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昇降機小景

 日本人にとって愛情を表現するという行為は、非常にハードルの高い、不得意なスキルの一つではないかと思う。
 男女間においてもだが、家族に対する愛情表現となると、テレビのホームドラマのように明るく朗らかにという訳にはいかない。例外は、小さな子供を持つ母親の愛情表現くらいではないだろうか。幼い頃、十分に抱っこされたり、髪を洗って貰うというようなスキンシップを大人から与えられた子供は幸福だ。大人になっても彼らにとって、他人とのスキンシップは快く、安心感を与えてくれる幸せなコミュニケーションの手段になるだろう。

 僕が十歳の時、いつものように夕飯を食べ終わり、さてリビングでテレビでも見ようと立ち上がりかけた僕に、父さんが神妙な面持ちで、大事な話があるから座っていなさいと言った。母さんの青ざめて緊張した顔と、ここ数日来、両親の間に漂う不穏な雰囲気から、良い話で無いことは予測出来た。ダイニングの椅子に座り直し、父の顔を伺うと、案の定、父さんと母さんは離婚する事にしたんだ、と切り出された。
 母さんの方を見ると、カッと丸く目を見開き、身じろぎもせずに僕の目を見つめていて、その尋常じゃない様子に、僕は正直寒気がした。

 それで、と父が続ける。お前は、ここに居て父さんと暮らしてもいいし、ここを出て母さんと一緒に暮らしてもいい。どちらを選択しても、お前は父さんと母さんの息子だし、怒ったりしないから、お前のいいようにしなさいと。
 僕は母さんの食い入る様な目を見たくなくて、下を向いた。それ、今、決めるの? 今、どっちって言わなきゃ駄目なのと父さんに訊くと、いや、今すぐじゃなくていいけどね、母さんはもう他所にアパートを借りたそうだから、いつまでもここには居ないんだ、と父さんは淡々と答えた。

 それを受けて、母さんが初めて口を開いた。三部屋あるのよ、お前の部屋も用意してやれるから、大丈夫よ。
 瞬きもしない母の丸い目は僕を怯えさせ、緊張と重圧で冷や汗が背中ににじみ、身体が小刻みに震えだした。僕は震える足を抑えつけるようにして椅子から立ち上がると、ちょっと考えさせてと口の中で呟き、両親の顔を見ないように顔を伏せたまま自室へ引っ込んだ。
 いつものように布団がクチャクチャになっているベッドに潜り込むと、頭から布団を被って丸くなった。
 どっちに付くか、どうしたらいいのか、子供ではあったが、その時僕の気持ちはほとんど決まっていたのだ。

 翌日の夕食の時、家族三人誰も口を利かず危うい緊張感の漂う食卓で、僕は両親にこの家で暮らしたいと言った。引越しとか苗字が変わるのが嫌だと言った。俯いた目の隅で、母さんの動きが固まるのを認めたが、僕は目を上げられなかった。
 引越しは面倒だ。母さんが何処に住むのか知らないけど、転校も嫌だし、第一今まで専業主婦だった母さんと二人で暮らすのは経済的に無理ではないかと、子供なりに考えたのだ。その点、父さんの仕事は今のところ安定している。万一、父さんが再婚でもするとなったら、この家にも居づらくなるかもしれないが、それはその時でいい。

 もし、母さんが僕に十分スキンシップをするような、甘ったれを許してくれるような母親だったら、僕はもしかすると母さんに付いたかもしれない。しかし、僕の母さんは父さんと同じくらいドライで、子供を一人の人間として大人扱いする、言ってみれば進歩的な母親だった。僕には父さんは元より、母さんに甘えた記憶が無かった。
 父さんも母さんも、同じくらい僕を大事にし、同じくらい僕を放ったらかしにした。ならば、環境があまり変わる心配の無い父さんに付いた方が得策と考えたのは、両親譲りのドライさかもしれない。

 母さんが出て行って父さんと二人の生活になったが、僕の事を心配した、父方のお祖母ちゃんや叔母さんなどが、時々家に来ては料理や掃除をしてくれたので、僕の生活は案外と落ち着いて平和だった。多分、母さんがいなくて淋しいと思ったのは、最初の二日くらいだったと思う。
 その後、男二人の生活に慣れてしまえば、それは意外と気楽でのんびりしたもので、いつもキビキビと規則正しく、潔癖症で神経質だった母さんと二人暮しをしなくて良かったと、僕は密かに胸をなでおろしたほどだ。

 父さんは、母さんと僕が月に何度か会う機会を作ってくれたけれど、喜んで出かけて行ったのは小学生までで、中学に入ると、せっかくの休みを母さんと過ごすのは面倒になり、友人との約束を優先するうち、面会の間隔はどんどん伸びていった。いつか母さんと会うのは月に一回になり、そして年に一回と減っていったが、僕は別段悲しくも無かった。

 そして高校進学が決まった時、母さんはお祝いを上げたいから、一緒にデパートへ行こうと僕を誘ってくれた。さすがにこれを断るのも変なので、僕はまだそこここに雪が融け残る春の日の午後、待ち合わせ場所のデパートへ一人で向かった。
 デパートの正面玄関で、ガラス扉の中に見つけた母さんは、パリッとしたベージュのコートに身を包み、お洒落をして以前より若々しく明るく見えた。僕がもそもそと挨拶すると、母さんは僕の肩に手をかけて、背が伸びたねぇと嬉しそうに言った。確かに僕の背は、既に母さんを追い越していたのだ。

 母さんは僕に、新しい靴と鞄を買ってくれ、そしてデパートの上階にあるファミリーレストランで、何か食べようと誘ってくれた。やけにだだっ広いレストランの窓側の席を取ると、母さんは窓を背にして大きめのソファに腰掛け、僕は母さんの向かいの席に座った。その時、初めて母さんの左手の薬指に、金の指輪が嵌っているのに気づいた。ウェイトレスが持ってきた、グラスの冷たい水を飲みながら、じっとその指輪を見つめていると、母さんが少し照れたように話し始めた。

 母さんね、去年から一緒に暮らしている人がいるの。結婚はしてないのよ、まぁパートナーってところね。
 パートナー? 語尾上げの僕の訊き方には棘があったろうか。
 その人も離婚してて、大学生の男の子が二人いるの。だからね……籍は入れないと思うのよ。
 へー、なんで?
 ちょっとお金持ちなのよ、その人。だから、あとあと面倒になるのも嫌だから……。
 ふーん、だからパートナーなんだ。
 まぁね………。

 その話はそれっきりだった。僕もそんな事を聞きたくはなかったので、その後はケーキを食べながら、当たり障りの無い、進学についての話などしたと思う。日も暮れてきて、もう帰ろうという事になり、僕らはレストランを出てエレベーターホールへ向かった。古風なデザインのエレベーターには、やはり古風なエレベーターガールが同乗し、白い手袋を嵌めた手の指先を揃えて客を案内してくれる。日中の夕方ではあったが、レストラン街から下りる客はけっこう多く、満員ではないものの、僕の前後左右には誰かしらの服や荷物が触れる程度に混んでいた。

 エレベーターが下がりだし、フッと身体が重力から解放されたようなかすかな浮遊感を感じながら、なんとなくエレベーターの下り状況を示す丸い電飾の入ったボタンを眺めていると、だらしなく下げた僕の左手を誰かがそっと握ったの感じた。その生温かい手の感触に驚き、パッと手を引いてそれを振り払うと、左側にバツの悪そうな顔をして立っている母さんと目が合った。
 僕はびっくりして、ほんの一秒ほど母さんと見つめ合ったが、すぐ何事も無かったように真っ直ぐドアの方を睨んだ。母さんの手の感触は、僕には異質で、決して快いものではなかったのだ。子供の頃、散々放ったらかしだったのに、今になって急に近寄られても、どう受け止めていいか分からないではないか。

 もう少し大人になって、初めて好きな女の子と付き合うようになった時、僕はその子と手をつなぐ事が出来なかった。彼女と並んで歩いていて、何かの拍子に手が触れ合ったりすると、まるで電気にでも触れたかのようにビクリとし、慌てて手を引っ込めたものだ。
 しかしそれは後に、やる事をやってしまうと、何のためらいもなく手をつなげるようになった。

 僕はその後、二三の恋愛を経て二十九で結婚し、今は四歳になる息子が一人いる。妻になった女性も、あまり家庭的に恵まれなかった為、僕らは結婚式は上げず、籍だけ入れて一緒に暮らし始めたのだ。
 父さんは相変わらず、あの家で一人暮らしを楽しんでいる。母さんは、何年か前にパートナーの男性が病死し、彼の二人の息子に葬式を仕切られて、肩身の狭い思いをしたらしい。
 時折僕は思い出す。母さんの少しカサカサした乾いた手の温もり。思いつめると瞬きもせずに見開かれる丸い目。

 珍しく仕事が早く片付き、家で夕食を済ませて息子と遊んでいると電話が鳴った。電話に出た妻が僕の方を見て、お母さんからよと言う。僕は、少し億劫に思いながら受話器を受け取った。話の内容は、この春幼稚園に入る僕の息子の為に何か買って上げたいから、今度の日曜日、みんなで一緒にデパートへ行かないかという誘いだった。母さんのセリフを電話口で繰り返して妻の顔色を伺うと、コクコクと頷いている。

 そんなわけで僕は実に二十年ぶりに、母さんとあの老舗の百貨店で待ち合わせをすることになった。
 妻と息子が手をつないで歩く後ろ姿を眺めながらデパートに向かうと、流石に外観やショーウィンドウのデザインは昔と変わっているが、正面玄関の大きなガラスの扉は昔通りだ。扉の向こうで、母さんは既に待っていて、孫の顔を見るとその顔が嬉しそうに崩れた。還暦は過ぎたが、膝が弱い以外はまだまだ元気そうだ。

 母さんは、妻と息子のリクエストに応えて、少し高めの子供服を二三枚買ってくれた。そして、ご馳走するから上のレストランに行ってパフェでも食べましょうと言う。息子は勿論、妻も大喜びしている。
 上階へ行こうとエレベーターホールへ行くと、昔のままのレトロなエレベーターには、驚いたことにまだエレベーターガールが健在で、手に白い手袋を嵌め、にこやかにドアを押さえてくれていた。
 息子がエレベーターの窓から外を見ようと、妻の手を振りほどき広いガラス面に向かって走ると、こら、走っちゃダメと、妻が慌てて息子の小さな手を掴む。

「まぁ、ケイ君は、あんたの小さい頃にそっくりだわ。あんたもあんな感じで、よくエレベーターの窓にくっついて外を見てたよねぇ」
「そうだっけ?」
「目当ての階に着いてもなかなか下りようとしないから、母さんがあんたの手を掴んで引きずりだしたりね」

 妻と息子の後ろ姿を見つめながら微笑む母さんの横顔を見ていたら、突然僕の胸の中に、幼い頃の記憶が蘇った。紺色の新しいジャンパーと半ズボンをはいた僕が、エレベーターの窓ガラスにくっついて灰色のビルの街並みを眺めている。その小さな左手をしっかり握りしめているのは、水色に白い小花を散らしたワンピースを着た、まだ若い母さんだった。

「九階、レストラン街でございます」
エレベーターガールの機械のような声に従ってエレベーターを下りると、左手を妻に握られている息子が、右手を母さんに差し出した。母さんは目を丸くして、それからさっとその左手を伸ばして息子の右手を握った。ニコニコと、嬉しそうに。
 三人で手を繋いで歩く後ろ姿を眺めながら、僕はまた思い出していた。
 若い頃の母さんの手は、柔らかくふっくらとして、そしてその温かさが快かった事を。

 了


奥付



昇降機小景





著者 : 葉山ユタ
ブログ:「白嘘物語‐つくも嘘物語」


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2012年1月17日


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