉を持ち上げた。脂身が間接照明を浴びてテラテラ輝く。
 「何度食ってもここの牛すじ煮込みは旨い。俺はこれを食うためにつまらぬアルバイトに励んでいるんだ。でも、食いながら泣いたことはないね」
 マスターは朗らかな笑みを浮かべたまま口元を歪めた。
 「すんませんね。発言に遠慮がないヤツで」
 「レビュアーの反論も分かるが、実際、俺は興奮したんだよね。いいもんに出会ったなぁってさ。でも、強制的に読まされたら嫌な気するかもね。例えば、思春期になった小僧が、親父の本棚からエロ本をあさっているうちに、たまたまこの本に出会っちまった。なんてシチュエーションがベストだね」
 「エロ本探してた小僧が、絵本に興奮するか?」
 「例えばだ」 
 本を閉じると、裏表紙には不機嫌なヒールレスラーかと見紛う肖像写真。本人だろうか。
 「この写真、要らないよな」
 俺は宍戸と顔を見合わせ、大きく頷く。スキンヘッドにラウンド髭。一見、恵比寿顔のマスターに似ているが、その表情はまるで対照的なヒール。絵本に載せる写真として何故これを選んだのか。理解に苦しむ。
 「村上訳にはその写真がなかったはずだ。あったら忘れないだろう。子供向けの絵本と考えれば、あの写真をなくしたのは正解だ。でも、こいつを見てしまった以上、無いのは寂しいね」
 俺は曖昧に頷いた。
 ところで、さっきからどうしても気になることがある。
 「一つ聞いていいか?」
 「なんだ?」
 「なんでおまえは子供の本など探していたんだ?」
 宍戸は一度マスターと目を合わせ、そして俺に向き直る。
 「どうやら、親父になるらしい」
 どうりで。おおきな木に興奮するわけだ。俺は年甲斐もなく涙を浮かべた。


鋼の男子

 あいつは本当に万能だったから誰も手に負えなかった。
 テストでいい点取ったって、ドッヂボールで最後まで生き残ったって、
 「テツローにはかなわないよ」
 みんな口を揃えてそう言った。サッカー少年団のエースストライカーをしているジョー君だってみんなと同じことを言うのだ。
 その頃、俺はまだ日の浅い転校生だった。他の教室に目を向ける余裕はなく、自分のクラスに馴染むことで精一杯。そうでなくとも視野の狭いガキだった。日々の興味と言えば、灯油漬けにしたカチカチのカー消しゴム、給食のソフトメン、放課後のザリガニ釣り。ちょっと困ってしまうのは、隣の席の意地悪な女の子。テツローって誰だろう。そうは思っても、離れた教室を訪ねてまで、その顔を拝んでやろうという気にはならなかった。
 それでも、度々耳にするテツローの名前。否が応でも気にはなる。みんなの憧れ。女子にとってはアイドルなのかもしれない。勝手な想像を膨らませていると、ついにテツローを目にする機会が訪れた。
 合同体育の授業だ。年に三回、同学年の全児童が集まって運動競技をするのだ。その日は、みんな大好きで、昼休みにも腕を磨いているドッヂボールだった。
 そこで俺はテツローの圧倒的な存在感を知る。体育館には上履きの擦れる音がキュッキュと響き、ボールに合わせてみんな行ったり来たりと駆け回る。テツローは陣地の中央最前線に立ち、自分に向けて飛んできたボールならどんな角度からでも受け取った。そして、すぐさま相手に投げ返す。テツローに挑めば最後。誰もが返り討ちにされた。
 俺は陣地の隅で姑息に逃げ回る。たまにこぼれ玉を拾いあげ、外野へ投げる。外野から当てた方がメリットあるからね。テツローはそんなことお構いなし。そりゃそうだ。自分さえいれば一対一〇でも負けないのだから。
 逃げ回るだけの俺は相手にされない。気付けば最後の一人になっていた。そこで、はじめて視線が向けられた。さらさらした髪。想像していたより色白で華奢な体格。どちらかと言えばハンサムな男だ。そして、俺はまっすぐに飛んでくる速球を受け止めた。
 テツローは投球フォームのままポカンと口を開けている。俺は薄い胸板に痺れを感じながらそのボールをガッチリと捕まえていた。
 予想外の展開に歓声が響きわたった。俺は随分気分が良くなった。そして、いつもならば外野に投げるところを、テツローに向けてへなちょこボールを放ったのだ。
 そのせいもあったろうか。翌年、同じクラスになった俺とテツローは随分親しい間柄になっていた。友達というヤツだ。
 俺の放ったへなちょこボールは、勿論、軽々キャッチされニ投目にしてジ・エンド。力の差は歴然。俺たちの付き合いには何となく上下関係があった。
 同じクラスになってみて、テツローの名前がクラスを越えて知れ渡っている別の、否、本当の理由を知った。勉強もできます。運動もできます。そして、非道なことだって平気でできるのだ。
 そのやり方は、気弱は男子を集団で虐めるような類のものではない。昼休みになれば、カモとなった一人の男子を教室の隅に追いやる。そして、殴る、蹴る。教室にあるものを駆使して、叩く、ぶつける。次々と繰り出される暴力に誰もが唖然とし、泣き叫ぶ男子を見守ることしかできない。
 お前もやれよ。そんなことは言はない。ただ真っ直ぐにターゲットを見つめたまま徹底的に痛めつけた。
 幸いと言っていいものか、俺がターゲットになることはなかった。それは友達だから。放課後になればテツローの家へ招かれた。友達と言ってもいいだろう。
 「いらっしゃぁい」
 テツローの家へ遊びに行くと派手なおばさんが俺を出迎えた。そして、栗毛を揺らしながら満面の笑みでおやつを差し出すのだ。
 「今日はクッキーを焼いてみたのよ。チョコチップでしょ。アールグレイに、メープル」
 テツローはテレビゲームのコントローラーを握ったまま、眉間にしわを寄せる。
 「ママ、いいからそこに置いといてよ」
 おばさんは顔を歪めて舌を見せながら部屋を出ていった。
 「食いな。ママのクッキーは旨いよ。俺は食い飽きたけど」
 テツローはブラウン管を見入ったままクッキーを勧めた。ひたすらレベルアップに励むゲーム画面を横目に、俺は随分と甘ったるいクッキーを噛んだ。
 そして、学校に行けばその日のターゲットを痛めつける。
 テツローは俺たちの周りでは珍しくラグビークラブに所属していた。歳を重ねるにつれて腕力もついてくる。学校は黙ってはいられない。保護者会だって黙っちゃいない。
 やがて学校に居づらくなったのだろう。テツローは卒業を待たずに引っ越していった。とは言え、自転車で行けるほどの隣町だ。学区が変わって転校したが、俺たちの友達関係はもう少しだけ続いた。
 その頃、俺はジョー君と同じサッカー少年団に所属していた。ある日、俺とテツローはサッカーボールでリフティングを競い合っていた。俺は頑張って一四回。テツローはなんとか二〇回。
 サッカーを習いはじめた俺は悔しかったのだろう。
 「ジョー君は50回できるらしいよ」
 俺は負け惜しみのように言った。一息の間をおいて、テツローの不機嫌な声が返ってきた。
 「ヒトの自慢してないで、自分の自慢しろよ」
 あいつのキャラクターも重なって、その言葉は俺に強い印象を残した。


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