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 今、この文章を書き始めるに当たって、何から始めれば良いだろう?・・・批評というものが現代において、知的なゲームから逸脱して、行動の芸術に真剣に向かい合う知性の光であるためにはどうすれば良いだろう?・・・その答えは既にはっきりとしている。そして僕は、僕という人間はこの答えからスタートを切ったのだ。
 その答えとは「神聖かまってちゃん」であり、そして、その(初期の)思想の精髄である、「ロックンロールは鳴り止まないっ」である。この曲には、そうした思想などというものは入っていないように感じられるかもしれない。そうした高級なものなどどこにもないではないか、と。だが、そうではない。この単純な叫びから我々はーーー自分の脳髄に捕らわれていた我々はーーー始まるのであり、また始めなければいけないのだ。
 だが僕は今急ぐのをよそう。せいては事を仕損じるーーー落ち着いて、落ち着いて。僕は今、やっとこの曲の影響下から抜け出し、この偉大な芸術家(そうは見えなくても)から這い出し、ようやく、僕自身の沈黙を破る機会に出会っているのだから。

 芸術は形骸化する。全ての物がそうであるように。宗教、哲学、政治、学問、ーーーそして人間の生活さえも。もっとも無私であり(そして私的であり)、生き生きした実態であり、また、全てのものの源でありながら、それが生み出したものの所によって支配されるものーーー「生活」というものさえ形骸化する。・・・というより、現代という腐食した時代は生活という人間の最後の砦まで、形骸化して、食ってしまったと言えるだろうか。
 今、僕はこの形骸の歴史については詳しくは書かない。ただ一つ、宗教という例を上げてみる。キリスト教は教会によって形骸化し、神道は神社という「形」によって形骸化する。人間が本来持っていた素朴な神への信仰はいつの間にか、一つの形に変わり、それを人間が修めるようになり、いつの間にか神がーーー人々の中にいた素朴な神が消え、神に似た何かを信仰するように強いられているーーー偶像、お布施、豪壮な寺や神社、教会と言ったもの。それは神の象徴ではなくして、いつしかそれ自体が目的に変わるようになった。我々の中には神は既に失われているのである。・・・そして形骸だけが残った。・・・とでも言えば分かってくれるだろうか?他の事も似たようなものである。
 形骸化というのは現代人にとって、あまりに身近である。我々はそれを毎日、空気のように吸っている。それは誰にとってもあまりに身近ーーー身近というより、肉体の一部にすらなってしまっているので(時として肉体の全部ーーーいや多くがーーー)、誰も気付くことはできないし、実際できなかった。
 そして先にも書いたように、生活もまた形式と化した。これはまさしく現代の発見であり、社会の個人への浸食である。これまで生活は社会とは一線を画し、外壁を持って区別され、その内部においては、僅かにその自由を保存されていた。ところが現代においては違っている。それは一体何が原因だろうか?・・・おそらくはテクノロジーの進歩、情報というものの伝播のスピード、そして映像によって生活はその実態を映し出され、巨大なスクリーンに引き出され、そしてそれがもはや一つのモデル化してしまったことにある。・・・こうして各人は己自身に忠実に生活を意欲するのではなく、一般幻想(テクノロジーと欲望が作り出した)に向かって生活を始めるようになった。
 ここでついでに言っておきたいが、僕は保守派ではないので、テクノロジーの進歩がよろしくない、などと言う気はない。だが個人は社会と争闘し、社会は個人と争闘するべく(それがどんな良いものであろうと)義務づけられている今、個人は圧倒的に社会に敗北しているという現状を正しく認識したいと願っているだけだ。
 そしてこの現状ーーー社会が個人に圧倒的に勝利し、我々の生活が既に「モデル化」し、形骸化してしまっているということを我々は殆ど無条件に享受してしまっていた。芸術というものは常に社会に対して個人の自由を宣言することによって・・・つまりは個人が社会に勝利することによって、また社会の進展を促し、その発達を促してきた。なぜなら、社会を発達させるのは常に社会そのものではなくして、強い個人(天才と呼ばれる)の力だからである。
 そして現代の現状はどうであろうか?・・・一体それはどうなっているだろうか?・・・我々は自分たちを省みて、まるで自分たちが海の中の一滴のように、社会という海に吸い込まれているのを感じる。「我々は存在しないのだ。」そして我々は・・・我々を追い求めるほど、自分自身から離れて行く。なぜなら、そうした我々の像というのはまさしく、社会が我々に与えるべく用意した、それぞれにお誂え向きの衣だからだ。・・・だから、誰しもが自己主張しようとする時、「社会的なもの」を持ち出す。「私は社会に認められたことがある・・・私は社会に認められたことがある・・・」。こうして個人というものは消失してゆくのだ。
 もう一度整理してみよう。この現代の現状、個人が一種の集合体として社会の中心に集まり、一つの塊のように個人そのものが溶けてしまっているという現状ーーーの源は先にも言った通り、テクノロジーである。(テクノロジーそのものが悪ということではない。)この伝播と伝達をその基礎に持ったあるものは、常に四方八方に情報をまき散らし、また情報を取り込むことが可能だ。・・・これによって全体の意向に沿いつつ、また同時に全体を制御し、部分を排除するような情報の集合体が生み出された。・・・我々は知らず知らずの内によってこれに規定されているのである。
 こうした世界の中にいる一人の個人の像を思い浮かべて見よう。それは正しく「あなた」であるはずだ。・・・まあいい。この個人は全体によって統御されている。この個人は、テクノロジーが生んだ一つの情報体によって、常にその肉体を、そして精神を、取捨選択され、価値づけられ、また無能、無策、役立たずとも判断される。我々は個人としては日々、こうした選択を受け続けている。
 だが先に言ったように、我々は「同時に」規定する存在であるはずだ。全体は個人の意向に沿いつつ・・・とさっき言ったばかりである。だから、この個人は全体を規定する。だが、規定するのはあくまで「多数の個人」である。だからこの個人にとって、全体とは常にあまりに巨大であり、そして自分という個人は絶対的に無力である。・・・そうして自分の非を悟った個人がどう動くか?・・・答えは一つだ。全体に依拠し、同化する事で力を得ようとするのだ。一般社会、一般的な理念に自己を捨ててすり寄ることで(ここでもまた一般社会、その理念そのものが悪というわけではない。それは必要な時もある)力を得ようとする。かつては自分達の意向に沿って生まれたこうした全体的な理念=情報の集合体というものは、もはや抵抗することなど全く考えられないような一つの巨大な生命体(全てを支配する)の地位を与えられたのだ。
 こうして一つの転回点が現れる。それはかつては我々が生み出したものであったが、今やそうではなく、我々に指示するものとなった。それはまず、誰よりも、弱者というものが自らを潔く捨てて、全体性の中に入ることによって、この個人というものを捨てた弱者が強者になることから始まる。彼は個人としての戦いを捨て、全体と同化することによって万能の神となるのである。彼に自分の意見というものはない。自分というものはない。だが全体の理念に従ってさえいれば、まるで万人に指示しているかのような錯覚を(いや、実際にしているか)自分に与えることが可能なのだ。
 こうして全体性は神となった、と言っていいだろう。そこには弱者を強者にするためのパラドックスがある。人は強くなりたければ、己を潔く捨てれば良いのだ。自分の意見、自己などという厄介なものをゴミ箱に放り込めば、彼は今すぐにでも、万能の神になれるのである。・・・これが今、我々が体感し、また取り込まれている実状と言える。この世界では弱者は強者となり、個人に拘泥するものは泥水を啜るのだ。・・・こうした状況に「神聖かまってちゃん」の「の子」は「ロックンロールは鳴り止まないっ」をひっさげて現れた。・・だが今、またもう少しだけ振り返ってみよう。これは、大切な事だから。
 我々にとって全体性とは、その理念とは神である。それはもはや、かつて我々が生み出した、生活の一般的形態、その抽象体とは似ても似つかない。我々の日々の生活がそれを作り出すのではない。我々はむしろ、その一般的な世界にとけ込むために一つの生活を行うのである。我々の一挙手一投足には意味がない。それは全体の光に触れることで、初めて意味を持ち、生命の息吹を吹き込まれるように感じられる。我々には個人、そして自己というものの所有は許されていない。そうしたものは持った途端に、社会から、全体から糾弾を受けるものである。我々が強者になるためには、自己を捨てるのが一番だ。・・・簡単に言って、現代の全体性とは、僕らとっての神であり、宗教である。・・・神を嫌い、宗教を嫌い、我々はここまできた。だが実際に現れたのは宗教よりももっと拘束力の強い、全体性の理念である。
 こうしたものは先にも言ったように、率先して自己を捨て去るものがネガティブなリーダーシップを取る。彼は全体性からはずれるものを貶し、陥れる。・・・こうして我々は少しずつ、全体性に同化することを半ば強制、また半ばは自己の安楽のために喜んで自己を犠牲にして全体性に捧げることになるのだ。
 こうした事における弊害とは何だろう?・・・まだ弊害というものを問うことができればの話だが?・・・なぜなら全体性というものにとっての弊害というのは個人的なもの、全体としての理念から外れたものに他ならないからである。今、私が問おうとしているのはそうしたことではない。
 こうした事についての弊害として当然、考えられることは、個人、自己というものがないということである。だから当然、人生というものはない。それぞれが違った航路を進み、また違う航路を進むからこそ、他人同士が互いの運命を認め合って同和する・・・などということは考えられない。みんなが同じ道なのだ。みんなが同じ考え、同じ表情、同じ人間に統一されてゆくのだ。この社会では。嘘だと思うなら、君の隣人の表情を見ればいい。君そっくりだから。君が頭でどれほど否定しようと、その隣人もまたあなたと同じように「自分はあなたと違う」と思っているのだから、これほど似ていることはない。
 この世界ではーーもうこの世界に棲んでいるのだーー全体というものに認可されなければ、人間としての意志と資格を剥奪されるというようなシステムになっている。もはや人間というものはいない。ただ人間という一般概念だけが我々の頭上に浮遊し、それは誰の手にも届かない所に存在する。各々がどうして違った顔をしているのか?・・・違った顔、個性というのは恥である。恥以外の何物でもない。世の中がどれほど「個性尊重」を叫ぼうとも、実際に社会に適合せず、役に立たず・・・いや、一般概念として認められていないような個性などはクズであり、ゴミである。それは必要ない。だから捨てられる。・・・「君は自分を叩き直してきたまえ。この社会に適合するように。」それだけである。・・・世界が個性と呼んでいるものは、我々にとって必要であり、かつ役に立つ限りの個性でしかない。「我々が認めてやらなければ個性などはない。」これが世界の声である。・・・だから今、個性のある人(芸能人など)はみんな、精一杯世の中に適合するように個性というものを演じて見せるのである。それは差異化を生み出すためだけに作られた差異である。彼らは一人ぼっちになれば、ぽかんとしてまるで能面のような表情を浮かべていることだろう。彼らの顔にどんな入れ墨も施せるように。
 個性というのは社会に強制された衣装である。この事を認めない人はもういないだろう。我々は何と多くの箇所で日々、自分自身を演じていることか?・・・そして演技が本質になり、自分自身がバラバラに裂けて、もう原型を留めていないのである。我々はバラバラの存在だ。もう自己なんてものはこれっぽっちも残っていない。そしてこうした、自己の非存在を熟知する人間ーーーいや、「知らずに感じている」人間が、この社会から再び、自分自身をもぎ取ろうと戦いを始めるーーー。だがこの人間は「なぜ」自分が存在していないかこれっぽっちも知らない(知りたくもない)ので、幼い自己主張をしようとして、益々ネットの中、情報、そして全体の中に入り込んであらん限りの声で自己を叫ぼうとしてまた、彼らは全体の中に沈んでいくのである。なぜなら彼ら自身、自分を失っていることに気付かないのであり、彼らは自分を得ようとして、益々社会が与える仮そめの自分に酔っていくのであるから。・・・これは麻薬などよりはるかにやっかいな症例である。なぜなら、彼らは酔えば酔うほどに、自分を失えば失うほど、自分が正義のただ中に、真理の中に入り込んでいるという事を自覚するからである。・・・こうして最後に無惨な一個人としての死体が浮かび上がる。全てが終わった後。まるでそれは彼らが間違っていたかのように顔面蒼白の死体顔をしている。生きていた時はあんなに生き生きとしていたのに・・・ではない。彼は人間ではなかった。一個人としての一人ではなかった。彼は全体に溶け、全体そのものとなっていたから、彼にはいかなる人間「関係」も、いかなる人生も、一個人としての喜びや悲しみは少しも、・・・そう、これっぽっちもなかったのである!・・・だが自然は慈悲ぶかい。彼は自然に帰って、初めて一人の人間に還ったのだ。無惨な一個人の死体として現れることによって。
 だがこれはあくまでネガティブな症例である。近い将来、こうした人々がかつてのヒトラーとそれを擁護した人達のように権力を握るかもしれないが、それはあくまでネガティブな症例である。・・・ではポジティブな症例ーーー病理の方を見ていこう。現代人というのはいずれにしろ、病人なのだから。
 何を隠そう、そのポジティブな症例こそが「神聖かまってちゃん」であり「の子」である。彼はこの腐った世界(と言っていいだろう。これほど堕落と諦念に満ちた時代はなかった)に咲いた一輪の花である。・・・ここでもまた、「良識ある人達」は鼻で笑うだろう。「あんなキチガイのどこがいいんだ?あんなのただのバカじゃないか?」と。・・・だが事実はそうではない。キチガイは我々の方なのである。この間違いに留意したまえ。この文章に傍点を打ちたまえ。もう一度言う。我々の方がキチガイなのだ。僕は「ロックンロールは鳴り止まないっ」を聞いた時に初めてそれを感じた。頭の輪っかが外れて、自分自身となった。・・・だがそんな個人的な事を語っていても仕方がない。このことをまた考えていこう。
 このキチガイーーー神聖かまってちゃん、その「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲、そしてこの作者「の子」は、誰よりも正常な人物である。いや、「あった」。彼はインタビューで言っている。「さすが天下一空気を読める男、俺」。彼はそんな風に自分を評価している。この人間はあまりに正常であったのである。この意味が分かるだろうか?・・・この人間はあまりに鋭敏で、他者に傷つき、おどおどして、自分を凹ませ続けているような人間なのだ。そして周りに怯え、傷つき、周りの空気を読み、そこに同化することにあまりに長けている人間なのだ。・・・ 我々は日常生活でそういう人間に出くわすと、そういう人間がなぜかいつも弱みを晒し、何かに怯えているような感じを受ける。事実、彼は怯えている。彼はいつも何かあれば自分を凹ませる人間なのだ。彼は全体性に、空気というものを読み、それにもっとももとり、私淑し、自己を凹まし、それに仕える第一等の奴隷なのだ。・・・こうした人間は精神の弱さと優しさのあまり、自己を破滅に導いて精神病院に入ったりする。・・・事実、「の子」もそうした系統の病院に通院しているそうだ。だがそうしたことは問題ではない。問題ではない!・・・問題はそこからの子という一人の人物が抜け出したことにある。彼はロックンロールというたった一本の剣を、武器を持つことで、それを理解し、摂取し、自らの剣とすることでこの世界とただ一人で戦っているのである。
 


 ・・・運命というのは不思議なものだ。僕は去年の十月に神聖かまってちゃんのライブに行った。その時、の子という人物と初めて路上で出会った。・・・出会ったと言っても、ファンである僕が少し離れた所から「の子」を覗いて見ていただけである。・・・僕はすぐにの子という人物がどういう人物であるかを理解した。これほど優しい人間はいない。そうなのだ。これほど優しい人間はいない。だから自分の優しさに傷ついて、他人を擁護し、他人に傷つけられることを良しとするあまり、自分の中に暗愚の怒りが渦巻いて、それがロックとなって迸る、そんな人間なのだ。
 僕はその姿を見た時、一つの運命の事を思った。優しく、弱々しい、一つの魂。だがその中には途方もないこの世への反抗心ーー一匹の天の邪鬼が隠されているのだ。もしこの人間に、社会に対する荒々しい反抗心がーーいや、例え備わっていたにしても、この人間が目の前にいることは奇跡なのだ。僕はその人間(の子)と会った時から、しきりにその事を思った。周りの人間は騒いでいる。「の子!」「の子!」・・・だが僕はそこには一つのあり得ない憂愁と孤独の魂を見た。僕だけが見たとは言うまい。・・・僕が言いたかったのは次のような事だ。すなわち、この社会、この世界ではこうしたの子のような優しく傷つきやすい魂は本来肉体の死を持ってこの社会から復讐されるべきものだった。・・それが正しいということではない。もちろん。こうした魂は現に、今日も自殺やメンヘラ(精神異常)という形で精神的自殺を遂げているだろう。だがの子は違った。何が彼を違えたのか?・・・それは誰にもわからない。だがこうは言える。神はこの人間に余りに課題な運命を課した。彼は言う。「神様、お前を殺してやる。」これは真実の叫びである。
 ・・僕は急ぎすぎたようだ。慌てるな、慌てるな。まだ先はある。・・・こうだ。彼はロックというたった一つの武器を手に立ち上がった。そして現実社会に対する失望と絶望から死に至ることはなく、(おそらくその時、精神は一つの死を見たーーーおそらく「いじめられた」時だろうーーー)彼はネット、インターネットという不思議な世界で再び人間としての自分を取り戻した。彼に肉体はない。僕は彼にーーーの子に会って、その事を感じた。彼に肉体は存在しない。ある文士によると、モーツァルトはその「肉体における分量が極めて少ない天才」なのだそうである。だが我らーー我らの時代の子である「の子」には、肉体というのは全く存在しない。彼はこの世界では死滅した存在である。・・・嘘だと思うなら、現実の彼を見たまえ。ライブに行けば分かる。・・・彼の顔は仮面がひっついて離れない、というような表情を常にしているはずである。
 こうした事が何であるか、と疑う人がいるかもしれない。こういう人間に何の価値があるか?・・・と。極端な場合は、ただの音楽ではないか?と言う人もいるかもしれない。(実際いるだろう。)だが、ただの音楽などない。ただの音楽などは教科書に書かれた音楽史を真に受け、真剣に捉え、それが音楽の全てだと思っている人々の頭の中にしかないのだ。ただの音楽などはない。それは常に(一流の音楽、そして芸術etc.)運命の奏でる主調音の一種である。自分自身の実存をかけた、現実世界との個人の駆け引きーーーその闘争である。・・・これを事実だと思わないものは既に、この世界に顔がめりこんでいるのである。僕はもはや簡単に言うことができる。君達が一人の人間の運命を掛けた闘争ーーーいや、運命そのものとの闘争、自分自身との戦いが自身であるような一人の人間ーーーそうしたものを認めない理由は正しく、君らが一人の人間である事を拒否して動物性にーーーいや、もっと無化された「無」に、この宇宙の始原以前の存在ーーーいや、非存在に還ろうとしている存在だからに他ならない。君らには人間の荷は重すぎたのだ。あまりに過大すぎたのだ。ーーーだから、君達はこの世界と闘争する一人の人間を認めないのだ。そして、孤立して世界と闘うような人間が自らの資質に従って、ロックンロールという武器を取ろうと、クラシックという形を取ろうと、僕のように(と言ってもいいだろう)文学などいう浅はか(と思われてる)ものでこの現実、この社会と戦おうと、そうした形式の違いはもはやそれほど大切なものではないのだ。人は形式から内面を読みとるしかない。だから形式は大切である。だが、形式から内面を、その深奥を覗きこまないものは一体、何であろう?・・・彼は形式がその本質と化した人間である。・・・だがその事はもういい。大切なことは・・・そう、大切なことは、この世界と戦うこと、一人の人間がこの世界の現実に辛い思いをし、復讐を果たし(ネガティブな意味ではない)、そしてようやく自分自身の人生をーーーいや、まだそこまで行かないーーー自分自身を、そういうものを、例え映像の中であれ、何であれーーー人はフィクションに生きるものだからーーー取り戻す、そう「自分を取り戻す」という事が何よりも大事なのだ!
 ・・・僕は語りすぎたかもしれない。だがそれでいい。現代に足りていないのは過剰であって、過少ではないから。・・・それはあまりに満たされ過ぎているために、人は急に突飛なことに飛びつく。・・・だがそういう事ももうどうでもいい。我々はここで一人の人間の運命というものに(現代人に運命ーーーというより宿命というものはない)出会っているからである。
 の子はロックンロールによって自分の回帰を果たした。その叫びを聞こう。ここからが本題だ。
 「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲は神聖かまってちゃんの代表曲と目されている。それはその曲が音楽的に優れているというより(音楽的な事は詳しくは僕には分からないが)、神聖かまってちゃんの思想の精髄が詰まっているからである。これ以前にも書いた。ではその思想とは何か?・・・それを見ていこう。
 僕はそらでも覚えている。この単純で力強い歌詞を。この作者は自分の過去を、幼かった学生時代を想起する。子供から大人に抜け出す、そんな時期だ。何もない学生時代、真っ黒な学生時代、その時、突然、ロックという流星に火が灯いたのだ。
 何もない学生時代・・・覚えがあるだろう。希望を抱いた魂はこの社会で自分ができることは何か、得意なことは何か・・・自分は何かをしなくてはいけないという使命感を抱いて社会に飛び出す。(学校も一つの社会だ。特にの子にとっては。)だがこの社会は冷淡だ。人々は今あるものを無条件に受け入れ、そして新たに何かをしようとする人間を拒否する。「空気読めよ」・・・これがこうしたものの言い訳だ。
 さて、我らがの子はこうした世界に絶望して引き返す。彼は希望を持ってこの社会に飛び立った。そして希望を持った人間は必ず、絶望しなければならない。絶望できるのは常に希望を持った人間のみなのだ。
 ・・・僕が語っているのはの子の実際の歴史ではない。の子にどうした歴史があるか、僕は詳しくは知らない。歴史家はそういったものを辿って、現実から一つの精神史を導き出してくるが、僕にとって大切なのはの子の精神史なのである。生な精神の現実ーーーその変化の歴史なのだ。
 この曲ーーー「ロックンロール」では、部活帰りにロックンロールを聴き、それが「MD取っても、イヤホン取ってもなんでだ、鳴り止まねえっ」というロックとの出会いから始まっている。僕はそこにーーー一つの光景が想像される。暗い道を歩いてーーー学校で嫌なことがあったのだろう、おそらく、嫌なことがーーーその帰りにロックを聴き、それに心打たれる純粋無垢な一人の少年がそこにいるのだ。
 繰り返し言っておくが、僕が言っているのは現実にの子にそういう体験があったかどうか、という事ではない。あくまで精神のイメージである。そういう像が現実に会ったかどうか、そういう、そういうようなロックとの出会いがあったかどうかという、ということだけが問題である。なぜなら複数の現実の中に埋め込まれた一つの真実を見つけだすのが芸術家の仕事であり、芸術家は現実に拘泥していてはいけないのだ。写実派という言葉があるがーーーどうしたって、写実が現実を映そうが映すまいがーーーそれは現実を超えなければならないのだ。もしその超える部分がなければ、なぜ印象派などというものが成立したろうか?
 の子が具体的にどういう歴史を辿ったのか、それはの子自身の歴史の奥深くの闇に隠されているのだろう。・・・「ロックンロール」に見られる、軽快な(と見られる)ロックとの出会いは、その背後に後ろ暗い闇を含んでいる。闇がなければ、内側に闇を抱いていなければ、また光と出会うこともできない。希望を持ってこの社会に飛び出すものは失墜せねばならないが、失墜したものだけが這い上がることができるのである。・・・現代人はおよそ「ポジティブ」という言葉を濫用するが、彼らには絶望がないので希望もまたない。白昼の中では光もまた薄いのだ。
 この曲の全体のテーゼは、ロックと出会った一人の少年が、ロックを叫び、そうして自分自身がまたロックンロールになる・・・というそんな過程を辿っている。そうした精神史・・・物語がある。僕はこの物語を信じる。彼を救ったのはロックという一本の剣であり、彼が現実に抗して、それと闘う刃はロックというたった一つの光なのだ。
 この曲の「ロック」ということに関して言うと・・・ニコニコ動画やyoutubeのコメント欄において喧しいように、「ロック」とは何か、ロックの定義とは何か、が問題になっている。・・・そして「ロックンロールは鳴り止まないっ」はロックだとか、こんなのロックじゃない、音楽じゃないなどといった賛成と反対の意見が入り乱れている様相になっているが、そうした病理そのものに彼らは気づいていない。そして心正しくこの曲を聴く人は正に、この曲が、そうした病理云々の人々に向かって叫ぶものだということに気付くであろう。
 ロックとは何か、という事に意味はない。繰り返し言う。そんな事に意味はない。ある一軍の音楽家達の集団をロックンロールと名付けたり、ジャズと名付けたりすることはできるだろう・・・。だが自分達をロックであると言おうと、ロックでないと言おうと・・・そうした事はどうでもいい事である。問題はそれがただ優れた芸術であるか否かという一点である。それがロックであろうと、ジャズであろうと、クラシックであろうと、どうでもいいことである。人の勝手に名付けた名称に、流れてゆく音楽が縛られるいわれはない。・・へーゲルやマルクスが歴史を規定しようと、今生きている人間が彼らの歴史哲学に縛られて行動しなければならない、といういわれは微塵もない。・・・だが現代とは正にそういう時代である。歴史哲学があれば、それに沿うように生きなければいきない、と思わせられている時代である。ある物事から抽象した真理というのが、真理なるものを元に行動の規範を転回しなければならない、そう思わせられている時代である。これは全く病的な事であるが、それはまるで空気のように(科学思想と共に)この世界に転回しているので、それに誰も気付いていない。それは作られた服を元に人間を裁断するようなものだが、皆、平気でそれを行っている。
 だが、ここでもう一度考えてみよう。「ロックンロール」という曲を。ここでは不思議な事に(不思議でもないが)、その最後には「(僕がこうして叫ぶ時)ロックンロールは鳴り止まないっ」という宣言で終わっている。これはどうした訳か。さっき、お前はロックンロールの定義などどうでもいいと言ったではないのか?・・・この点についてまた考えて見なければならない。
 この曲の最も主要なテーゼは、「最近の曲なんかもう糞みたいな曲だらけさと君は言う」という現実認識から跳躍して、「だから僕は今すぐ叫ぶよ!」という、現実に叫ぶという行為と自分がこうして叫んでいるという認識が統一している極点に集中してゆく点にある。そしてそれは「(僕が叫ぶ時)ロックンロールは鳴り止まない」という結論に墜落してゆく。この点についてよく考えよう。ここが主要なポイントだ。
 「最近の曲なんかもう糞みたいな曲だらけさ」と言うのは、言うまでもなく、僕らのペシミズムである。僕らはほとんど例外なく、諦めた表情をしている。「所詮、やっても無駄さ」・・・これが僕たちの言い訳だ。だが、事はここで終わらない。「所詮、やっても無駄さ」という我々の集団的認識は一つの行為である、という点に現代の最大の問題がある。観察が行為を制する。見る者が行動する者を圧し、その行動を制限し、最終的には行動そのものを疎外してしまうのだ。そしてこの見る者はこの化石化した(自分達が留めておいた)者達、行動しようとして失敗した(失敗させられた)者達を眺めて、次のように言う。「ほうら、やっぱり無駄だったじゃないか。」・・・人は、人を殺す時、巧妙に見えない所で手を回しているものである。自分達が見たいものを見るために、見られるものを巧妙に片方の手で、自分達で見られないようにしながら、操作し、あるいは破壊する。そしてその操作(破壊)が終わった後、彼らはそこに正に自分達が見ようとした真実を発見する。これが「現代の曲が糞みたいな曲だらけ」の理由である。
 ・・・だから、実際の所、そうした事を言っているものは正しく、そうした事を望んでいるのである。彼らはもし、世の中に素晴らしい曲の一つでもあれば、個人を、自己自身を歌った完全な歌があれば(それは正にこのーー「ロックンロール」だ)、真っ先に否定し、否定するどころか、抹殺しようとするのだ。・・・そうしてこうした曲を完全に無視か、あるいは無視できないほどの人気を集めてきたならば、集団的に圧力をかけて潰し(今のように)、そしてまたあの嘆きに帰るのである。「世の中の曲は糞みたいな曲ばっかりだ・・・」と。
 つまり彼らは自分の無価値を慰め、肯定しようとしているのであり、彼らにとって最大の敵は努力する者、上昇しようとする者、何より、優れたものを抱き、それを表現している人間達でありその作品や営為である。彼らは自分達が劣っている、誰よりも劣っている(身体的にとか、能力的にとか言う意味ではない。もちろん)ことを直感的に理解しているので、またそこから抜け出そうとする努力をする気もなく、また将来永劫に渡って「しないだろう」ということもこれまた直感的に理解しているので、彼らは何より、優れている(と考えられている)者を何とかその台座がひきずりおろして、自分達を慰めようとしているのである。
 何故そう言ったことが起こるかは分からない。だがとにかくも、この曲ーーー「ロックンロール」は正に、そうした人達に向かって反抗するために、の子という一人の人間の孤独の中で成熟された魂の一つの現れであるということは言っておきたいのだ、僕は。
 引き続き、彼の叫びを聴こう。「最近の曲なんかもう糞みたいな曲だらけさと君は言う」の後に彼は言う。「だから、僕は今すぐ叫ぶよ 君に 今すぐ 僕のギター鳴らしてやる!」・・・この「だから」の使い方は特徴的だ。そしてこの「だから」の使い方には一つの結節点がある。一つの極点がある。
 通常、「だから」という接続詞は「だから 無理だ」とか、「だから できる」とか言ったように一つの論理的演算としてーーー論理的な接続詞として現れる。現代人が神のように崇めている「論理的」という奴だ。この「論理」という問題は、原因と結果を、そして可能性と不可能性を示唆する数値として使われている。たとえば、もう少し営業成績を伸ばせるとか、伸ばせないとか、テストの点が良いとか、悪いとか、勉強したからテストの点が上がった、などのように、それは我々の(あくまで)ルールの中で可能性と不可能性の領域を示唆するものとして使われている。ところで、このの子の「だから」の使われ方はそうした使い方と全く違う。それは全然違う。そしてここに天才の秘密がある、と言っていい。・・・秘密を解明したからといって、天才になれるわけではないのだが。
 全て天才というのは困難を好む、という格言があるのかどうかは知らないが、そうなのだ。彼らは進んで、人が不可能だと言う、そう考えている領域に赴き、一つの場所を、一つの道を開拓してしまう。常識人達にとっては彼らはやっかいな存在である。・・・なにせ、自分の教義書に書いてある「常識」という概念を一変させ、それを覆してしまうからである。だから古代から常に常識人と天才は闘争を繰り広げてきた。常識人達は常に自分のドグマを脅かそうとするものを専制的、独裁的と言って殺戮してきたし、(そして優れたものに統治されるのを嫌った心性が最も劣った者による全体支配を呼び込んできた)、天才達は常にそれに反抗して、より上に、彼らを抜いて新しい不断のものを創造してきた。さて、ここで僕が何を言おうとしているか、もうおわかりだろう。常識家や音楽通、また根っからのペシミストや無関心主義者(世の中には様々な主義者がいるものだ)には笑われるだろうが、の子こそ正にそうした天才の一人であり、正に君達が美術館に行き無一文で精神を病んで死んだゴッホを称揚しているその横で、現代のゴッホはまた新たに生まれた(そうは気付いていないが)常識と格闘しているという訳である。
 ここで先に言っておいた「だから」の誤用も明らかになる。・・・それは不可能「だから」するという意味だ。普通、できないのは不可能だからであるが、天才達の一人であるーーー現代の天才であるの子は正に人が不可能だという領域に切りかかって、できる、イエスと言う。彼がなぜイエスと言うのか?・・・それは紛れもなくそれが不可能だからである。では現代の不可能とは何か?
 「現代の不可能」とはもちろん我々が先に取っておいた「最近の曲なんか糞みたいな曲だらけ」の状態である。これも先に言ったが、こうした言葉はあらゆる状況に適応できる。・・・ただ、の子がロックという一本の剣を掴んだ時、目の前に見えたのは嘆息する自称音楽通達、いや自分が平凡であることに自足しながら天才が「いない」という事を嘆いている振りをする人達だったのだ。
 「最近の曲が糞みたいなのは」彼らが正にそう言うからである。観察が対象を、見られる物を征する。こうした不可能性ーーー不可能性の要求に伴った不可能性の平原ーーー彼らは自分達ができないことを正当化するために全てを「できなく」するーーーに対して、の子はロックという剣を持って立ち上がる。
 「だから僕は今すぐ叫ぶよ 今すぐ 今すぐ 遠くで近くですぐそばで叫んでやる!」
 ここで「だから」の意味もーー僕が言っていた意味もーーようやくはっきりするようだ。天才は皆困難を好む、とさっき言った。だが、の子が天才かどうかはどうでもいい。の子が天才かどうかという空虚な議論はどこかで行われているのかもしれないが、そうした事は彼の曲がロックの範疇に入るかどうかというのと同じくらい、意味のない事だ。彼らは永遠に空虚な形式を追い求めて自分を失うだろう。そして決して、曲そのものを、曲そのものに雷光に打たれるような体験を味わうことはないだろう。彼らは永遠に頭脳だけで永遠の都を作ろうとして泥沼を這うだろう。ーーーここでの「だから」の意味はもはや言ったように、全てを超える、そうした事に意味はある、そしてこの全てとは我々の心理であり、状態である、という事だ。はや、自然は失われた。古代から続いていた自然は失われたのであり、人間のドグマだけがつるつるした自然界のようにこの環界に残ったのであり、それが全てのルールとして人間に残された。全体は個人を規定するのであり、個人とは社会から離れれば何ものでもないーーーそんなルールが人間の頭上に天界のように張り出し、それがこの宇宙のーーー人間の宇宙の根幹を成していた。我々は常に社会に敗北しているのであり、隷従しているのであった。そしてここでは「最近の曲なんかもう糞みたいな曲だらけさ」がその象徴ーーーというより、その隷従と敗北に対する肯定の姿勢の象徴として現れる。そしてそれに対して「の子」は通常とは違う誤用で「だから」と繋ぐのであり、自分が叫ぶこと、それがそうであるから、正に人々が沈黙し、沈黙を強制しているから「こそ」、叫ぶことを宣告するのであり、そしてその言葉と共に叫ぶことによって、この現代という時代を軽々と、巨人の足のように越えて行くのだ。
 さて、ここで僕は最も大切な事に触れたように思う。大切な事は超えること、そして叫ぶことなのだーーーロックかロックじゃないか、ではない。いや、もっとも、ロックというものは元々そういものではなかったのか?ーーー叫ぶこと、自己主張すること、若者が若者らしく自己主張して何が悪い?・・・ゲーテが嘆息しようと、若者は常に新しく自己主張を始めるものだ。自然は常に新しく生み出される。だが、人間においてはタダで、という訳には行かない。そこには才能と意志が必要なのかもしれない。そして才能と意志が無いものが、もっとも勝ち誇った顔をして、何かを始めようとしている者をネット上で軽蔑する。冷笑し、唾を吐きかけ、立ち去る。そして最も才能と意志を持ち合わせるものが誰よりも敗北感を抱いて、それをバネにして立ち上がるーーーそうしたことかもしれないのだ。勝利とは、敗北とは一体何だろう?敗北者がもっとも勝ち誇った顔をしているかもしれず、勝利者がもっと情けない顔を泣きべそを誰よりもかいたかもしれない・・・そしてそれを自分で意識したのだろう・・・の子はひどいいじめを受けたそうだ。そして誰よりも心に深い傷を負った。誰よりも優しいために。
 我々が時代を超えるとはどういうことか深く考えてみなければならない。ここで鳴っているのはただの音楽ではない。そこにあるのは一つの魂の意志であり、個人が社会を越えて行く瞬間なのだ。ここで鳴っているのは音楽ではない。一つの魂の音楽、その意志、越えて行くもの・・・・そうでなかったら、音楽とは何だろう?・・・詩が、音楽が、その「高尚な」形式に堕して、一体どうやって人の心を震撼させられるというのだ?・・・そうしたことは大学教授、その徒党、そしてそうした事で利得を稼いでいる一部の者達・・・そして大衆をまんまとだましおおえている自称玄人達に任せておけばいい・・・。形式が魂を規定するのではない(彼らの魂がそうだとしても)。魂が形式を規定するのである。そうしたことから当然、ロックの精髄が、そのシャウトが、その魂がこれまでのロックという形式を破ってまた新しい形式を創造することもある。そしての子がこの曲で(また初期の一群の曲の中で)成し遂げたことこそ正にそれだったのだ。彼は言う。「僕が叫ぶ時 ロックンロールは鳴り止まない」と。
 さて、これで僕は最も大切な事に、最後まで触れたと思う。これで僕の初めのーーー拙い批評を終わりにしたい。ここまで来れば、初めに言った全てのものが形骸化する、という言葉も、またの子がそれを超えていった様もよく見下ろせるはずだ。・・・この曲で・・・僕はこう思う・・・この曲での子は僕たちを入り口まで、扉の入り口まで連れてきてくれた。ここから先を扉を開けるのは我々自身であり、その先にはどんな未来が待っているかは全く分からない。だが始まりのない時代に、(全ては封印され、凍結され、見えないようにされていた。誰かが見つけだそうとするとたちまち止められたーーー本編でさんざん言ったことだーーー)始まりをつけたのはの子であり、その最初の宣言がこの曲である。そしてこの扉から先、どう歩こうが我々の勝手なのだ。未来は一つの若者の手からまた新たな若者の手に移るのであろう。絶えず、人々の制止する手を食い破って。

この本の内容は以上です。


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