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プロローグ

 

【プロローグ――もしくはエピローグのイントロダクション】

 

 惨劇は止める間もなく起き、すぐに終わった。私がほんの少しまばたきしているうちに。いや、最初から干渉する気はなかった。何もかも、なるようにしかならない。第一、私は割って入るべき身体からだを持ち合わせていない。私が傍で動静を窺っていたことなど、彼らは知る由もなかったのだ。しかし、けいだけは気づいていたかもしれない。
 父親を刺した息子は掌の血糊を拭いもせず、どこかへ電話をかけようとした。親しい女友達のところだろう。興奮を静めるためか、あるいは、泣き言を聞いてほしかったのか。だが、時計を見やって切ってしまった。時刻は午前三時に近かった。胸に手を当てている。動悸がひどいらしい。顔を歪めて唇を噛んでいると手の中で着信音が響き始めた。相手がかけ直してくれたというのに、彼はうろたえ、扱いに窮して、けたたましく泣き喚く機械仕掛けの小さな生き物を放り投げた。そのまま身を翻し、一散に駆け出す。
 私は窓辺に仰臥する男を見下ろした。瞼はごく薄く持ち上がっているが、多分、何も見えていないだろう。反対に、口はぽかりと開き、ヒューヒュー音を立てて空気を出入りさせている。かつて惜しみなく愛情を注ぎ交わした夫の、なれの果て。昔の面影は深い皺に縫い込められて目に立たない。まだ充分若いはずなのに、死を目前に控えたせいか、急激に老い込んでしまっていた。枯れた指先が左胸に刺さったナイフを引き抜こうとして、わなないているが、もう力も出ないようだった。


1‐(1)

 

【1】

 

 慧は春休みに入ってすぐ、父親と口論してマンションを飛び出した。受験の話をしていて揉めたせいだった。慧は父の希望に反して、遠方の大学に入って独り暮しをしたいと考え始めていたが、それが逆鱗に触れたのだ。留め立てする人間がいないので、互いに譲らず、がなり合いになったが、三十分もすると二人共くたびれて口を噤んだ。慧は父が浴室に籠った隙に、貴重品とわずかな着替えをバッグに詰めて家出した。前々から、いつか出ていってやると画策していただけあって、手際がよかった。

 風呂から上がった父は呆気に取られていた。腰にバスタオルを巻いた格好で一人息子を探し回ったが、状況を理解したのか、青筋を立ててリビングへ向かうと、半裸のままどっかりとソファに腰を下ろした。口を一文字に結び、眉間に皺を寄せている。身震いを禁じ得ないのは、せっかく温めた手足が冷えてしまったせいばかりではない。彼は濡れた頭を抱えて、ぶつぶつ呟き始めた。

「素行に問題はない。悪い仲間に引きずられたわけじゃないだろう。仲のいい女友達はいるはずだが、深刻な間柄とは思えない。行方を晦ました原因は、さっきの諍いだ。他には考えられない……」
 慧はしっかりした子だから私は心配していなかった。興奮の余熱が冷めれば戻るに違いない。本人も学業に差し支えない範囲でと考えているだろう。反抗は長くても春休みの終わりか、最悪の場合でも始業式の朝までだ。むしろ、父親が捜索願を出すなどして、本人の気が済まないうちに帰宅させてしまうのは、かわいそうだと思っていた。

 慧は途中で待ち合わせの約束をして夜の繁華街で同級の女生徒と合流した。彼女は大学生の姉と一緒だった。コーヒーショップに入って雑談を交わすうち、慧は父との喧嘩に触れた。頭に来たから追ん出てやったと、笑いながら足許あしもとのバッグを示すと、姉妹は拍手喝采した。

「おとなしい子だとばかり思ってたけど、なかなかやるじゃない」
「たまには息抜きも必要だしね」
 彼女らは明らかに面白がっていた。当事者の慧が鼻白んでしまうほど囃し立て、本気なら協力してやると言い出した。
「従弟が遊びに出てくるから、そいつを利用しよう」
 すぐさまビジネスホテルへ電話すると、実際には姉妹の家に泊まる従弟の住所氏名を騙って、慧は何食わぬ顔でチェックインした。宿泊票に本当のアドレスを記しては、近過ぎて不自然だからという、姉の入れ知恵だった。
「それぐらいがちょうどいいのかな」

 別れ際、慧は姉妹に向かって呟いた。最初から、遠くへ逃げるつもりはなかったのだ。家出といっても塾をサボる気はなく、大した所持金もない彼は、ターミナルに隣接したホテルに一時避難するくらいが妥当と思っていたのだろう。


1‐(2)

 別人に成り済まして個室に転がり込むと、ドッと力が抜けたらしい。ベッドに大の字になり、朝までぐっすり眠ってしまった。目覚めてシャワーを浴びた慧は、狭い部屋の窓から足早に行き交う人々を見下ろした。そこには日常の営みがあった。だが、今は誰の干渉も束縛も受けない、自由の身だ。偽名を用いたせいで、解放感に拍車がかかっていたかもしれない。姿を隠す魔力を持った布で全身を覆ったかのように、世間の目から自分を隠蔽している気になったのだろう。何よりも肝心なのは、遂に謀反を起こしたこと――短い期間にせよ、父親の手を離れたということだった。
 慧はカーテンを閉めると、ベッドに腰を降ろして、ぼんやりと考え込んだ。その表情には、なぜこんな風になったんだろうという、素朴な疑問が浮かんでいた。
 発端は三年前。私が死んで二ヶ月ばかり経った頃だった。実直を絵に描いたような父がおかしくなったのだ。慧の父、つまり私の夫は、当人が言うのもどうかと思うが、妻である私を熱愛していた。日頃の言動に顕著に表れはしなかったが、彼の想いは私にも息子の慧にもよく伝わっていた。私が突然、病に斃れ、この世を去ると、彼はげっそりやつれ、生来の快活さを失ってしまった。しかし、悲しんでばかりもいられない。父と子は親類の支えを受け、後には通いのヘルパーを雇って家事の面倒を見てもらい、生活のリズムを整えていった。だが、落ち着きを取り戻したはずの父の挙動に、不穏な影が見え隠れし始めた。他人には推し量りようのない、奇態な変化だった……。
「……」

 慧は自問自答に倦んだのか、溜め息混じりに何か短く口走った。もう嫌だ、冗談じゃないと言ったように聞こえたが、はっきりしない。彼は路上の絵描きにもらった輸入物のタバコを出して、火を点けた。
 ……絵描きは舗道に小さな椅子を置いて座っていた。日曜の午後、人通りは多いが、彼を気に留める者はいなかった。慧も素通りする気でいたはずだった。が、黙って道行く人を眺めていた絵描きは、慧が目の前に差しかかると、

 

  ――もしもし、坊ちゃん。
  ――坊ちゃん?
  ――そう、あなたですよ。ちょっとこっちへいらっしゃいませんか。

 

 普段なら無視して小走りに通り過ぎただろう。しかし、慧は女友達に約束を反古にされ、暇を持て余していた。そして、いかにも画家ですと言わんばかりのステロタイプな風貌に、一種のユーモアを感じて引き寄せられたと見える。絵描きはストレートの長髪に赤いベレー帽を載せ、丸い色眼鏡を掛けて薄い口髭を生やしていた。年寄り染みた口調だが、案外、若そうだった。

 

  ――どうぞ、お座りください。
  ――はぁ。


1‐(3)

  ――押し売りではありませんよ。どうにも坊ちゃんを描きたくなってしまいまして。ご迷惑でなければ、

少しおつきあい願えませんかね。
  ――……構いませんけど。

 

 通行人に対するデモンストレーションだろうか。慧もそう捉えたようで、もう一脚の椅子にそっと腰掛けた。絵描きがパステルを走らせても、立ち止まって注意を払う者はいなかったが、気に入ったモデルを捕まえてしまえば後は構わないらしく、彼は忙しく手を動かしながら慧に質問を浴びせ始めた。慧が一つ一つ率直に答えると、彼は都度、うんうんと頷いて微笑んだ。行きずりの相手に妙な好感を持たれるのは面映かったろう。だが、慧は行儀よく絵の仕上がりを待っていた。

 

  ――はい、お疲れさま。思ったとおりの出来栄えですよ。

 

 絵描きは完成した作品をイーゼルから外して見せた。慧と、彼に知られず背後に佇んでいた私とは、その瞬間、息を飲んだ。画用紙に描き取られていたのは紛れもなく慧だったが、同時に過去の私でもあった。それは頭に被衣かずきを掛け、薄化粧を施した、若い女の肖像だった。

 

  ――おや、顔色が悪くなってきた。ずいぶん驚いてらっしゃるね。でも、私の目に坊ちゃんはこう映っているんですよ。

 

 慧は膝の上で握った拳を細かく震わせていた。突然、赤の他人に秘密を看破されて、冷や汗を禁じ得ないといった面持ちだった。しかし、絵描きは何気なく話を逸らして、

 

  ――気分がよくなるまで休んでいらっしゃい。ほら、飲み物もありますから。

 

 できれば即座に逃げ出したい心境だったろう。だが、慧はなぜか、この一風変わった絵描きの見えざる触手に搦め捕られてしまったようだった。心の中にぱっくり開いた傷口を撫で回されながら、不快感より心地好さを覚えて半ば恍惚としている風で、言われるまま椅子を下りてビニールシートにしゃがみ、差し出された水筒を受け取った。が、中身を一口含んでびっくりし、絵描きをまじまじと見つめた。

 

  ――命の水と申しましてね。気が滅入ったときには、これが一番。

 

 絵描きの言う飲み物とは、冷酒だった。

 

  ――なるほどね。

 

 


1‐(4)

 慧は小さく頷いた。穏やかだが自信に満ちた絵描きの話しぶりに説得力を感じ、この場は抗わず、流されるまま過ごそうと決めたらしかった。二人は腰を据えて酒を酌み交わし始めた。
 私は尋常でない眼力の持ち主が気になって、じっと観察していた。とぼけた装いは正体を欺くための眩惑なのかもしれない。まともに視線がぶつかると、彼はそこはかとなく悪意を感じさせる薄ら笑いを浮かべた。どうやら私が見えているらしい。慧は彼が誰もいない空間に向けて微笑したのを訝り、首を傾げていた。
 彼は慧を女性化して作品を仕上げたが、後ろにいる私の姿まで重ねてみせたのかもしれない。彼はこれまでに何人ものモデルを同一の手法で紙の上に写し取ってきたか、もしくは慧と同じ、知らないまま私のような亡霊を従えた人間ばかりを選んで描いているに違いなかった。
「……」

 また、聞き取りにくい呟きと共に長嘆する。慧は紫煙が目に沁みるのか、しきりにまばたきを繰り返していたが、いたずらにも飽きたようで、吸いさしを灰皿に押しつけて部屋を出た。

 一階のレストランで朝食を取ると、慧は雑踏に紛れ込んだ。偽名が自分を覆い隠す神通力を本当に発揮しているのか、確かめるつもりでもなかったろうが、どこへ行くともなく、ふらふらと歩き回った。喉の渇きが休憩を促し、ファストフード店で一息つくと、そこで土産を買って再び人波に混じった。慧は絵描きのテリトリーを目指していた。



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