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日の出食堂/白縫いさや

 少年探偵は不意に背後に気配を感じ振り返る。夜明けの朝靄の中、平屋の灰色の影が隆起していた。日の出食堂である。気付けばそこは錆びたシャッターだらけの寂れた商店街である。その中で日の出食堂だけが黄色い光を零していた。自転車に乗った新聞配達の高校生がベルを鳴らして少年探偵の脇を走り抜ける。

 日の出食堂は閑散としていた。少年探偵は席の隅に一人の女学生を見つけ、それとなく隣に座る。納豆定食二百円。女学生と二人で熱い茶を啜っていると、なかなかお互い第一声が出ない。しかしついに被ってしまう。包丁がまな板を小気味良い音を立てて叩いている。それからぽつり、ぽつり、と女学生が来春に見合いすることを告白し始めた。「いやなのか」「うん」「じゃあ、おれと逃げよう」少年探偵は女学生の手を握る。俄かに震えたその手は確かに少年探偵の手を握り返す。女学生は伏せたまつ毛をゆっくりと持ち上げ、

「起きなさい、朝よ。学校に遅刻するよ」

「……出て行かないよね」

 くぐもった声で少年探偵が問うと、まだぼんやりとした視界に老いてやつれた女学生の困ったような笑みが浮かんだ。どこか遠い記憶の片隅から包丁がまな板を叩く音が、ひっそりと響く。

(あれはどこだったろう)

 少年探偵は母親の首筋に鼻を埋めて記憶を推理する。


夜鶯(ナイチンゲール)の戦死/五十嵐彪太

 夜鶯が一斉に歌い出した。

 夜明け前の森は飛び起きて、周囲を警戒する。

 夜に聴くには、美しすぎる歌。

 夜鶯の歌は、クレッシェンドを続け、日の出とともに唐突に終わった。

 まもなく森は、傷ついて死んだ夜鶯を一羽発見する。

 夜より暗く、静かな一日の始まりだった。


朝霧の中で/立花腑楽

 始発電車に乗って仕事場に向かう。

 二両ほどの短い電車は、湖を右手に大きく迂回しながら、隣街を目指す。

 古い――とても古い形式の車両で、赤フェルトのロングシートが二列、車窓に沿って向い合せに長く伸びている。そこに座っているのは、この車両にも隣の車両にも、僕ただ一人だけだ。

 窓の外の景色は一面、湖から登る朝霧で乳白色に包まれている。その濃いクリーム状の大気に霞められながらも、シジミ採りの船が何隻も湖面に浮かんでいるのがうっすら見えた。

 いつもの朝。いつもの景色――。

 大きな欠伸が立て続けに出て、眼球がしぱしぱと涙で沁みた。深酒が祟ったのか、未だ昨夜の夢を引き摺っている気がする。いっそ、このまま微睡みの中に舞い戻って、夢の続きに決着を付けてやりたいのだが、どうも頭の根っこでは、目的駅を降り過ごしてしまうのを恐れているらしく、妙にそぞろで目が冴えていた。


 車両内は、少し過剰かと思うほど暖房が効いている。

 空気も澱んでいるのだろう。体が新鮮な酸素を欲しているらしく、先程から欠伸が止まらない。それなのに、ちっとも眠気に芯が入らないのは、何だか甲斐がなくて退屈な気分だった。まだ目的駅への到着には、随分の猶予があるというのに、うんざりする。


 車窓に眼を向ける。朝霞に白く濡れた外気がひやりと潤んで、何とも心地よさそうに見えた。ふと、ぼわぼわと熱っぽく緩んだ意識に活を入れたくなって、ちょっとだけ窓を開けてみる。

 途端、僅かな隙間から、煙みたいに濃密な白靄が車両内に入り込んだ。清涼で冷たい朝霧だと思っていたそれは、イガイガと嫌な臭いがした。煙草の煙そのものだ。僕はそれをもろに吸い込んでしまい、酷い咳が止まらなくなってしまった。

 操縦室から車掌が慌てて飛んで来て、車窓をバタリと引き下げる。

「困りますよ、お客さん。陽が照らないうちから窓を開けるなんて、そりゃ無茶だ。お体に障ります」

 車掌に叱られながら、目頭に滲んだ涙を拭う。

「あと三十分も経って、お日様も高くなって、そうすりゃ、この臭い霧も綺麗に消えるでしょう。それまでは窓の開閉は、ご遠慮願いますよ」

 

 僕は、車掌の注意に頭を下げると、再び窓の外に視線を向ける。朝霧は先ほどよりは薄らいでいる。そのため、湖面を漂うシジミ漁船の船群が、いくらか判然として見えた。

 船上では、漁師たちが長柄の鋤簾で湖底を掻いている。その仕草が何とも億劫そうに見えて、こんな臭い霧の中で漁とは、きっと遣り切れんのだろうなと勝手に思いながら、僕はもう一度、大きな欠伸をした。


黎明/圓眞美

 海陸の境界線に向かい合わせに立つ。わたしの右足とあなたの左足は罅ぜた砂の上に、あなたの右足とわたしの左足は冷たい水のなかへ浸す。わたしたちは長いことそうやって静かに立ち続けている。陽は沈みまた昇り、月は輝きまた密やかに身を潜めてゆく。どれくらいのあいだこうしているのかは、もう忘れてしまっている。おそらく重要でもない。しだいにわたしの右側とあなたの左側は乾き、あなたの右側とわたしの左側は湿ってくる。足下から。

 あるとき、本当に唐突に、額の真ん中がしくしくと痛み出す。それは胸の中心を通り、臍を抜けて陰部を貫く。境界線はとうとうそっくりそのままわたしたちの体表に写し取られる。

 するとわたしたちはどちらからともなく歩み寄る。慎重に。そう、と、膚を触れ合う。乾いた半身は互いの湿った半身に吸い寄せられ、湿った半身は余すところなく乾いた半身を摘み取ってゆく。わたしたちはそれぞれに孵化し、わたしとあなたと、あなたとわたしになる。


けものどもの朝/立花腑楽

 暁光が西征を開始した。アスファルトを舐めるような進撃が、瞬く間に夜獣の群れを追い散らす。

 陽に尻を炙られながら、獣どもは恐慌の一群となり、薄明の街を遁走する。

 縺れた足が生ゴミ入りのポリバケツを跳ね飛ばし、行く先々で野良犬に吠え立てられる。

 街がじわりと解凍していく音を背中で聞く。

 夜獣の群れは、ひたすら西へ西へ――次なる夜に到るまで。



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