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あり得ない現実 (1)

「ねぇねぇ、蒼依」
「ん?」
「蒼依はさ、生徒会長のこと、どう思う?」
 木場真由美(きば まゆみ)は目をキラキラ輝かせながら、槇原蒼依(まきはら あおい)の表情をのぞき込んだ。
「……う~ん、私はあんまり興味ないな」
「ぇえ~、にゃんでにゃんで?」
「……何となく遠い存在なのよね。確かにイケメンだし、スポーツ万能、成績もいいって話も聞くんだけど」
 その話題の生徒会長、郷津一(ごうつ はじめ)。実はつい先ほど、今蒼依達が活動している「イラスト同好会」の活動場所、美術室隣の書庫部屋を訪れていたのである。この秋開催される文化祭への作品出品予定の確認がその目的だった。
 蒼依と真由美が所属する「イラスト同好会」は、まだこの西が丘高校では正式なクラブ活動として公認されていない部活動だ。今の二年生が昨年同好会を作ったばかりで、今年で二年目。部員も創設時の現二年生六人に、蒼依や真由美など今年入った一年生が五人、全部でわずか十一人にすぎない。
「あたしは、も~こんな感じっ!」
 真由美は描いていたイラストを蒼依の目の前にばっと突き出す。とても簡単なマンガだが、生徒会長の頬にチュッとキスする「マユりん」……。
「……はは」
 蒼依、思わず引き笑い。
「でもさ、ライバル、多いよ」
 脇から声。部長の葛塚博美(くずつか ひろみ)、二年生。きらりと光るメガネの奥の温和な笑顔。時には優しく、また時には厳しい、頼りになる存在だ。
「少なくとも会長に熱を上げてる子は、学校全体でも十人以上いるね。しかも生徒会内部に入り込んでる子もいるし」
「え~っ! マジで?」
 驚きの声を上げる真由美。さすがに蒼依もその人数には驚いた。
「でもあたし、絶対負けないもん! さっき会長来た時あたしがウィンクしたら、会長『ニコッ♪』って笑ってくれたもん! あれ、絶対あたしに気があるのよきっと!」
「……そ、そかな?」
 自信満々で勝利宣言する真由美、蒼依の失笑はもはやこめかみがひくひく動くほどに。
「あ~、そ~ねそ~ね。そういうことにしときましょ♪。さ、そろそろ時間だし、今日は閉めるよ」
「あ、は~い」
「ぶちょ~さまぁ、無視らめぇ~。いぢわるにゃ~」
 なんだかんだ言いながらバタバタと後片付けをし、玄関へと向かう。午後五時を告げるチャイムが校舎に響いた。
「あれぇ~? 天気だと思ったら雨、降ってるしぃ」
「天気雨……でも霧雨だよね」
 遠くの方ではまぶしい日差しが降り注いでいる。しかし学校の周囲はミストのような霧雨にぬれていた。
「蒼依ちゅわん。傘、持ってる?」
「ううん。マユは?」
「えへへ……実は」
 かばんの中をガサゴソ……。
「ほれっ!」
 取り出したのは折りたたみ傘……じゃなくペンケース?
「なかった、てへ♪」
 ずっこける蒼依。
「どうしよう……」
「あたしは行くよ。どうせこの程度ならぬれてもたいしたことないから。じゃあね!」
「あ……じゃ」
 真由美はトレードマークであるくるくるカーリーヘアをなびかせながら、勢いよく外へと駆けだす。
(いいな……、足の速い子は)
 運動音痴の蒼依は、たぶん走ったところでぬれる量はさして変わらないだろう。観念してゆっくりと学校を後にする。
(天気雨の時って『狐の嫁入り』があるんだっけ……。そんな話、父さんがしてたな)
 最初はしっかりとした霧雨だったが、やがて本当に薄いミストのようになり、太陽のまぶしい光が降り注いでくる。すぐ先の空は真っ青。何かちょっぴり気持ち良い。家まで徒歩二十分、そのほぼ中間あたりで蒼依は霧雨を抜けていた。そして家が近くなってきた頃、ふと後ろを振り返る。
「わぁ……」
 思わず言葉を失った。背後には何と三重もの虹が架かっている。しかもどれもはっきりしていて、まるで地上から虹が立ち上がっているように見える。学校のある方向からはちょうど真ん中の虹が立ち上がっているかのようだ。
(見たことない……、こんなにきれいな虹)
 はっと気づいて携帯を取り出し写真を撮る。でも、全体はとても大きすぎて入りきらない。どうにか、学校方向から立ち上がる虹をカメラに納めた。その直後……。
「あ……」
 まるで蒼依が写真を撮り終えるのを待っていたかのように、虹が徐々に霞んで消えていく。
(……何か凄くラッキー♪)
 ちょっぴり幸せな気分になって、蒼依は自宅へと戻った。住宅地の決して大きくない一部二階建ての一軒家。
「ただいま~」
「お帰り」
 男の声。蒼依がキッチンをのぞき込むと、父親の誠二(せいじ)が夕飯の支度をしていた。
 蒼依の母親、さつきは中学校の教諭。まだ学校から帰っていない。誠二は絵本作家としていくつもの作品を発表しており、蒼依もそれらが結構好きだった。蒼依がイラストに興味を持ったのは誠二の影響を受けていると言っていいだろう。とても子ども好きで優しい父親、そんな誠二が蒼依は大好きだった。
「今日の夕飯は何?」
「ハンバーグにしたよ」
「ひょっとして手作り?」
「バカ言え、出来合いだ」
「手伝おうか?」
「いや、大丈夫。もうすぐ終わるよ。母さんが帰ってきたら夕食な」
「は~い♪」
 二階への階段を軽やかに上がっていく。そこに蒼依の部屋がある。
 六畳のカーペット敷き。ドアを開けると左の壁沿いにベッド、奥の窓側には勉強机。そして右側に本棚、結構マンガの単行本も多い。
 とりあえず室内着に着替えてたところで、ベッドの上にごろんと横になり、携帯を手に取る。さっき撮った虹の写真……。
「きっと良いことあるよね」
 思わず笑みがこぼれる。
 そのまま携帯でネットにつなぎ、いつも立ち寄るサイトへ。「iMix(アイミックス)」……この前、真由美に教えてもらって登録したところ。SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)とか言うらしい。たくさんの友だちがつながり合って、さまざまなことを投稿したりコメントし合ったりするサービスだ。今のところ、蒼依とつながっている友だちは……たった四人。真由美と葛塚部長、そして保育園時代の頃からの近所に住む幼なじみの米倉圭(よねくら けい)と藤寄徹(ふじよせ とおる)。正直、友だち、少ない。
 見ると、早速真由美がさっきの虹のことをつぶやいている。おまけに写真も……。
「あ……」
 負けた……と思った。真由美の方がより全体像に近い写真を撮っている。
『私も見た。凄かったね≧▽≦』
 とだけコメントを返すのが、蒼依には精一杯。
(どうしていつもこうかな……)
 すっかり意気消沈してしまい、携帯をいじるのをやめ、ぼーっと天井を眺める。
 頭の中で、もやもやしたものがぐるぐると渦を巻いていた、いつものように……。

あり得ない現実 (2)

「おーい、ご飯だぞ~」
 下から声。
「はーい」
 時計を見る。六時半。
 一階のダイニングでは、すでに誠二とさつきが蒼依を待っていた。
「お帰り、母さん」
「ただいま」
「それじゃ、食べようか」
 蒼依の家では、誠二が旅に出て不在の時や、さつきが仕事の関係でどうしても遅くなる場合を除いては、こうやって親子三人水入らずで夕食のひとときを過ごすのが日課になっていた。
「そういえば今日の夕方、大きな虹が出たんだってな」
「私、見たよ。すっごくきれいだったよ」
「学校でも子ども達が騒いでたわ。何でも『三重の虹』だったとか……」
「三重か……二重の虹ってのはたまにあるけど、三重ってのはかなり珍しいと思うぞ」
「明日ニュースに出るかな?」
「さぁ~なぁ? 少なくとも今晩のテレビのニュースではまだ出てないな」
「そんな程度じゃニュースになんかならないわよ、よっぽどネタでもなきゃ別だけど」
 結局、食事中つけていたテレビでは、虹のニュースは流れなかった。
「ごちそうさま」
「蒼依、食器片付けた後、ちょっと話あるから」
「……うん」
 蒼依はさつきの口調と表情を読み取って、少し胸騒ぎを感じた。この点に関しては、蒼依の感覚は非常に鋭敏だ。台所で洗い物を済ませた後、再び食卓のさつきの前に座った。
「これ……何?」
 さつきが目の前に広げたのは、くしゃくしゃになった蒼依のテストの答案。前回の数学中間テストのもの……。点数は……一〇〇点満点中の三十点。見事な赤点。
「……だって、今回のテスト、凄く難しかったのよ。そもそもクラスの平均点自体が四十点だったくらいなんだから!」
「そんなことなんて聞いてません。母さん、言ったわよね。『中間テストの内容、今後の参考にするから、戻ってきたら全部頂戴ね』って」
「どうせ私は母さんと違って頭が悪いわよ!」
 蒼依、ぶち切れた。
「誰もそんなこと言ってないって……」
「うそ、この前も弥生おばさん来た時言ってたじゃない。『うちの子は、私には似なかったみたい。あなたの息子を見るとちょっぴりうらやましい』って!」
「そういう問題じゃないの」
「そういう問題でしょ!」
「落ち着いて話を聞きなさい!」
 ついにさつきも怒鳴り声を上げた。むっとしたまま黙り込む蒼依。
「いい? 私があなたにテストの答案を持ってくるよう頼んだ理由はね、西が丘高校への進路指導資料に使うためなの。何もあなたの成績を見てどうこうしようってつもりじゃないの」
「だったら、普段から『勉強、勉強』って口やかましく言わないでよ!」
「言ってないでしょ!」
「言ってます!」
「あ~、もうやめないかぁ、二人ともぉ!」
 たまらず誠二が割って入る。
「母さん、どういう頼み方したか知らないけど、今の口ぶりじゃ最初に頼む時にちゃんと目的説明してなかっただろ。それは母さん、マズイよ。それと蒼依、お 前は母さんのことちょっと誤解しているぞ。もう少し母さんのことを素直に考えて欲しいな。母さんだってお前の良いところはちゃんと認めているんだから」
「何をどう認めてくれてるのかさっぱりわかんない!」
 蒼依はたまらず席を立って二階の方へと駆け上がった。
「待ちなさい! 蒼依!」
 さつきの声を背中に聞きながら、部屋のドアを勢いよくバタン!と閉める。
 そのままベッドの上に崩れ落ちる。目には涙……。
 時計の秒針、部屋の空気を微かに震わせる。
 書棚の上に並んだぬいぐるみ達、それぞれあさっての方向を向きながら、その余韻に耳を傾けていた。

あり得ない現実 (3)

 ブーッ、ブーッ、ブーッ……。
 はっとして、持ち主を求めて震える携帯を手にする。
 「米倉圭」……画面の表示。涙をぬぐう。
「もしもし……」
「あ、あたし。今、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ……」
「あ……何かあったでしょ」
 幼い頃からの長い付き合い、何でも腹を割って話せる大事な友だち。……それだけが理由ではないが、圭は微妙な口調から蒼依の状態を察するのがうまい。
「え? 何でもないよ」
「ふ~ん……ま、いいや。ねぇ蒼依、今日の夕方のこと、詳しく教えて。」
「え……?」
「何か、すっごい虹が出たって言うんでしょ? 周りでみんなその話をしてたから、気になっちゃってさ」
 米倉圭、県立西が丘盲学校高等部一年生。六歳の時に病気で視力を失う。明暗を感じることはできるものの、視力はほぼゼロに近い。
 蒼依はゆっくりと夕方の様子を語り出す。目が見えない圭でも様子を思い描けるよう、丁寧に、丁寧に、言葉で圭のイメージに絵を描くように……。
「そっかぁ……、そんなに凄かったんだ」
「うん」
「ちょうど天気雨の時、あたしも部活を終わって学校出た頃だったの」
「バスにもう乗ってたの?」
「ううん。外でバス、待ってた時ね。雨だったのに日差しが暖かくて、ちょっとぬれたけど、何か気持ち良かったね」
「そういえば、うちの学校の箏曲部、今日そっちに行くって聞いてたけど?」
「うん、今日はあたしらと一緒に練習会だったよ」
 箏曲部員である蒼依のクラスメートがそんな話をしていたのだ。
「うちの学校の箏曲部って、実力はどうなの? うまいの?」
「うん、やっぱり結構上手よ。でも、さすがにあたしと仲間が例のジャズ曲を琴で弾いた時は、びっくりしてたみたいけどね」
「あはっ♪。あれ、やったんだ」
 琴でジャズ……圭が今箏曲部の部活で取り組んでいるテーマだ。文化祭への発表に向けて、他の楽器を扱うメンバーとともに練習を重ねていると言う。つい先 日、蒼依も録音を初めて聴かせてもらったばかり。まだ取り組み始めたばかりだそうだが、中等部から琴をやってる圭だけのこと、なかなかの出来栄えだった。
 もともと圭は絶対音感を持っているらしく、とにかくいろいろな音楽を聴くしよく知っていた。カラオケに行けば、選曲入力こそ他人に頼むが、歌詞はそらで全部覚えている。最新の曲にもどんどんついていくし、記憶力も抜群に優れているのだ。
「でもやっぱり圭ちゃんは凄いって思う。それに比べたら私なんて……」
「ダメダメじゃないよ」
「えっ……」
「あたしは蒼依のいいとこいっぱい知ってるよ。蒼依の絵は本当にすてきだし、蒼依は優しい気持ちをいっぱい持ってる。あたしにとって蒼依はかけがえのないとっても大事な友だち以上の存在なんだからね」
「…………」
「何があったの? 話、してみ?」
 せきを切ったように、先ほどの母親との出来事を語り出す蒼依。途中から涙が出始め、だんだんしゃくり声になってしまう。
「……そっか。でもあたしの考えはさっき言ったとおり。誰が何と言おうと、蒼依は蒼依のいいところがいっぱいある。あたしは蒼依の味方だよ。蒼依があたしの味方になってくれてるのと同様にね」
「……うん」
 鼻をすすりながら答える。
「今度、新しい作品できたらまた貸してね。学校で立体コピーを取るから」
「わかった。……ありがと」
「どういたしまして。それじゃ、またね」
「うん、また」
 電話を切る……ふっとため息。
「新作……か……」
 仰向け、いつもの部屋の天井……。
 実は蒼依もこの秋の文化祭に向けて、そろそろ何かテーマを決めなければ……とは考えていた。しかし日々の部活でもなかなか良いイメージは湧かず、煮詰まり感でいっぱいになっていたのだ。
(私が表現したいものって……)
 何となく携帯を手にする。ネットにつなごうとしたつもりが、間違えてカメラを起動してしまい、慌てて操作をやり直そうとしたらまたボタン押し間違えて……。
「…………」
 指が止まる。先ほど撮影した虹の写真……。
(もしも虹の向こうに『虹の国』があるとしたら……。いったいどんな国なんだろう……?)
 蒼依の妄想スイッチがパチンと音を立てた。
(虹の架け橋を登っていけば、きっと虹の国にたどり着けるのよ。でも、普通の人間はその虹を登ることができない……。虹はたぶん……登るには通行証みたいなものがいるの。それさえあれば……きっと誰でも虹を登れるんだと思う)
 加速し始める妄想。究極のひとり遊び、妄想ごっこ。蒼依にとってはイラストと並ぶもう一つの得意技。
(虹の橋の通行証……)
 その時……。
 ひらひらと、そして鮮明なイメージが、蒼依の意識に舞い降りる。
 それは一枚の藍色のカード。
 ビリッ! 感性に稲妻が走った。
「これよ!」
 弾かれたようにベッドを飛びだす。
 部屋の中央に座卓を広げ、書棚にしまっていたスケッチブックを取り出す。そしてペン立ての上を指が泳ぎ……。
(うん!)
 鉛筆ではなく、修正が効かない黒の水性ボールペンを手にする。
 枕元にあった蛍光灯スタンドを座卓の上に置き、その下にスケッチブックを広げた。
 ……一つ深呼吸。
 真っ白なスケッチブックの上で、水性ボールペンが迷いもよどみもない華麗な線を描き出す。曲線はゆがみなく、直線は定規を使わずとも狂いがない。また線の太さも筆圧とペンの走りで絶妙にコントロールされている……そのこと自体が、実は蒼依自身にとっても驚きだった。
 緻密で複雑な幾何学的模様と絵画的模様の取り合わせ。一部に虹をイメージさせる曲線や、女性らしき肖像も描き込まれた。大きさはトランプより少し大きい程度。蒼依のイメージの中に舞い降りたカードがその姿をあらわにしていく。
(後は色……藍色でなきゃダメなの)
 席を立ち、書棚の画材箱から色鉛筆セットを開く。その中で最もイメージに近い藍色……。
(あれ、ない!)
 一番イメージに近いと思われていた藍色の鉛筆を、すでに使い切ってしまっていた。
(予備、買ってあったっけなぁ……)
 机の方に向かい、右袖机の一番上の引き出しに手を掛ける。
(藍色の色鉛筆……お願い! 出てきて!)
 引き出しを開ける。その奥……あった! 新品の藍色の色鉛筆!
 早速それを削りながら、座卓の方へ。そして描いたカードを藍色で塗っていく、丁寧に、丁寧に、丁寧に……。
「……ふぅ」
 グッタリ。
(……できた)
 たかがカードを描くのに、この集中力。
 今までに経験したこともないペンの走り。
 そして精細なまでに飛び込んでくるイメージ……。
 まるで何かに取り憑かれてしまったかのような……。
(……このテーマにしよう、文化祭。『虹の世界』で作品、描いてみよう)
 床に倒れ込んだまま、少し休憩……。
 再び体を起こす。改めて目にする藍色のカードの絵。
 妖しげな魅力を放ち、まるで本物として実体化しそうにも思えた。それほどまでの会心の出来栄え。
 蒼依はゆっくりと右手を近づけ、そのカードの絵の中心を指で……触れる。
「えっ!」
 一瞬、光ったように見えたカードの絵。そこから得体の知れない「何か」が猛スピードで蒼依の体内に入り込む!
(何! 何?) 
 頭、手、胸、腹、そして足の先まで、それは凄まじいスピードでぐるぐると駆け巡っていく。
(ぃゃ、……イヤ!)
 絵から指を離したくても、体が硬直して動かない!
(ダメ! タ、助ケ……テ!)
 悲鳴を上げたくても、声が出ない!

あり得ない現実 (4)

 ……どれくらいの時間がたっただろう。
 体の中で駆け巡っていた「何か」がふっと指を伝ってカードに戻る。とその直後、蒼依の指が絵から離れ、蒼依は再び床に倒れた。
(……な、何だったのよ、今の!)
 呼吸が乱れ、心臓のビートがいつも以上に早く聞こえる。
 少し落ち着くのを待ち、ゆっくりと体を起こした……。
「やぁ」
 声? そちらに視線を……。
(え?)
 座卓の上、さっきのカードの絵……の右隣。白い……ハムスター?
「はじめまして」
「しゃ、しゃべってるし!」
 勢いよく後ずさり……ゴンッ!
「いっててて……」
 ベッドの枠に背中を打ちつけていた。思わず顔をゆがめる。
 改めて座卓の上を見る。白いハムスターっぽいのが、二本足で立って、じっとこっちを見ている。首下あたりに何か小さな装飾品っぽいもの付けてる。ネックレス? ブローチ? その装飾品には小さな藍色のリボンも付いてる。
 ……と、その小動物、チョコチョコっと四本足で走り出してジャンプ。床に着地してさらに蒼依の体をするすると駆け上がり、右肩の上にちょんと乗っかって再び器用に二本足で立つ。体長……十センチほど?
(ダメだ……私きっと、こいつに食われて死ぬんだ。悲劇だわ……)
 恐怖から生まれる悲劇的妄想……それは時として滑稽でもある。
「僕はレイ、君のガイド役だ。よろしく」
「へ?」
 蒼依がレイの方を向こうとした瞬間、レイはぴょんと床へ飛び降り、座卓の方に駆け寄ると勢いよくジャンプ! 再び座卓の上に立ち、クリクリッとした愛らしい目で蒼依をじっと見つめる。
(な……なんて運動神経をしてんの、こいつ)
「ねぇ、君の名前、教えて?」
 声はあどけない少年っぽい。
「私の……名前?」
「そう、これから長い付き合いになるからね」
「ちょ……訳、わかんないんだけど」
 レイは座卓の上を四本足で走り、スケッチブックのあのカードの絵のところに向かう。そして……。
「よいしょ」
 レイが立ち上がりながら起こしたのは、何と……
「ええっ!」
 想像を絶する光景、蒼依は思わず座卓の方に近寄る。
 カードが……スケッチブックから離れて……実体化してる!
「あり得ない……」
 実体化したカード、蒼依自身が描いた時よりも艶と輝きを放っている。
「たった今から、これは君のものだよ。虹の力を封印した『ソースカード』」
「ソース……カード?」
「そう。君は今日の夕方、虹の光を直接浴びたんだ。それが虹と君との最初の接触」
「虹の光って……今日の、あの虹?」
「そう」
「そんな覚え全然ないよ。天気雨の後に虹は見たけど……」
「どうやって虹が光るか、君は知っているかい?」
「どうやって? う~ん、よくわかんないよ」
「やれやれ、虹のでき方も知らないのか……」
 ため息をつくレイ。
「いいかい。虹ってのは、強い光と大量の水の粒が出会った時に現れるんだ。今日の天気雨はまさにその条件。今回は、虹の世界が人間界に作り出した、特別なものだったんだ」
「ねぇ、虹の世界って……本当にあるの?」
「ああ、だから僕はそこから派遣されてきた」
「じゃあ、レイって、虹の世界の住人?」
「住人……とはちょっと違うけど、一応それに近いかな」
「……信じられない」
「そんなこと言っても、本当のことなんだから信じてもらうしかないよ。じゃあ話を続けるよ。君が虹の光を浴びたのは、単なる偶然じゃない。虹の世界が君と いう人間を特別に選んだということでもあるんだ。次に、その人間に『虹の力』を使いこなす素質があるかどうかを見極める必要があった。それが『ソースカー ドに遭遇して、それを実体化させられるか』というテストさ。これも君は見事にクリアした」
「……テストだったんだ」
「そして最後で最大の試練、『ソースカードの意思が君を受け入れるかどうか』ってこと。このソースカードは『自分の意思』を持っている。もし悪しき心を 持った者がこのソースカードに触れようとしたら、ソースカードは全力でその者をはね返すし、場合によっては攻撃的な制裁を加えることもあるんだ。なぜな ら、ソースカード自身が持つ計り知れない力を、悪いことに使われては困るからね。だから、最初にソースカードに触れる者に対しては、ソースカードは徹底的 にその者のことを調べ尽くすんだ」
「それが……あの時の感触?」
 蒼依の脳裏に、絵に触れたあの時の記憶が思い浮かぶ。全身を駆け巡ったあの尋常でない感覚……思わずぶるっと身震い。
「その試練を君は見事にパスしたんだ。そしてソースカードは君に『虹の力を使う許し』を出した。その君をガイドするために、虹の力によって僕が虹の世界から召喚されたんだ」
「レイって……ひょっとして私の体の中を駆け巡った『ソースカードの意思』なの?」
「それは違うよ。僕は、あくまで『ソースカードの意思』によって召喚されたちっぽけな存在……。人間界の言葉にたとえると『妖精』って言った方が近いかな? 『ソースカードの意思』はもっと大きな、神様みたいな存在さ」
 思わずぷっと吹く出す蒼依。
「どうしたの」
「何だかおかしいよ。羽が生えていない妖精だなんて」
「羽?」
 首をかしげるレイ。何だかかわいい。
「ところで、そろそろ名前を教えてくれてもいいかな?」
「……蒼依。槇原蒼依」
「アオイ……蒼依ね。これからもよろしく」
「いや、よろしくってあの……そもそもまだよくわかってないんだけど。私、このソースカードで虹の世界に行けるようになるの?」
「……その前に、蒼依には、とても大事な役目があるんだ」
「役目?」
「そう。このソースカードを使った、大事な役目がね。持って、ソースカード」
「えっ……」
 一瞬、たじろぐ蒼依。またあの感触が……来るのか?
「大丈夫、もう蒼依はソースカードに認められているから、持つだけなら何も起きないはずだよ」
 おそるおそるソースカードに手を……触れる。何も起こらない。摘む。取り上げる。そして自分の顔の前に持ってきて、まじまじと眺める。表も裏も同じ柄。 普通のトランプのカードみたいにしなやかでしっかりしている。美しい艶と光沢、蒼依が描いた色鉛筆塗りの面影は微塵もない。スケッチブックは真っ白。本当 に実体化してしまったのだとしみじみ思う。
「蒼依、君はこのソースカードを使って『プリンシャント』に変身するんだ」
「はぁ?」
 突拍子もないレイの話。

あり得ない現実 (5)

「変身……って、何そのアニメ的展開! 『プリンシャンテ』って何?」
「違うよ、『プリンシャンテ』じゃない。『プリンシャント』。君は『虹のプリンシャント』になるんだ」
「そんなの、どうでも良い! なんで私が変身なんてしなきゃ行けないの?」
「それが虹の世界から蒼依に託された願いなんだ。君には『虹のプリンシャント』として、この人間界を護って欲しいんだよ」
「ちょっと待ってよ……。『人間界を護って』だなんてどういうこと? あたしにそんなことできる訳ないよ! いったい誰から護れって言うのよ?」
「今、虹の世界は、闇の世界から猛烈な浸食を受けているんだ。虹の世界ではそれでも何とか持ち堪えてる。そして闇の世界は、ほぼ確実に、この人間界にも浸 食をいつ始めてもおかしくない状態なんだ。だけどこの人間界は、その凄まじい闇の力を防ぐ術を全く持ち合わせていない。放置したらあっという間に人間界は 闇に飲み込まれてしまう。もしそうなってしまったら、人間界から『夢』をエネルギー源としてもらっている虹の世界も力を失って、人間界とともに消滅してし まうんだ。だから、その闇の浸食を打ち砕くために、虹の世界が人間界から候補を選んで、その役目を果たすのにふさわしい人たちに虹の力を与えることにした んだ。それが蒼依、君なんだよ。そして虹の力を発揮する存在、『プリンシャント』になる必要があるんだ!」
 蒼依の頭の中で、訳のわからないものがぐるぐると渦巻く。
「……闇の世界って、いつ人間界に来るの?」
「わからない……。でも本当に時間の問題だと思う。察知していなければ、虹の世界も動かなかったはず。ましてや、急いでいないなら『他の世界への干渉』という非常手段にも出なかっただろうし……」
 レイの表情が少し不安そうに見えた。
 改めてソースカードを見る。何だかよくわからないけど、凄く困った事態が起きそうなのは間違いない雰囲気……。
(私にはちょっと荷が重いかな……。でも……)
「ねぇ、レイ」
「何?」
「変身って……どうすれば良いの?」
 好奇心の方が今は勝った。
「そのソースカードを額にかざして『変身したい』と心で願うだけだよ」
「変身の呪文とかポーズとかないの?」
「何それ? ないよ、そんなの」
「え~っ、普通あるでしょ、そういうの?」
「あるの?」
「あるの…って、そうでないと、見栄えがしないじゃん」
「いや別に見栄えを追求する必要ないでしょ……。時間の無駄だし」
「そ、そりゃあ……、そうだけどぉ~っ」
「そういうのしたかったら、好きにやれば? でもいざって時になったら、そんな余裕ないと思うけど……」
(かわいくない! レイ、ぜーったい、かわいくないっ!)
 ぷっと頬を膨らます蒼依、首をかしげるレイ。
「ちょっと変身してごらん。プリンシャントに」
「え? いいの?」
「いいよ。変身したかったら、いつでも変身したっていい」
「そう。それじゃ……」
 蒼依、ゆっくり立ち上がる。
「でも一言忠告しておくよ」
「何?」
「蒼依がプリンシャントだってことは、他の人には知らせない方が良いと思う」
「正体を秘密にしとけってこと?」
「そう。変身後の君は、普通の人間が絶対に使うことのできない不思議な力……君達の世界の言葉で言うところの『魔法』や『超能力』をいとも簡単に使いこな せてしまうんだ。だから、プリンシャントの正体が君だとわかってしまうと、みんなが蒼依を違う目的で利用しようとするようになるだろう。もしそうなってし まった場合、『ソースカードの意思』は蒼依を不適格者と判断して、場合によっては蒼依自身に厳しい制裁を加えてしまうかもしれない」
「制裁……どんなことになるの?」
「わからない。ひょっとしたら命さえも奪ってしまうかもしれない」
「え……」
「それに闇の勢力も、プリンシャントの正体が誰かを凄く知りたがるはずだ。プリンシャントを直接攻撃するより、プリンシャントに変身する前の人間やその周 囲を攻撃してプリンシャントを追い詰める方が簡単だからね。自分の周囲の人間が闇の手先の人質に取られて苦しむ羽目に……なんてことも当然あり得るから ね」
「信頼できる家族や友だちにも教えちゃダメ?」
「絶対やめときな。プリンシャントの仲間同士なら話は別だろうけど……」
「仲間……ちょっと待って。私以外にもプリンシャントはいるの?」
「ああ、蒼依を含めて全部で七人。全員がそろって虹の七色を構成するんだ。蒼依は『藍色のプリンシャント』。でも、他のプリンシャントが誰で、今どこに居るのかは僕も知らない。他のソースカードがどうなっているのかも、全然わからないよ」
「そうか……。仲間が……居るんだ」
 ちょっとだけ、不安が消えた。
 じっとソースカードを見つめる。
(今まで私、自分のことが嫌いでたまらなかった……。私に存在価値なんてないと思ってた……。変わりたいな……。変われると良いな……)
 目を閉じる……。ぎゅっとカードを摘んでいた左手の拳から微かな脈の拍動。
 目を開き、レイに視線で合図。じっとこっちを見つめるレイ。
 カードをゆっくり、額の上にかざす。
(変身)

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