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木を植えたい男

 木を植えたい男なら、誰だってこの男について語らずにはいられない。エルゼアール・ブフィエである。木を植えた男である。

 そんなに植えたいなら植林ボランティアにでも参加すればいい。分かっちゃいるけど、仕事にかまけ、育児にかまけ、俺はなんだか余裕がないのだというところに落ち着いている。がんばろう日本だなんて、この国はどこまで国民をストイックにすれば気が済むのか。いつしか、そんな境遇に身を置くことが苦ではなくなってきた。まったく愚かだねぇ。俺を見下ろす己をかき消す。

 ワイワイみんなで植林活動。なんかそれはちょっと違う。俺は理想の妄想に引き篭もる。ジャン・ジオノになる。社会に背を向けてブフィエを訪ねる。男は筋書き通り温かいスープを俺に振る舞った。そして、パンを二切れ。バターの香りもしない堅いパン。それに引き替えスープはやけに美味い。

 俺はしばらくその家に住み着くことにした。木の実をより分ける手元を眺め、出かけると言い出せば、その背中を追いかけた。

 「用がなければついてきなさい」

 どこまでもついてくる俺をとがめる気配はまるでない。

 荒廃した大地を鉄の棒で突いては、ブナだのカシワだの種を播く。木を植えた男と呼ばれているが、実際のところ、種を播いた男だよな。つまらない感想を抱く。

 男もかつては平地に農場を持って、家族と一緒に暮らしていた。ある日、突然、一人息子を失い、まもなく奥さんもあとを追った。

 二度の大戦の最中であっても男は黙々と大地を育む。やがて世界が平穏を取り戻すと、かつて荒れ地だった土地はカナンの地と呼ばれ、人々が住み着くようになった。

 

  いまや見ちがえるほどなごやかな心で生活を楽しむようになった古くからの住民に、それら新来の人びとをも加えれば、ゆうに一万人をこえる人たちの幸せが、エルゼアール・ブフィエによってもたされたことになる。

 

  このたぐいまれない不屈の精神を思うとき、それがまったくの孤独の中で鍛えられたのだということをけっして忘れてはならない。そう、生涯の終わりにかけて、ほとんど言葉を失うほどの孤独の中で。

 

  結果オーライ。

 しかし、ここは本当にブフィエが思い描いたカナンの地なのか。二度の戦争を乗り越え、憩いを求めてやってくるであろう一万人を予見して、死力を尽くしたのか。

  ジャン・ジオノにはこの男が物珍しかったのだろう。孤独の中で木を植えるような暮らしを望む者はいくらもいる。生活の根幹は孤独でありたい。望まなくとも永遠のように続く日々。不安に押し潰されないよう己に役目を課する。

 「八時間ほど眠って目を覚ますと、一日があと一六時間もあることに絶望する」かつてフリーターだった知人がそんなことを言っていた。「まるで自由ではない」。そこに安心がないからだ。

 役目を持って日々を繰り返すことで得られる安心感もある。それが他人の好奇の目にさらされたのはとても幸運なことだ。生活の根幹に孤独を据えようと、他人様とふれあいたいのは人情。

 嗚呼、エルゼアール・ブフィエのようになりたい。スナフキンに憧れていた二〇代と何も変わっちゃいない。そんな自分が忌々しく、俺は阿呆なふりをする阿呆。何の因果か家の前には花屋があった。園芸店と言っていいような割と大きな規模の店だ。俺は一本の苗木を買い、夜な夜な勝手ながらマンションの共有地にそれを植えてみた。

 俺だけの秘密。孤独の象徴。やがて誰かの目に留まる。

 「あれ、こんなところに木が生えてたっけ?」

 誰かの呟きが耳に届いたとき、俺はほくそ笑む。


妖怪ぬれせんべい

 何故ぬれ煎餅か。幼い息子と遊んでいた「日本全国鉄道かるた」の中にこんな一枚があったからだ。

 

 ぬれせんべい かって のりこむ ちょうしでんてつ

 

 絵札には銚子電気鉄道デハ700。この真っ赤な車両に縁のない息子は、電車の名称がぬれせんべいだと勘違いしている感がある。
 「ぬれ煎餅って、電車じゃねえぞ」
 「ぬれせんべいって、でんしゃじゃねえぞっ」
 「ぬれ煎餅ってのはな」
 「ぬれせんべいってのはなっ」
 そこで、まさに魔が差した。
 「妖怪だ」
 「ようかいだっ」
 「そうだ。銚子の妖怪だ」
 ぬれ煎餅とはなんなのか。湿った煎餅だという以外に知識がない。食ったこともない。最近は近所のスーパーでも見かけるが、煎餅は堅ければ堅いほうがいいという文字通り硬派な考えから手を出せずにいた。
 どうせ大した知識がないのだ。いい加減なことを教えるくらいならば全くの作り話にしてやれ。そう思い至った結果の妖怪ぬれせんべい。その語感は妖怪ぬりかべに近い。しかし、その容姿は妖怪あかなめに近いものと想像する。
 ぬれ煎餅に関する知識に乏しい。かといって、妖怪に詳しいわけでもない。俺は本棚から一冊の本を引っ張り出した。一家に一冊、水木しげる著「カラー版妖怪画談」(岩波新書)だ。記憶をたどりパラパラと頁をめくる。そうそうこれこれ。灰色の顔から真っ赤な舌がペロリと伸びた妖怪あかなめ。その紹介文を読んでみる。

 

 “あかなめ”は、風呂場の垢をなめる妖怪で、誰もいない夜に出る。別に垢をなめるだけで何をする訳ではないが、妖怪が家の中に入ってくるということはあまり気持ちのよいものではない。
 そこで“あかなめ”さんに来ていただかなくても良いようにするためには、風呂桶をきれいにして垢をためないようにしなくてはならない。
 「垢なめがくるぞ」
といえば、誰もあまりいい気持ちがしないから、風呂桶を洗うことになる。
 というわけで“あかなめ”は、いわば教訓的な妖怪とみるべきであろう。
 
 続いて、インターネットを叩き、ぬれ煎餅について調べてみる。焼きたての煎餅を冷めないうちに醤油につけ込むと、しっとりとした歯ざわりの煎餅ができあがるそうだ。
 マドレーヌじゃねぇんだ。煎餅がしっとりしていてたまるかっ。
 どうも、ぬれ煎餅とを聞くと頑ななまでの拒否反応が生じる。ところで、日本語には「かたい」を意味する言葉が多い。堅い、固い、硬い、難い。頑固な人種だね。
 そして、妖怪ぬれせんべい。誰もいない夜の台所に出ては,堅焼き煎餅を舐めることでしっとりさせてしまうことは想像に難くない。別に煎餅をなめるだけで何をする訳ではないが、それだけで十分に気分が悪い。昨日買ったはずの煎餅が早くも湿気ていたならば、妖怪ぬれせんべいの仕業かも知れない。
 そこで“ぬれせん”さんに来ていただかなくても良いようにするためには、茶箪笥ををきれいにして通気をよくしておかなければならない。
 「ぬれせんべいがくるぞ」
といえば、誰もあまりいい気持ちがしないから、茶箪笥を掃除することになる。
 というわけで“ぬれせんべい”は、いわば教訓的な妖怪とみるべきであろう。

 身の丈は茶箪笥に入り込んでしまうくらいに小さなもので、小さな舌でチロチロと煎餅を舐める。しょっぱくて仕方がないからダラダラと大量の唾液を垂らす。俺は息子のベッドタイムストーリーとして寓話を構成する。気持ちが悪すぎてもだめだ。どこか可笑しくにくめない妖怪でありたい。呼びかける際には妖怪ぬれせんべ~としたい。
 息子に語る前に、妻へのピロートーク(?)として実践練習。彼女は話の序盤で眠りについた。ベッドタイムストーリー本来の目的としては申し分ないが、何か腑に落ちない。
 俺は翌日も枕元で妖怪ぬれせんべ~。布団の中で彼女に両腕を絡めながら再び語りはじめた。
 「こんなにも堅焼き煎餅がしっとりとしてしまったというのに、まだ茶箪笥の掃除をしない奴がいる。すると、続いて妖怪ぬれせんべ~は米粒大の何かを次々と吐き出しはじめ、やがて茶箪笥の中をビッシリと埋め尽くす。それは無数の卵。翌朝には次々と孵化しはじめる。何も知らずに茶筒でも取ろうかと茶箪笥を開ければ、中から止めどなく溢れ出す妖怪ぬれせんべ~」
 「ちょっと!いい加減にしなさいよ!気味が悪い!」
 彼女は腕をふりほどいて、暗闇の中で起きあがる。その反応にいくらか満足するが、それも束の間、俺はひどく狼狽した。
 「なんなのよ。茶箪笥の掃除をしろって言いいたいなら、はっきり言えばいいじゃない」
 「ちがうちがうちがうちがうあうあうっ」
 俺は後ずさりながら大きく腕を振る。すると、寝付いた息子の頭を叩いてしまい、呻き声とともに起きあがる。寝ぼけた息子は暗闇の中を駆け回り、壁に激突。その悲鳴に驚いた俺と彼女は、照明のリモコンを探し求めて畳をバンバン叩く。
 やがて俺の手がリモコンを捕まえ、灯りをともす。彼女は布団の隅で小さな息子を抱えたまま座り込んでいた。眉間にしわを寄せて俺を見る。それは眩しいからではないだろう。口元を歪めて笑みを浮かべれば、息子の頭を胸に引き寄せてそっぽを向いた。
 「トイレ」
 俺は気まずくなって立ち上がる。そして、寝室をあとにした。ダイニングを抜けてトイレへ向かう途中、茶箪笥を見上げた。小さな子鬼が顔を覗かせている。チロチロと舌を出して笑っているようだ。

「カツ」と戦う

 カレーを食うチェーン店にて。カウンターで肩を並べた女がカツカレーを食っていた。身銭を惜しんでチキンカレーを頼んだ俺は、肩先に女を感じながら小さくなってそいつを平らげた。
 六畳一間のアパートに帰ると、俺は湿った布団に身を横たえた。そして、振り返る。何故あんなにも肩身の狭い思いをしたのか。カツカレーが食えるほどの持ち合わせが俺にはなかった。かと言って、惨めだった訳ではない。貧乏に関してはもはやベテランなのだ。
 女はよほど腹が減っていたのだろう。もしくは、よほどカツカレーが好きだったのだろう。女が一人でカツカレーを食う。それは、ある程度の勇気がいることではないかと思う。その隣に席をとった男が、普通盛りのチキンカレーなど食っていてよかったのか。
 細身の女だった。体型にぴったりと合うスーツを着て、丈の長いパンツからピンヒールが覗ける。外回りの忙しい合間にカレー屋に立ち寄ったというような風体だ。余程ストレスのかかる面会後だったのかも知れない。今日はもうカツカレーだわ。
 食券を買う前に座る席を確認すべきだった。小綺麗な(でなくとも)女が一人カツカレーを食っていたなら、俺は大盛りカツカレーを頼んで全力で彼女をブロックすべきだろう。唐揚げカレーというのもいい。味のバランスなどお構いなしに食い意地をだけを満たす。そんなえげつない食事をガツガツ食い荒らし、全ての視線を吸い寄せる。給料日前とは言え、煙草の一箱さえ我慢すればできたことなのだ。
 厄介なことに、この世には男気という言葉がある。自分を犠牲にしてでも困っている他人を助けようという気質。任侠である。ジーニアス和英辞典によればchivalrous。英国に行けば騎士道と訳されるようだ。途端に品がいいね。
 給料日には串カツを食らう。関西で食うような単一素材のそれではなく、あくまで肉とタマネギが層を織りなす関東の串カツだ。まさにハーモニーだね。ハルモニアー。ヘレカツの2000倍は美味いが、外で食うにはコストパフォーマンスが悪い。まず、トータルのボリュームが小さい。使う肉の量なんてヘレカツに比べれば遙かに少ないだろうに、1.2倍も値が張るではないか。
 はじめて串カツの美味さを知った時、その店の串カツにはなんと串が刺さっていなかった。俺は思わず声に出す。
 「串カツ定食、だよな?」
 すると、普段無口な店主はニヒルな笑みを見せた。
 「中に串が入ってるから気をつけな」
 俺は小さく頷いて、衣に箸を下ろす。サクリと切れた。串など入っていない。訳が分からない。それ以来、串カツは決まって家で揚げる。
 はじめて串カツを作った時、タマネギをどうやって切ればいいものか大いに悩んだ。ひとまずスマイルカットしたタマネギに串を通す。層になっている鱗茎がバラけないように、自ずと刺す方向は決まる。そして、肉。そして、タマネギ。そして、肉。できあがったそれはおでんかと見紛うほど豪快なものだった。
 「芯のほうは除いておくべきであったか」
 今では慣れたものだ。月に一度の串カツ以外に揚げ物などしない。油が張られたままの鍋を取り出し火にかける。油がプツプツと音をたてる頃には、串に通された適量の安い肉と甘いタマネギが衣に包まれている。パン粉の上で肉を転がしている時、俺は決まってYumingの「やさしさに包まれたなら」を口ずさんだ。
 古くなった油で、串カツはやや浅黒いキツネ色に揚がる。乱切りのキャベツの上に油を切った串カツを盛り、タップリのソースをかける。最後にはやはり串を抜いた。俺は白い飯のおかずとして串カツを食べたいのだ。左手には茶碗、右手には箸を握って飯を食いたいのだ。串を抜かれた串カツは理にかなっている。あの時、俺が注文したものは串カツではない。串カツ定食だったのだ。それに気づいた時、ニヒル店主の気遣いに心打たれた。
 「中に串が入ってるから気をつけな」
 それは要らないよ。訳が分からない。

 翌日の遅い朝、俺は洗面所に向かい合って鼻毛の処理をする。基本的に鼻毛以外の毛にはあまり頓着しない。多少の寝癖がついていようが、無精髭が生えていようが「男だ」という理由で許される。
 カツカレーを食う小綺麗な女にまた会うかもしれない。最近では念入りに除毛するようになった。電動鼻毛カッターに続いて、鼻毛バサミで仕上げる。俺は気付いている。これは恋だ。
 その日はローテーションで言えばほうれん草カレーだった。しかし、状況に応じて唐揚げカレーの大盛りを注文する必要もあるだろう。ベースは同じ値段だったはずだ。しかし、大盛りとなれば100円余分に用意しておかなければならない。俺は財布の中身を確認した。
 準備は整った。そして、俺は勇んでアパートを出る。気づけばまたYumingを口ずさんでいた。串カツカレーなんてどうだろう。熱々のカレーの上に、串の抜かれた串カツが乗せられている。
 「串カツカレーなんてどうだろう?」
 傍らに歩く女を想定して問いかける。
 来月の給料日までにはなんとかしたい。

家系

 ラーメンなら断然「家系」がうまい。醤油と豚骨ってラーメンのトップ2でしょ。ならば豚骨醤油が最強に決まってる。
 母ちゃんが遅番の日には、テーブルに700円が置かれていた。いつも眉を垂らして「ゴメン」と言うけれど、俺には密かな楽しみだった。テーブルの700円を手にすると決まって駅前商店街のラーメン屋へ向かった。時刻は夕方6時半くらい。結構人気の店だから早めに行かないとお気に入りの席に座れないのだ。
 俺は券売機で食券を買って、店の隅、いつものテーブル席に収まった。
 「いらっしゃい」
 店主はいつも笑顔がいい。必要以上に話しかけてこないからすごくいい。
 「いつもの」
 俺は呟いて食券を差し出す。味玉ラーメン700円也。
 「まいど」
 差し出された氷水を受け取って一気に飲み干す。ラーメンを待ちながらグラス表面の水滴を指で拭っていると、カウンター席のオッサンと目があった。ほうれん草ラーメン油少な目にサービスの半ライス。禿げ上がった頭皮が油っぽく輝く。ちょっと情けない顔で俺をチラ見して、また丼に顔を向ける。
 冴えないオッサンだな。
 毎度ながらそう思う。いつも見かけるオッサンだった。よっぽどラーメンが好きなんだろうが、なんだかそれって子供っぽいじゃないか。大人なんだからちゃんと栄養とれよ。でも、一応気遣ってのほうれん草トッピングか。
 オッサンは財布から100円玉を取り出し、それをカウンターに置いた。半ライス食っておいて替え玉かよ。続いて、丼に残ったほうれん草を汁に浸してご飯に盛る。そして、そいつを一気にかき込んだ。
 「おまち」
 やがて俺のテーブルに味玉ラーメンが運ばれてきた。普通にラーメンを頼んでもゆで卵が半分のっている。味玉トッピングで卵は一個半。心なしかほうれん草がいつもより多い。俺は店主を見上げた。
 「あちらのお客様から」
 店主の示す先には油っぽいオッサン。
 「青いもんも食っとけ」
 オッサンはカウンターを立つと、捨て台詞とともに暖簾を割って出ていった。
 「まいど」

 

 最近では関西でも家系ラーメン屋を見かける。出張先のホテル近くに見つけると、つい暖簾をくぐってしまう。その都度、あの時のことを思い出す。よっぽどラーメンが好きなんだろうが、なんだかそれって子供っぽいじゃないか。大人なんだからちゃんと栄養とれよ。
 ラーメン屋で一人丼をつつくオッサンは冴えない男の代表格のように思っていた。今でも若干そんな思いがある。夕飯時、俺はカウンターの隅で小さくなる。そして、わき目もふらず丼を空にした。
 実際のところ、それほどラーメンが好きではないのかもしれない。一人きりの出張で俺は酒を飲まない。さっさと食事を済ませて部屋のベッドに転がりたいのだ。牛丼ならば昼に食った。となれば、カレーとラーメン以外に選択肢はないだろう。
 時折、あの頃の俺と同じくらい小僧と出会す。なんだか気まずい思いがして、ラーメン屋しかなかったんだよと、内心で言い訳を垂れる。
 「青いもんも食っとけ」
 なんて言いながら店員に100円玉を渡す。そんな気取った真似は普通できないだろう。あのオッサンは何だったのか。俺と同じくらいの息子がいたのかもしれない。出張続きで寝顔以外に我が子の顔を拝むこともない。俺に息子の面影を見つけオッサンは言う。青いもんも食っとけ。なんてね。しかし、あの記憶も少々怪しい。
 「あちらのお客様から」
 そう言って油っぽいオッサンを指した店主の顔が、どうも馴染みのバーテンと重なるのだ。俺は首を傾げてラーメンを啜る。小僧は氷水を一気飲みすると俺を一瞥した。何処か寂しげな瞳に見えたのは身勝手な思い込みか。
 冴えないオッサンだな。
 小僧の声が聞こえてきそうだ。


余暇を楽しむ

 買い物から戻ってきた女が俺の姿を見て驚いた。
 「3時間前と何も変わってないじゃない」
 喫茶店でコーヒーを嗜む。煙草は吸わないから禁煙席。手にした文庫本はほとんど読み進めてはいない。何もせずに座っているのも阿呆みたいだから文庫本でカモフラージュ。サムという名の猫がプリントされたお気に入りのブックカバーをたまに眺める程度。確かに、彼女の言うように何も変わっていない。
 「暇じゃないの?」
 「余暇を楽しんでいたんだよ」
 「余暇って、余りに暇ってこと??」
 「そうじゃないだろ。束の間の休日だ。サラリーマンは割と大変なの」
 「敷居をまたげば、男には7人の敵がいるっていうからね」
 時折、女は随分と古めかしい言葉を使った。
 「楽しんでるんなら、もうちょっと行ってきていいかしら?」
 「どうぞ。なんか探してんの?」
 「小銭貯金しようかと思ってね。あの女々しい豚の貯金箱が欲しいのよ」
 女々しい豚。その響きにギョッとする。しかし、俺は正確にその貯金箱を思い描いていた。
 「あの睫毛がクリンとした豚のレトロな貯金箱?」
 「そうそうそれそれ。何処にでもありそうなのに、いざ探すとないのよね」
 そう言い残して女は消えた。課題を残していくものだから、俺は飽きることがない。あの睫毛がクリンとした豚のレトロな貯金箱。そいつを端的に言えば確かに女々しい豚の貯金箱だ。言語の目的が情報伝達だというならば、女の言葉は無駄なく機能している。しかし、言語とは伝達手段のためだけに存在するものではないようだ。
 このメスブタが!
 そう言いながら貯金箱に金槌を振り下ろす女を想像する。小銭が溢れ出し、女は嫌らしい笑みを浮かべる。
 俺は大声を上げたくなる衝動を押し殺し、頭をかきむしる。マグカップには冷め切ったコーヒー。一口含んで、ゴクリと喉を鳴らした。
 豚の貯金箱ことピギーバンク。PYGGなる粘土で貯金箱を作るように頼まれた陶器職人が聞き違えてPIGの貯金箱を作ってしまったことがはじまりとか。蚊取り豚と重なって日本発と思いきやヨーロッパが発祥のようだ。形状としての安定感、やがて屠られてしまう切なさ、取り出し口のない陶器の貯金箱と家畜豚は通ずるものがあるように思える。
 途端に女々しい豚が愛おしくなる。俺はゴメンねと目を赤くしながら金槌を振り下ろす女を想像する。そうだ。そうだろ。そうあって欲しいものだ。
 やがて女が帰ってきた。
 「4時間前と何も変わってないじゃない」
 「貯金箱はあったの?」
 女は口を尖らせて首を振った。俺はひどく落胆した。そして、4時間ぶりに尻を持ち上げる。
 「隣駅に大きな雑貨屋があったろう」
 「わざわざ行くの?」
 女は目を丸め、俺は大きくうなずいた。あの女々しい豚を連れて帰らなければ、俺の余暇は完結しない。ように思えたのだ。
 「わざわざ行くよ。俺が貯金箱を買ってやろう」
 「ならば行くわ」
 西日の射す駅のホームに立てば、アナウンスのベルが何処かで聴いた歌謡曲になっていた。
 「あ、ナントカちゃんの歌」
 そう呟いて、すぐに口をつぐむ。おそるおそる女を横目に見れば、案の定、醒めた目で口元に薄い笑みを浮かべている。
 「オ・ヤ・ジ」
 そう言われて、少々喜んでしまう俺がいる。
 敷居をまたげば、男には7人の敵がいる。
 束の間の休日、もう少し楽しんでいたい。


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