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1:ゲルモ

 風が凪いだ。
 砂漠に生えた海シャボテンがゆっくりとした動きを止める。
 風の中を泳いでいた羊たちが戸惑った様子で足をジタバタとさせている。
 これも形態変異の予兆であろう。
 ライノーツの船は帯電を増して風の流れに影響を与えている。
 即席ラーメンをすすりながら、今日も空に浮かぶ船を見上げ続ける。観測者の家に長男として生まれた俺が何の疑問も抱かずに続けている仕事の一つだ。少なくとも仕事を始めてからは何の疑問も抱いていない。淡々と仕事をしていれば村では食うには困らないし、様々な発見があって面白い仕事でもある。
 観測者である俺の仕事は村周辺で発生する様々な現象を観測、記録、整理、解釈する事だ。
 村はかつて放送センターと呼ばれていた高層建築物の1125階にあるとされている。あるとされているというのは実際に確かめる術が無いからである。下は35階層下までは降りられるのだがそれより下に下りる階段や昇降装置の類は未だ発見されていない。記録によれば今より3世代前に40階下まで降りたと言う記録もあるが現在ではその道も閉ざされてしまっている。また上層にも2階上までしか到達できないでいる。階層を表示するといわれている村の広場の電磁計には1125という数を示しており、今のところそれを信じるしかないのである。
「どんな感じですか。ゲルモ」
 村長が背後に立っていた。正確には立っているという表現は適切とはいえない。村長は宙に浮いている。
 宙に浮いた村長は河馬の姿をしている。本物の河馬など見たことが無いから果たして村長の姿が本当に河馬なのか俺にはわからない。最も長命でこの近辺の階層ではもっとも大きな情報量を持つ村長がそう言っているのだから信じないわけにはいかない。少なくとも灰色で四つんばいの巨体は人間のそれではない。
 村長は情報のやり取りを手短に済ませるために電気触手を伸ばして私の末端神経端末に接続した。
 我々の階層の空に現れたライノーツの船に関する情報だった。ここ最近、年に一度の形態変異の予兆が見られるのだが、他の階層の観測者たちが伝えることによるとその形態変異に関連して様々な情報が観測されているとの事だった。
 ライノーツの船には各階層を繋ぐ入り口がある。その入り口は様々で階段や昇降装置、洞窟、竜の口などが見られる。上階の手牟族の観測者によれば階層の骨格をなす地竜が動き出す兆しが見られ、1112階層の観測者によれば階層をつなぐ昇降装置の歪みが見られ消失する可能性が見られるそうだ。
 それはつまり十数年に一度の階層再編が発生する可能性が見られるというのだ。
 階層再編とは文字通りこの建築物内の階層が再編されると言う事だ。階層をつなぐ道が閉ざされ、階層は移動を開始する。階層は位置を変えて新たな階層と繋がるのだ。階層再編には現在までに法則のようなものが発見されておらず、完全にランダムに再編されると言われている。また、再編に際しては必ずしも全ての階層が移動するわけではない。そのため数世代にわたって交流を持ち続けている階層も存在する。
 またこの階層1125階は特殊な階層であるらしく、周りの階層が移動しているばかりでこの階層自体は全く移動していないらしかった。広場に表示される階層表示は過去の文献をあたって見ても変化したと言う記述は見られない。少なくとも広場の階層表示を信じる限りにおいては我々の階層は固定されたままである。
 俺は各階層で起こっている現象に対して解釈を与え、もし階層再編が発生するという解釈が導き出された場合について何らかの建設的な意見を村長に言語系情報で提出しなければならない。建設的な意見。そうは言っても観測者として出来る事はできるだけ早い段階において階層再編の時期を予測し、各階層の人間に注意を喚起することだけだ。 そんなあまり建設的ではない情報を俺としては音声言語系情報による伝達を採りたいのだが、村長は余りそれを好ましく思っていない。
「私は口下手でね。そもそも喋るための構造の喉を持っていないのですよ」
 村長はのんびりとした声でそう答える。その声は喉から発しているかのように聞こえるが、実際は尻尾の微細な振動によって形成されたものであるらしかった。
 村長は俺の横に座り、空を舞うようにして飛んでいる羊たちをぼんやりと見詰めている。羊たちは不確定な情報を纏い、奇妙な呪文をぶつぶつと呟いている。階層再編の影響か今年の羊の情報の質は例年に比べ悪いようである。もう少し遊泳を続けさせ情報収集を続けさせればわからないのだが、今年はそうも言っていられない。
「不本意ながら収穫を早めなければ成らないかもしれないですね」
 何処からとも無く取り出した鉄火巻きを頬張りながら、羊たちの数を数えている。村長曰く、鉄火巻きは武器にも物干し竿にもなるというのだが食べ物としての機能以外は目にしたことが無い。かつての階層再編の際には侵略系種族と隣り合ってしまい、その折に村長は鉄火巻きを手に戦ったと豪語するのだが全く怪しいものである。
 今回村長によって与えられた情報を分析する限り、階層再編は割かし近い時期に発生する事が予測される。観測者としてはふがいない事だが俺は全く予測できていなかった。しかも、今回の階層再編はいつもの再編とは少々問題の大きさが違っている。それは一階層上の手牟族に階層移動の傾向が見られるということだ。手牟族とは5世代前からの交流があるが今回の再編によってその交流は断たれるであろう。手牟族との長い交流からお互いの構成要因は入り混じり、友人・親戚あるいは婚姻関係にある場合もある。それが、断絶されるのである。今までこのような断絶が無かったわけではないが、今回はあまりにもそれに関わる人間が多い。どちらの階層に残るのかそれが今回は大きな問題が伴っている。完全にランダムに再編が行われるといわれ、再び手牟族の階層と結ばれる可能性があるのだが過去の文献を探索する限りはその確率は限りなく低い。つまり2つの階層の間で暮らしてきた人々が残りの人生をどちらの階層で過ごすのか、どの人とともに暮らし、どの人と別れるのか、それを決断しなければならない。
羊を数えている内に村長は眠ってしまっていたようだ。すやすやと寝息をたてているのだがその顔が河馬であるから穏やかな寝顔とは言い難い。けれども、村長の寝顔を見ていると何だか安心した気分になる。
俺にできることは何も無いのだ。
彼らがどのような決断を下すのかは俺にはわからない。
だけど――
俺はまた空に浮かぶライノーツの船に目を向けた。

2:ケムリ

青年は走っていた。
ずぶ濡れになりながらも竜骨でできた階段を駆け上がってゆく。
足の疲労は痛みを通り越して感覚が失われるまでに至っていた。
赤い烏が青年を嘲笑している。
嘲笑を振り払うかのように青年は走り続けた。
青年の名はケムリと言った。
ケムリは1125階層に住む5番報道者GдNAの息子である。ケムリはGдNAにとって自慢の息子であった。父の仕事を継ぐために日夜修行に励み、基礎的な技術のほとんどを習得し父が病に倒れた時などには代わりに仕事を任されるほどだった。
 全てがうまくいっていた。
 日々の仕事や生活に何の疑問も抱くことなど無いぐらい問題など起きなかった。
 しかし、恐れていた事が起きてしまった。本当は恐れてなどいなかったのかもしれない。頭の片隅にはあったもののそれが現実に目の前に現れてくるなど想像もしていなかった。
想像など、したくは無かった。
 もう一度、あんな事が起きるなんて。

 階層再編。
 そして、ケムリの属するコミュニティと手牟族との交流の断絶。
「一緒に来ないか」
 その言葉には小さな希望が込められていた。
 言葉をかけられた手牟族の少女の顔には戸惑いが浮かび、直ぐに悲しみへと変わっていった。
 小さな希望は、萎んで消えた。
 はじめから心のどこかでわかっていた。彼女がイエスと答えるはずが無いと。
「FAM」
 ケムリは彼女の名を口にした。そうでもしないと彼女の存在から己の眼前から消失してしまいそうな気がした。せめて、今は、今だけは彼女を失いたくは無かった。
 FAMは黙ったままうつむいた。これ以上ケムリの目を見ていることができなかったのだ。
 FAMの母は今ベッドの中で眠っているだろう。数年前に重病を患った母はもう立ち上がる事さえできなくなっていた。たった一人の家族である母を、病床に伏した母を置いていくことなどFAMには考えられない事だった。
 そんな彼女にケムリは言葉をかけてやることができなかった。
 さよならは言わなかった。
 何度かその言葉が喉まで上ってきたのに、それが言葉となる事はなかった。
 あの時もそうだ。
 昇降装置の中に立つ母と姉を目の前にしてケムリは別れの言葉を継げることができなかった。ただ、父と母の顔を交互に見詰めるだけだった。どうして母や姉と別れなければならないのか。それがどうしてもわからなかった。
 よくよく考えてみればその別れの後、草原でひとりで泣いていた時に一生懸命慰めてくれたのもFAMだった。丁度そのころに彼女は父親を失っていたのだが、それでも彼女自身の悲しみを押し隠してケムリを慰めようとしていたのだ。
 ケムリの思い出の中にはいつもFAMがいた。一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に……。思い出しても思い出しきれないほどの思い出が走馬灯のように浮かんでは消えてゆく。
 恋人と言う言葉は陳腐にすら聞こえる。兄妹、家族、いや、ケムリにとってFAMはそれ以上だった。
 これが彼女と会うのは最後になるというのにケムリは何もいえなかった。
 彼女の悲しみを和らげる事も、わかりきった結末を告げることもできなかった。
 彼女もまた何も言葉を発することが無いまま俯いたままだった。
 こうしていれば決定的な破局を避けられるような気がした。少なくとも先延ばしにできるような気がした。もしかしたら階層再編など起こらないかもしれない。
 そう思わずにはいられなかった。
 そんな淡い希望は結局は打ち砕かれてしまう事は、たった今学んだはずなのに。

「おかえり」
 いつものようにGдNAは息子に目を向けることも無くそう言った。ケムリはそんな寡黙で仕事人間の父を尊敬していた。
 だから父や父から継ぐべき仕事を置いてこの階層から去るなど考えられない事だった。少なくとも、今までは。
 ケムリが夕食の支度を終えるとGдNAは一先ず仕事を切り上げてテーブルに着いた。
 家は報道装置NHK3号に隣接している。電波情報の発信装置であるNHKは全部で3つあり、それらは6つの報道者の家系によって代々守られてきている。GдNAはNHK3号を挟んで反対側に住む6番報道者の丸目と共同でNHK3号を管理している。もともとNHK3号は娯楽系電波情報を発進するものだったと言われているが現在ではその役割は失われ、他のNHKと同じ様な情報を発している。そもそもNHKとはそれら情報の報道に関与する機関に与えられた名称であったと言われており、この階層自体がその機関の一部であったとも言われている。そしてこの階層の住民たちは何らかの報道に関与するような役職を持った人々の子孫である言い伝えられているのである。
 NHKは交流の断絶した階層に情報を発信する装置である。他の階層にもそう言った放送装置を持った領域が存在するが、この階層には受信装置が無い。一方的な放送しかないのだ。各階層には様々な放送装置に対応する受信装置が置かれている場合が多いのだが、現在交流のある階層にはNHK受信装置しか配置されておらず、相互の情報交換のようなことはここ数世代行われていない。今回の階層再編においてその情報交換が復活するのではないかと言う期待を抱いているものもあり、とりわけ報道者の間では再編を待ち望む声も多い。
 ケムリが何も言わずともGдNAは食卓やってくる。ずっと二人だけで暮らしてきて出来上がった親子の阿吽の呼吸のようなものである。果たしてこの父は今回の階層再編についてどう思っているのだろうかとケムリは考える。ケムリは父の考えている事がいまだにわからなかった。
「どうだった」
 ケムリが何も言わずとも父はFAMとの事を知っているようだった。仕事以外でケムリのやる事には全く無関心そうに見えるのだが、実際はそうでもなかった。ケムリの事を気にかけ心配しているのだ。口数が少ないためにそれが伝わりにくいのだが、ケムリにはそれが十分すぎるほどに伝わってきていた。けれども、FAMのことについて父がどのように考えているのか、そこまで推し量る事はできないでいた。
「……」
 ケムリが黙っていると、GдNAは察したようでそれ以上何も聞かなかった。
 食卓ではケムリが一方的に話すことが多い。だから、ケムリが黙ってしまった夕食は静かなものだった。しかし、今日は珍しくGдNAの方から話しかけてきた。
「忘れるには時間はかかるかもしれない。だが、また新しい恋人はできるさ」
GдNAはGдNAなりに気を使っているのかもしれなかった。言葉の下手なGдNAにとってそれが精一杯の慰めの言葉だったのかもしれない。しかしケムリにとってそんな慰めは場違いなもの意外には感じられなかった。
「新しい恋人なんて・・・」
「今は、彼女だけしか見えないかもしれない。お前はまだ若いんだ。いくらでも見つけられるさ」
 GдNAはから回りしていた。GдNAはGдNAなりに息子を理解しているつもりだったのだが、結局それは父親の立場から見たそれでしかなかった。息子の視点に立って息子を理解してやるなどと言う器用な芸当はこの男にはできぬ相談だった。
「父さんはそんな風に考えるから、母さんとも別れられたの」
 ケムリは完全に父親を敵視し始めていた。
 FAMとの事を若者の恋愛ごっこだとしか見ていない。ケムリにとってはそれ以上の存在であるのに、何も知らない父親にそんなことを言われるのが心外でならなかった。
 尊敬しているはずの父親でも、何故だか憎くて仕方なかった。FAMとの別れと言う衝撃とそれに伴う動揺がケムリの歯止めを緩めてしまったのかもしれない。
 だから、父親の顔に苦痛の色が浮かび上がっている事にも気づくことができなかった。
「違う。父さんには大事な仕事が……」
「父さんはいつも仕事ばかりだよ。そんな仕事が大事だから、母さんとも別れられたんだ。母さんより、仕事が大事だったんだ」
 ケムリの母でありGдNAの妻は他階層の巫女だった。巫女はその階層に置いて村の祭祀をつかさどり村の未来を占う重要な役割を持っていた。GдNAと巫女は周囲のの反対を押し切り結婚した。大恋愛だった。
 しかし、決定的な瞬間は確実に訪れようとしていた。
 そして階層再編はやってきた。
村の階層へ通じる昇降装置に次元の歪みが生じたとき、2人の間には2人の子供がいた。ケムリとその姉である。
 予めそうなる事は予想されていたのに、2人はそれを考えようとはしていなかった。
 そして、いざその時が訪れたときには二人にはもうどうする事もできなかった。
 GдNAは妻と子を連れ出そうとしたが村人たちに四六時中見張られており、逃げ出すことなどかなわなかった。
 GдNAが村に残ると言う選択肢もあったかもしれない。
 だが、GдNAもまた代々受け継いできた報道者の仕事を己の代で終わらせるだけの勇気は無かった。
 別れ。
 ケムリは父の元へ残り、姉は母とともに去った。
 そのときを境にGдNAの生活は息子と仕事だけになった。息子を立派に育て上げ、そして己の仕事を完遂する事がせめてもの償いであるような気がした。
 それができなければ、妻と別れた意味が失われてしまう。
 GдNAの人生が無意味なものになってしまう。
「お前は、何もわかっていないんだ」
 苦し紛れの反論。反論にもなっていない。
「わかんないよ。そんなの、わかりたくもないよ」
 そういってケムリは食事も残したまま、外へと飛び出した。扉を閉める直前に見た父の姿は、とても小さかった。
 憧れていた父親の姿がどれもちっぽけなものに思えてきた。
 ケムリは将来父のようになることを考えてきたが、今ではそれがとても嫌だった。
 仕事だけの寂しい一生。
 そんな風にはなりたくない。
 俺は、父のようには成りたくない。

 曇り空。
 粘着質の雨が大地を濡らしていた。
 鬱々として息苦しい空気が肺の中へと入り込み、血に溶け込むまいと肺の壁にへばりつく。
 それでも青年は走り出す。
 FAM。
 今行くよ。
 ケムリはFAMと共に暮らすことを決意した。
 こんな誰に届くとも知れない電波を発し続ける機械と共に一生を終えるのは勘弁だ。
 残された時間は僅かだった。間もなく階層再編が起きる。
 急がなければ。
 ケムリは雨で柔らかくなった地面に足を取られながらも必死に走った。
 空気は重く、冷たい雨がケムリの体力を奪っていく。
 暗鬱とした空がケムリの視界を歪ませる。
 上階とを繋ぐ竜骨の階段に着いたときにはケムリは肩で息をするほどだった。だが、あまり休んでいる暇は無い。
 階段はどこまでも伸び、雲を突き抜けていた。
 いつも上っていた階段が、今日は見慣れない異様なものに思えた。もう階層再編は終わってしまってどこか異世界に通じる階段と化してしまったのではないだろうか。そんな不安がケムリの頭を過ぎる。
 それでも行くしかなかった。
 FAMと会うためにはこの階段を上るしかないのだ。
 赤い烏達が笑っている。
 疲れきったケムリをあざ笑っている。
 馬鹿なことをするもんだ。
 正気の沙汰とは思えないぜ。
「ケムリ」
 烏達の声に混じって、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「父さん?」
 竜骨の階段の一番上、地竜の口の前に人影が見えた。
 それは間違いなく、父の姿だった。
「仕事は?」
 何故だか、そんな言葉が出た。そんな事は今言うべきことではないのに。
「さぼった」
 GдNAは笑ってそう答えた。そんなGдNAの姿は最後に見た小さな父親の姿ではなかった。どこか吹っ切れたような、そしてケムリが尊敬してきた父親の姿だった。
 GдNAが仕事を休む事など滅多に無かった。たとえ高熱が出ても仕事を続けるような男だ。しかも、今日は階層再編が起こるという重要な日なのだ。にもかかわらずGдNAはケムリの目の前にいた。
「どうして、わかったの」
「わかるさ。俺の息子だからな」
 ケムリははっとした。ケムリは何も言わずに家を抜け出してきたのだ。何の別れの言葉も述べぬまま。
 それがどれだけ大変な事か、どれだけ父を悲しませる事になるか、考えもしなかった。
 己の愚かさに、ケムリは何も言う事ができなかった。
 父に会ってケムリの心に心に疑念が差し込んだ。このまま行って良いのだろうか。これまで育ててきてくれた父を裏切って、何の恩返しもできないままに。
 それが己にとって最良の選択なのだろうか?
 FAMを愛しているが、父の事もまた愛している。
 ケムリは昨夜の父親の言葉を思い出していた。まだ、自分は若いのだ。確かに、また恋人が見つかるかもしれない。けれど、父にはもう自分しかいないのだ。それを失ってしまうと言うのはどれ程悲しいことなのだろう。
 けれど、FAMを失う事も考えられなかった。一度は決意したはずの事なのに、もうそれは何かの過ちだったようにしか思えなくなっていた。
 選べない。
「行け」
 ケムリは耳を疑った。今、父はなんと言ったのだろう。果たしてそれは本当に父の言った事だったのか?
 ケムリはGдNAの顔を見上げる。
 そこにはいつもと変わらぬ父がいた。
「だが、後悔だけはするな。絶対にするな」
 ケムリはただ頷くしかなかった。GдNAの言葉を一言も聞き逃すまいと耳を傾け、GдNAの姿をしっかりと焼き付けようと目を見開いた。
「父さんも一緒に……」
「駄目だ」
 答えは最初からわかっていた。けれども、そう言わずにはいられなかった。
 GдNAは人生を後悔するわけには行かなかった。妻と別れた事を後悔するわけには行かなかった。
 妻との約束した事。
 仕事をやり遂げ、そして息子を幸せにする事。
「お前のような息子を持てて俺は幸せだよ」
「俺も……父さんが父さんで良かった」
 頬を濡らす液体が雨なのか涙なのか。
「俺、父さんの声、聞くよ」
「ああ」
 NHK三号の発する電波は、ケムリの下へ届くだろう。
 それは決して返事を出す事のできない手紙だけれど、それでもGдNAはケムリの存在を感じるだろう。
 父と息子の絆があるから。
「ありがとう。父さん」
「ああ、元気でな」
 地竜の口の中へと入っていったケムリの姿が次第に薄れていく。
 ケムリの笑顔がぼんやりとして、やがて消えていった。
 完全に上層とを結ぶ扉が消え去ってもGдNAはそれを見続けた。
 まるでそこにまだ息子がいるかのように。


さざめ

「何だ?そのサイコロ」
ゲルモは私が手の中で転がしていた2つのダイスを不思議そうに見詰めている。ダイスは黒褐色の輝きを放ち、私の掌中で出口を探す小動物のように右往左往している。
「行き先を決めるダイスだよ」
「は?意味わからんけど」
ゲルモは笑いながら私の手の中からダイスを一つつまむ。黒アスペルギルスの骨で作られたと言われているダイスは6つの面に不思議な記号が刻まれている。遥か古代に使われていた数字だって言う奴もいるけど、私にはそれが数を表すのに相応しい形をしているとは思えない。
「このダイスと表を使って行き先を決めるの。2つのダイスを転がして、それで出たダイスの記号の組み合わせを表と照らし合わせて、再編のときに留まる階層を決めるんだってさ」
「そっか。お前旅行者の一族だもんな」
ゲルモは納得したように頷いてみせると、グラスに残った絞酒を飲み干した。
「で、何でお前がそれ持ってんの?」
私の一族・大東亜開拓会は代々階層再編のさいにダイスをふって行き先を決める。代々そうやって一族全体が旅を続けてきたのだ。そして今回はその役目が、私に与えられた。
「名誉の大役を与えられたってわけよ」
「ありえねぇ。お前が?」
「文句あんのかよ」
わざとらしく腕を振り上げると、ゲルモはおぉ怖っと小さく言い怯えるふりをした。
「そっか。じゃあ、お前ともお別れか」
ゲルモは寂しそうに杯に酒を注ぐ。
「まだ決まったわけじゃないけどね。下手したらここに残るような組み合わせになるかも」
「じゃあ、試しに振ってみようぜ」
ゲルモがダイスを一つ手に取り、もう一つは私の手の中に。
ゲルモと私は昔からの親友だった。一緒に遊ぶようになってからもう7年は経つ。
暇を見つけては一緒になって遊んだり、悪さをする。
親に話せないようなこともゲルモには話せた。
たとえ何も言わなくても、ゲルモならわかってくれるような気がした。
かけがえの無い、大親友だ。

行き先は、第1121階層だった。
「え、行くの?」
妹のさきめはさも驚いたかのように大きな眼で私を見つめる。
「悪い?」
「そりゃ、姉ちゃんと分かれずにすむって言うのは嬉しいけどさ。てっきり、ゲルモと残るもんだと思ってたけどなぁ」
さきめは納得がいかない様子でわざとらしく首をかしげている。
いくらゲルモとは恋人じゃなくて友達だって言っても、周りの人間はそうは思っていないようだった。良いなぁ素敵な恋人がいて。熱いわねぇ。まだ結婚しないの?そんな的外れな冷やかしや期待が私たちの周りにはあった。
私は何で私たちをそんな目で見るのか理解できなくて不満そうな顔をするのだけど、そんなときは決まってゲルモがこう言うのだ。
「いっそ本当に付き合っちまうか」

1125階層の下への出口、天の架け橋でゲルモは待っていた。
無駄に気を使った族長の銀二が「お前は後で来い」と言って私を残して行ってしまった。
銀二はもしかしたら、ここでゲルモが私を引き止めてそのまま結婚してここに留まるだろうなんて考えているのかもしれない。
ほんと、いらない気遣いだ。
ゲルモとは親友であって、恋人なんかじゃないんだから。
恋愛って言うのはちょっとした勘違いや、思い込みから始まるんだと思う。ああ、この人のことが好きかもしれないって言うそういう勘違いが段々と大きくなって、それが好きだっていう恋愛感情になっていくんだと思う。
でも、ゲルモとはそうはならなかったし、そんな事は考えられない。
好きかもって思ったことはあるかもしれないけど、そんな小さな勘違いは直ぐに打ち消した。
有り得ないよ。親友との恋愛なんて。
そんな感じ。
そういう意味じゃ親友って言うのはかえって邪魔になるのかもしれない。今の、この最高の関係を壊したくないって思っちゃうから。
でも、別に後悔してるわけじゃない。
やっぱりゲルモは最高の友達だし、恋人になりたいなんて思わない。
それでも、もしかしたらゲルモのことを好きだって勘違いして、恋人になっていた可能性もあることは否定できないよ。この今とは違う今。さよならなんて無くて、ずっと一緒にいようって言う別の形の今。
ゲルモとは別れたくない。
それはもちろん恋愛的な好きって言うのとは違って、大切な、親友だから。
だけど、親友は別れても親友だ。
別れたら、もう直す事のできない恋人とは違う。
親友との別れは新たな旅路で、そんな親友の旅路を祝ってやるものだ。
親友との別れに涙は似合わない。
笑って分かれよう。
涙涙のお別れなんかじゃない。
急展開の愛の告白なんてものもない。
清々しい、親友との別れだ。
「またね」
さよならは言わない。
「また、か・・・そうだな」
ゲルモも笑って、答えてくれる。
「また、会おう」
私たちはずっと、ずっと友達だ。

4:村長

あなたが私の前からいなくなって、もうどれくらい経つのでしょう。
あなたが最後に私の頭を撫でてくれてから、何度あなたの姿を錯覚したでしょう。
あなたは再会の約束をしたことを今でも覚えているのでしょうか。
あなたはまだ私のことを思ってくれているのでしょうか。
私は、あなたのことを忘れてはいません。
どれだけの歳月がすぎようとも、あなたの事だけは忘れる事はできません。
だからこそ、私は生きているんです。
私はあなたに会うために生き続けています。
それだけが私の生きる意味。
あなたを信じて、あなたにきっと会えると信じて私は今日まで生きてきました。
幾度も繰り返される階層再編。
私はその度に、希望と失望を味わいます。
あなたに会えるかもしれない。
でも、あなたは現れることは無かった。
だけど、次こそは会えるかもしれない。そう思って、あなたを待ち続けています。
そうそう、あなたは鉄火巻きが大好きでしたね。
だから私は鉄火巻きを作り続けています。
まだ、あなたほどうまくは作れないけれどあなたに喜んでもらえるように頑張っています。
私はあなたに会うためにこんな姿になってしまいました。
あなたがいつまで経っても現れないから、私はこんな姿に成らなければなりませんでした。
河馬です。
あなたが好きだと言っていた、壁画に書かれた動物の姿です。
たとえ人の形でなくなっても、あなたに好きでいてもらえるように。
こんな姿でも、あなたは私だと気付いてくれますか。
こんな姿でも、あなたは私を愛してくれますか。
あの頃のように私の頭を撫でてくれますか。
私は不老不死になってしまいました。
だから私はいつまでも待ち続けます。
でも、今度こそはあなたに会えるような気がしてならないのです。
だから私は今日もライノーツの船を見上げます。

エピローグ:NHK3号

草原に立つ寂れた掘建て小屋。
屋根の上に乗った風見鶏が出鱈目な方向を指したかと思えば、風も風見鶏に合わせる様に風向きを変える。
小屋の中には異様な機械が低い唸りを上げながらもノイズ混じりの声を受信している。
NHK3号から発せられた電波。
何処へ行くとも無く彷徨った電波はやがてこの受信装置へとたどり着く。
声は電波に変わり、電波は声へと戻る。
一人の少年が受信機の前に立っていた。
少年は受信機から流れてくる老いた声に耳を傾ける。
物心がついた頃に父から教えられた。
この声は祖父の声なのだと。
少年はまだ見ぬ祖父の声を聞く。
少年の祖父は少年のことを知らない。少年は祖父と会うことも、何らかの手段で交流を持つこともできなかった。
ただ、祖父の声を聞くことしかできない。
だがそれでも、祖父の声を聞き続ければいつかは気付いてもらえるような気がした。
空には何も浮かんでいない。
黒い船も、情報を喰らう羊も。
ただ、見えない声が空を飛んでいて、やがて受信機へとたどり着く。
NHK3号は誰に届くとも知れぬ電波を発し続け、そして誰かがその電波を受け取る事になるだろう。







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