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余暇を楽しむ

 買い物から戻ってきた女が俺の姿を見て驚いた。
 「3時間前と何も変わってないじゃない」
 喫茶店でコーヒーを嗜む。煙草は吸わないから禁煙席。手にした文庫本はほとんど読み進めてはいない。何もせずに座っているのも阿呆みたいだから文庫本でカモフラージュ。サムという名の猫がプリントされたお気に入りのブックカバーをたまに眺める程度。確かに、彼女の言うように何も変わっていない。
 「暇じゃないの?」
 「余暇を楽しんでいたんだよ」
 「余暇って、余りに暇ってこと??」
 「そうじゃないだろ。束の間の休日だ。サラリーマンは割と大変なの」
 「敷居をまたげば、男には7人の敵がいるっていうからね」
 時折、女は随分と古めかしい言葉を使った。
 「楽しんでるんなら、もうちょっと行ってきていいかしら?」
 「どうぞ。なんか探してんの?」
 「小銭貯金しようかと思ってね。あの女々しい豚の貯金箱が欲しいのよ」
 女々しい豚。その響きにギョッとする。しかし、俺は正確にその貯金箱を思い描いていた。
 「あの睫毛がクリンとした豚のレトロな貯金箱?」
 「そうそうそれそれ。何処にでもありそうなのに、いざ探すとないのよね」
 そう言い残して女は消えた。課題を残していくものだから、俺は飽きることがない。あの睫毛がクリンとした豚のレトロな貯金箱。そいつを端的に言えば確かに女々しい豚の貯金箱だ。言語の目的が情報伝達だというならば、女の言葉は無駄なく機能している。しかし、言語とは伝達手段のためだけに存在するものではないようだ。
 このメスブタが!
 そう言いながら貯金箱に金槌を振り下ろす女を想像する。小銭が溢れ出し、女は嫌らしい笑みを浮かべる。
 俺は大声を上げたくなる衝動を押し殺し、頭をかきむしる。マグカップには冷め切ったコーヒー。一口含んで、ゴクリと喉を鳴らした。
 豚の貯金箱ことピギーバンク。PYGGなる粘土で貯金箱を作るように頼まれた陶器職人が聞き違えてPIGの貯金箱を作ってしまったことがはじまりとか。蚊取り豚と重なって日本発と思いきやヨーロッパが発祥のようだ。形状としての安定感、やがて屠られてしまう切なさ、取り出し口のない陶器の貯金箱と家畜豚は通ずるものがあるように思える。
 途端に女々しい豚が愛おしくなる。俺はゴメンねと目を赤くしながら金槌を振り下ろす女を想像する。そうだ。そうだろ。そうあって欲しいものだ。
 やがて女が帰ってきた。
 「4時間前と何も変わってないじゃない」
 「貯金箱はあったの?」
 女は口を尖らせて首を振った。俺はひどく落胆した。そして、4時間ぶりに尻を持ち上げる。
 「隣駅に大きな雑貨屋があったろう」
 「わざわざ行くの?」
 女は目を丸め、俺は大きくうなずいた。あの女々しい豚を連れて帰らなければ、俺の余暇は完結しない。ように思えたのだ。
 「わざわざ行くよ。俺が貯金箱を買ってやろう」
 「ならば行くわ」
 西日の射す駅のホームに立てば、アナウンスのベルが何処かで聴いた歌謡曲になっていた。
 「あ、ナントカちゃんの歌」
 そう呟いて、すぐに口をつぐむ。おそるおそる女を横目に見れば、案の定、醒めた目で口元に薄い笑みを浮かべている。
 「オ・ヤ・ジ」
 そう言われて、少々喜んでしまう俺がいる。
 敷居をまたげば、男には7人の敵がいる。
 束の間の休日、もう少し楽しんでいたい。

アーモンドフィッシュの頃

 「アーモンドフィッシュって知ってる?」
 「この前、給食で出たよね」
 「違う違う。そういう名前の魚のことさ」
 俺はまた知ったかぶりをする。知ったかぶり?ありもしないことを言うのだから、ただのデタラメか。でも、本当にデタラメなのかどうか確信が持てない。もしかしたらいるかもしれないよ。アーモンドみたいな縞々柄の茶色い魚。焼いたらアーモンドみたいに香ばしい魚。どんな魚だろう。君と一緒に考えてみたい。そう思ったんだ。最後にはちゃんと白状するよ。ごめん。本当はそんな魚なんていないんだよ。
 だから、君は驚いた顔して問いかけてくれればよかったんだ。
 「どんな魚?」
 そうしたら、俺は聞き返すよ。
 「どんなんと思う?」
 それなのに君ときたら。
 「タツノハトコって知ってる?」
 「再従兄弟?」
 「そう。タツノオトシゴの仲間だって。タツノオトシゴの従兄弟くらいかしら?」
 俺はなんだかガッカリしたよ。
 「違うだろ。龍の子供と再従兄弟なんだから、タツノハトコはタツノオトシゴの親の再従兄弟じゃないか」
 少しムキになって答えたね。
 「そっか、頭いいね」
 タツノハトコだなんて、よくもそんな出鱈目を言うもんだ。大体、タツノオトシゴなら小さい魚で赦されるけれど、タツノハトコだったらタツと同じくらい大きくなければおかしいだろう。タツって龍だよ。そんなことあり得ないだろう。タツノオトシゴノハトコならばまだ分かる。
 君のデタラメは俺のデタラメと違って悪意を感じるね。俺はアーモンドフィッシュについて一緒に考えてみたかったんだ。そんな素敵な時間を君と共にしたかったんだよ。それをなんだい。俺のデタラメをただのデタラメとしてか受け取れなかった君は、デタラメで仕返しをするわけだ。しかもなんだい。タツノハトコだなんて随分とお粗末なデタラメじゃないか」
 「嘘じゃないもん」
 目の前には涙を浮かべた君がいる。れ?
 「嘘だろ」
 「嘘じゃないもん」
 一筋の涙が溢れた。
 「いや、そうじゃなくて」
 俺の「嘘だろ」は、君への非難が声になっていたことへの驚きであって、決して君の言うことが嘘だなんて思っていたわけではないこともないけれど。れ?
 俺は両腕をつきだして手のひらを広げる。涙の重圧を押し返しながら顔をしかめた。
 「ちょっと、あんた何してんのよ」
 嗚呼、正義感。ここぞとばかりにリーダー格の女子が分け入ってきた。バレー部だか、バスケ部だか、やたらと立端のある女だ。俺はひそかにフランケンと呼んでいる。
 「事故事故事故事故事故だよ」
 俺は突き出した両手を小刻みに振るった。
 「まず、謝んなさいよ」
 謝れったって、俺だって被害者なんだぜ。
 「タツノハトコだなんて」
 俺は呟く。すると、教室の外から俺を呼ぶ声が響いた。
 「おい、早く来いよ。さっさと便所掃除やっつけちまおうぜ」
 俺は反射的に振り向き、そのままの勢いで駆けだした。
 「ちょっと待ちなさいよ」
 背中を追いかけてくる正義感を振り払い、廊下へ飛び出した。二つの坊主頭が廊下を併走する。
 「おまえ、しょっちゅうあいつと喋ってんな」
 「フランケン?」
 「違うよ。ちっちゃいほう。おまえ、あいつのこと好きなんだろう」
 君の泣き顔がフラッシュバックし、俺は腰から砕けそうになる。急に減速した俺に坊主頭が振り返る。その顔にはニヤリと嫌な笑みが張り付いていた。
 俺はまわりの男子よりほんの少し気付くのが遅かったようだ。
 女子と話をすることは、とても格好悪いことなんだ。
 それ以来、君と話すことはなくなった。
 君に限ったことじゃない。フランケンのお節介にだって舌打ちしか返さない。ハードボイルド気取って春機発動。俺は居心地の悪い少年期に突入していた。

宍戸ハイ・スクール

 「こいつは俺がおまえと出会うもっと前のことだ」
 宍戸はハイスクール時代を振り返った。あまり聞くことのない話だ。
 「俺は決して華やかな学生生活を送ってはいなかった。ナインティズだよ。世紀末にはノストラダムスが降ってくると誰もが信じていた頃だ」
 誰もが信じていたわけではなかろう。ノストラダムスが振ってくるわけでもない。いちいち訂正するのも面倒で、俺は曖昧にうなずいてからジョッキを空にした。
 どこだってそうかもしれないが、宍戸の高校は原則アルバイト禁止とされていた。親から支給される微々たる小遣い以外に収入はない。禁止と言われれば無理に金を稼ごうとはしない。自ら面倒を起こすのは何より面倒な質だ。金無し女無しのティーンエイジ。宍戸にとって贅沢といえばライスバーガーを食すことだった。
 「しかし、あれの難点はドリンクのチョイスだ。コーヒーでもオレンジジュースでもないだろう。バーガーだなんて気取っても握り飯みたいなもんだからな。となれば緑茶か味噌汁だ。でも、バーガー屋にそんな気の利いたもんがあるわきゃない」
 予想通り大した話ではないようだ。ハイスクール時代の話を聞くことがないのは、取り立てて話すこともないからだろう。俺はカウンター越しに追加のジョッキを受け取る。宍戸はいつものように握り飯をかじりながら牛すじ煮込みをつついた。
 「おまえがパンを食っているイメージないな」
 「小学校の頃に散々食わされたからな。酷いもんだ。学校給食で米が食えたのなんて週に二度だけだったからな。余剰農産物処理法だとよ。知ってるか?余剰な農産物を処理する法律だぞ。そんなもんがあっていいのか。身勝手な毛唐どものお陰で俺を取り巻く食事環境が随分と狂ったよ。週に三日のパンも酷いが、米の日にも配られる牛乳ってはどうなんだ。感覚を疑うぞ。茶ぁ持ってこい。茶ぁ。米食いながら牛の乳なんか啜ってられるかっ」
 言っておくが宍戸は酒を飲まない。眉間にしわを寄せて握り飯にかじりつく宍戸を見かねてか、恵比寿顔のマスターが湯呑みを差し出した。
 「あ、すんません」
 宍戸は遠慮なく茶を啜った。続いて、牛すじをつまみ上げながら少年のように目を輝かす。
 「考えようによっては、あのパン食地獄を乗り越えたからこそ、米のありがたみが分かるのかもしれんな」
 俺は歯形のついた塩むすびを見下ろす。
 「しかし、欧米食に反抗的なおまえがライスバーガーとはなんだか中途半端じゃないか?」
 「俺だって人並みにハイカラな時間を過ごしたいさ。ハイスクールだぞ」
 「ハイカラねぇ。で、ライスバーガーか。で、結局何飲んだわけ?」
 「コーヒーだ。ライスバーガーにブラックのコーヒー。そいつが何より粋でハイカラだと己に言い聞かせた」
 「粋ねぇ」
 毎週のように代わり映えしない男連中と店の隅を占拠しては、コーヒーを啜りながらライスバーガーにかじる。容易に想像がつくのは、今の俺たちと大して違いがないからだろう。
 「ドシドシっていつもライスバーガーにコーヒーだよな。なぁんて言われてる間に、いつしか俺のトレードマークになる」
 「ドシドシってなんだ?」
 「ハイスクール時代のあだ名だ。そこは食いつかんでいい。継続は力。そいつだけは確かだね。ライスバーガーにコーヒー。そいつは己を確立するための長くとも確かな道だった」
 「ドシドシねぇ」
 「そこは食いつかんでいい。さて、そろそろ帰るか」
 「今日は早いな。いつもなら牛すじ三杯は食うじゃないか」
 宍戸は一瞬の間の後、気味の悪い薄ら笑みを俺に向けた。
 「俺な、また小遣い制になるんだ」
 つまり、それを俺に伝えたかったわけだ。
 俺はマスターと視線を交わす。変わらぬ恵比寿顔が返ってきた。

五階から痰壺

 二週間ほど咳が止まらない。黄緑色したヌメヌメがいつまでも喉の奥から分泌され続けている。
 先輩営業マンの運転する助手席で、俺は止まらない咳に堪えながら口元を押さえて頬を膨らます。さっきから何度もヌメヌメを飲み込んでいる。
 「変な咳してんな」
 「風邪っぽい感じでもないんすけどね」
 とは言え、放っておいては仕事に支障をきたす。一度は病院に診せに行った。初老の医師は胸に聴診器をあて、喉の奥を覗くと、一週間様子を見ろと言う。そして、咳止めや痰出しの薬を処方するだけだった。確かに薬は一時的な効果がある。しかし、薬を忘れて仕事に出ると、その日の午後は散々だった。
 「ガンなんじゃねぇの。気をつけな」
 先輩営業マンはハンドルを切りながらつまらぬ冗談を言った。
 「ガンってどう気をつけたらいいんすかね」
 「どうしようもねぇか」
 本当にガンだったらどうすんだと内心少々憤る。下手なハンドル裁きのせいか、ヌメヌメを飲み過ぎているせいか、気分が悪かった。
 近年では、歩き煙草の許されないエリアが増え、携帯用灰皿を持ち歩く人が減った。ポッケロなんてブランドもあったが、その売り上げは伸び悩んでいるのではなかろうか。そこで、携帯用痰壺ペッケロを提案したい。
 ポッケロが出回り始めた頃、手元でトントン灰を落とす姿は紳士的でどことなく粋だった。ペッケロはどうだ。クワァァァッと喉を鳴らしては、さっとペッケロを取り出し、プイと吐き出す。クワァァァッの時点で紳士的とは言い難いが、どことなく粋ではなかろうか。
 茹で蛸のように顔を赤らめながら口の中でゴホゴホと咳をし続ける俺を見かねてか、車が駅前につけられた。
 「おまえ、もう帰んな」
 「大丈夫っす」
 言ったそばから咳が出る。
 「そんなんで客先同行されても迷惑だよ」
 優しさ半分。本音半分。俺は置き土産に何度も咳込みながら、頭を垂れて車を降りた。
 陽の当たっているうちに家についた。何年ぶりだろうか。せっかくの時間を有効活用したいところだが、病人扱いの早退だから家でジッとしている他ない。俺は家着に替えて敷きっぱなしの布団に横になる。そして、授乳枕を首の下に敷いた。
 肩こりが酷かった頃、子持ちの同僚から薦められたのが授乳枕だった。Cの字をしたあれだ。授乳の際、腹に巻き付けて乳児を支えるあれだ。折角のお勧めだが、独り身の俺にはなかなか手を出しにくい一品だった。ひとまず旅館でよく見かけるツボ押しを購入。続いて、マッサージ機能付きのクッションを購入。いずれも一時的な快楽は得られるものの回復傾向は見られなかった。
 やはり、枕か。
 俺は意を決して授乳枕の購入を検討し始めた。テーラーメイドの枕というものもあるようだが、コリがとれるという保障もない枕にウン万円もかけてはいられない。しかし、嫁も子供もいない俺が「ベビちゃん本舗」に踏み入れる勇気もない。となれば通販。便利な世の中だね。帰宅途中に携帯端末で授乳枕まで買えてしまう。
 Cの字の窪みに後頭部を落とすようにして、一番太い部分を首に添える。嗚呼、ジャストフィット。これが見事に効果発揮。一週間もすればコリはすっかり消え去った。

 しかし、なかなか体調は万全とはいかず、引き替えにしつこい咳とヌメヌメが俺を襲った。身体を横たえていると余計に咳がでる。家の中となれば遠慮もなくバッション、バッション、クワァァァッて喉の奥からこみ上げるヌメヌメ。
 ガンなんじゃねぇの。気をつけな。
 先輩営業マンの悪い冗談が思い起こされ、妙に不安になる。俺はこのまま布団の上で冷たくなって誰にも気付かれずに白骨化するのだろうか。
 身震いがして起きあがる。そして、洗面所に駆け、黄緑色のヌメヌメを吐き出した。
 「嗚呼、喉痛ぇ」
 水を一口含み、また布団に横になる。すぐにまたバッション、バッション、クワァァァッてヌメヌメ。俺は再び立ち上がり、気分を変えてベランダに立つ。割と交通量の多い通りに面したマンションの五階だ。歩道には行き交う人々。そして、眼下にはちょうどマンホールがある。俺はそいつを見下ろし、おもむろに口を尖らせた。頭上にそんな危険な輩がいるとは露知らず、マンホールを跨ぐ女。その背後をすり抜けてヌメヌメがマンホールに弾けた。
 「おおっ」
 思わず感嘆の声が漏れる。マンホールの中央に痰壺を置いたらどうだ。吹き矢の如くヌメヌメを発射させて見事に壺を射抜けたならばどうだ。今では自己満足にすぎないが、やがてオリンピック公式競技にでもなってみろ。俺は一躍脚光を浴びることになる。五階から痰壺、日本代表だ。
 俺はその日を妄想しながら、バッション、バッション、クワァァァッ。

世界に睨みをきかせて

 世界に睨みをきかせている。
 それでどうにかなるのか俺は知らない。嘘。どうにもならないことくらい分かっている。それでも東京。それでも渋谷。JRから東急へと乗り換える駅構内、途方もない圧力に耐えるべく俺は眉間に力を込める。週末を除く毎日だ。行きはよいよい帰りは怖い♪なんて、行きだってよかないよ。帰りは尚よくない。誰もが顔面を硬直させて高圧力に耐えている。そこまでして、ここを通過しなくてはならない意味はあるのか。近所でも評判の親子。虫も殺さぬお父さんだって、一線を越えた息子には問答無用で平手打ちを振り抜く。驚いて目を見開く息子には痛恨の往復ビンタ。そこに答えを求める余地はあるか?問答無用はそこいら中にある。それが生活なんだよ。これが原理なんだよ。
 「痛恨の一撃ってはじめて聴いた時、2conの一撃だと思ったよね」
 「ドラクエ?」
 「ドラクエ」
 でも、それって、睨みをきかせているとは違うね。眉を顰めている。耐えている。堪えている。どちらかと言えば負けているね。それでも東京。それでも渋谷。スプリットタンなんてものは俺には未だお伽噺だけれど、それでも耳にピアス。ジャラジャラぶら下げて耳たぶ弛んでる男とかいるじゃない。スキンヘッドの女とかいるじゃない。どこの部族が来日したのかと思えば、流暢な日本語を喋っている。杖をついて歩く巨漢。電動車椅子で二人乗り。ケミカルウォッシュのデニムベストで首には赤いバンダナ。残りの毛だけをやたらと伸ばしている禿。おまえとおまえはただの病気だ。ごめん。壁には得体の知らない染み、染み、染み。それにしても、空気。得体の知れぬ粉塵が飛び交い、俺の鼻毛はますます伸びる。このまま切らずに放っておこうか。鼻毛で三つ編みできるようになれば、高圧力の空間でも素足で歩けるようになるのだろう。
 「スプリットタンというものを聞いて以来、タン塩を喰うのやめた」
 「最近、焼肉屋すら行かないじゃない」
 「行ったら食いたくなるだろう」
 「食べたいの?」
 自主的にやめたんだよ。牛のベロを食うという行為も、なんだか気味の悪いお伽噺に思えてきた。ベロだぜ。痛いよ。
 世界を正常に戻したいと思わないか。
 それでも本当は世界に睨みをかせているんだ。それでどうにもならないことくらい分かっている。それでも東京。それでも渋谷。ロック'ン'ロールで耳栓。爆音で脳味噌を奮わせていないと立っていることすらできない。最近、ピアノが耳につくロック'ン'ロールが多い。あんなの最低な音塊だ。やたらと多いよ。ピアノの音色が印象的なやつ。嗚呼、嫌だ、嫌だ。だのに、無性に聞きたくなる帰り道。敗走。素敵な音色が俺の鼓膜を打つその時、きっと世界が歪んでいる。
 世界を正常に戻したいと思わないか。
 答えはNOだ。
 誰もが世界に睨みをきかせている。狭い狭い世界に圧力を込める。そうして世界を支えている。ただひたすらに週末を目指して、賢明に睨みをきかせている。
 「そういうことだ」
 女は首を傾げる。
 「それが生活なんだ」
 傾いた首は戻らない。
 「では、はっきり言おう。ヒカリエだかボンバイエだか知らんが、休日にまで渋谷に出向くのは御免なんだ」
 「あっそ。別に誘ってないじゃない」
 あっそ。
 「ボンバイエってはじめBomber Yeah!だと思ったよね」
 「猪木?」
 「猪木」


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