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清水らくは


 雨脚は弱まってきた。放送では次の便は出航すると言っている。ほっと胸をなでおろした。
 それでもまだ一時間以上ある。ゲーム機をしまって、鞄から詰め将棋の本を取り出した。一日四問のノルマが、五日分ぐらい溜まってしまっている。五手詰めばかりとはいえ一度悩みだすと全く進まなくなる。
 待合室は静かだ。旅人らしき大きな荷物を持った集団がいるものの、だだっ広い空間の中ではほとんど目立たない。まだまだ観光のシーズンではないし、こんな天気の悪い時にわざわざ島に渡ろうとはしないのだろう。
「あーっ」
 思わず声が出る。正解だと思っていた筋に読み抜けが見つかったのだ。たった五枚しかない敵の駒と、たった三枚の自分の駒。4×3の小さなマスの中なのに、様々な可能性があってなかなか答えにたどり着けない。
 あまりにも解けないので、窓の外を見る。強い風が木々を揺らしている。水を撒き散らしながら、バスが走ってきた。バス停に止まると、見覚えのある民宿の夫婦が下りてきた。ハンチングのおじさんと、むぎわらのおばさん。島の人は、だいたい顔見知りだ。そういえば車が壊れたとか聞いたような。二人とも両手にどっさりと買い物袋をぶら下げている。
 そしてもう一人、こちらは見覚えのない女性だった。いかにも、というキャリーバックを抱えて、フラフラと下りてくる。手足も細く、ここからでも輝くように白いのが分かる。さっそく濡れてしまった髪は腰付近まであり、少し茶色いように見えた。
 歳は僕より少し上ぐらい、高校生だろうか。近づいてくるにつれ、僕は目を離せなくなっていた。細くて意志の強そうな目、薄い唇、とがった顎。全てが島の人とは雰囲気が違うし、なんというか、観光客という感じでもない。何となく思い浮かんだのは、「逃亡者」という言葉だった。
 待合室の建物に入り、さすがにじろじろ見続けるのも悪いと思ったので、僕は再び詰め将棋に思考を戻した。引っかかっていた問題はとりあえず飛ばし、次の入玉問題に挑戦する。ちなみに、入玉問題も苦手だ。
 答えは一つだ。詰まない筋は消去していき、残った一つが正解なのだ。それなのに、なかなかゴールにたどり着くことができない。本当にその筋が詰まないのかを確かめるのも大変だし、正解の筋を発見するのもやっぱり大変だ。
「将棋、好きなの?」
 突然声を掛けられて、僕は瞳だけをぎょろりと動かしてしまった。右斜め上、あの女の人がすぐそばにいた。茶色い髪は僕のこめかみを撫でている。
「え……」
「私は好き」
 想像よりも低い声だった。耳の中を撫でまわすような、ねっとりとした質感があった。
「将棋……指すんですか」
「うん。私、強いの」
 お姉さんは、僕の解いていた問題に人差し指を当てた。
「3七桂馬から。こうして、こう」
 指で持ち駒と升目を指していく。確かにそれで詰んでいる。
「次はこう」
 そう言って、同じページに載っている残り三問も指ですらすらと解いていった。一問十秒ほどしかかかっていない。
「すごい……」
「五手だもの。言ったでしょ、私、強いの」
 僕は、首を動かした。真正面から見たお姉さんは、見たことないほどきれいで、怖かった。彫りが浅いとか、眉毛が細いとか、それだけに違和感を感じるんじゃない。言い知れぬ威圧感、そして現実離れした感じ。半分ぐらい魂が体を抜けてるんじゃないかと思ってしまう。
「あの……今から島に?」
「うん。住むことになったの」
「どこですか」
「おばあちゃんのところ。民宿」
 お姉さんは僕の横に腰かけた。おかげで僕はその顔を見てドキドキしなくてよくなった。
「ひょっとして桧生原さんのところ?」
「そう。そこでお手伝いするの」
 島にはいくつかの宿があるが、おばあのいる民宿と言えば「島烏」だ。桧生原のおばあはすごく若く見えるのだが、「もうでっかい孫もおるから、おばあだよ」とよく言っていた。
「君は?」
「あ、うちは牛飼ってる」
「へー。そう言えば見たことあるかも」
「島に来たことあるの」
「昔。小さい頃。曇ってた」
 お姉さんは、ときどきボーっとしてしまう。自分の世界に入っているようでもあるし、我を失っているようでもある。
「蜜」
 しばらくの沈黙の後の、短い言葉だった。
「え」
「私の名前。前川蜜」
「……俺は、高嶺了」
「了君。よろしくね」
 なぜか、握手をした。意外なことに、その手はとても固かった。

 最近、中学校から帰ってくると家が静かだ。弟の風が、本格的に勉強を始めた。島を出て、私立の高校を目指すらしい。僕はと言えば、島を出たくなかったので高校には行かないつもりだった。しかし、両親に説得されて、一応は受験をすることになった。島には高校がないので、受かれば出ていくことになる。あまり、実感がわかない。
 両親は風のことを邪魔しないように、極力騒がないようにしている。そうなると不思議なことに、心なしか牛たちもおとなしくなった気がする。
 つまらない。
 僕も家にいると、「了も勉強しなさい。受験生になるんだから」と言われる。いらぬお世話だ。僕は勉強しなくても受かりそうなところを受ける。
「行ってきまーす」
 将棋や小説の本を持って、すぐに家を出る。友達も勉強だ親の手伝いだと、最近あまり外に出てこない。天気のいい日は風の気持ちいいところで本を読むのが最近のお気に入りだ。
 潮風で錆の付いた自転車。島の中ならだいたいこれに乗って行ける。坂道もなく、車も少ない。工場の横を抜け、最近できたコンビニを通り過ぎ、島で二つだけの信号で止まる。
 ちょうど船が来る時間だったようで、民宿のバンが何台か僕を追い越して行った。フェリーはまだなので、小型船だろう。波のきついところを通ってくるので、天候によって大きく遅れたり、ひどい時は引き返したりする。旅人から連絡があると、民宿の人たちは迎えに出て、気長に船が着くのを待っている。
「了くーん」
 向こうで、手を振っている人がいる。白い肌が目立つ、蜜さんだ。島に来てから何回か見かけたが、声をかけられたのは初めてだった。
「こんにちは。買い物?」
「そう。お客さん迎えに行くついでに送ってもらったの。ねえ、暇?」
 小首をかしげる蜜さん。顔は微笑んですらいないのに、その吸い寄せるような表情にどきどきしてしまう。
「ああ、特に用事は……」
「じゃあ、付き合ってよ。メモ貰ったんだけど、よくわからないのもあるし」
 桧生原のおばあの車が走り去っていく。風は強い。しばらく戻ってこないだろう。
「見せて」
「これ」
 書かれていたのは、ナーベラーやハンダマといった食材だった。外から来た蜜さんには何のことやらわからないのだろう。
「ナーベラーウブシー作るさーって、何の呪文かと」
「ヘチマだよ。あるとは思うけど、まだ早いかな」
 島の野菜は基本的に高い。はるばるフェリーで運ばれてくるからだ。だから島や本島で育てている季節のものをできるだけ食べることになる。
「さ、いこ」
 蜜さんは、僕の手を握って歩き出した。すごく恥ずかしいのだが、都会の人にとっては当たり前のことなんだろうか。
 島に一つだけのスーパー。品ぞろえがいいのかは分からないけど、大体のものはここで買うことになる。おそらく安宿のお客さんだろう、見ない顔が数人、キャーキャー言いながら買い物をしていた。
「いいなあ、私も旅行してみたい」
 ナーベラーを二つ見比べたあと、蜜さんは羨ましそうに若い旅人を眺めていた。
「ほとんどしたことないの」
「でも、この島にも旅行に来たと思ったら」
「そうだね。了君に案内してもらおうかな」
 島豆腐や味噌も買い、僕にはガムを買ってくれた。
「まだ時間ある?」
「うん」
「宿来ない?」
「うん」
 港を覗いてみると、まだ船は来ていなかった。波はうねっている。
「歩いて帰るしかないね」
 二人は、まっすぐな道を並んで進む。荷物は自転車のかごの中。
「了君は、どれくらい?」
「え」
「棋力」
 斜め上を見上げる。あまり考えたことがなかった。
「わからないけど……三手詰めは解ける」
「じゃあ7級」
「そうなの」
「てきとう」
 島では強い方だと思う。ただ、それがどれぐらいの級になるのかは分からない。それによく考えたら、蜜さんの強さもまだよくわからない。
「蜜さんは?」
「ちょー強い」
「ちょー?」
「無敵」
「すごい」
 負けず嫌いなんだろうな、と思った。ふわふわと語ることで、真面目に聞き返されるのを避けている。
「どこで指してたんですか」
「……畳の上」
「え」
「椅子もあったけど。すごく、尖った所」
「それはどこ」
「汚いところ。すっごい汚くて、狭い」
「牢屋?」
「あと二年いたら、多分ね」
 蜜さんの目は、遠くを見ていた。多分、空間だけでなく、時間を超えて。
「無理やりだったの」
「違う。すごく憧れて。きらきらしたところだと思ったけど、苦しかった。きらきらした人は、二人だったかなあ……。私も地元ではきらきらしてたけど、そこではくらくらするばかり。ふらふら」
「すごそうなところだね」
 僕は、島の外のことはよくわからない。たまに本島に行っても、買い物をして帰るだけ。例えばタクシーにだって、まだ乗ったことがない。想像できないことが、多すぎる。
 ただ、蜜さんの話は、僕だからわからない、というのとは違う気がする。彼女の目は、異次元へと向けられているかのようだった。
「了君も行ってみる? ショーレーカイ」
「ショーレーカイ?」
「みんなで傷つけあうの。私は傷つけられた方が多いけど」
「罰ゲーム?」
「ちょっと違うかなあ。塾みたいなところ。頑張ると、いいところに行けるの」
「蜜さんは、そこを辞めたの?」
「……女だから」
 最後の声はとても小さくて、僕はまだあまり人生経験はないけれど、それ以上聞いてはいけないのだと分かった。
 港から東に二十分。工場を越えてすぐのところに桧生原のおばあの民宿はある。目印は、〈ヤギ〉から路地に入る。
「あーいむほー」
 よくわからない挨拶で、玄関をくぐる蜜さん。それに続いて僕も島烏に入っていく。
「あ、あいむほー」
「なにそれ、真似しなくていいのにっ」
 蜜さんはくるくると回りながら、奥へと進んでいく。僕も、あとへ続く。
 民宿に来るのは初めてではない。おじいがいる頃はよくここで皆が集まって、歌ったり踊ったりしていた。おじいは面白い人で、三線だけでなくウクレレやジャンベも演奏することができた。宿泊客も巻き込んで、即興で色々な演奏をこなしていた。
 おじいが亡くなって以降は、おばあが一人で営む静かな民宿になった。おばあはまだまだ元気だけど、元々口数が少なくて、あまり社交的ではなかった。僕らはたまに訪れて話をするのだけれど、ポツリポツリとつぶやかれる言葉は、聞き取ることも難しい。
「さー、こっちさー」
 台所から突然、いかにも慣れないイントネーション。それがあまりにもかわいかったので、僕は吹き出してしまった。
「なによう」
「なんにもないさー」
 台所には大きな冷蔵庫が二つ並んでいる。一つは宿用、もう一つはお客様用。飲み物やアイスなどのほか、早朝から泳ぎに行く人などは自分で調理するために食料を買っておく、と聞いた。
 買ってきたものを次々と詰めていく。こういうことは家でよくやるので慣れている。
「あんまりできるとね、また頼んじゃうよ」
「いいよ」
「うふふ」
 宿には、お客さんはいないようだった。いるけれど、出かけているのかもしれない。
「将棋指そっか」
「え」
「盤持ってきたんだ」
 客間に行くと、想像していなかったものが置かれていた。五センチぐらいの厚さはある、立派な将棋盤。表面が照明に照らされて光っている。
「これ……」
「プレゼントされたんだ。宝物」
 駒箱がひっくり返され、こつんこつんと、駒がこぼれ落ちてくる。彫りが深くて、すごく力強く刻まれている駒の字。
「了君はどんなの」
「え……駒?」
「そう」
「……変なの」
 蜜さんは、しばらく僕の目を見つめていたが、ぷっと吹き出してそのあと笑い続けた。
「いひひ、何それ、普通さ、ひひ、安いとか、汚いとか、ちゃっちいとか、じゃないの? ねえ」
「でも、変だもの。おじいが作ったんだって」
 それは、僕が生まれる前からあった。盤も平らじゃないし、駒も形が整ってなくて、駒は字も汚い。父が子供の頃、おじいが一所懸命作った、と聞いた。でも父さんは将棋を全くしなかった。物置の中で埃まみれになったのを、僕が引っ張り出してきたのだ。
「へー。今度見せてね」
「うん」
 蜜さんは、王将を取り上げて自陣の真ん中にびし、と置いた。まだ顔は笑っているけど、手つきは厳しかった。それは、テレビで見るプロの先生のものに似ていた。
「どうする?」
「え」
「あ、ごめん。多分、落とした方がいいから」
 並べ終わった駒から、飛車と角を取り上げる蜜さん。よく意味がわからない。
「あの……それ……」
「特別だよ。元奨励会員がただで教えてあげるんだから」
 それは、ハンデ、ということなのだろう。しかし飛車、角というのは将棋の駒の中でも特に強い力を持っていて、その二つがなければ相手を攻めることなんて不可能だ。
「でも……」
「お姉さんを信じなさい」
 そう言うと蜜さんは、深々と頭を下げた。
「お願いします」
「あっ……お願い、します」
 じゃんけんも何もしていないが、蜜さんはすぐに左の金を斜め左に上がった。駒を使わないハンデの代わりに、先手をもらうということなのだろうか。
 そして僕が驚いたのは、その手付きのしなやかさだった。さっきまでいい加減でふわふわしていた蜜さんなのに、駒を持つ手はピシッと伸びていて、美しかった。
 見上げると、背筋も伸びて、目つきも鋭くなっている。その姿は、さっきまで膝の上で喉を鳴らしていた猫が、突然小鳥を見つけて狙いを定めたかのようだ。
 小鳥なら空を飛んで逃げればいい。けれども僕は、好んで蜜さんと向き合っている。そして、僕の方が優位なのだ。
 角道を開け、飛車先の歩を突く。相手には大駒がないのだから、攻撃力は断然僕の方が勝っている。蜜さんは金銀玉を押し出すようにして守備態勢を整えるが、攻めて来れないのだからしょうがない。
 攻め駒の数を足していけば受け切れないはずだと、桂馬も跳ねていく。こんなもの、負けるわけがない……と思った。
 蜜さんの駒は、柔らかく柔らかく、僕の駒を受け止める。勢いよく攻めているはずなのに、全く突破できそうな気がしない。そしていつのまにか、右側の金がするするとこちらに向かってきた。桂馬がいなくなった僕の玉の周りは、えらくすっかすかだ。特に角の頭は守るものがなくて、金の横に歩を置かれると、と金作りが受からなかった。
 僕の陣形は、ぼろぼろになっていく。たった二枚の攻め駒を受け止めることができない。それでも、最後まであきらめたくはなかった。玉が完全に詰まされるまで、指した。
「……負けました」
「はい」
 僕がお辞儀をするのに合わせて、蜜さんも深々と頭を下げた。盤にかかるぐらいの髪が、光に照らされて艶やかに見えた。
「ひっさびさに将棋指したーっ」
 両手を突き上げ、満面の笑みを浮かべる蜜さん。さっきまでとはまるで別人だ。そして、かわいかった。
「了君、駒落ちは初めて?」
「……うん」
「そっか。しょうがないよね。お姉さん、結構強いんだ。わかってくれたでしょ」
「うん」
「でも、了君もどんどん強くなれるよ。強くなりたい?」
「うん」
「じゃあ私の弟子ね」
「弟子?」
「光栄なことに一番弟子だぞ」
「わかった」
 蜜さんは僕の手を取り、ぶんぶんと振った。きれいな手だけど、指先は少しだけざらざらしていると思った。
「よーし、君を地域一の使い手にしてあげよう。あ、私が一番だから二番か」
「蜜さんも抜けるよう頑張ります」
「言ったな。血ヘド吐くまで頑張ったら可能かもね!」
 不思議なことに、血ヘドを吐く蜜さんの姿が鮮明に脳裏に浮かんだ。こんなに将棋が強くなるためには、本当にそういうことも経験しないといけないのかもしれない。
「やっぱり、二番目でいいかも」
「それがいいさー。一番、楽しめばいいんだよ」
 笑いかける笑顔に、えくぼができていた。何度でもそれを、見たいと思った。


 夏が来る。
 風はますます勉強に励み、両親はますます風のことにかまいっきりだった。僕は行ける高校に行けばいいらしい。夏休みは勝負の時だと言うが、勉強しないのも勝負の一つではある。
 将来のこととかは、あまり考えてこなかった。島に残りたいのか出たいのかもよくわからない。少なくとも風には家業を継がせたい様子はないけど、馬鹿だから僕に継げと言うわけにもいかないのだろう。僕は宙ぶらりんだ。
 島の暮らしは落ち着く。だからと言って、島を愛しているかと言われると戸惑ってしまう。別にどこでも生きていける気がする。何事も、やってみないと分からない。
 この季節になると観光客がたくさんやってきて、島のあちこちで見かけることになる。彼らにとってこの島は非日常的な場所らしい。僕はたまに本島に行くが、確かにそこは非日常的世界だ。住んでみたら、何かが変わるだろうか。
 風が静かに勉強していると、家の居心地が悪い。部屋にいたら邪魔してはいけないと思うし、居間にいても自分だけ勉強していないのが後ろめたくなってしまう。
 ほとんど同じなのに、風は賢くて、僕はそうじゃない。脳の作りが違うなんてなんと残酷なことだろう。もし風がいなければ、僕は自分自身に特に不満を抱く点などないのだ。風がいるばかりに、自分が努力を怠っているんじゃないかと思わされる。
 まあそれでも申し訳程度に参考書を開いてみる。世界で一番つまらない本だ。将棋の本ならば楽しいのだが、島では売ってないし、この時期にねだって買ってきてもらうのもなんか気が引ける。こんなことなら前回本島に行った時に、もっと買っとけばよかった。
 僕は、将棋のことをまだよく知らないらしい。駒を落とした対局があることも、プロになるのにショーレーカイというところに入ることも知らなかった。詰め将棋の本には、「大倉寛和六段」の文字が。この人もプロの一人なのだろう。
 将棋のプロ。将棋でお金をもらう人。蜜さんよりも強いわけで、どのぐらいのレベルかちょっと想像が付かない。
 机の上にある、おじいが作った盤を見る。駒も乗せるのも苦労するほどデコボコだ。蜜さんのものは艶やかで、手入れも行きとどいていた。ああいうものも欲しいけど、きっとすごく高いんだろう。
「了」
 突然、声をかけられた。風がこちらを向いている。
「なに」
「あのさ……島烏に来たお姉さんいるでしょ」
「ああ、蜜さん」
 勉強中に僕に話しかけてくるなんて珍しい。しかも、ちょっとためらいがちに。
「仲いいよね」
「まあね」
「……綺麗だよね」
「そうだね」
「それだけ」
 風は、何事もなかったかのように再び勉強を始めた。でも、耳の付け根が少し赤くなっている。
 こいつも、本当は何をしたいかなんてわかってないんじゃないか、と思った。風は不安だから勉強をして、僕はどうでもいいからしない。ただそれだけの違いじゃないか。
 綺麗だよね、か。会うたびにそれは分かってくるし、感じなくもなっている。綺麗ということは、すっきりとしているということじゃないか。色々なものを見せないから、整っているところが目立つ。彼女はまだまだ、色々隠していると思っている。
 まあ、そんなことはどうでもいいか。
 できないことは諦めて、席を離れた。空が青いじゃないか。


 台風が来ない確認、オッケー。とは言え、島の天気は変わりやすい。晴れている間に、早いこと行くのが吉。
「やっほー」
 出かけようと玄関を出たら、蜜さんの声が聞こえた。向こうから来るとは思っていなかった。
「待っててくれたらよかったのに」
「わくわくするじゃない。海の無いところで育ったんだから」
 真っ白いワンピースを着た蜜さんは、体全身で本当にわくわくしているのがわかった。
「すぐそばにビーチあるのに」
「みんないるんだもん」
 自転車にまたがる。蜜さんも、宿の貸し出し用の自転車にまたがった。
「いいんですか、それ」
「いーの。今日はみんな、リッチビーチ」
 島から巣から出てすぐのところに広がる砂浜は、ホテルが管理している。いつも綺麗で監視員もいるが、有料だ。正式名称もあるが、島の人たちはリッチビーチとか人工ビーチとか呼ぶことが多い。
「さ、つれてって」
「はい」
 温度が高くても、湿度が低いのでそれほど暑さも感じない。適度に雲もある。実に海水浴日和だ。
「了君はさ」
「なに」
 僕の後ろからついてくる蜜さん。
「泳げるの」
「まあね。なんで?」
「泳げない人多いって聞いたから」
「あー。確かに風は泳げないっけ」
「双子なのに?」
「練習すればできると思うけど。ずっと勉強してるから」
 信号を抜け、もう少し先。左に曲がって畑を抜ける。一見すると道が消えていくようだが、よく見ると舗装された細い小道がある。
「ここに止めとこう」
「了解さー」
 舗装路の終点に自転車を止めると、目の前には小さな砂浜が広がっている。手入れはされていないが、地元の人間がよく使うビーチだ。
「うわー、いいね」
「でしょ」
 空も海も、遠くまで青い。おまけに静かだ。
「よーし、泳ぐぞー」
「ちょ、ちょっと!」
 蜜さんはワンピースのすそに手をかけ、脱ごうとしていた。僕は目をそらした、いやちょっとだけ見た。
「どしたの?」
「いやだって脱ごうとしてるから」
「ちゃんと水着着てるよ」
「そうだろうけどさ、いやさ……」
 白い肌は、やはり全体的に白かった。水色の水着が隠すのは、最低限隠すべきところだけだ。
「島の人はシャツ着るから……」
「そうなの?」
「日焼けするしさ……恥ずかしいから」
「でも私は恥ずかしくないもーん」
 蜜さんはそう言うと、海の中に入っていった。跳ね上がる水しぶき。茶色い髪だけが浮かんで見える。そのまま空の中へと溶け込んでいってしまいそうだと思った。
「ほら、了君も!」
 僕はズボンを脱いで、蜜さんの後を追った。海水が足首を撫でる。足の裏はざらざらするし、気をつけないとぬめっとしたナマコを踏んでしまう。
「すっごーい綺麗!」
 確かに今日の景色はとてもいい。けれども蜜さんが感動しているのは、それだけではないようだった。
「私の知ってる海、偽物みたい」
「偽物?」
「青くもないし、底も見えない」
「水なのに、見えないの?」
「都会の海は、ゴミ箱みたいなところなの」
 思い浮かべてみた。紙くずや生ごみが捨てられて、底の見えない海。確かにそれはもはや海ではない。
「でもさ、風が吹くと、何も見えなくなるよ」
「風?」
「台風とか。船も出ないし、海は黒い鰐皮みたいになる」
「へー。まだそれは見てない」
 蜜さんは腰を下ろし、肩まで水につかって、遠くを眺め始めた。僕もその隣に座る。
「了君……今まで聞かなかったよね」
「え、何を」
「私がここに来た理由とか」
「そうだね……気にならなかったから」
「ふふ。珍しい人」
 僕の左手を、蜜さんの右手が包む。髪が、僕の方に少しだけ垂れている。震えが伝わってきた。
「……よかった」
「何が?」
「ここに来て。苦しいものは何もない」
「楽しいものもないよ」
「……そんなことないし、それでもいい」
 少し大きな波が、二人の顎を揺らして通り過ぎた。
「あのね……私、勝負が苦しくなったの」
「勝負が?」
「そう。好きだから続けてて、気が付いたら強くなってて。でも、勝負は苦手だった。普通に……普通に女の子でいたかった」
「そう」
「将棋だけじゃなくて、学校も怖くなった。争うことが全部……勉強も、恋愛も」
「ここではそれがなかった?」
「今のところ、ね」
 指がきつく食い込んでくる。海水がなければ、こすれて傷付いてしまったかもしれない。
「でも……こわいんですか?」
「……こわいよ」
 僕も少し、指に力を込めた。
「将棋が好きなのに……ね。続けられないなんて……」
 蜜さんの瞳には、海も空も映っていなかった。僕の知らない世界、僕の知らない悲しみを見ている。それでも……横顔が、とても綺麗だと思った。
「僕には……教えてくれるんでしょ」
「そうだね」
 指がほどけた。僕の方を向いた瞳に、僕の顔が映る。
「今は……楽しいから大丈夫っ」
 蜜さんは僕のシャツに手をかけ、強引に引っ張り上げた。
「ちょっとっ」
「さらけ出せこの野郎」
 抵抗しているうちにひっくりかえって、一瞬視界が空だらけになり、そして海だらけになった。
「……ぷあっ! 危ないなあっ」
「海なんだぞ。さ、泳ご」
 いつの間にかシャツは、蜜さんの手の中にあった。全身で浴びる波と光は、とても気持ちが良かった。


 久々のフェリー。しかも今回は泊りがけなのだが、あまり楽しくはない。明日、模試なのだ。
 この瞬間も風は参考書を読んでいる。僕は何となくデッキに出て、本島の方を眺めている。迫りくる異世界。
 島から帰っていく人々も多く乗船している。このあと本島でも色々なところを見て回るのだろう。僕たちだって本島には知らないところが多いので、観光したっていいわけだけど。
「了さ……」
 いつの間にか、風が隣に立っていた。参考書も、持っていない。
「なに」
「俺ね……島出たくないんだ」
「え」
 思わずだらしなく口を開けたままになってしまった。そんなこと言うなんて全く予想していなかった。
「どうするのさ」
「いや、出ることにはなるけどさ。なるけど……出たくない」
「うーん」
「……俺、家継ごうと持ってる」
「え、風、でも……」
「了は?」
「俺は……将来のことは何も考えてない」
「そっか」
 双子なのに、全くお互いの心がつかめていないようだ。双子の心が通じ合うというのは噂にすぎないのかもしれない。
「でも、風は出なきゃしょうがないだろ」
「うん。だね。……だから大学では畜産学んで、島に帰ってきたい」
「へえ」
 本島が目の前に迫ってくる。考えても、僕の中には何の未来も出てこない。
「おりよっか」
「うん」
 焦るべきなのだろうか。なんとなく蜜さんのことを思う。若くして飛び込んだ世界で挫折して、心を休めている人もいる。早ければいいということでもないだろう。ただ、いつかは何か決めないといけない。
 桟橋を渡った先は、育ったのとは違う大地。


 雨の日が続いている。
 晴れ間もあるものの、すぐに雨雲がやってくる。
 傘を差して、歩いて島烏を目指す。今日は将棋を教えてもらう日だ。これまで数回は全く歯が立たなかったけど、今日は違う。先日本島に行った時に、『駒落ちを指せるようになる本』というのを買ってきたのだ。最近はこれを読みまくっていたので、駒落ち定跡についてもだいぶん詳しくなった。早く駒落ちで勝って、蜜さんと平手で対局したい。
 軽くて多い雨粒が、傘や木の葉を叩く音がうるさい。墓石の下で雨宿りをしている猫がいる。あの黒猫は祈念館で飼われているんだっけ。
 島烏へ行くには、畑の間の道へと曲がり、少し坂を下る。ガジュマルの木が数本、風雨に叩かれて揺れている。ここら辺を歩いていると、「島烏はどこですか?」とよく聞かれる。すぐ先の民家みたいなのがそうなのだが、初めての人には宿に見えないようだ。
 今日の海は唸っている。こんなときは海から遠ざかるに限る。左に曲がり、少し歩くと島烏の玄関だ。靴の数からして、三人ほど宿泊客がいるようだ。
「こんにちはー」
「はいー」
 部屋の掃除をしていたようで、蜜さんは箒を持ったまま柱の陰から顔を出した。
「上がっていい?」
「いーよー。ついでだから手伝ってよ」
 居間では、三人のお兄さんたちがガイドブックを見ながら話し合っていた。明日以降の計画でも立てているのだろう。この天気では、宿にこもっているしかない。
「おっ、島の子?」
「はい」
「了君、こっち」
 蜜さんが、部屋の一つから手招きをする。
「これ、動かしたいの」
 蜜さんが手をかけているのは、そこそこ大きな鏡台だった。
「そっち持って」
「はい」
 ゆっくりと持ち上げ、手前にずらす。埃と一緒に、何枚かの紙が現れる。
「結構落ちてるんだよねー」
「パンフレットだ」
 書かれているのは、観光地や宿の宣伝。随分古そうなものもある。
「おばあ一人じゃこういうところできないからね」
 確かに、おばあには手が回らないところは多そうだ。おばあは最近部屋で休んでいることが多くなった。僕らには元気に見えていたが、持病があるらしい。体力も落ちてきていたところに蜜さんが来てくれたので、安心して休めるようになったのだ。
「蜜さん、働き者だね」
 思わず口をついて出た言葉。蜜さんはこちらを向いて、固まってしまった。白い頬が、赤く染まっていく。
「そ、そんなことないよ」
「でも、ちゃんとしてる」
「失敗も多いよ。いっつも了君が手伝ってくれればいいのにね」
「え」
 今度は僕が固まる番だった。蜜さんと僕が、二人で宿を取り仕切る、その姿を想像して……
「あ、でも了君、島出るんだもんね。あたし、帰ってくるまで待つわあ」
 冗談めかして言う蜜さん。でも、少しだけ、胸が痛かった。蜜さんはこの島に来て、学校にも通わずにほとんどを宿で過ごしている。同年代の人と知り合う機会はないし、そもそもそういう人たちの輪から逃げ出してきたのだ。数少ない関わりのある人が、いなくなるということ。それは、とても怖いことではないか。
「じゃあ……出るのやめよかな」
 なんとなく言った言葉だった。けれど、蜜さんは体を硬直させ、僕の目をじっと見ていた。
「冗談なら、もっと冗談っぽく言ってよ」
「蜜さん……」
「本気になったら、女の子はしつこいんだよ」
 黒目が、僕のことを射抜いていた。
「俺……」
「……ごめん。困らせてもしょうがないのにね……。将棋、指そっか!」
 僕は、ゆっくりと頷いた。
 蜜さんが盤駒を持ってきて、この部屋で対局することになった。駒を並べ終わった後、飛車と角を駒袋に戻す蜜さん。
「さあ、どれくらい勉強したかな」
 口元は笑っていたけれど、前髪に隠れた目は、きっと悲しそうに沈んでいる。蜜さんはこうして、いろんな感情を抑え込みながら将棋を指してきたのだろう。
「お願いします」
「うん。お願いします」
 左手で前髪をかきあげた。瞼は閉じられていた。大きく深呼吸をした。そして開かれた目には、きらきらとした光が宿っていた。
 しなやかな指が左側の銀をつまみ上げる。決して大きな所作でもなく、音もほとんど立たなかった。けれどもその一手には、力強さがこめられているのがわかった。
 僕も、すぐには指さずに気持ちを落ちつけようと思った。二人にとって、大事な一局になる予感がした。息を整え、背筋を伸ばす。左から三番目の歩に、右手の人差し指と中指で触れてみる。温かい。蜜さんが将棋に注いできた熱が、蓄積しているのか。歩を、そっと一つ前に突き出す。盤面全体に、温度が流れ込んでいくのがわかる。
 僕は本で勉強した、「右四間」という形に組み上げていく。飛車、角、銀、桂馬が同じ個所を責めているので、破壊力が大きい。そして左側に玉将を動かせば、しばらくは攻められずに済む。
 前回よりも、蜜さんの考える時間が増えた。やはり、こちらが勉強した分だけ相手も慎重にならないといけないんだろう。強い人の時間を独占しているという事実に、ぞくぞくしてしまう。
 屋根を叩く音がかなり強くなってきた。窓の外は、真っ暗になっている。けれども蜜さんは、盤面から一切視線を動かさなかった。盤上の世界に移住してしまったかのようだった。僕も、集中しなければいけない。
 駒が、美しく並んでいく。定跡というのは、そういうものなのか。僕はだんだん、将棋の深いところに惹かれてきている気がする。
 蜜さんの駒が、少しずつ前に出てくる。攻め駒がないため、全体的に柔らかく受け止めようとしているようだ。将棋のことはまだよくわかってないけど、強い人というのは柔軟性があるのではないか、と思ってる。弱い僕が指す手なんて、ちゃんと予想はできないだろう。だから、どんな手が来ても対応する力がないといけない。そして、対応されてしまう雰囲気が漂っている。
 覚えたとおり指していけば、こちらが悪くなることはないはずだ。なんといっても、僕には飛車も角もある。けれども、その先がわからない。その先が……
「そうね……」
 蜜さんは、そんな僕の心を見透かしているかのように、本にはない手を指してきた。こちらの駒の進撃を妨げるような、不自然な手に見える。どう対応すればいいのか。僕が知らないだけで、有名な手なのかもしれない。耳の裏が熱くなってきた。定期テストが突然抜き打ちテストになったような気分だった。
 雨音が聞こえなくなっていた。世界中で一人、たった一人蜜さんが将棋を指せる相手。がっかりさせたくなかった。一所懸命になれば、伝わるものがあるはずだ。
 僕は、飛車を横に動かした。今すぐ攻めると、予定より一枚戦力が少ない。だから、相手が突っ張ってきたところに目標を変える。
 眉間が痛くなった。ふと視線を挙げると、蜜さんと目が合った。鋭すぎて、突き刺さって動けなくなった。そんな目は疲れるだろう。何度も何度も、心をそこまで追い込むのは。
 二人の駒が前に出たり引いたり、そんなことがしばらく続いた。突破できそうでできない。まっすぐに襲うとすると、ちょっと引いて、争点をずらされてしまう。力をためると、蜜さんの方も態勢を整える。じりじりとした展開が続くうちに、自分の集中力が途切れがちになってきているのがわかる。
 蜜さんの駒を握る手から、筋肉のきしむ音が聞こえた。飛車の頭を歩で叩かれる。取るしかない。もう一度叩かれる。今度は角でも取れるけど、そうすると銀がただ……なので飛車で取る。ぐっと、金が進出してくる。飛車取りだ。飛車を逃げる。歩を打たれる……
 だんだん、抑え込まれていく。これでは前と同じではないか。まだ、何とかなるはずだ。駒は損していないし、玉も危なくなっていない。頭を振って、色々余分なものを振り落とす。飛車と角、どちらかが活躍すればいいはずだ。銀を取らせながら、ラインを通す一手。
「ふん」
 その手が指された瞬間、重たいため息が蜜さんの口からこぼれた。そして、彼女は腕を組み、目を閉じた。遊びで指す将棋とは、まるで違う世界だった。体も心も震えた。
 銀を取られる代わりに角筋が通り、一気に流れは激しくなった。蜜さんもあまり受けずに、どんどん攻めてきた。攻め合い。プロを目指した人と、真剣な攻め合い。
 ただ、僕は弱かった。とても弱かった。見る見るうちに守りを突破され、玉は追い詰められ、逃げ場を失った。それでも……それでも何かを探した。相手玉は詰まないか。攻防の手はないものか。何かないか、何かないか、何かないか……
 何もなかった。
「負けました……」
 僕は、頭を下げた。そして頭を上げると、僕のことをじっと見つめる蜜さんがいた。
「どうしたんだろう」
「え」
「すごい強くなった」
 徐々に、その目つきは緩んでいった。そして、口元も柔らかくなる。
「本当?」
「うん……なんかね、一つ深くなった。一手から三手って言うか」
「よかった」
「才能あるかもね」
 自分の表情も緩んでいくのがわかった。将棋で褒められるのが、こんなに嬉しいなんて。負けたのに。ハンデがあって負けたのに。それでも、成長は自分でも感じることができた。
「どうすればもっと強くなれますか」
「いっぱい勉強して、いっぱい指せばいいんだよ。……壁は、ずっと先にあるから」
 窓の外、いつの間にか陽が差していた。
「うん、そうするよ」


 模試の結果が返ってきた。
 勉強してないのだから、良い結果なわけがない。それでも志望校が絶望的、というほどではなかった。
 当たり前だが、風の結果も同時に届いた。いつものことながら、桁違いの成績だ。桁が少ない。
「もうさあ……内地の進学校でも行けるんじゃない」
「うーん、でもさ」
 どうせ島を出るのなら、どこでも同じなのに、と思うことがある。でもほとんどの人が子供は内地には行かせたくない、と思っているようだ。海は繋がっているけど、隔てるのはできるだけ小さい海が良いようだ。
「いい大学行きたいだろ」
「それはそうだけど、そんなに遠くには行けないよ」
「ふうん……」
 考えてみれば、僕だって同じなのだ。成績が悪いから後ろめたさがあるだけで。できれば島に残りたいぐらいなのだ。
「ただ……大学では、わからないよね」
「そりゃあね」
 内地の大学に進むと、そのまま戻って来ない人も多い。島が好きと言っていても、だ。内地の色に染まってしまうからかもしれないし、内地の方が仕事があるからかもしれない。少なくともこの島では、親の仕事を手伝う以外の仕事は思いつかないし、そうしたいと思う若者は少ない気がする。
「了はさ……島烏で働くの?」
「えっ」
「みんなそう言ってるよ」
「なんで」
「だって……よく行くしさ。蜜さんと結婚するんじゃないの?」
「いや……え?」
「それもいいと思うよ」
 荒唐無稽な話でもないだけに、戸惑いは増していった。僕と蜜さんは、少なくとも今はそんな関係ではない。それでも。それでも先日の、「帰ってくるまで待つわあ」という言葉が、頭の中で鳴り響く。
「風は……結婚とかしたいのか」
「そりゃあ、お父さんやあ母さんは安心するだろうし、したいよ」
「そういうことじゃなくってさあ」
「……どうなるだろうね。よくわかんないよ」
 風の中には、ビジョンがあるようでない。なんか、少し安心する。
「風はさ、誰かのこと好きじゃないの? 普段あんまり女子と喋ったりしてないけど」
「え……いや……そうだね……」
「いるんだ!」
「了が気付いてないことにびっくりしたんだよ」
「え。なんで」
「だって僕たち……双子じゃないか」
「そんなこと言ってもさ」
 いつも同じクラスにいるのに、全く知らなかった。もしかしたら違う学年とか? 双子じゃないとしても、気付きそうなものだ。
「了は、絶対わかってると思ってた。ショックだな」
「言ってくれればいいのに。だいたい、それならなんでずっと家にいるんだよ」
「だって勉強が……」
「一緒にしようとかさ、何でもいいから会えばいいじゃないか。その子の近所にライバルでもいたらどうするんだよ」
「……僕、そんなに積極的にできないよ」
 見た目が同じでも、中身は違う。全く違う。そして、通じ合ってもいない。きっと僕が風を羨ましがるように、風も僕のことを羨ましがっているのだろう。つくづく不思議な関係だ。
「島を出る前に、できるだけのことはしといたほうがいいと思うけどなー」
「……うん」


「きーつーいー」
 後ろから、息の詰まったような声が聞こえてくる。急こう配の上り坂、自転車で登るのは確かにきつい。
「もうちょっとですからっ」
 僕もそんなに慣れているわけではない。一生懸命に立ちこぎする。
「あー」
 振り返ると、蜜さんは自転車を押して歩いていた。僕は意地で、最後までこぎ続けた。
 ようやく登山口が見えてくる。自転車も原付も止まっていないので、先客はいなさそうだ。自転車を止め、振り返る。まだ小さな姿の蜜さんが手を振ってくる。僕も手を振った。
「なんか……すごいねー」
 右上を見上げながら、蜜さんが叫ぶ。そこには、岩が大地を突き破ったような山がある。平坦な島にただ一つの隆起。本島からでもその姿ははっきりと確認できるほどだ。
「あー疲れた。まだ登らなきゃなんだね……」
「案外すぐですよ」
 登山口からはしばらく穏やかな坂が続く。きっと昔から島の人は登ってきたのだろう、道はしっかりと踏み固められている気がする。僕が先に行き、少し後ろを蜜さんが付いてくる。山を巻くように進み、半周したぐらいで急な階段が出現する。ここからは一気に、ほぼ垂直に登っていく。
「大丈夫ですか」
「だといいな」
 振り返り手を貸しながら、山の背中をよじ登っていく。すでに木は生えておらず、ほとんど岩肌がむき出しになっている。今もきっと、島の誰かがこちらを見ている。この山は、そういう山だ。
「着いたよ」
「うん」
 頂上は平べったくなっていて、二人で腰掛けるぐらいなんとかなる。
「ほら。見て」
「あ」
 二人で、今来た方角、西を見る。空が赤く染まっている。太陽が、丁度海に触れるところだった。眼下に見えるのは、平らな台地。田んぼ、畑、牛舎、基地。全てが赤く染まっていく。
「ね」
「うん」
 何度見ても、綺麗だ。これを、見せたかった。
 二人は、太陽が沈んでいくのをじっと眺めていた。そんなに長い時間でもないけれど、記憶に残る長さだと思った。気がつくと、蜜さんの右手は僕の左手を握っていた。
「飛んでるみたい」
 風が、二人の背中を押した。確かに飛んでいるような、そんな感じがした。さえぎるものは何もない。四方が空、そしてその先には海。
「広いね……」
「そうだね」
「ずっと、せまいところにいたから……」
 震えが、伝わってきた。将棋ではあんなに強い蜜さんが、こんなにも世界を恐れていることに僕は衝撃を受けている。せまい勝負の世界も、せまい教室も、彼女には広かったらしい。広いのにせまいことが、歪みを生むのだろうか。
 この島はせまいけれど広い。海も空も僕らのものだと思えば、とてつもなく広い。そこで心を癒していけるなら、蜜さんにとって幸せなことじゃないかと思う。
「暗くなる前に、下りましょう」
「うん」
 長居してはいけない場所だと言われていた。根が生えて、山の一部になってしまうぞ、と。確かに、ここに居ると、人間をやめてしまえそうな気になる。ただ一日、太陽に照らされているのもよさそうだ。
 だから、無理やりにでも下りなければならない。暗くなれば、先祖の霊が話しかけてくる。もっと話そう、もっと話そうと。
「ありがとう」
 蜜さんは必ずつれてかえらなければならない。家に、だけではない。広い場所へ。傷付けられて、虐げられるからといって、せまいところへと閉じこもり続けることはできない。この島は束の間のものだ。僕も、もうすぐ出ていく。蜜さんも、きっといつかは出ていく。前向きに、出て行ってもらいたい。
 僕はいつの間にか、蜜さんに幸せになってほしいと思っている。こんな気持ちは初めてだった。

 新学期が始まった。
 なんとなく、これまでとは違う空気が感じられる。当たり前に一緒に過ごしてきた島の仲間と、もうすぐ別々になってしまうのだ。島に残る奴もいれば、県外に行く奴だっている。僕らは、ばらばらになっていく。
 授業なんて、真面目に聞く気にならない。いまさら勤勉になんかなれないのだ。前の方に座る、風のことを眺める。一生懸命ノートを取っている。多分クラス一真面目だ。
 そんな風が、恋をしているということが信じられない。勉強一筋で、余計なことは考えていないように見える。僕にわかってると思ってたのに、と言っていた。いったいどこから感じ取れというのか。
 放課後。僕らは並んで帰る。信号を越え、まっすぐな道をずっと。左右に畑が広がっている。そしてところどころにある、平べったい屋根の家。何年も何回も、この道を歩いてきた。
「風」
「なに」
「遠回りしないか」
「え」
 ちょっと、感じたことだった。どこまでも平らで、せまくて、ちょっとぐらい道を変えてもたいして何も変わらないだろう。でも、だからこそ同じ道じゃないときがあってもいいのではないかと思った。
「たまには、さ」
「いいけど」
 曲がって、曲がって、海沿いの道。少し変わった景色には、工場も見えてくる。港と島烏を結ぶ道でもある。
「こっちの方が……ちょっと、風が強いかな」
 そう言う風の髪の毛が、乱れてたなびいている。自分の頭に手をやってみる。同じ髪質のはずだけれど、何となくべたっとしている気がする。風よりも多く、塩分を取りこんでしまったのかもしれない。
 後ろから、こぎみのいい足音が聞こえてくる。誰かが走っているようだ。そして、なぜか隣の足音が消えた。風が立ち止まったのだ。
「おっ、珍しいなー」
 駆け寄ってきたその人は、僕らの前で止まっても足踏みを続けていた。上下青いジャージ、無造作に束ねられた髪がぴょんぴょんと跳ねている。
「なんだ、崎原か」
 彼女は、同級生の崎原。クラスの女子では一番運動神経がよい。将来は陸上選手になりたいらしいが、うちの学校には陸上部がないので、いつも島内を一人で走っている。
「いつもここ通らないだろ」
「今日はたまたま」
「そっか。……こうやってみると、二人背格好本当に似てるね」
「双子だからね」
「ふふふ。じゃ、また明日ねー」
 手を振りながら、崎原は颯爽と走り去っていった。しばらく僕も手を振った。そして隣を見ると、風はうつむいていた。耳が真っ赤になっている。
「あのさ、風」
「……何」
「学校だと普通にしてるのに」
「……何のこと」
「何のことかなあ」
 ようやく顔を上げる風。走り去っていく崎原の背中は、随分と小さくなっていた。
「素敵だと思わなかった?」
 ちょっと、考えた。確かに、かっこいい。ただ、それはすごく客観的な、海を見て綺麗と言うような、牛の出産を見て素晴らしいと思うような感じだ。崎原が特別に感じるというようなもの特にはない。
「風はそう思ってるんだね」
「……うん」
「伝えればいいんじゃないの」
「……え、ええっ」
「いいじゃない。付き合っちゃえば」
 首筋まで真っ赤にした風は、首をぶんぶんと降った。
「そんな……できないよ。了みたいには……」
「え、俺?」
「了は、蜜さんに言えるだろ。……そういう、なんというか」
「……言わないよ」
 そして、言おうと思ったこともない。改めて考えると、僕と蜜さんの間には、そう言う言葉が介在する余地がないように思えた。向こうがどう思っているかは分からないけれど、そういうことがないからこそ安心して一緒にいられる気がするのだ。
「そうなんだ」
「今度風も話してみなよ。そしたらわかる」
「……うん」
 もう、崎原の姿は見えない。けれども、僕の目にも揺れる髪が焼き付いている。


 年に一度、中学校の前の道が、自動車で埋まる。
 島じゅうの車が集結しているのではないかと思うほどの路上駐車。学校の中も人であふれ返っている。今日は、運動会。
 伝統的にうちの運動会は、東小出身者対西小出身者と言うチーム分けがされている。小さいころから一緒に学んできた仲間とチームを組むことで結束力は高まるし、親たちも感情移入しやすいようだ。子供のいない大人たちも大勢応援のためにやってくる。
 もちろん僕と風は同じチームだ。
 みんなが盛り上がるなか、僕はどうしても彼女のことが気になってしまう。最近ずっとそうだ。風が好きになる理由はなんなのだろう。僕と同じ遺伝子を持った人間が好きになる人に、なぜ僕は興味を持てないのだろう。
 授業中も、斜め前に座っている彼女をちらちらとみていた。ときどきうとうとしていて、あまりノートをとっているようにも見えない。それでも一つ、気付いたことがある。彼女の髪は、とてもきれいだった。肩まで伸びた黒髪は、少しウェーブがかかっている。すごく艶があって、しなやかだ。
 長距離の陸上選手を目指す彼女は、当然運動会で活躍を期待されている。彼女が出る1000メートル走は得点が高い。
 その前に僕は、110メートルハードルに出るための列に並んでいた。僕は三年続けてこの競技に出ている。あまり目立たないし、長くないし、ハードル自体は苦手ではないから。他方風は200メートル走に出るらしい。1000メートル走の前に行われる競技で、それなりに注目される。
 僕は走るのが好きではない。急かされるのが嫌だ。歩き続けるのならばいい。とはいえ、運動会でそんなことも言ってられない。
 順番が回ってきた。三レースしかないうちの、三レース目。「高嶺ー」という応援の声が聞こえてきた。走るのは各チーム二人ずつの四人。これまでの二年は、どちらも三着だった。
 スタート合図の音が響く。走り出した僕を、最初から引き離す三人。ふだん気にしたこともなかったが、足の速い三人だったのだ。最下位は嫌だ……後ろ向きなやる気から、僕は必死に足を延ばした。すると、中ほどで先頭の奴がハードルに躓き、こけた。そしてそれに邪魔されて、隣もつまずいた。僕は必死にそれを避けて、一気に二位まで上がった。そして、そのままゴールした。
 三位ではなかった。順位が上がった。棚ぼたのような展開だけど、うれしかった。ただ、徐々に悔しさも生まれてきた。それでもまだ、一番じゃない。
 席に戻ってくると、風はもういなかった。200メートル走がもうすぐ始まるのだ。
「運良かったね」
 そう言ってきたのは崎原だった。すごく楽しそうだった。
「終盤型なんだ。こけなくても二位だった」
「ふうん。ま、そういうことにしとくね」
 トラックでは、すでに200メートル走が始まっていた。最初は女子。健闘むなしく東チームは3位、4位。続いては男子、風の登場だ。
 これまで生きてきた中で、一番不思議な感覚だった。僕と同じ遺伝子を持った、たった一人の兄弟。いろいろと違うところはあるけれど、結局は似ているのではないか、そんなことも考える。見た目はほとんど変わらない。けれども今の風は、信じられないぐらいに僕と違っていた。やる気にみなぎった顔と、そのせいでがちがちに緊張してしまった体。完全に空回りする兆候だ。
 崎原の髪が脳裏にちらつく。初恋は、どんな感情をもたらすのだろう。自分が体験していないことを、自分のものとして魅せられているような不思議な感覚。
 走り出した四人。ほぼ横一線だ。風にしては頑張っているが、想像以上に200メートルは長い。顎が上がり、手足がばたついてくる。
「風ーっ!」
 みんなの声に交じり、いつの間にか叫んでいた。それは多分、内なる自分への呼びかけでもあった。
 結局、風は三着だった。ゴール付近で倒れている。普段から勉強しかしていないのだから、妥当な結果ではある、けど。
 続いて、1000メートル走が始まった。こちらは、最初から崎原の独走だった。ほかの三人も決して遅くはないはずだけど、まったく馬力が違うという感じだった。しなやかに、地面を蹴って進む脚。彼女は跳躍していた。それは性別とかに関係なく、美しい姿だと思った。恋にはならないけど、風の気持ちがわかる気がした。
 後続に約半周の差をつけて、崎原はゴールした。まだまだ走れそうな、爽やかな顔だった。
 得点競技がすべて終わって、僕ら東小チームは結構な差で負けた。それでも最後、崎原の走りを見て、僕らは勝利したかのように満足していた。過去の運動会ではこれほどの鮮烈さは記憶がないから、崎原がすごく努力したんだと思う。風は、それを知っていたのだろうか。
 九月終わりの、生暖かい風が吹いている。僕の心の中でも、新しい空気が渦巻いている気がした。


 しまった。
 釣りをしていたら、雨が降り出した。大したことがないと思ったら、土砂降りになった。
 あわてて家路につく。風も強くなってきて、とても自転車には乗れない。傘も差せないので、カッパだけで何とかしのぐ。それでもすでにびしょ濡れだ。
 寒いような暑いような。とにかく気持ちが悪い。このまま倒れたら、海まで流されてしまいそうだ。必死に、家路を急ぐ。
 前が見えない。雨が岩のようになって落ちてくる。体が自分のものでなくなるような感覚。後悔も何も考えられなくなり、前に進めているのかすらわからなくなる。
「了君?」
 聞き覚えのある声が。車が止まる音。続いて、駆け寄ってくる足音。
「……蜜さん……」
 温かい感触に、僕は安心しきってしまった。体から力が抜けていく。
 そのあとは、ほとんど意識がなくなっていたようだ。遠くの方から、小さな声が聞こえてきた気もする。そして、いつの間にか僕は眠ってしまった。
 昔にも一度、こんなことがあった気がする。夢の中で、とてもひどいことを言われた。誰が言っているのかはわからない。けれども、胸の奥をえぐられるような言葉が、とても痛い。
 そして、全てが白くなっていく。視界も、音も、香りも。ただどこまでも沈んでいくかと思われた中、一筋だけ光が見えた。細く、弱々しい光。僕は、それをじっと見つめている。いつもと同じように、その光が失われないように……
「大丈夫かねえ」
 瞼が開いた。突然、現実が見えてくる。ただ、ぼんやりとはしていた。しかも、何かがおかしい。僕は布団で眠っているのだが、いつもの二段ベッドではなかった。ゆっくりと首を回す。見覚えのある天井、家具。ここは……島烏の一室だ。
「あ……」
 何か言おうとしたけれど、うまく声が出なかった。のどが細くなっているような感覚。
「了君、起きたの?」
「あら」
 入口からこちらを除く、四つの目。蜜さんと、母さんだ。妙な組み合わせ。
「熱が40度近くあるのよ」
 母さんが、あきれたような、少し楽しそうな声で言った。そうか、やっぱり風邪を引いたのか……と思うものの、それ以上頭が働かない。
「私が見つけなかったら、行き倒れになってたかも」
「本当にねえ」
 首を持ち上げられ、お湯を口に含ませてもらう。小さいころもよく、こうしてもらった気がする。
「それでね、明日あたり出産がありそうでしょ、風に移してもいけないし。熱下がるまであんた、ここにいさせてもらったらと思って」
「幸いお客さんもいないしね」
 十月半ば。島への観光客はまだいるが、島烏はたまに誰もお客さんがいないということもあるようだ。
「ぁぁ」
 声を出そうとしたが、息が漏れる音しかしなかった。自覚しているよりもずっと弱っているらしい。
「しばらく寝てないとね」
 その言葉に安心したのか、僕の意識は再び沈んでいった。蜜さんの温かいまなざしが、最後まで残像になっていた。


 不思議な朝だった。
 目が覚めたものの、緊張感が感じられない。毎朝我が家は、牛の世話をする父さんを中心に動いている。母さんが一番先に起き、料理を始める。そしてテーブルの上に小さなおにぎりとお茶が置かれ、起きてきた父はそれを口にしてから牛舎に向かう。そのあと僕ら二人が起きてきて、朝食を並べるのを手伝う。
 父さんが気分よく仕事をできるように。そのことを第一に家族は生活をしている。それはびびっているとか敬うとかではなく、それぞれが役割分担をしっかりしているということだと思う。畜産業には休みがない。日々を乗り越えていくには、家族の協力が不可欠なのだ。
 そんな当たり前の日々から離れて、僕は今宿の一室にいる。蜜さんもおばあも、すごくのんびりと一日を過ごしているようだ。宿泊客がいないのもそうだが、外も大雨なので洗濯をすることもなければ急いで買い物に行く気分にもならないらしい。フェリーも朝の便は欠航になったらしく、今日来る予定のお客さんもキャンセルになるかもしれないとか。
 僕は寝たきりで、ぼんやりと天井を見ている。寝すぎてもうまったく眠くない。それでも熱が引かず、ただ横になっているしかない。
「おかゆ作ったよー」
 蜜さんが部屋に入ってきた。茶碗から上がる白い湯気。母さんも風邪をひくとおかゆを作ってくれたっけ。
「食べられそう?」
「……うん」
 体を起こすと、蜜さんは左手で腰を支え、そして右手でおかゆを運んでくれた。食べ物を口に入れて初めて、空腹だったことを実感する。
「何か……」
「ん?」
「保健室みたい」
 蜜さんは口の端で笑っている。目は笑っていない。
「……そう?」
「うん……まあ、普通はこんなにきれいなお姉さんはいないけどね」
「そうだね」
 保健室は、ほとんど行くことがない。健康診断の時ぐらいだろうか。普段はどんなところなのだろうか。蜜さんは何を知っているのだろうか。
「自分が誰かのお世話するなんて、本当に想像しなかった」
 おかゆを食べ終わり、温かいお茶を飲んだ。雨が屋根をたたく音が、鳴り続けている。
「もうすぐ受験だね」
「うん」
「まあ……今は休もう」
 考えてみれば、蜜さんは高校受験をしたことがあるのだ。でも、そのことを聞くのはいけないことのような気がした。蜜さんは、そこから逃げてきたのだ。蜜さんにとって保健室のようななこの空間は、きっと居心地がいいはずだ。僕はただ、ここにいればいいと思う。
 僕はと言えば、少しはましになったもののまだぼーっとしている。今どころかいつも真面目に受験勉強なんてしてないけれど、今はそういうことはすべて忘れていた方がよさそうだ。
「ありがとう」
 自然に出た言葉だった。けれども蜜さんは、僕のことを凝視していた。
「……どうしたの?」
「……将棋では、負けた時に『ありがとうございました』って言うよね」
「うん」
「でも、ありがたくはないよね」
「そっか」
「本当は……いい言葉なのに」
 負けたら悔しい。それでも頭を下げて、「ありがとう」を言わなければならない。まっすぐなようでいて、屈折した勝負の世界。いまだにそこにとらわれている蜜さんは、勝負から切り離せない何かを持っているのかもしれない。
「今は……休もう」
 もらった言葉を、今度は返した。ぎこちないけれど、蜜さんは笑ってくれた。僕は、瞼を閉じた。


 冬がやってきた。
 それほど寒いというわけではないけれど、やはりなんとなく外に出るのが億劫になる。そして、もうすぐ受験が始まるので、そもそも遊びにも行かせてもらえない。
 よくもまあ、というほど風は集中して勉強している。脇目も振らず、とはこのことだ。僕の方はそんな風に脇目を振りまくっている。
「はあ」
 思わずため息も出る。将棋を指すこともできない。高校に行きたいわけでもないのに、こんなに苦労しなければならないのは理不尽だ。かといってみんなを押し切ってまでしたい仕事があるというわけでもない。
 好きなことを仕事にしたら楽しいだろうか。例えば……将棋。でもなんか、苦しそうなイメージしかない。蜜さんの姿を見ているからだ。父さんの仕事は風が継ぐと言っている。僕はどうすればいいのだろう。
 行き詰った。息が詰まった。
 部屋を出て、リビングへ。冷蔵庫から麦茶を取り出す。うちには季節にかかわりなく麦茶とシークワーサージュースが常備されているのである。
 母さんはいなかった。コップを持ったままサンダルを履き、庭に出てみるが見当たらない。牛舎の方も見てみたが、父さんもいない。二人で買い物にでも行ったのだろうか。何かお菓子でも頼めばよかった。
 なんとなく、リフトに腰掛ける。使い込んだせいで、椅子には穴が開いている。父さんは毎日これで干し草を運ぶのだ。牛たちは遠慮なく次々とそれを平らげていく。雨が降ろうが嵐になろうが、牛たちの空腹は満たしてやらなければならない。僕らが生まれる前から、ずっと休みなく父は干し草を運び続けてきたのだ。
 いつか父も干し草を運べなくなるだろう。その時、僕はどこにいるのだろうか。本島のどこかで普通の仕事を淡々とこなしているだろうか。まったく想像できない。
 ただただ時間は過ぎていく。僕はそれに、身を任せるしかない。


 フェリーから次々と出ていく車。そのうちの何台かは僕らと同じ目的を持っていることだろう。
 少し雨がぱらついている。そして、かなり冷え込んでいる。普段なら牛の心配をするところだが、今日は僕らが心配されている。
 母さんの運転する車は、海岸沿いの道を順調に進んでいく。晴れた日ならば、透き通るような青が眩しいぐらいなのだ。しかし今日は、灰色の空を映している。
 後ろの席には、僕と風。昨日の夜から風の顔はこわばりっぱなしだ。考えてみれば僕よりも合格確率は低いし、普段なかなか行かないところに泊まるし、いろいろと不安なことだろう。僕はもう、たぶん受かるだろう所を受けるし、受からなかったときはまたその時考えればいいと思っている。
「あのさ、風」
「なに」
「試験終わって街行く余裕あったらさ、なんか将棋の本買ってきてよ」
「……うん」
「試験前に何言ってんのー」
 母さんの声。父さんは今家で寝ている。何があっても一人で対処しないといけない時間は、できるだけ体を休めておくことが必要らしい。
「いいじゃない。試験終わったら自由になりたいさー」
「なれればいいけどねえ」
 どうせ結果が出るまでは勉強なんてしない気がする。
 街に入ってきた。僕はここに泊まり、風はもっと遠い街で泊まる。本島で一番大きな場所で。なんとなく、その怖さはわかる。
「あ、ここだ」
 何回か道を曲がると、ホテルの前に。こんな大きなところに泊まったこともないし、一人で外泊するのも初めてだ。ちょっとわくわくする。
「大丈夫?」
「うん」
「早く寝るのよ」
「わかってるよ。そっちも気を付けてね」
 車の扉を閉める。手を振る。走り去っていく。
 一人、ホテルの前。少しだけ、寂しさを感じた。
 チェックインして、部屋に入る。それほど広くはないけれど、いつも風と二人部屋の僕にとっては十分すぎるスペースだ。それに、テレビも冷蔵庫も設置されている。さらにはお風呂まで。贅沢すぎる部屋だ。
 かと言って、特に何かをするわけでもない。今から何かを頭に詰め込む気にもならない。今日はこの環境、一人で街に放り出された感覚に慣れるために使うのがいいと思う。
 などと言い訳をしてベッドに寝転ぶ。
 そういえば、と思いだしてポケットから携帯電話を取り出す。何かあった時のために、昨日購入してもらったのだ。そして、青いランプが点滅していた。新着メールがあるらしい。アドレスを教えたのは家族と、もう一人だけだ。
 予想通り、メールは蜜さんからだった。

〈負けるなよ!〉
 
 思わず吹き出してしまった。至って真面目なのだろうが、「頑張れ」とかでないところが彼女らしい。確かに試験も勝負だ。どれだけ納得がいかなくても、他の受験者に勝ちさえすればいいのだ。
 
〈勝つよ!〉

 僕も気合を込めて返信した。蜜さんは宿のパソコンから電話回線でメールを打っているので、確認するのはいつになるのかわからないけれど。
 僕は、明日頑張ればいい。勝負は、非日常の出来事だ。それをずっと続けてきた蜜さんは、どれほどつらかっただろうか。そしてまだ続けている人たちは、想像を超えたところにいる気がする。
 気持ちが本当に軽くなっていくのがわかる。携帯電話というのは、いいものだ。


「負けました」
 明るく染められた茶色いポニーテールが、ひっくり返って僕の目の前に飛び出てきた。それほどまでに、蜜さんは深々と頭を下げていた。
「強くなったね」
「……そうかな」
 まだ実感はわかない。たまたまかもしれない。それでも……それでも、ようやく二枚落ちで勝てたのだ。喜びがへそのあたりからじわじわとこみ上げてくる。
「定跡は覚えられてないところもあるけど……地力がついたってことかな」
「だといいな」
 将棋が強くなっている実感は、ある。以前は指せなかったような手が、時折見えるようになってきたのだ。
「そろそろじゃない」
「……うん」
 そして今日は、結果発表の日。いつも郵便が来る時間は決まっており、ちょうど今がその時間だ。家に帰れば、合否の書かれた封書が届いているだろう。
「受かってるといいね」
「まあ……そりゃね。でも、どっちでも一区切りかな」
「……そうだね」
 立ち上がろうとしたその時、ポケットから軽快なロックナンバーが流れてきた。着メロだ。蜜さんは目の前にいる、ということは家族からだ。
「はい」
「ああ了、受かってたよ」
「……え?」
「結果来てたから。よかったね」
「あ、うん」
 母さんは、それだけ言うと電話を切ってしまった。
「了君……」
「受かってたって」
「……おめでとう」
「うん。ありがとう」
 確かに、開けるなとは言わなかった。が、開けてくれとも頼まなかった。受かっていたからいいようなものの、何とも拍子抜けする話ではないか。
「でも……」
「ん?」
「さびしくなるな」
 こんな時、どう対応すれば一番いいのかはわからない。けれども本当にさびしそうな蜜さんの顔に、僕は思ったままのことを言った。
「俺もさびしくなる」
 小さく笑って、蜜さんも立ち上がった。そして、両手で僕の体を包んだ。まだ少し蜜さんのほうが背が高く、僕の体は蜜さんに埋まってしまった。
「了君には新しい場所ができるもの。さびしくなくなる」
「それはわからないよ」
「わからないけど……たぶん了君は大丈夫だから」
「蜜さん……メールしてよ。電話も……」
「する……けど、男の子のそういう言葉は、信用しきらないから」
 蜜さんの過去が、重い言葉となって僕の心にのしかかってくる。きっと僕も、今信じていることをいつまでもめできるわけではないだろう。ただ、嘘をついているわけじゃない。本心しか言わない。
「蜜さんが……蜜さんが来てくれたっていいんだ」
「了君……」
「どの島にだって、居場所を作ることはできるよ。どの島でも、大変かもしれないけど」
「……そうだといいけれど……」
 なんとなく、わかってはいる。蜜さんが弱いとか、そういうことじゃない。僕はまだ何もしていないだけだ。だから、蜜さんがどれほど苦しいのかなんてわかってはいない。わかるとは思えない。
「俺だって、どうなるかわからないよ。案外ふらっと戻ってきちゃうかもね」
「そうかもね」
 高校生になるんだ、そのことを初めて実感していた。僕たちはいろんな道に分かれていく。どうなるのか、何が待っているのかわからない。とても不安になってきた。
「……ごめん。わがまま言いすぎて……」
 それでも、蜜さんは腕を解かなかった。僕も、こうしていてほしいと思った。


 もうすぐ、ここから離れる。それを実感するようになり、僕はできるだけ島の中を見て回ろうと思った。自転車に乗り、隅々まで走る。
 天気によって風景も変わる。北海岸などは特にそうだ。風が穏やかで太陽も照っているときは、断崖から海の方へと飛び込みたくなる。穏やかに水が湧き出している様子は、見ていて心を落ち着かせる。けれども風が強く雨が降っていたりすると、海の方から吸い込みに来ているような感じがする。ちっぽけな僕は、必死で抗いたいような、いっそ引きずり込まれたいような、不思議な気分になってしまう。
 島はすっかり春を迎えている。半袖の人すらいる。これからどんどん暖かくなっていく。本島の夏も、同じように暑いだろう。そう、距離はそれほど遠くないのだ。ただ、間には海が横たわっている。毎日フェリーに乗ってバスに乗っていては、遅刻してしまう、それだけのことなのだ。
 海は、いろいろなものを隔てている。そしていろいろなものをつなげている。
「了くーん」
 ぼーっと海を眺めていると、聞き覚えのある声で呼ばれた。こちらに駆け寄ってきて、あっという間に僕の目の前まで来た。崎原だ。
「今日も練習?」
「うん。あのさ……四月からもよろしくね」
「ああ……え?」
「一緒の高校」
 崎原が右手を出したので、つられて僕も右手を出した。握手をしたまま、ぶんぶんと腕を振られる。
「え……だって……」
 崎原は私学に進学すると言っていた気がする。いや、陸上のために絶対に行きたい高校があるのだと……
「結局、お父さんを説得できなかったんだ。まあ、出資者に反対されちゃあねー」
「でも、合格したって……」
「してたけどね。でも、しょうがないよ」
 やっと手を離した崎原の顔は、少しだけこわばっているように見えた。悔しいに違いない。ずっとずっと、目標にしていたのだから。けれども、崎原の家が裕福でないことも知っている。おじいの入院生活が長く、兄弟も四人いる。受験までは許したのだ、お父さんだっていろいろと揺れる思いがあったに違いない。
「じゃあ、走るのは」
「やめないよ。どこに行ったって走れるし。ちょっと部活が弱いだけ」
 本音でないことは明らかだった。崎原は、中学生の間にも設備の整ったライバルたちとの差が開いていくことに焦っていた。だから雨の日も休むことなく走っていたのを知っている。
「そっか。頑張ってね」
「もちろん」
 手を振りながら、だけど振り返らずに、崎原は走り去っていった。何の目的もなく高校に行く僕と、あきらめて同じ高校に行く彼女。「同じ」の間には大きなかい離がある。
 景色が天候によって全く違う場所。砕けては消えていく波を見ながら、しばらく崎原の悲しみを思った。


「ねえ、了」
「ん」
「……変な感じするね」
 風が、本棚を指さして言った。確かに、中身が空っぽになった本棚は、今まで見たことのない何かのようだった。
 僕らは今、荷造りをしている。風も当たり前のように合格し、四月からは二人ともこの家を出ていく。共有のものが多いので、同時に荷造りをしないと不公平でしょ……と母さんには言われたのだが、言われなくても作業をしたい時間帯は変わらないようだ。僕らは時折双子らしくなる。
「ずっとこの部屋にいたのにね」
「そうだね。色々あったなあ」
 喧嘩したこともあれば、二人で立てこもったこともあった。二段ベッドの上下をたまに交換した。知らない間に引き出しの中にプレゼントが入っていたこともあったし、知らない間に僕のものがなくなっていることもあった。
 そんな思い出は、もう作られなくなる。この部屋は空っぽになっていく。そして住人もいなくなる。僕らはきっとこの部屋のことをほとんど忘れて、新しい部屋で別々の思い出を作る。
 二人の視線が、自然と写真立てに吸い寄せられている。家族四人、火山口の前で笑っている。初めて県外に旅行した時の写真だ。本当はすごく寒くて、でもずっと残る写真だと思ってみんな必死になって顔を作っていた。二泊三日の短い旅行だったけど、それでも知り合いに牛の世話を頼まねばならず大変だった。
 次に行けるのは、いったいいつになるだろうか。
「家族って、いいよね」
 風はとても感傷的になっていて、それを隠そうとしない。僕は少し気取って、間を置いてみた
「……そうだね」
「島から出ていくのも、さびしいな……」
 さびしい。風の口からも出たその言葉。じわじわとその予感が、僕の胸にも響いてくる。
「頑張ろう。風は島に戻ってくるんだろ」
「まあね。了はまだどうするかわからないんだよね」
「……そうだね。何か見つかるといいな」
 それは思う。ただ、思うべきかはわからない。風が、蜜さんが、崎原が追い立てているようにも思う。僕はまだ、そんなに先のことまで考えなくてもいいんじゃないのか、そうも思う。
「この写真……僕が持って行ってもいいかな」
「いいよ」
「ありがとう」
 風は僕より遠いところに行く。それは距離だけではない。風はこの島から優秀な高校に行く久々のエリートであり、将来この島を支えたいと宣言する希望の星なのだ。きっと今から、いろいろなプレッシャーを背負うことになるだろう。
 僕らはそのあとも、発掘されるいろいろな思い出について語り合った。幸せな時間だと思った。


「買ったよ」
 いつものように対局が終わった後、蜜さんは言った。そして、ポケットから真っ赤な携帯電話を取り出した。
「かわいいね」
「私が選んだんだからもちろん……と言いたいけど、三種類ぐらいしかなかった」
 島には携帯電話のお店がなく、最も近いところもひどく小さいところだ。品ぞろえは確かにひどかった。
「ちょっと……電話してみる」
 そう言うと蜜さんは、ボタンを押してから携帯を前に突き出した。数秒後、僕のポケットの中から明るいメロディーが流れだす。
「よかった。通じた」
 島の電波は弱い。だから通じないこともある。でも蜜さんが知りたかったのは、それだけじゃないと思う。
「あとでメールもしてみる」
「わかった」
 携帯電話をポケットにしまう蜜さん。その時揺れた髪を見て、僕は気が付いた。
「あ」
「どうかした」
「黒くしたんだ」
「今気づいたの?」
「えっと……うん」
「鈍感だ。了君もてないかもね」
 たぶん、そうだ。僕はあんまり人の変化とかを気にしない。どんな服を着ていたかも、明日には思い出せなくなっているだろう。
「何で戻したの」
「気分転換」
「それだけ?」
「いつになく食いつくじゃない。気になる?」
「気にしたらもてるかと思って」
「ばかだなー」
 蜜さんが座ったまま、膝歩きで近付いてきた。そしてまつ毛が触れるんじゃないかってぐらい顔を寄せて、言った。
「とっくに私にはもててるのに」
「知らなかった」
 少し距離の空いた蜜さんの顔を、じっくりと見る。何度見ても、綺麗だと思う。ただ、綺麗なものは弱く見えることがある。整ったもの、理解しやすいもの。きっとそれは、多くの場合に不利になることだ。
 僕は、その先、その奥を見ようと思った。髪を黒くして、口紅を塗らず、少しだけ頬を彩って、携帯電話を購入した、その心を。
「本当に知らなかった?」
「……ちょっとは知ってた」
 初めてフェリー乗り場で会ったあの日。僕は蜜さんを見つけた。けれども、蜜さんが見つけたのは僕だっだろうか。偶然が、一冊の本を介して出会わせた。そう思えばロマンチックかもしれない。でも、そう思い込むだけの勇気が僕にはない。何も知らない土地で将棋好きの人間に知り合えば、蜜さんは誰にでも同じように接したんじゃないかと思う。もし二人が大都会ですれ違っても、きっと何も起こらない。僕が高校から帰ってきたら、僕の代わりの少年がここに座っているかもしれない。
「でも……確信はないよ」
「了君は正直すぎるね。やっぱり、私以外にはもてないと思う」
「そっか」
 蜜さんの肩が震えていた。僕は、その肩をつかんだ。正直なままでいいならば、よくわからないのだった。そして、蜜さんには悲しんでほしくないのだった。
「それでいい」
 再び近付いた顔、そして、唇が触れた。正直、恥ずかしすぎて感触とかよくわからなかった。蜜さんの手が、僕の背中へと回る。すぐ側から、嗚咽が聞こえた。
「……ごめん……私からは怖く……」
「蜜さん?」
「卑怯なんだ……私いつも……卑怯……」
「そんなことないよ。ねえ」
「了君……あきれないでね。私、本当にしょうもない人間だけど……ちゃんとしようって……今度はちゃんとしようって思ってるから」
「大丈夫、蜜さんはしょうもなくなんかないよ」
「ありがとう」
 確かなこと。それは、今蜜さんには僕しかいないということであり、僕はそれを受け入れているということ。
「蜜さん……本当に、そんなに遠くないから……帰ってきたら、必ず将棋指してね」
「うん。必ず」
「よかった」
 口にはできない、本当に本当に正直な気持ちは、蜜さんを誰かに取られるのは嫌だ、というものだった。こうして抱きしめるのも、将棋を指すのも、僕だけであってほしい。そういう気持ちを……恋と呼ぶのだろうか。
 大事にしなければならないと思った。この瞬間は、思い出になる。


 もう、何度も乗っているフェリー。けれども今日は、特別な乗船だった。明日にも明後日にも、帰りの便には乗らないのだ。
 風は昨日、旅立った。入学式が一日早いのだ。
 下に誰もいないベッドは、運転席に誰もいない車のようだった。話しかけることができない。寝息が聞こえない。朝起きても何の痕跡もない。
 そして今日、僕が旅立った。二人取り残された両親のことを思うと、胸が締め付けられる。父さんは決してさびしいなどとは言わないだろう。それを思うと、余計切なくなる。
 島と島の間の海は狭い。それでもその間を、フェリーは時間をかけて進む。まるで、盤上を進む駒のようだと思った。僕らの島と本島の間での勝負。敵陣まで乗り込んでも、その駒が活躍できるとは限らない。ときには相手の駒になって、再び自陣に戻ってくる。先行きのわからない進軍。
 波の一つ一つが、盤上のマスに見えた。目を凝らせばそこに魚影が見えることもある。想像で、駒を置く。海上の81マスに、40枚の駒。大昔の合戦を思い、心を躍らせる。島と島との間でどんな戦をしたのか、僕は知らない。けれども、想像の中の将棋では、見事な海戦を繰り広げることができた。
 実際海の中では、いろんな争いが繰り返されているんだろうなあ、なんてことも思う。海はきれいなだけじゃない。みんな生き残りをかけて必至だ。
 着実に、本島へと近づいていく。


 人の多さに圧倒された入学式。毎日が運動会のようになるのではないか。
 クラスが分かれるというのも新鮮だった。いつも一学年一クラスだったのだ。
 そして、知らない人たち。生まれた時から島の人たちと過ごし、みんなが顔見知りみたいなものだと感じていた。それが今、僕は知らない人たちとコミュニケーションを取らなければならない。
 二日目はオリエンテーションとかなんとかで、午前はいろいろな説明を受けて終わった。そして午後は部活見学の時間だった。僕は行く場所を決めていた。
「了君」
 だが、教室を出ると呼び止められた。この声の主はよく知っている。
「崎原」
「ふふ、よかった。まだいて」
「どうしたの」
「あのさ……いろいろと慣れないでしょ。なんかさ、そのさ、うん……」
 なんかもじもじしている。完全に彼女らしくない。
「ひょっとして……部活見に行くのが怖い?」
「まあ、正解」
 その気持ちは、何となくわかった。僕らは厳しい部活というのを体験したことがない。そんな中すでに出来上がった集団に入っていくというのは勇気がいることだ。体育会系は特にそうだろう。
「まあでもそこは乗り切らなくちゃならないし……了君は陸上とか興味ないだろ」
「もちろん」
「だから……待っててほしいんだよね」
「ああ、いいよ」
 僕も、知り合いと呼べるのは崎原ぐらいしかいないし、それはすごくありがたい申し出だった。
「えーと……三時には終わると思う。また連絡する」
「わかった」
「じゃあ、あとで」
 気が付くと、二人は既に校舎を出ていた。手を振りながら、いつものように走り去っていく崎原。スカートのすそが、大きく跳ねている。
 僕は、裏の方へと歩いていく。テニスコートの奥に建っている古びた三階建て、それが文化サークル棟らしい。
 見学時間だというのにそれほど人の気配がしない。人気のある吹奏楽や軽音楽、美術部などは校舎の方で活動しているからだろうか。ここにあるのは漫画研究会、コンピューター研究会、登山部などのどちらかというとそんなに人数の多くなさそうな部だ。
 入口すぐ横の階段を上る。手すりは完全に錆びついていた。コンクリの床には赤い土が溜まっている。隣のテニスコートから流れてくるのだろう。
 三階にたどり着いた。殺風景な廊下の両側に、青い扉が並んでいる。手前から三つ目、左の扉。何も書かれておらず、不安になって扉の小さな窓から中を覗く。長細いテーブルの上にゴム製の将棋盤が見えた。ここで間違いないようだ。
 そして扉を開けると……やたら細身の男性が一人。本を読んでいたようだが、僕に気が付いてゆっくりと首を回した。
「あの……」
「一年生?」
「はい」
「……入部希望者?」
「ええと、今のところ……」
 高校生になったら将棋部に入る、と決めていた。けれどもなんというか、まだ対局姿も見ないうちに入部を決断してしまうのは危険だと思った。将棋部の部室を借りて、別の活動をしている人かもしれない。
「おお、これはこれは! なんという僥倖」
 えらく難しい言い回しで、細い人は感情を表現した。たぶん嬉しいということだろう。
「あの……将棋、指すんですよね?」
「当然。将棋部だからね」
「ほかの部員は……」
「まあ、最近は俺一人かな。去年五人の三年生が卒業してしまって。あ、ちなみに俺は二年生で部長の胡屋。よろしく」
「よろしくお願いします。じゃあ、部員一人?」
「まあ、もう一人いるんだけど。すごく強いんだけど、ほとんど来なくて」
「じゃあ、普段対局とかできないじゃないですか」
「いやいや、今日から君がいるじゃないか。対局できるぞ」
「……うーん」
 思わずうなってしまった。僕の想像の中では、多くの部員が切磋琢磨するのが将棋部だったのだ。言っちゃ悪いが、この状況はいつ廃部になってもおかしくないのではないか。
「ひょっとして、初心者で気が引けるとかじゃないよね。俺も最初は全然勝てなかったけど、楽しかったよ」
「そういうわけではないです」
「よし、じゃあ一局指してみよう」
 胡屋さんは、自分の正面に座るよう僕に促した。僕も将棋を指すことは楽しみだったので、一礼して腰を掛けた。
「道場とか行ったことある?」
「いえ」
「ネット将棋は?」
「ないです」
「じゃあ初心者なのかな。まあいいや、とりあえず指してみよう」
 駒はすでに並んでいた。駒箱にしまわずにいるのか、見学者に備えて並べてあったのか。
「よいしょ」
 振り駒は、とが四つ。僕の先手だった。
「では、お願いします」
「お願いします」
 将棋部だけあって、胡屋さんの手つきはきれいだった。緩やかにに駒を持ち上げ、ピシッと指を伸ばして指す。そして、しゃべっているときはどこかへらへらしていたけれど、対局中はすごく凛々しい顔をしていた。将棋にかける思いが伝わってくる気がした。
 ただ、局面はどういうわけか僕の方がよくなっていた。戦型は相矢倉だが、胡屋さんが攻め急いだため僕の玉将はするすると上部に逃げ出している。将棋には前にしか行けない駒があるため、相手陣に近づくほどこちらの玉将は攻められにくくなる。
「う……」
 思わずうめきを漏らす胡屋さん。もう、形勢には大きく差がついている。
「参りました」
「ありがとうございました」
 何とも言えない沈黙が続いた。胡屋さんの顔は、不可解なものを見たときのように歪んでいる。
「いやいや……謙遜したの?」
「いえ、そういうわけでは……」
「強いね。しかもなんというか……堂々としてるね。定跡に詳しいとかじゃなさそうなんだけど」
 正直なところ、僕は自分がどれほど強いのかわかっていない。ただ、蜜さんと二枚落ちで互角で、その蜜さんはプロには慣れていなくて、そこから自分はまだまだとても弱いのだろうと思っていた。
「うん、これは頼もしい。これなら団体戦もいけるな」
「団体戦?」
「今度あるんだ。三人1チームでね。さすがに二人じゃ負けられなくてきついと思ってたんだ」
「すごいですね。でも大会とか出たことないんで……」
「大丈夫。なんとかなるよ」
 胡屋さんはおそらく、ただの新人という以上に戦力として僕を見始めている。高校大会のレベルがわからないので、それが正しいのかどうかもよくわからない。
 何となく愛想笑いをして困っているところに、いいタイミングで携帯が振動し始めた。
「ちょっとすいません」
 確認すると、崎原からだった。メールに〈すぐ終わっちゃった。了君はまだかな?〉とだけ書かれていた。
「あ……あの、僕用事があるんで今日はこれで」
「そうか。部活は火曜と木曜の放課後だから、ぜひ来てくれよ。……あ、名前聞いてなかったね」
「高嶺です。高嶺了」
「高嶺君か。うん、待ってるよ」
「はい。……では、失礼します」
 どこかすっきりしないものはあったけれど、そんなに悪いこともない。まだ同級生も入ってくるかもしれないし、もう一人の先輩も見られるかもしれない。将棋部、きっと続けるだろうな、と思っている。


「あ、了君」
 校門の前、俯いていた崎原。僕に気が付いて顎を上げたが、元気そうには見えなかった。
「どうだった」
「うん……そうだなあ」
 崎原は言葉を探しつつ、歩き始めた。僕も、左に並んで歩く。
「なんか大変そう」
「練習が?」
「そうね……練習も」
「人付き合い?」
「うん……なんていうか、さ。わかんなくなってくる。速くなりたいから陸上部に入りたかったけど、陸上部に入って速くなりたかったわけじゃんないし……わかる?」
「なんとなく」
 僕らにとって、部活に入ってみんなで頑張る、というのはあまり縁のない話だった。学校にクラブはあったけれど、そんなにバリバリがんばっているところはなかったと思う。さっきだって団体戦をするというだけで僕は驚いてしまったぐらいだ。
「まだ引きずってるのかも。でも……吹っ切らなきゃね」
 ちらりと横顔を見る。走っているときのような力強さは、完全になりをひそめている。けれども、今の崎原はかわいいと思った。前向きと後ろ向きに揺れる心。いつもは隠しているものが出てきていて、艶めかしいとすら感じる。
「まあ、別にどうしなきゃいけないってこともないしさ。気楽に行こうよ」
「そうだね……了君は? 何か入るの」
「うん。たぶん。将棋部にね」
「そっか。将棋好きだもんね」
 二人は、寮のある方に向かっている。何も聞いていないけれど、崎原も寮に住んでいるのだろう。
「やっぱり……」
「ん?」
 しかし、もう少し、というところで崎原は足を止めた。
「ちょっと、海見たい」
 崎原の視線は左……海岸の方に向いていた。住宅が邪魔して見えないけれど、その先には整備されたビーチがある。
「海?」
「なんかさ……ここって、海が足りない感じしない?」
「ああ……そうだね」
 海が遠いわけではない。けれども、島での生活ほど海が密着しているという感じがしない。波の音も、潮の香りも、ここではありのままでは触れられないものなのだ。
「いいかな」
「俺も、行きたくなったよ」
 二人で左折して、ビーチを目指す。狭い道を抜け、市役所の横に。そして道を渡り、公園を横切ると白い砂浜だ。僕らの島のビーチより広いし、綺麗だし、オブジェなんかもあって豪華だ。ただその分、海そのものの良さを味わうには物足りない気もする。
「あ、見えるね」
「ほんとだ」
 小さいけれど、僕らの島も見ることができる。そびえ立つ中央の山のおかげで、とても見つけやすい。
「不思議。ずっとあそこで暮らしてきたのにさ」
「そうだね。いつもあそこを走ってたんだよね」
「そう。何回も」
 この街では、崎原はどこを走るのだろうか。このビーチから公園を抜けても、まだまだ距離は短い。市街地を走るのは危険だし、あんまり気持ちよくはなさそうだ。陸上部に入ったら、グラウンドの中を何周もするのだろうか。
「これも、ホームシックなのかなー」
 僕らの目の前で生まれた波は、僕らの島まで届くかもしれない。けれども、島と島とを隔てた海は、時に心をも引き裂こうとするらしい。少なくとも今から三年間、僕らと故郷の間にはこの海が広がっている。
「すぐに帰れるよ。いつだって」
「でも、授業もあるし、部活もしたら……」
「崎原にとってそれが大事ならそうだし、島が大事なら高校なんていつだってやめればいいさ」
「……」
 崎原は、僕に返す言葉を考えているようだった。僕は、それを待つことにした。一分ほど経っただろうか。
「戻るだけじゃ、進めないよね。でも、戻るときがあってもいいかも」
 ふと思った。風は、こんな顔を見たことあるのだろうか、と。風が眩しそうに眺めていたのは、前向きに走り去っていく崎原の姿だったのではないか。立ち止まった崎原の、はかなげで壊れそうな、それでこそ美しい姿を見たことがあるのだろうか。
 僕は今、初めて崎原を魅力的だと思っている。それは、僕にだけ今の姿を見せてくれるというシチュエーションの魔術かもしれない。それでも思う。僕らは表と裏、見るところは違うけれど結局惹かれていくものは同じなのではないか、と。
 それでも、これはやはり風とは違う気持ちだと思う。僕は崎原でなくても、この気持ちを持つと思う。綺麗で儚いものが目の前にあれば、少し眩しく思うものではないか。
 もし今ここにいるのが僕でなければ、崎原に何としてでも走ってほしいと懇願したかもしれない。けれども僕は、そんな風に無責任に本人を追い立てるようなことは言えない。そしてそこまで考えて、なぜそう考えるのか、わかってしまった。
 追いかけて、疲れて、もともとの場所にもいられなくなってしまった人を知っているからだ。夢を失うだけではない。元の居場所も失ってしまうのだ。
 しばらく一歩も動かなかった、崎原の両足。その足が走り出すのか、帰り道を選ぶのか、どこにも進めなくなるのか。僕はどうすべきか、わからない。けれども、彼女が訳もなく逃げ出さないように、見守ることはしたいと思った。
 風が僕らの背中から吹いてくる。あの島まで、せめて風だけでも届け。


「そうだね……慣れてはきたかな。うん。将棋部、あったよ。……強い人は、まだわからない。いるみたいだけど。……大会があるって。団体戦。……わかった。ありがとう。……うん、おやすみなさい」
 携帯電話を置いて、窓の外を見る。ほとんど雲が出ていないようで、たくさんの星がきらめいていた。
 蜜さんは、電話の向こうで元気そうな声を出していた。もともとそんな声を出さない人だから、元気じゃないんだろうと思った。
 今日は何というか、感情をうまく整理できない一日だった。予想とは違う将棋部の実態。予想しなかった崎原の迷い。そして予想通りの蜜さんへの心配。いろいろなことがぐるぐるとまわって、一回思考停止を選んでしまう。
 曖昧なんだろう、と思った。僕はいっつも、はっきりとしたものを持っていない。将来のことも今のことも、ほどほどの気持で眺めているだけだ。高校に行きたかったわけじゃないけど、何となく来てしまった。せめて楽しむために将棋部に行ってみて、そんなに悪くもないかもと思って。
 このまま三年過ごしてしまうのだろうか。特に勉強したいわけでもない。この土地が好きなわけでもない。ただ流されるようにここまで来てしまった。三年後、もう一度何かしら決断しなければならない。そのとき僕は、答えを見つけているだろうか。
 僕がはっきりと願うことは、「将棋が強くなりたい」ぐらいしかない。それでもないよりはましか。いつかは蜜さんと平手でいい勝負をしたい。そのためにはとてつもなく強くならなければいけないけど、不可能とは思いたくない。
 不意に携帯電話の画面を見て、はっとした。そこには牛の赤ん坊の写真が。ただ試しに撮ったもので、少しぶれていた。他に全然撮らなかったのでこれにしたのだが、蜜さんを撮ればよかったのだ。たぶん僕には、そうすべき理由がたくさんあった。ただ、それを思いつくような関係じゃない気もする。
 じゃあ、具体的にはどういう関係なのだろう。
 僕らは大事な手順を踏まずに、あいまいなままで離れてしまった気がする。そしてそれが、僕らの真実を映しているようにも感じる。僕はあまりにものんきで、蜜さんはあまりにも繊細だ。けれどもいつかは、しっかりとした接点を持たないといけない。
 ゴールデンウィークには島に戻ろう。宿が忙しいかもしれないけど、将棋を指してもらおう。今のところ、それが最善の、そして唯一の確認方法だ。


「あのさあ、高嶺君」
「はい」
「将棋部員なのにさあ……ひどいよね」
「はい?」
「彼女」
 高校生活は、特に波乱もなく始まった。そこそこ友達もできて、火曜・木曜は部活に来て。寮での暮らしもそんなに苦にならない。
「彼女って……」
 蜜さんのことが頭に浮かんだが、胡屋さんが知っているはずもない。
「一緒にいるところ見ちゃった」
「……ああ」
「付き合ってるんでしょ」
「ないですよ」
 一緒にいると言えば、考えられるのは崎原だけだ。彼女とは一緒に買い物したりもしているし、はたから見れば勘違いされても仕方ないかもしれない。
「本当に?」
「島に彼女いますから」
「……絶望した」
 胡屋さんには彼女がいないらしい。というか、将棋部員には普通いないらしい。本当だろうか。
「胡屋さんは作ろうと思わないんですか」
「そう思った時は別の部活に入るね」
「クラスにも女の子はいるじゃないですか」
「いいかい、この世は競争社会だからね。君はまあ、ちょっとかわいい感じだしね、もてるだろうさ。でも俺なんか、何にも目立つところがない」
 言われてみればいたって普通の顔で、特に惹かれるところとかなさそうだ。趣味が将棋というのも、確かにもてる要素ではない。
「大会には、女の子は来ないんですか」
「……来るよ。数人はね」
「数人、ですか……」
 男社会とは聞いていたけれど、それほど少ないとは思わなかった。何せ僕はずっと女性と将棋を指していたのだ。蜜さんはそんな男社会に、プロになるべく飛び込んで行ったのだ。本当に大変だったろうと思う。
「俺は中学からやってるけどね……本当に男臭い世界だ」
「ううむ……」
 ちなみにそんなことを言っている間にも将棋は進行中で、僕の方が有利な局面である。僕と胡屋さんの力の差はわずかだけど、今のところ僕の連勝。定跡は胡屋さんの方が知っているのだが、中盤のねじり合いは僕の方が得意みたいだ。駒落ちの経験が生きている。
「負けました……」
 そして、気が付くと胡屋さんの王将は逃げ場がなくなっていた。まだ受けがあると思っていたのだが、どうやら必至のようだ。ちなみに必至というのはどう対処しても次には詰んでしまう状態で、蜜さんに教わった。
「ありがとうございました」
「うーん、もうちょっとなんだけどなあ」
「なにがもうちょっとだって?」
 聞き慣れない低い声は、入口の方から聞こえてきた。すっと背の高い、サメのような眼をした男が立っていた。先生かと思ったけれど、首から下は僕らと同じ制服を着ている。
「あ、唐澤」
「本借りに来ただけ~」
 唐澤、と呼ばれたその人は本棚の前まで来て、指さしながらぶつぶつとつぶやきだした。
「ちょ、せっかく来たんだしさ。新入生も入ったんだよ」
「え、めんどくせー。団体戦出るとか言い出すんだろ」
「当然じゃないか」
「先輩いても勝てなかったのに、お前と俺だけでどうやって勝つんだよ」
「いやいや、この子、俺より強いんだ」
 振り返った唐澤さんは、ずかずかとこちらに歩いてきて胡屋さんの肩を押した。席を替われということらしい。
「20秒な」
「頑張れよ」
 目の前に座った唐澤さんは、威圧感たっぷりだった。ちらりとのぞく八重歯は、肉食獣をも連想させる。駒を並べる指は、細くて長い。そして、鋭角に動く。
「名前は」
「高嶺了です」
「聞いたことないな。段位は」
「持ってないです」
「ふうん。まあいいや。始めようか」
 唐澤さんは駒を一枚だけ振った。歩が出て表、僕は後手だ。
「はい、よろしく」
「お願いします」
 僕がチェスクロックを押し、唐澤さんが角道を開ける。すらすらと唐澤さんの四間飛車、僕の左美濃に組みあがっていく。まだ時計というものに慣れていないので、時間が切れないように早めに指すことを心掛けた。
「そういう人ね……」
 唐澤さんは考えている間、テーブルを人差し指でたたく。リズムをとっているかのようだ。そして時折つぶやく。思考が体から漏れ出すタイプのようだ。
「ふうん」
 駒組みも飽和状態で、あとはいつ仕掛けるか、という段階に。仕掛ける権利はこちら側にある。けれども攻める駒が少ないので、組み合わせをよく考えないといけない。が、20秒はあまりにも短い。僕は決心を決めて、飛車先を突いていった。
「なんかさ……変な感じ」
「え」
「不器用。でも、いい手つきだ」
 攻めてはみたものの、丁寧に受けられて後続手がない。悪くなったというわけではないけれど、これは焦る。何かないかと思っているうちに、ピッピッピッとチェスクロックの電子音が急かす。
 思わず声が出そうになった。指した瞬間に悪手だとわかった。攻めを押し返されて、部分的にどうしようもなくなっている。それでも必死に、最善の粘りを探す。自陣は堅いので、差を広げないようにすればチャンスもあるはずだ。
 ……なかった。
 唐澤さんは丁寧に駒を押し上げ続け、と金を作り、僕の駒を着実に押し込んでいった。玉側には一切手を付けない。
「どう思う、胡屋」
「え、俺?」
「これが、お前より強い将棋だ」
「……」
 結局、本格的に攻められ始めたら受けるすべがなかった。
「負けました……」
「うん。わかった」
 唐澤さんは僕が悪手を指した地点を指さした。
「この手がマイナス10点。他は100点でも負ける手。オッケ?」
「……はい」
「あと、組み方が雑。今回は見送ったけど、悪くなる箇所あるから。棋譜並べとかしてないのが丸わかり。まあでも悪くなってからはいい。胡屋は勝手に自爆するから」
「はは」
「でさ、笑ってるけどこの三人で出てどうなると思ってるの?」
「いや……出てみないとわからないじゃん」
「俺が一勝確定。で、もう一勝はどっちが勝つわけ? 俺が三番手と当ったら必敗。困ったねえ」
「……」
 胡屋さんは黙り込んでしまった。団体戦のレベルというのはわからないけど、今のままでは相当厳しいようだ。ただ。
「あの……」
「ん?」
「その……僕は出たいです。いろんな人と指して強くなりたいから」
「……あー。そういう言い方されると困るな。反論しにくい」
「いいこと言ったぞ、高嶺君」
「ただね、もとはと言えば胡屋にも責任あるぜ。あんなにいい先輩たちいたのに頑張りきれなかった。Aチーム入るぞって気概見えなかったもんな。同期がやめようとしてるときだって止めなかったしさ。今になって運よく三人目が入部しました、大会出ましょうよ、って俺に言うのはなんか違うんじゃね?」
「……」
「ま、高嶺に免じて出るのは出るよ。ただ、お前大将な。俺副将。それが条件」
「……わかった」
「じゃ俺今日は本借りて帰るから。大会までにできることしとけよ」
 唐澤さんは立ち上がると、本棚から二冊の本を抜き取って部屋を出ていった。
「相変わらずきついなあ、唐澤は」
「昔からなんですか」
「ああ。先輩にも容赦なかった。まあ実際一番強いし、家では相当勉強してるみたい」
「そうなんですか……」
 たぶん唐澤さんは、蜜さんほどには強くない。ただ、今も強くなり続けている途上だということはわかる。上を向いている人のストイックさというものが、何となく感じられた。それゆえ弱い人間と指す時間を惜しいと感じてしまうのかもしれない。
「それに最初から個人戦は出るつもりだったみたいだし。去年は準優勝だったんだ。負けた時の顔、本当に悔しそうだった。一年で決勝に行けただけですごいのにね……」
 僕にはまだわからない世界が待っているのだ、そう思った。本当に強い人たちが、鎬を削る世界。
 どこまで行けるかわからないけれど、僕もそこに近づいてみたい。蜜さんが挫折した世界が、僕にはどのように見えるのか確かめてみたい。
「頑張りましょう、先輩。できるだけのことはします」
「そうだね。今からでもやれることはしよう」
 これが部活動なのか、と思った。そして、楽しい。


 そして、楽しくない人もいる。
「……」
 ファーストフード店のテーブルに座り、三分ぐらい経つ。その間に二人は飲み物をすすっただけで、一言も喋っていない。
 崎原は、日に日に暗い顔になっていた。もう、島で走っていたころの快活さはまったく見えなくなっていた。今の顔を見たら、風ならどう感じるだろう。僕だってとても心配になる。
「私ね」
「うん」
 ようやく語りだしたときには、崎原のジュースは半分以上なくなっていた。
「私ね……こういう自分は嫌いで」
「こういうって?」
「結論がわかってるのに、悩んだふりしてる自分」
 から、と氷が崩れる音がした。それぐらい耳を澄ましていた。
「結論、出てるわけだ」
「……うん。たぶん……最初っからね。なんか……意地になってただけ」
「意地?」
「お姉ちゃんが……大学院生なんだよね」
「へー」
 そういえば崎原の家族のことはほとんど聞いたことがない。四人兄弟ということしか知らなかった。お姉ちゃんも小さい頃一度見たことあるような気がするが、よく覚えていない。
「東京で一人暮らししてて……すごい優秀で……お姉ちゃんに仕送りしなきゃいけないから、私はやっぱり私学には無理だって……私……私……」
 崎原の頬を、小さなしずくが滑って落ちた。それを隠すために、抑えるために必死に頑張ってきたのだろう。
「走るのは、好きだったように見えたよ」
「……うん。走るのは好き。でも、一番になりたかったわけじゃなくて……それでもお姉ちゃんに負けたくなくて……」
 わからない、でもない。優秀な兄弟を持つのは、僕も同じだからだ。
「やっぱり……一番を目指すのは、私には合ってなかったかもしれない」
「いいんじゃないかな。一番なんて、欲しい人にあげればいいんだよ」
 先日の、唐澤さんの話を思い出す。一番にこだわっている人もいる。勝てないなら団体戦に出ない、なんて普通はわがままな考え方だろう。けれども一番を目指している人にとっては、それは重要なことなのだ。目指す人と目指さない人の間には、大きな溝があると思う。
 僕は、そこまでは目指していない。もっと強くなればもっと楽しいかなとは思うけれど、上には上がいて、一番を目指し始めたらきりがないと思っている。自分のできる範囲内で、いいんじゃないかな。
「了君は……やっぱりいいね」
「何その変な褒め方」
「あのね……」
 これまでとは違う感じで、崎原はうつむいた。僕と目を合わせるのを避けるかのように。
「……まあいいか。うん、今言うことじゃなかった」
「そういうのすごい気になる」
「……だよね」
「うん」
「……風君にさ」
「風?」
 素っ頓狂な声を出してしまった。ここで風の名前が出てくるとは思わなかった。
「島を離れる何日前だったかな……告白された」
「……え、あいつが?」
 全然知らなかった。そんな度胸があるとは思わなかった。
「うん。びっくりした……っていうのは言いすぎかな。なんとなくねそんな気もしてた」
「気付いてたんだ」
「了君も知ってたの」
「最近分かった」
「そっか」
「で?」
「ん?」
「なんて答えたのさ」
 崎原は少し首をかしげて、声を出さずに口だけ動かして言った。「ごめんね」
「そっか」
「うん。……いいと思うんだけどね。ちょっとだけ。惜しい、って」
「惜しいって」
 思わず吹き出してしまった。本人には申し訳ないけど、何となくわかる気がする。
「風君は性格も頭もいいし、高校できっともてるよ。私なんかじゃなくて、さ」
「どうだろうね。まあ、俺に似て顔はかっこいいんだけどね」
「そうだね」
 二人は微笑んでいた。風の尊い犠牲によって、重い空気はとりあえず流れていったらしい。
「でも、全然顔違うよ」
「前も言ってたね」
「うん。全然違う。了君の方がいいよ」
「それはどうも」
 風と比べられるときは、だいたい負けが確定していた。だから、素直にうれしい。
「出よっか。楽になれた。ありがとう」
「よかった」
 崎原が少し元気を取り戻したように見えて、僕の関心は風のことへと向かっていた。まったく変わった様子は見せなかったけれど、どんな気持ちだったのだろうか。今一人でさびしがっていないだろうか。残念ながら僕らの間にはテレパシーなどない。帰ったら、電話してみよう。



 港に着くと、こちらに向かって手を振る人がいた。母さんだ。
 連休初日ということで乗客が多く、宿から送迎の車が何台か来ている。島烏のおばあの姿もあったが、蜜さんは宿で忙しく来れないとメールがあった。
「あら、大きくなった?」
「そんなわけないでしょ」
 この一か月、二人だけの生活をしてきた母は、僕に対して満面の笑みを向ける。
「風が帰ってこれないのは残念だね」
「夏には帰ってくるよ。急に二人帰ってくるより一人ずつ帰ってくる方が楽しみも増えるさ」
 僕は助手席に乗り込んだ。風と二人の時は、後ろに並ぶ。
「父さんは元気」
「まあまあ」
 窓の外は変わらない風景が。それでも一か月見なかっただけで、とても懐かしいものに感じる。島は小さいが、平らな大地はとても広く見える。その先の海も。
 家に着く。中はひどく静かだ。父さんは昼寝でもしているのだろうか。
「お昼作るから待っててね」
「うん」
 戻ってきたらきたで、風がいない三人の家というのも変な感じだ。部屋に入る。家具はそのまま残っているものの、いろいろなものが持ち出されてすごく広く感じる。
 ベッドの下の段にだけ、布団が敷かれていた。掛布団をめくると、まっさらなシーツがひどく冷たい。きっと、いつもはしまわれているのだろう。
 何となく手持無沙汰になって、居間に行く。そこは以前と変わらない空間だ。
 食事ができる頃、頭をかきながら父もこちらにやってきた。やはり寝ていたのだろう。
「おお、了か」
 そして、以前と変わらぬ食事。ポツリポツリとしゃべる父。笑いながら答える母。僕はそれを微笑みながら見ている。ただ、風がいない。
 食事が終わると、母が僕に小さな風呂敷包みを手渡した。
「何」
「島烏のおばあに持っていってあげて」
「わかった」
 多分煮物か何かだろう。蜜さんが手伝っているとはいえ、送り迎えや何やらでおばあも忙しいだろう。きっと喜ぶと思う。
「じゃあ、行ってくる」
 自転車にまたがる。その道のりは、少しドキドキした。


 いつになく靴が多い。
「お邪魔しまーす」
「あっ」
 声がしたのは裏の方からだった。言ってみると、蜜さんはシーツを干していた。
「お久しぶり」
「急に来るなー。感動の再会って感じじゃないね」
 黒く光る髪を後ろに束ねている。いたずらっぽい笑みを見せる蜜さん。
「母さんがこれおばあにって」
「うん、あとで渡しておく」
 風呂敷包みは廊下に置いて、しばらく二人でシーツを干した。
「7六歩」
「え」
「練習の成果見てあげる。平手なんて贅沢でしょ」
「いやあの……」
「目隠し将棋、結構鍛えられるよ」
 頭の中に、なんとか盤を想像する。思ったよりも明確に思い浮かべることができた。
「じゃあ……3四歩」
 蜜さんはすぐに次の手を言ってくる。僕は慎重に確認してから、少し時間をかけて応える。とっくにシーツは干し終わっていたけれど、二人は庭で将棋を続けた。
「2五歩」
「……えーと」
 しかし、中盤を過ぎると持ち駒の数とかがあいまいになってきた。蜜さんは攻めてきているが、あと歩が何枚あるかで事情は随分と違ってくる。
「同歩」
「2四歩」
 囲いの頭に置かれた歩。攻めの拠点として、大きな威力を発揮するだろう。そしてあと何歩あるのか……そもそも頭の中の盤はあっているのか……
 そのあとなんてか進んだところで、はっきりと局面に自信がなくなってしまった。能力の限界を超えてしまったようだ。
「わかんなくなった……」
「ふふ、ここまでよく頑張ったよ。ちょっとびっくりした」
「本当?」
「本当」
 蜜さんは、右手を僕に差し出した。
「おかえり」
「ただいま」
 僕も右手を差し出し、その手を握った。
「高校はどうだった?」
「今のところ、それなりに楽しいよ」
「良かった」
「蜜さんはどうだった?」
「私は……さびしかったよ」
「……うん」
「でも、ここから先には逃げるところないから……了君を笑顔で迎えようって、それを目標にしてきた」
「僕を?」
「一人じゃないって思いたいのよっ」
 手を離した蜜さんは、表まで走り出すと、縁側から駆け上がって部屋の中に戻った。
「ほら、お客さん多いの。ついでだからもうちょっと手伝ってよ!」
「オッケー」
 なんというか、蜜さんの頑張りが伝わってきて、本当は今すぐ抱きしめたいと思ったのだ。だけれどそれではいけないこともわかっていて、隣にそっと寄り添っていた。


 久しぶりの島は、当たり前だけれど、前と何も変わっていなかった。そしてそんな僕の前を、以前と同じように駆け抜けていく影。
「崎原」
「あ、了君」
 ピンぴょんと跳ねていた髪が、背中にくっつく。以前と変わらない、つまり最近にはなかった笑顔。
「こっち来てたんだ」
「うん。なんか……ほら、やっぱり落ち着くと思ったから」
「そうだね」
「了君もずっと?」
「連休中は」
「じゃ、また会えるかもね」
「うん」
「じゃあ、また!」
 走り去っていく背中は、本当に前と変わらない。けれども、頑張って同じことをしているのだと思う。
 僕は、ただここでのんびりしている。けれども、前のように何をしていいのかわからないということはない。
 海を見るといつも81マスが浮かび上がってくるようになった。今僕は将棋が本当に好きなのだと思う。そしてそれは決して一人で得たものではなくて、蜜さんがいて、崎原がいて、そして風がいてたどり着いたものだと思う。
 来週は、初めての大会。


 この街に来るのはいつ振りだろうか。長く続く繁華街に、頭がくらくらとする。
「んー、なんだろうね」
 四人掛けの席に、三人で座っている。僕の向かいには胡屋さん。
「なんですか」
「似ているのは当然なんだけど、双子って言うほど似ていないね」
「いや双子ですし」
「そうですよ」
 僕の隣には風。
 明日からの大会のため来たのだが、せっかくなので弟に会いたい、と言ったらこうなったのだ。ちなみに唐澤さんは「飯なんかつるんでられるか」と言ってどこか行ってしまった。
「そっかあ。風君は将棋しないんだよね」
「はい。趣味とか何もなくて」
「もったいない。今度是非してみようよ」
「機会があれば」
「うーん……了君よりもしっかりしてそうだね」
「よく言われます」
 風は以前と変わらず元気そうに見えた。ただ、以前と変わらず上手く気を遣えるだけなのかもしれないと思った。
 風はこの数か月の間に、僕以上のいろいろな経験をしてきたのだ。いい高校に合格して、街中に暮らして、レベルの高いクラスメイト達と勉強して。そして、女の子に振られた。それらのことを何事もなく乗り切れるほど、頑丈じゃないことはよく知っている。
「これ、地元料理なんですね。うちでは出なかった」
 風がおいしそうに食べるのは、豚肉を煮た料理だ。そういえばうちでは豚肉そのものがあまり出ない。すごくおめでたいことがあるときに食べるものだと、どこかのおじいに聞いたことがあるような気がする。
「地方によって違うのかもね。風君の寮でも出なかった?」
「はい。いや、出てたかな……忘れちゃいました」
 食事は楽しいものになった。胡屋さんも基本的に明るくて、この場を楽しんでいるようだった。唐澤さんもいれば、と思ったが、あの人はどうも集団行動が大嫌いみたいだ。蜜さんもそうだけれど、将棋が強い人というのはそういうものなのかもしれない。周りに壁を作って、それに耐えられるのか。ただ、明日は団体戦だ。
「あの……了」
「なに」
「頑張ってね」
「ありがとう。風も、いろいろ大変だろうけど頑張って」
「うん。大丈夫だよ」
 僕は、弟のことが好きだ。そう思った。今までだって仲が悪いことなんてなかったけど、嫉妬することはあった。
 けれども、兄弟がいて本当に良かった、と思うのだ。僕らには劇的な共感とかそういうものはないけれど、友人には決して築けない信頼関係がある。そんな気がする。
「よし、そろそろ行くか。睡眠が一番大事なんだよ」
 胡屋さんの言葉で、僕らは立ち上がった。風との時間は終わりだ。しばらくはまた、信じ続ける時間。
 

 その光景は、聞きしに勝る。
 会場はとある高校の食堂で、今日もそのまま営業するのだとか。まあそれはともかく。
 ここは、男子高校生の卸売市場か。いや、市場とか見たことないけど。
 ずらっと並ぶ男子高生たち。制服こそ違うものの、みんな同じに見えてしまう。中には女の子もいるけれど、本当に一握りだ。
「どうだ、高嶺」
「本当に……男ばかりですね」
「そこかよ」
「え」
「こう、なんかいいだろ。勝負の世界って感じ」
「言われてみれば……」
 今まで何かの競技に参加するということもなかったので、これだけの人が一つのことに熱中するというのは確かに初めて見る。
「言うことは一丁前だな」
 唐澤さんはついさっきふらっと現れた。制服も着ておらず、上はジージャン、下はカーゴパンツという何とも浮いた格好である。
「いいじゃないか、別に」
「いいか、高嶺は未知数なんだ。勝負はお前次第」
「あ、ああ」
 明らかに一番緊張しているのは胡屋さんだ。動きが硬くて、それでいてふらふらと揺れている。喋るときも少し舌が空回り気味だ。
「ちなみに予選は確実に俺全勝だから。チームが負けるときは、わかるな」
 唐澤さんはポケットに手を突っ込んだまま、予選の組み合わせ表を見ている。僕はまったくどの学校が強いのか知らないが、胡屋さんによれば「やっぱり厳しい組み合わせ」らしい。それはつまり、僕も胡屋さんもなかなか勝てそうにない、ということだ。
「大丈夫、去年の俺とは違うよ」
「そんなんで何とかなればいいけど」
 開会のあいさつが終わり、ついに競技が始まることになった。指定されたテーブルに移動し、大将から並ぶ。僕らのチームは胡屋さん、唐澤さん、僕の順だ。
「……お前」
 相手チームは南部の高校で、将棋部のことはおろか詳しいことは何も知らなかった。でも、唐澤さんは向かいに座った相手に目を丸くしている。
「お久しぶりです、唐澤さん」
「まだやってたのか」
 ひょろっとしていて、鼻の高さが目立つ青年。表情をほとんど変えずに、口だけで喋る感じだ。
「高校入って、再開しました。他にすることもないし」
「……そうか」
 それ以上、会話はなかった。そして振り駒で先後が決まり、胡屋さんと僕は後手、唐澤さんが先手ということになった。
「それでは、準備ができたところから始めてください」
 会場全体に、「お願いします」の大合唱が響き渡った。ああ、これか、と思った。体の底から、ぞくぞくしたものが湧きあがってきた。怖さとか楽しさとか、そういうものがごちゃ混ぜになった感情。
 僕の相手は恰幅のいい、動きの機敏な人だった。初手を指す手つきも百人一首をしているかのような素早さだった。そして僕が角道を開けるなり、太い腕がこちらににゅっと伸びてきて、僕の角をむしり取った。いきなりの角交換だ。そしてその角を、歩の両取りの位置に置く。見たことのない序盤だった。
 隣では唐澤さんがうなっている。局面は見る限り互角。知り合いのようだし、相手が強いことがわかっていて真剣になっているのだろう。いや、きっと勝負が始まってしまえばこの人は真剣なのだ。
 僕の方は、わけのわからない局面になっている。とりあえず角が成られないように注意しながら指していたら、相手は飛車を振ってきた。どう指していいのか方針が全く分からない。そして持ち時間はどんどん減っていく。
 唐澤さんは絶対勝つと言っていたけれど、それは相手がもっと格下だと予想していたからだろう。胡屋さんは現状僕より弱いわけだし、あの緊張具合だし、大将で勝つというのは期待しない方がいいだろう。僕が負けたらシャレにならない。棋力にそう開きはなさそうだし、局面もまだそんなに悪くはなっていない。勝たないと、勝たないと、勝たないと……
 気が付くと、相手の攻めが受けきれなくなっていた。指先が凍えたように動かなくなる。次の一手を指したくない。もう、一直線に負けへと進み始めている。隣ではまだ唐澤さんが難解な局面を、うなりながら戦っている。今僕が負ければ、チームの負けはかなり濃厚になってしまう。せめて、負けを伸ばさなければ。
 もう、詰み筋に入っている。それでも時間いっぱい使って、考えているふりをした。何度確認しても詰んでいる。詰んでいるけれど、投げられない。個人戦ならとっくに終わっている勝負を、続けなければならない苦痛……
「負けました」
 それでも、永遠には続かない。きっちりと最後まで詰まされて、僕は頭を下げた。
 局面を見ると、完敗だ。作戦の選択から何から、ずっと相手の思惑通りだっただろう。悔しい。本当に悔しい。
 立ち上がって見てみると、胡屋さんもがっくりとうなだれていた。結果は聞くまでもない。
 チームの負けは確定している。それでも、唐澤さんの勝負は続いている。どちらの陣形も乱れていて、急所のわかりにくい難解な終盤に見える。唐澤さんは人差し指で何回もテーブルを打ち付け、読みを確認しているようだった。相手もひょうひょうとしたままのようでいて、時折舌打ちをしていた。
 実力があるということは、こういうことなのだろうか。ただ読みが深いとか、知識が豊富とかだけではなく、勝負に対する執念があるということ。それが強さなのか。
 他の対局も続々と終っている。いつの間にか唐澤さんの対局には人だかりができていた。そういえば、強い人同士の将棋を間近に見るのはこれが初めてかもしれない。迫力が違うし、熱量も違う。アマチュアでこれだけのものが見られるのだから、プロならどれほどのものなのか。蜜さんは、そんな舞台で戦っていたのか、と今さらながらに思う。
 とても長い時間が過ぎたように思える。どれがいい手だったとか、そんなことはまったくわからない。ただ、頭を下げたのは相手の方だった。唐澤さんが勝ったのだ。
「やっぱり、鈍ってるな」
「はは。初めて負けましたかね」
 二人の会話はそれだけだった。そして唐澤さんは左右を確認して、小さく頷いた。
「あの……」
 唐澤さんは、胡屋さんの肩を叩いて言葉を遮った。
「言っただろ。俺は勝つ。お前らの負けなんて想定内だ。あいつが副将で出てきた以上、こっちにとっては一番いい当たりだった。それでも勝てなかった。そういうことだ」
「あの人はどういう人なんですか?」
「……小学生の頃のライバル、かな。高嶺と同じ学年だ。プロを目指すって言ってたけど奨励会に落ちて……そのあとは見かけなくなった。やめたと思ってたよ」
「その……どうでした?」
「何が?」
「昔より強くなってましたか? その……唐澤さんも当時よりは強いでしょうし」
「……まあ、なあ。総合的には、かね。勉強を続けていたのはわかったよ。感覚的な鋭さとかは変わんないかね」
「そうですか……」
 思い浮かべているのは、もちろん蜜さんのことだ。
 プロを目指して挫折して、それでも再び勝負の世界に戻ってくる人がいる。そしてずっと将棋を続けていた昔のライバルに負けて、再びあの人は情熱を燃やすのではないだろうか。将棋に一度憑りつかれた人は、簡単にそれを追い払うことなんてできないに違いない。
 僕の中にも今、悔しさだけでない何かが生まれようとしているのがわかる。将棋はただの盤上ゲームではない。まるでそれ自体が生き物であるかのように、こちらを魅了してくる。たとえ負けたとしても、そこにはよくわからない心地よさがある。
 あの日、詰将棋を解くのをさっと見つけて、蜜さんは語りかけてきた。将棋そのものが敵ならば、そんなことはしなかったはずだ。何度も僕に将棋を教えてくれた。その姿は、美しかった。蜜さんには、将棋が似合う。
「おい、次あるぞ」
「あ、はい」
 いつの間にか、唐澤さんが僕らを引っ張る立場になっていた。第二戦のため、僕らは慌ただしく移動する。
「おい、胡屋。負けて当たり前の相手に負けてへこんでる場合か。次こそ勝負だろう」
「あ、ああ」
「高嶺はまあきついだろうが、負けたら胡屋のせいだから。やれるだけやればいいさ」
「はい」
 次の相手は少し雰囲気が違った。三人ともちょこんとおとなしく椅子に座っていて、闘志というものが感じられない。先ほど表を見た限り一戦目は2‐1で勝っていたので、弱いというわけではないだろうけど。
 僕らも席に着く。胡屋さんの顔はもはや青白くなっている。唐澤さんはきりりとしてきており、なんだかかっこいい。
 今度は胡屋さんと僕が先手になった。挨拶が終わり、対局が始まる。先ほどのことがちらりと脳裏をかすめ、僕は飛車先の歩を突いた。これですぐに角交換されることはない。相手は角道を空け、飛車を振ってきた。オーソドックスな居飛車対四間飛車だ。とりあえず安心した。
 唐澤さんはじっくりとした相矢倉になっている。こちらもよく見る形で、すぐにどうこうということはなさそうだ。
 とても落ち着いている。たぶん先ほどの唐澤さんの姿を見て、信頼できると思ったからだろう。普段は部活にも来なくて、態度もぶっきらぼうだけど、一度対局を始めてしまえばどこまでもまっすぐなのだ。勝つと言ったら勝つ。そういう人なのだと思った。
 僕は左美濃を目指す。いろいろと試してみたのだけれど、王将の上にちょこんと乗っかるこの囲いが僕は好きなのだ。そして相手が比較的何も考えず組み上げてきたので、僕は右側の銀を繰り出して攻めていった。面白いほどにうまく攻めが決まる。このまま何事もなければ、負けはしない。
 それでも持ち時間が減っていくと焦り始める。将棋は詰まされたら負けのゲームで、ちょっとした読み抜けも致命傷になりかねない。だから、気を抜いてはいけない。それでもすでにこれは二局目で、神経がすり減っているのがわかる。必死に追いかけてくる犬から逃げているときのようだ。もう少しでゴール。もう少しで……
「負けました」
 その声を聞いたとき、体中の筋肉が一瞬でゆるんだような気がした。全身で戦っていたのだ。そして、一周遅れて喜びの感情が湧きあがってくる。将棋部員として、団体戦で一勝したのだ。初めて、公式な場で勝利できたのだ。
「負け……ました」
 そして連鎖反応のように、隣からも投了の声が聞こえた。唐澤さんの声ではなかった。
「延命したな。次勝てば決勝トーナメントあるな」
「はい」
 そして数分後、胡屋さんは頭を下げ、そのままの姿勢で固まってしまった。
「ありゃ、相当参ってるな。先に飯食おう」
「え、でも……」
「飯食った後は血が頭に行かないんだよ。早めに食って消化するのがいい」
「胡屋さんは……」
「自分でどうするか考えさせるさ。慰めたって急には将棋は強くならない。あいつが頑張るって言ったんだから、頑張り方はあいつに見せてもらわんとな」
 対局は全て終わったようで、選手たちが食券を買うために並び始めた。唐澤さんもそこへと向かう。その背中を、僕も黙って追った。


「最終戦の相手、今のところ二連敗ですね」
「油断するな。弱いわけじゃない。どこも同じぐらい強い。さっきだってお前、結構格上の相手勝ったんだぜ」
「え、そうなんですか」
「知らぬが仏、ってのだな。まあ序盤がいい加減な奴だから、たまに挽回できずにああいう負け方するけど。よく勝ちきったな」
 唐澤さんと向かい合っての食事。だんだんと、会話もスムーズにできるようになってきた。
「その、胡屋さんは前からあんな感じなんですか」
「そ、ずっと。まったく成長してない。将棋も少ししか伸びてないし、全てにおいてから回ってんだよな。勝負に向いてないんだろうな」
 今度は、崎原のことを思い出した。あんなに走るのが楽しそうなのに、陸上部はすぐにやめてしまった。好きなことと勝負は違うのだ。僕は今のところ、勝負を楽しめているんじゃないか、と思う。
「そろそろか」
 結局胡屋さんは僕らのところには来なかった。何か食べたのかどうかはわからないが、一人先に対局場所に座っていた。
 唐澤さんは何も声をかけない。僕も何も言葉が出てこない。三人とも着席して、只静かに時が来るのを待っている。
 相手もやってきた。黒くてピシッとした制服に、みんな短髪。運動部のような精悍さだ。二連敗しているとはいえ、一勝で三チームが並べば勝ち抜けの可能性もわずかにあるのかもしれない。もし敗退が確定していたとしても、この人たちは決して手を抜かないだろう、とも思った。
 振り駒で、再び奇数先。この言葉はさっき教えてもらったのだが、一番目と三番目が先手になるときに使うそうだ。
「お願いします」
 開始の挨拶にも慣れてきた。一呼吸おいて、角道を空ける。先ほどはびびってしまったけれど、やはりここはいつもどおりがいいと思ったのだ。
 すらすらと角換わりに進む。最近よく勉強した形だ。ややこしい変化がいっぱいあるのだけれど、本格的な感じがして好きだ。
 もちろんチームのために、勝利こそが大事だというのはわかっている。けれども同時に、将棋というゲームを楽しみたい。僕はこの先に、県代表になるとか、プロになるとかそんな目標はないのだ。ただ、誰よりも将棋を楽しむことだったら、できるかもしれない。
 唐澤さんの対局はまったく見ていない。ずっと、自分の対局に集中することができた。そして、駒がどんどん前に出ていく。その分自陣の守りが薄くなるのだけれど、なんとかなると思った。勢いは大事だ。
 多分形勢はそんなに離れていないのだけれど、相手の方が焦ってくれた。無理にこじ開けるような攻めを、丁寧に受ける。駒が入れば手厚さが生きる。いい流れだ。
「……」
 無念さからか、相手は声を発することもなく、時計を止めて頭を下げた。勝ったのだ。
 隣を見ると、唐澤さんがいない。もう対局は終わっているようだった。辺りを見回すと、対戦表の前に立っていた。僕と目が合うと、手招きされた。
「あの、見てなかったんですが……」
「俺? 当然勝ったよ」
「じゃあ……」
「いや、これ見ろよ」
 対戦表を指さす唐澤さん。見ると、二連勝だったチームが負け、三チームが二勝一敗となっている。
「ええと、どうなるんですか」
「上二つは総合が五勝四敗。うちは今五勝三敗。胡屋が勝てば問題なく一位通過、だ」
「……負けると?」
「三チームが勝ち数でも並ぶ。そうなると……大将の結果で順位が決まる」
「それって……」
「そういうことだ」
 胡屋さんは現在二連敗。これも負ければ三連敗なので、大将の中では最下位の成績ということになる。つまり、胡屋さんが勝てば通過、負ければ敗退なのだ。
「局面は……」
「はっきりしてない。あの精神状態の中でよく頑張ってる方だ」
 すでに別ブロックも含めて、最後の一局になっている。対局を終えた選手たちが大勢取り囲んで、緊張するなというのが無理な状況だ。まあ、胡屋さんが周囲の状況に気付ける状態かも怪しいのだが。
 人垣がすごすぎてどうせ見えないのだが、唐澤さんは見に行こうともしなかった。僕も対戦表の前にいることにした。もう、結果が出るのをただ待つしかないのだ。
 ビニール盤に打ち付けられるプラスチック駒の音と、秒読みを知らす時計の電子音と、人々の息の音だけが続く。何がどうなっているのかはわからないが、その様子から勝負の行方は分からないのだろう、と予想できた。
 リズムができていた。27秒過ぎ、力強く打ち下ろされる音。二人とも時間いっぱいまで考えている。必死さが伝わってきた。神聖な儀式が行われているようだ、と思った。先祖に祈るときのように、将棋に対して祈っている。
 そんな時間が十五分ほど過ぎただろうか。ため息のような、感嘆のような声が一斉に鳴り響いた。終わったようだ。一人、また一人とその場を去っていく。唐澤さんが歩き出したのを見て、僕もその後に続いた。
 がっくりと肩を落とす胡屋さんの姿があった。僕らがすぐそばまで来ても、まったく気付かなかった。
「お疲れ」
 唐澤さんの言葉に、ゆっくりと首を動かす胡屋さん。まず、唐澤さんの顔を見た。そして、僕の顔を見た。
「勝ったの?」
「ああ、チームは勝ちだ」
「良かった……」
「ただ、チームは敗退だ」
「え……」
「三チーム並んだ。順位は大将の結果」
「……すまない」
 再び視線を落とした胡屋さんを、僕は見ることができなかった。一戦目僕が勝っていれば、一位通過だったのだ。胡屋さんのせいではなく、この構成で行こうとしたチーム全員の責任だ。唐澤さんの責任もある。それが、チーム戦というものだろう。
「言っただろ。勝つのは難しいって。ここまで粘ったんだからいいんじゃねえか」
「唐澤……」
「先輩たちが背負ってたもの、感じられたか?」
 言葉にはできないようだった。それでも、唐澤さんが伝えたかったものは胡屋さんに届いたのだと思った。
「秋までには俺の足引っ張らないようにしろよ。高嶺もあんなインチキ筋違い角にやられるんじゃまだまだだ」
「……はい」
「じゃ、さっさと宿帰ろうぜ。俺、明後日テストあるんだよ」
 初めての団体戦は、こうして終わった。たった三戦だけれど、多くのものを学んだ気がした。そして、必ずまた参加して、もっと上を目指したい。


「で、個人戦はどうなったの?」
「一回戦で強豪と当って、負けちゃった」
「ふーん。そんなにいっぱい強豪いるんだ」
「ほんと、びっくりした」
「で、その唐澤さんって人は?」
「優勝したよ。その昔のライバルって人ともう一度決勝で当たって、勝った」
「へー、すごいんだ。私も一度対局してみたいかも」
 受話器の向こうで、蜜さんの声は弾んでいた。将棋の話は、活力になるのだろう。そして強い人と将棋を指したいという本性があるに違いない。勝負に対する恐怖心は、薄らいできているのではないか。
「今度こっちに来てよ。まあ、唐澤さん自体があまり部室に来ないけれど」
「……うん。そうだね。何にしろ、了君のところには行ってみたい」
「待ってるよ」
 個人戦を終え、寮に戻ってきたのは十時過ぎ。明日も普通に学校に行かなければならないし、蜜さんにも宿の仕事がある。
「あのさ……」
「なに」
「最近、おばあの体調が悪いんだよね。いつ宿閉めるかわからないって」
「そうなんだ……」
「それに私も、いつまでもこうしてるわけにはいかないと思って……」
「どうするの?」
「……なんかすごい恥ずかしいけどさて……了君と同じ高校に行こうかなって」
 予想外の言葉に、僕はしばらくその意味をかみ砕く必要があった。蜜さんは高校を中退していて、僕より年上で、そして僕の好きな人で。
「いいんじゃない」
 そして、結論は、そんなに難しくなかった。
「そう思う?」
「蜜さんが決めたことなら。大変なことも、わかってのことでしょ」
「うん。またダメかもしれない。でも……ずっとこのままってわけにもいかないのはわかってるしさ……了君に変な虫がつかないか監視しなきゃいけないし」
「全然もてないよ」
「そんなことはないと思う。あ、なんか嫉妬する人みたいでやだな。とにかく……この島は居心地が良すぎて、大人になるのを忘れちゃいそうで。だから……寂しさが原動力の内に、頑張ろうかなって」
「うん、待ってるよ」
 しばらく、声が聞こえなかった。いや、少しだけ、しゃくりあげるような声は聞こえた。
「ありがとう。困った時は、助けてね」
「了解です」
 ずっと殻に閉じこもることはできない。僕もまたいずれ決断しなければいけない時が来る。その時は蜜さんにも手伝ってもらえばいいか、なんてことも思う。
「ちょっといい人過ぎるな。少しあくどい位がいいよ」
「そんなんでもてたら、心配するんでしょ」
「はは。そうだね。ありがと。そろそろ寝ようか」
「うん。おやすみ」
「おやすみ。またね」
 僕がいない間に、どれだけ悩んだのだろう。僕に出会う前に、どれだけの悩みを抱えていたのだろう。蜜さんは素敵な人だ。僕が何かできるのならば、なんでもしてあげたい。
 恥ずかしい位に蜜さんのことが好きなんじゃないかって気づいて、誰も見ていないとわかっているのに布団の中にもぐりこんだ。


 挫折だ。
 高校生活は、楽しいことばかりではない。そんなことは当たり前だけれど、最初の躓きは、とっても大きな躓きだった。
 浜辺に腰掛けて、ぼうっとしている。こんな時には、海を見るしかない。陽気が良くなってきたので、すでに泳ぎ始めている人もいる。近くに貝殻が落ちていたので拾った。耳に当ててみたが、何の音も聴こえなかった。
「やっぱりここにいた。隣いい?」
 崎原の声だ。そういえばさっき電話の鳴る音がしていたっけ。
「もちろん」
「じゃ、失礼」
 ぴったり横に、崎原が腰掛ける。僕は貝殻を砂浜に戻す。
「沈んでるね」
「撃沈してる」
「テスト?」
「そう」
「どれぐらい悪かったの」
「言いにくいぐらい」
 一応プライドというものがある。数学、二つ足しても100点無かったなどとはとても言えない。
「勉強は?」
「……したつもり」
「もっとできるんじゃないの~?」
「崎原はどうだったのさ」
「まあ、そこそこってとこかな。再試とかはまずないよ」
「……そっか」
 考えてみれば崎原は私立も受かっていたのだから、元々勉強はできるのだろう。中学校の時は周りの成績なんて気にしたこともなかった。運動もできて勉強もできて。僕らはどちらも苦手だ。
「危ないんだ?」
「危ないんだ」
 小さな女の子が、無邪気に目の前を駆け抜けていく。砂に足を取られてこけてしまったが、気にせず立ち上がった再び駆け出した。
「中学生の時にさ……」
「うん」
「もっと話せばよかったね。了君が勉強苦手ってことも知らなかった」
「そうだね。あんまり話したことなかったね」
 今、こうして崎原と話しているのは実は不思議な感じだ。風のことがなければ気にすることなんてなかったし、一緒の高校に行くなんてことも予想できなかった。そして今だって、二人の接点は何かと聞かれれば困る。ただ、一緒にいることに不自然さは感じない。
「了君はさ……あの宿の人と……」
「蜜さん?」
「……その、蜜さんと付き合ってるの?」
「うん」
「そっか。いいな、あの人綺麗だよね」
「そうだね」
 僕の頬に、さらさらとしたものが触れた。風に吹かれた崎原の髪が、撫でていったようだ。
「私も彼氏欲しいな」
「できるでしょ」
「誰でもいいわけじゃないから」
「高望みなんだ」
「そう。すごく高望み」
 崎原の向こう側に、僕らの島が見える。いつだって変わらないけれど、こちらとの距離はいつも違う気がする。とりあえず夏になるまでは、帰ることはないだろう。
「どんな人がいいの」
「それは……内緒だなあ」
 さっきの女の子が、また走って戻ってきた。それを見る崎原の瞳が、とても優しいことに気が付いた。崎原も走り始めた頃は、あんな感じだったのだろうか。
「私もなんか、見つけなきゃな」
 僕が置いた貝殻を拾って、崎原は立ち上がった。
「喉かわいちゃった。なんか飲みに行こうよ」
「了解」
 最近、この海のことも好きになってきたと思う。故郷はどこよりも大事な場所だけれど、今いる場所も大事になってくるものだ。
 勉強のことは、後回しにする。暫定的にそう結論を出して、僕も立ち上がった。



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