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 欲しいものなんて、何もなくなってしまって、今さら、買える物なんてそれほど必要ではないだろう。

 繰り返されていることに気付かないのかい?

 抜け目のない連中が君を狙っているんだよ。いくぶん君が魅力的になったのかと。

 

 僕は君を愛していたけれど、君を奪い合うゲームには参加したくはなかったんだ。

 そうするには君を愛しすぎていたからね。

そう言わなくたって、僕には充分だったんだよ。約束や契約ばかり重ねたって人の心を縛ることは出来ない。苦しいことには苦しいというべきだったんだ。強がりよりも、微笑んだ方が多くのことを変えることが出来るときもある。

 どうして君は、そんなに多くのものを欲しがるのだろう?

 

 どんな説明を聞いたって、僕には納得することは出来なかったんだよ。素敵なカーテンも、豪華な家具も、目立ちすぎる洋服もそんなに必要なものは僕の人生には何もなかった。君をほんの少し喜ばせるためのその小さな石をけなすつもりはないのだけれど。

 それでも、一つか二つあれば充分だろう。

 僕は僕の時間が、そんなものに変わっていくことがどうしても我慢できなかったんだ。

 君の口振りだと、君は失われてしまったと。

 何もかもを。

 君は僕に我慢している、という。

 それはつまり、僕らの子供と、僕の持っている幾許(いくばく)かのお金のためだということだけれど、それが、本当だとしたら僕は君をいつも苦しめていることになる。僕を愛してくれていないことよりも、君を不幸にしていたことが苦しいよ。そのことを君はいつも、お金や、取るに足らない安心や、不必要な調度品で誤魔化すんだ。そんな暮らしには終りはないだろう。

 それで満足だって日々はすぐに終わってしまうんだよ。

 僕の中では、それはもう終わってしまっていて、君の中ではとめどなく続いている。

 

 僕は時々、散歩に出掛ける。

 君や、君の言葉から逃げ出すためだ。

 僕らの娘は、不穏な気配を察して、僕を心配そうにみつめた後、僕の後を付いてくる。朝食を前にして、争いを避けて、僕らは空腹のまま、宛てのない旅に出掛ける。ポケットに小銭を忍ばせて。帰る時間を測りながら。そのとき、彼女は微笑むんだ。

 僕らが幸せなことの方が、綺麗な洋服を着せたり、顎の痛くなって神経質な性格を形作る習い事よりもずっと彼女を喜ばせるんだよ。彼女はヴァイオリンは嫌いなんだ。知っていたかい?                        


 河辺に、僕らの娘を連れて行ったとき、彼女は僕の隣りに座ってずっと眸(ひとみ)を閉じていた。

「川とお話をしているの。」

 と、彼女は言った。

 僕はそっと彼女を抱き寄せて、彼女の知っている世界をほんの少しだけ教えてもらおうと思っていた。それが、ほんの少しでも僕らを救うのだと、僕は信じていた。

 僕らはどうして、こんなにも多くのことを忘れてしまうのだろう。

 思い出せることは、行なって来たことの百分の一にも満たない。それでも、現在よりもずっと過去の方が、僕らの真実を感じるんだ。

 かつては僕らは愛し合っていた。お互いを信じて。こんな日が来るとは思いもせずに、準備もしなかった。少なくとも僕はそうだった。彼女はその結果、生まれた。僕はそれだけで満足だったけれど、君は、僕らよりもずっと遠くに行きたいと言った。

 彼女は何も知らないまま、少しずつ僕らの関係を学び始めていた。

 つまり、彼女の父親と母親の間にある冷たい啀(いが)み合いの観測者に仕立て上げられていた。戦争は本当は彼女の心の中で起こっている。

 僕らの言葉が、彼女の病気や、涙や、沈黙を作っている。

 君は子供の頃は倖せだった、と言っていた。恵まれた家庭に育ったって。僕はそうではなかったから、彼女の気持ちがよく解るんだ。彼女は、僕らが何を考えているのか全て知っている。どんな些細なすれ違いも自分のことのように感じることが出来る。自分の痛みのように感じている。

 かつて、僕らは他人だった。僕らは一つではなかった。だが、彼女にとっては、僕らはつまり、自分の一部なんだ。与えられて、別ち難く、そして、本当はもっともっと多くを捧げられなければならない。だって、彼女は文字通り僕らから全て生まれたんだからね。彼女は半分僕で、半分君なんだ。それで、彼女は僕らの二倍は我慢しているということなんだよ。そのくらい彼女は僕らを知っている。


 彼女は最近よく僕に微笑む。

 愛している、と眼で訴えている。

 そんなに辛い眼はしないで。君にはまだまだ、そのことには早すぎるんだ。君を哀しませるものを知るには、君はまだ、それほど何もかもを味わった訳じゃない。それは君の人生じゃないんだ。

 僕は、彼女に、愛している、と視線で答える。

 ようやく彼女は少しだけ安心して、眠りにつくことが出来る。

 君が煌びやかな服で夜を踊っているときには、いつも彼女はそんな眼をしているんだ。

 それでも、朝になると、彼女は、

「ママ。愛しているわ。」

 と、言う。

 そのとき僕は、確かに君と僕らの娘を愛している、と思う。大切なものは守らなければ簡単に消えてしまうものなんだよ。彼女の言葉は、僕らの想いが支えているんだ。君が帰って来ない夜にも、彼女は君を待っている。

 彼女のパパとママの隙間で眠ることを、彼女は夢みているんだ。

 そのことを最後に叶えてあげたのは、一体いつだったのだろう?

 僕一人では、彼女を満たすことは出来ない。

 たとえ彼女が、大丈夫だ、と言ってもね・・・。彼女はずっといい子にしているんだよ。


 

 僕らがまだ、ずっと若く、無知で、魅力的で、何もかもを選ぶことの出来た頃、君は愛を何よりも大切なものだと考えていた。

 勝算など何処にもなかった。だが、君は僕を愛した。僕は自分を出し尽くして疲れ果てていたけれど、君の眸は輝いていた。あのときの君はまだ、よく僕を笑わせてくれた。

 哀しいことなんて何もない、と言っていた。

 生きていることが楽しい、と。

 こんな風に倖せだと。

 そのことが僕を救ってくれるのだと、僕は信じていた。それが二人の物語なのだと。

 けれども本当は、お互いがお互いに期待し過ぎていただけだった。全く違う方向に。僕らはまだ、僕らを探していたんだよ。あの時代が、僕らを結びつけた。

 それほど多くを望まずに、僕らは誓いを立てたけど、その後、僕らに必要なものは、いつも僕らの力を超えていた。    そのたび君は傷つき、僕は俯いた。

 君はこんなはずではなかった、と言っていた。

 僕は少しずつ、君から離れたんだ。責められたくはなかった。君を傷つけているのが、本当は僕なんじゃないか、と気付くのが怖かったんだ。お互いが信じていたものが、少しずつ何かに奪われていくことを、僕らは感じざるを得なかった。

 幾つかの躓(つまづ)きの後、僕らは、お互いを見るのを止(や)めた。

 言葉は、もう、二度とあの芳しい香りを取り戻すことはなかった。

 お互いの傷ついた姿を見られたくなくて、そして、嘘を吐(つ)くには疲れすぎていて、僕らは次第に顔を合わせなくなった。時々、ふと、ベッドの中でだけ、お互いを確かめ合った。そのときには、ひどく残酷なことをしている気分になるんだ。

 君を想い出そうとして、見つけられない日と、もうすでに、思い出そうとしている自分自身にうんざりする。

 どんな言葉も嘘だった。

 最もなくしてはならないものを、僕らはなくしたんだ。

 そうして僕らには娘が生まれた。

 別れがほんの少し遠のいていた。

 消えてしまうには早すぎると何かが言った。

 子供が出来たことを、君が僕に告げたとき、君は心配そうに僕を見たが、僕は久しぶりに幸福な気分になることが出来た。

 僕は君を抱き締めた。

 愛している、と、あの時ほど、力強く言葉に出来た日はない。

 それが、僕らの運命だった。

僕らは生きていたんだよ。

 彼女と三人で、あの日を。

 それが、僕らの物語だったんだ。

 


 

 君はひどく苦しんで彼女を生んだ。

 彼女は元気そのものだった。

 君の乳首に齧り付いている彼女を見たとき、君は誰よりも美しい女性だった。僕は僕らがうしなったものを数えるより、いま、たった一つ得たものを感じていた。

 君は僕に彼女を抱かせてくれたね。

 僕が、生まれて初めて彼女を抱いたとき、僕は君たちを守るためなら、何だって出来ると信じた。今もそのことに変わりはない。彼女は僕を知っていた。

 僕は、誰よりも彼女のことを知っていた。

 僕らのお姫様は、ずっと僕らが欲していた最高のものだった。

 彼女はずっと君の傍にいた。

 僕らはずっと一緒だった。

 変わっていく君と、少しずつ大きくなっていく彼女を見ていた。僕はこれまでずっと僕をとらえて離さなかったあの漠然とした不安が、もう全く僕を見逃してしまっていることに気付いた。

 生まれて初めて、死にたくはない、と思った。

 死にたくはない。

 死にたくはない。

 

 



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