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夜叉ヶ池(やしゃがいけ) 現代語訳

 

注:本書における章分けおよび各小標題は、ファイル分割の必要性から便宜的に付したもので、原作にはありません。

 

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舞台背景

場所  福井県大野郡おおのごおり鹿見村しかみむら琴弾谷ことひきだに

時   現代。―盛夏

人名
    萩原晃はぎわらあきら鐘撞かねつき堂の番人)
    百合ゆり(美しい娘)
    山沢学円やまざわがくえん(文学士)
    白雪姫しらゆきひめ夜叉ヶ池やしゃがいけぬし
    湯尾峠ゆのおとおげ万年姥まんねんうば(白雪姫の従者、以下同じ)
    白男しらおとこ鯉七こいしち
    大蟹おおかに五郎
    木の芽峠きのめとうげ山椿やまつばき
    鯖江さばえ太郎
    鯖波さばなみ次郎
    虎杖いたどり入道にゅうどう
    十三塚じゅうさんづかこつ
    いくつもの影法師かげぼうし
    黒和尚くろおしょう鯰入ねんにゅう剣ヶ峰けんがみねの使者)
    与十よじゅう鹿見村しかみむらの百姓)
    その他大勢おおぜい
    鹿見宅膳しかみたくぜん(神官)
    権藤管八ごんどうかんぱち(村会議員)
    斎田初雄さいたはつお(小学校の教師)
    畑上嘉伝次はたがみかでんじ(村長)
    伝吉でんきち(ばくち打ち)
    小烏風呂助こがらすふろすけ草相撲くさずもうの力士)
    穴隈鉱蔵あなぐまこうぞう(県の代議士)

    劇中で名前の出るもの。
    ―(白山はくさん剣ヶ峰、千蛇ヶ池せんじゃがいけ親王しんのう


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旧知の再会

三国ヶ岳みくにがたけふもとの里に、暮六くれむつ、夕方六時の鐘の音が聞こえる。―幕が開く。

萩原晃はぎわらあきら、この時白髪しらがの姿で、鐘撞かねつき堂の上に立って夕日をながめている。鐘撞き堂は柱につたがからまり、高い石段はこけおおわれ、屋根には草が生えている。晃は間もなくゆっくりと石段を下りて、清水で米をいでいるお百合ゆりの背後にく。

晃 水は、美しい。いつ見ても…美しいな。

百合 ええ。

その清水の岸に菖蒲あやめがあり、二三輪小さな花が咲いている。

晃 本当に綺麗きれいな水だよ。(微笑ほほえむ。)

百合 (白髪のびんに手を当てて)でも、白いのでございますもの。

晃 そりゃ、米を磨いでいるからさ。…(横木を渡したえんに腰を掛ける)お炊事すいじご苦労、せっかくのきれいな手を水仕事で台なしにさせては申し訳ない、ちょっとお手伝いするとしようかな。

百合 けっこうでございますよ。

晃 いや…お手伝いしたいところだが、お百合さんがそうしているところは、咲き残った菖蒲あやめの向こうの水に影が映ったようで、いっそう綺麗だ。

百合 知りません。

晃 めているのに怒る人がありますか。

百合 おからかいなさるんでございますもの。―それに、旦那様だんなさまは、こんな台所へ出ていらっしゃるものではありません。早くお机の所へお行きなさいまし。

晃 鐘をく旦那はおかしい。実は飯炊めしたき男の権助ごんすけと名前を変えて、すぐおまんまにありつきたいのさ。何ともおそろしく腹がいて、今さっきも、鐘を撞いた撞木しゅもくが、つえになればいいと思ったくらい。そうだ、ここに座り込んで催促さいそくするという手もあるな。

百合 ほほほ、またいつものご冗談を。…すぐお夕飯にいたしましょうねえ。

晃 手品じゃあるまいし、いまいでいる米が、飯に早変わりはしそうもないぜ。

百合 まあ、あんな事を―これは翌朝あしたの分を準備しておくのでございますよ。

晃 翌朝の分―ああなるほど、一家をあずかる者は、まったくそうでなければいけません。いや、それを聞いて安心したら、ひどく疲れてなおさらいた。

百合 何でございますねえ。…おかずも、あの、あなたのお好きな鴫焼しぎやきをして上げますから、おとなしくしていらっしゃいまし。『お腹が空いた』なんて、人に聞かれると笑われます。

晃 (えんに上がる)誰に遠慮えんりょがいるものか、人が笑うのは、ね、お前。

百合 はい。

晃 二人で朝寝している時さ―

百合 知りませんよ。(にっこりしてうつむく。)

晃 薮蚊やぶっかうるさく押し寄せてきた。裏の縁でいぶしてやろう。(納戸なんどへ入り、うしろ向きに山を見上げる)…入道雲にゅうどうぐもが真っに焼け落ちて、三国ヶ岳みくにがたけは火が燃えているようだ。西は滋賀、北は石川、かすかに見える岐阜の山々峰々みねみねが、まるで数万の松明たいまつを並べたように、日に照らされたほのおで取り巻いている。それが夜叉ヶ池やしゃがいけへもうつるらしい。ちょうどその水の上あたりに出ている、よい明星みょうじょうの色まで赤い。…雨になりそうな雲は影すらないな。

百合 …その、竜のむという夜叉ヶ池から、このお池の水が来ているそうですよ。そういえばここの清水も気のせいか、流れがとても細くなりました。このごろは村の方で大騒ぎをしています。…暑さはひどいし…貴方あなたのお身体からださわりはしませんかと、―食べ物の少ない辺鄙へんぴな山里は心細い。わたしはそれが心配でなりません。

晃 流れが細くなったって構うものか。お前こそ、それ以上夏痩なつやせをしないようにね。お百合さん、その夕顔の花に、ちょっと手をれてみなさい。

百合 はい、それでどうするのでございますか。

晃 花にも葉にもつゆ宿やどっているだろう。

百合 ええ。ああ冷たい。飲んでもおいしいと思うほど、しっとり花がれていますよ。

晃 世間の人には金がるだろう、田地でんじも要るだろう、雨も必要だろうが、我々二人の生活は、百日日が照り続けても困りはしない。その露があれば十分なんだ。(おもてに向いた障子をざす。)

百合 貴方あなた、お暑うございましょう。開けておおきなさいましても、もう、おおかた人も通らないと思いますよ。

晃 何、別にそんなことを気にしているわけではないよ。…夕方に部屋を閉め切って一度いぶしておくと、蚊が大分だいぶ少なくなるのさ。

その時、蚊遣かやりの煙がゆらめきのぼる。

学円がくえん登場。背広を着て日に焼けたパナマ帽子をかぶり、落ち着きのある姿である。風呂敷包ふろしきづつみをななめに背負しょい、脚絆きゃはん草鞋わらじ穿き、ステッキ兼用の洋傘こうもりをついて、鐘撞かねつき堂の下に出る。上を向いて鐘をながめ、

学円 今朝けさ明六あけむつの橋(朝六つ橋あさむつばし)を渡って、ここで暮六くれむつの鐘を聞いたことになる。…

お百合はざるに米をうつす。

学円 やあ、お精が出ますね。(と声を掛ける。)

百合 はい。(振り向いて学円を見る。)

学円 ここへ来る途中、あぜ道が竹藪たけやぶに差し掛かって…暗くなったところで、今さっき音を聞いたのですが。時を打ったのはこの鐘でしょうな。

百合 そのとおりでございます。

学円 音もとうとい!…立派な鐘じゃ。釣り鐘堂つりがねどうへ上がってみてもよろしいですかな。

百合 (ざるかかえて立つ)ええ、かまいません。けれども貴客あなた、おたわむれに、お杖やなにかでおたたきなさってはいけません。

学円 西瓜すいかを買うのではありませんから。決して敲いたりはいたしません。(笑う。)

百合 まあ、御冗談を。…いいえ、悪戯いたずらをなさるようなお方とは、お見受けいたしませんけれど、その鐘は、明六あけむつと、暮六くれむつと、夜中の丑満うしみつに一度ずつ、―この三度のほかは鳴らさない事になっているものですから、失礼とは思いましたが、ちょっとご注意申し上げたのでございます。さあ、どうぞ御遠慮なく、上がって御覧なさいまし。(夕顔の垣根に沿って庭へ入ろうとする。)

学円 ああ、ちょっと…お待ち下さい。鐘を見ようとは思いますが、思いがけなく言葉をわしたのを御縁ごえんに、ひどく無礼ぶれいな事のようじゃが、茶でも湯でも構いません、一杯ご馳走ちそうして下さらんか。

百合 おやすい事でございます。さあ、貴客あなた、ここへお座りなさいまし。

学円 では失礼しますよ。

百合 本当に粗末そまつで見苦しいところでございます。

学円 これは―お寺の庫裡くりとも見えませんが。御本堂は離れているのですか。

百合 いいえ、もうずっと昔に焼けたそうで、以前から、寺はないのでございます。

学円 では、鐘だけ…

百合 はい。

学円 鐘だけ、か…なるほど。ところで先ほど口に出した西瓜のことじゃが。(帽子を脱ぎ、ほとんど髪をったのと同じ一分刈いちぶがりの頭をでて)そう、西瓜といえば、おうち真桑瓜まくわうりでもありませんでしょうか。―こちらは茶店でもないようですが―(見回す。)

人里離れた山の家の日暮れの風情ふぜい茅葺かやぶき屋根の低い納戸なんど障子しょうじに明かりがうつる。

学円 この上、『晩飯を』などと無理な頼みは言い出しませんが、どうにもがまんできないほど腹が空いた。

百合 ほほ。(とにっこり笑い)かけひの下に、なしの実が冷やしてございます、それを差し上げましょう。(と夕顔のかげに歩いていく。)

学円 (がぶがぶと茶を飲み、衣兜ポケットから扇子せんすを取り出してあおいだが、すぐその手を止めて、ふとかざして見ながら)おお、咲きました。貴女あなたの顔が咲いたように見えます。

百合 ええ?(聞き返す。)

学円 いや、髪の色が咲いたように見えます。

百合 もう、年をとりますと、とても花などではございません。早くからびて干瓢かんぴょうにでもなってしまいたい、…とそればかりを待っております。

学円 小刀ナイフをこちらへ貸して下さい…わしきます。―お世話を掛けてはかえって心苦しい。どれどれ…旅の間に合わせに、不器用ながら、なしの皮ぐらいは、うまく剥きます。おおおお氷よりよく冷えている。ぎょくけずるとはこの事じゃろう。

百合 旅をなさっている御様子とお見受けいたします…貴客あなたは、どちらから来られて、どちらへお行きなさるのでございますえ?

学円 いやいや、『何々峠なになにとうげを越す』などと、はっきりした行き先があるわけでもありません。御覧の通り、わしは学校につとめる者で、暑中休暇に見物学問とかいうものをしながら歩いている…もっとも、その帰り道です。―すずしければ木の芽峠きのめとうげから、あの有名な中の河内なかのかわちか、(ひさしはずして山を見るようにまゆを動かし)みね茶店ちゃやにいる茶汲ちゃくみ女が赤い前垂あかまえだれをしているというのが本当なら、そこがたとえ疫病神やくびょうがみまり場でもかまわんから、湯の尾峠ゆのおとうげを越そうとも思います。―最後に落ち着く先は京都ですわ。

百合 それでお泊まりは?貴客あなた、今晩の。

学円 ああ、うっかり泊まる所などをお聞きなさらない方がいい。言葉尻ことばじりにつけこんで、『泊めてくれ』と言い出さないとも限らんぞ。はははは、いや、これは冗談じゃ。御心配はいらんが、ところで、その湯の尾峠の茶汲み女は、本当に今でも赤い前垂じゃろうかね。

百合 うそのようにもお思いなさるでしょうが、山また山の峠の中なのに、その通りだということです。

学円 谷の姫百合ひめゆり深紅しんくに咲くことを考えれば、そうだとしても何も不思議はない。しかし、それはともかく、この通り、山ばかり、かさなりつらなっているいただきながめていると、…まるで夕焼け雲が、めらめらと岩に焼け込むようにも見えてくる。こりゃ、赤い前垂よりさらにすご雪女郎ゆきじょろうがいるとしても、中の河内がいいかもしれない。それにしても、暑いことじゃね。―やっとここで一息つけた。

百合 里では死んだ人もありますッて…何しろひどひでりでございますもの。

学円 わしも今朝から難行苦行なんぎょうくぎょうといった形で、八九里の間この暑さに悩まされましたが―おそろしい事には、水らしい水というものを、ここに来てはじめて見ました。これはき水のようですな。

百合 裏のがけから湧きますのを、かけひに受けて落としているのです…細い流れでございますが、石に当たって、りんりんとがしますので、この谷を、あの、琴弾谷ことひきだにと申します。貴客あなた、それはそれは、おいしい冷たいお水ですよ。…一杯んで差し上げましょうか。

学円 どうして今まで我慢などしていられたでしょう。釣り鐘堂に気付く前に、この美しい水を見るとすぐ、まっさかさまにひっくり返って口をつけて、手ですくい上げてがぶがぶと飲みました。

百合 まあ、どうしましょう。そうとも知らずにわたしはお米をぎました。

学円 いや、磨いだ水は菖蒲あやめの白いしぼり模様と、夕顔の花の化粧になったようで、下流の水はやっぱり水晶のようにき通って、少しもにごりはしなかった。それにしても、村里全体が、飲む水にも困っているように見えたのに、ここの水源まで来ないのはともかく、流れている水をむ者もなかったように思う…何か訳でもあるのじゃろうか。

百合 あの、水が湧きますのは、裏のがけでございますけれど。

学円 はあ、はあ。…

百合 そのみなもとはこの山奥にございます、夜叉ヶ池というすごい大池だそうで。その水底みなそこには竜がんでいて、そこから来ているというこの水には―毒があるとこわがっているのです。―もう薄暗くて見えないでしょうけれども、貴客あなた、その流れの石は、水がかかると、紫だの、緑だのに光り、口紅ほどの小さな粒もじって、それはそれは綺麗でございますのに、村の人たちは『お池のぬしの従者のうろこがはがれたものだ』などと言って、気味悪がるのでございます。…

学円 綺麗な石が毒蛇の鱗?や、そうとも知らずがぶがぶと、わしはとんでもないことをやってしもうた。(と扇子で胸を打つ。)

百合 まあ、(と微笑ほほえみ)わたしたちがこの歳まで朝夕飲んで何ともない、そのことをあの、村の人はうたがうのでございます。

学円 ごもっとも、ごもっとも。ものを疑うのは人間の習性ですよ。わしは今のあなたのお言葉を聞いて、すっかり心配が消えました。実際に朝夕飲んでいらっしゃる、―そのお歳まで―(とここでじっと見つめて)ところでお幾歳いくつじゃな。

百合 ……

学円 まあまあ、失礼じゃが、お幾歳です?

百合 御免ごめんなさいまし、…忘れました。…

学円 ははは、ことわざにも、婦人に対して、『貴女あなたはいつ死ぬのか』とは問うてもいい。しかし、『いつ生まれたのか』、とは聞くな―というのがある。これは無遠慮が過ぎました。…おいくつじゃともう歳は尋ねません。ところでおいくらですか。

百合 いくらかといいますと?

学円 値段じゃ。

百合 あの、お値段、何の?…お金…まあ、とんでもない。お茶代など頂こうとは思っておりません。

学円 茶も茶じゃが、いやあこう言うと、ひげのようにもじゃもじゃと聞こえておかしい。茶ももちろんご馳走ちそうになったが、なしをたくさん頂いた。たとえご商売ではないとしても、ただでは心苦しい。『余計なこと』とずばり言われれば黙って立ち去りますが、わしは旅でここへ来た身で、御覧の通りの風体ふうてい。ちゃんと言って金を取って下さい。

百合 そうなさらないとお気が済まないというのでしたら、少々お代を頂きましょうか。

学円 もちろんですとも。

百合 でも、あの、お代とは言いましても、お金とは限りません。そのかわり、短いのでもようございますから、お話を一つ、お聞かせなすって下さいましな。

学円 話をしろですと、…しかし、どんな話です?

百合 いろいろと旅をなさった時の、面白おもしろい、めずらしい、お話でございます。

学円 その話を?

百合 はい、お代のかわりに頂きます。貴客あなたにだけではなく、薬売りの衆、行者ぎょうじゃ巡礼じゅんれい、それにこの村里の人たちにも、お役に立つものがあってそれを差し上げて、『そのお代を払おう』とおっしゃる方には、どなたにも、お話を一つずつうかがいます。たくさんお聞かせ下さいますと、お泊めいたしもするのでござんす。

学円 むむ、これこそ珍しい話じゃ。(とひざを軽く打って)面白い。話しましょう。…が、さて話といっても、とりあえず―お茶代になるようなものじゃからって、『長崎から強飯こわめし』、つまらないことをだらだらお聞かせするのもなんじゃな。そうそう、思い出した。しかもこの福井の話じゃ。

晃 (細く障子を開いてそっと外をのぞく。)

その時、晃は小机に向かい、帳面を開き、筆を取って、客の物語る話を書き取ろうとしたのであるが、学円と互いに、ふと顔が合うと、どうしたわけか、燈火ともしびをふっと消す。

百合 どんなお話ですか、もし、貴客あなた

学円 …ところで、ここで話すのを、貴女あなたのほかに聞く人がいるでしょうかね。

百合 いいえ、他にはお月様だけでござんす。

学円 どうりで明かりが消えて、ああ、蚊遣かやりの煙で、よくは見えないが、…どうやら納戸に月がしているらしい。―お待ちなさい。今、言いかけた福井の話というのは、えんの下で牡丹餅ぼたもちけたというものです。たとえば、ここでわしが何か言うと、その通り、縁の下で口真似くちまねをするやつがいる。そこで村中の者が寄り集まって、『口真似するのは何ものじゃ。狐か、』と聞くと、『違う。』と答える。『狸か、』『違う、』『かわうそか、』『違う、』『魔ものか、天狗てんぐか、』『違う、違う。』…最後に『牡丹餅か、』と尋ねた時、『そうだ』と言って消えせたという―その話をする気であったが、…あなたの他に月が聞いているということじゃから、考え直して、別の話をする気になった。お聞きなさい。これは一昨年おととしの夏に起こったことで―
一人、わしの親友に、以前から『日本中に伝わる面白い、また変わった、不思議な物語を集めてみたい。』とこころざしていた男がいて、…『いつかは日本中残らずとは思うが、とりあえずこの夏は、山深い北陸方面の、谷を渡り、峰を伝って尋ねよう、』と夏休みに東京を出たのですが。―それっきり、行方ゆくえが知れず、音沙汰おとさたがなくなった。親兄弟もある人物なので、できる限り、手をくしてさがしたが、まったくどうなったかわからんから、われわれ友だちの間でも、『もうこの世にはいないだろう、死んだに違いない、』とあきらめて、都を出た日を命日にする始末しまつ。いや、一時は新聞沙汰ざたにもなり、世間でもえらい騒ぎだった。…自殺か、事故か、事件かと、寄るとさわると、むなしく涙ながらに語り合ったものじゃ!姿を隠したり、死んだりする、何の理由もない男じゃというのに、貴女、世間には変わった事があるものですな。…

百合 ああ、貴客あなた、貴客、ありがとうございます。…ほんとうにありがとうございました。(と愛想あいそなく言う。)

学円 そんなに礼を言って、こんな話で茶代のかわりになるのですかい。

百合 もうけっこうでございます。

学円 それでは面白かったのじゃね。

百合 …おもしろいのは、前の牡丹餅の化けた方、あとのはけっこうでございます。

学円 しかし、面白いところはこれからなんじゃ、今のはほんの前置まえおきなのですが。

百合 どうぞ、…ほんとにけっこうでございますから、…それに貴客、もう暗くなります。そうなってはお宿をお取りなさるにも御不自由でございましょうから。…

学円 いやいや、話の内容によっては、宿を貸す事もあると言われた。わしも一つ泊めて下さい、―この話にはそれだけの価値がありますから。

百合 さっきは、貴客、『女の口から泊るところなど聞くんじゃない。…その言葉に付け込まれて、宿を頼まれでもしたらどうする』とおっしゃって。…わたしはもう、なんと清くさわやかなお方だろうと思いましたのに、…女しかいないうちに、『宿を貸せ』などと、そんな事を、…もう、わたしは気味が悪くなりました。

学円 気味が悪いですかな?わしは牡丹餅の化けたものではないが。

百合 こんな山の中の家では、お化けより、都の人の方が怖いのでござんす、…さ、貴客どうぞもうお帰り下さいまし。

学円 これは、追い出されるとはひどい。(渋々しぶしぶ立つ。)

百合 (続いて出て、後ろから押すように)どうぞ、行って下さいまし。

学円 ご婦人しかいないのでは、あれこれとは言えないか。鉢植えの木はないにしても、蚊を追い払うためにく柴もあるというのに、…普通の宿なら、こんな風にむごい扱いはしないじゃろう。…雪の降っていないのがせめてものすくいじゃ。

百合 真夏の土用の百日続くひでりの今、たとえ雪が降ったとしても、お泊めすることは、…(と立ちながら、納戸の方をじっと見つめて、学円にひとみを戻す。)御機嫌よう。

学円 では、失礼します。

晃 (すっと蚊遣かやりの煙の中に姿を現し)山沢、山沢。(ときっぱり呼ぶ。)

学円 おい、萩原、萩原か。


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