閉じる


試し読みできます

 

 

 

銭湯(せんとう) 現代語訳

 

※以下の各電子書籍ストアなどでは、縦書き版をご提供しています。

Amazon Kindleストア

楽天ブックス(kobo)

BOOK☆WALKER

紀伊国屋ウェブストア

Sony Reader Store


試し読みできます

銭湯[1]

 あつければ好き勝手にうめ(梅)、ぬるければすぐ『たけ(竹)』と言う、そんな我が儘わがままな客をまつ(松)、松の湯の脱衣場だついばに、髪をいま流行はやりのひさしのようにった奧方おくがたが一人。大島紬おおしまつむぎに似せたお羽織はおりを着て、亭主ていしゅの脱いだものを入れたかごそばに、子どもの着物のあかうらを、ひざの上に広げて座っている。
 その亭主は頬髯ほおひげのある、まゆうすい、ほほふくれた、くちびるあつい、目つきのいかつい猛者もさのような顔の、しりの突き出た、ぶくぶくふとった四十ほどの男である。手足をぴちぴちと動かす、二歳ふたつくらいの男の子を、きたえられたたくましい左のうでで、わきはさんで、やんわりと抱いた姿は、身を投げ出しさかさにふちさぐってどじょう生け獲いけどったところのように見える。
「おう、おう。」
 などと、亭主はやさしい猫撫で声ねこなでごえを出して、仰向あおむけにした子どもをり上げて、その肉づきのよいあごをぷるぷる震わせながら、湯船ゆぶねの前へ、ちょうどこしを抜かしたように、べったりとしゃがみ込んだものである。そして、
「熱い、熱い、熱いな。」
 と言いながら、手拭てぬぐいを湯で湿しめらせては、ひげからしずくらしながら、びたびたと子どものむねひたしていなさる。そこへ、
「早くお湯に入れてくださいな。風邪かぜを引きますよ。」
 と脱衣場から奧方が声をかける。ちょっとことわっておくが、こちらは裸体らたいではない。『身なりただしく』といったふうに、朝からの厚化粧あつげしょうそのまま、威厳いげんそなわった姿である。これがもし反対に、亭主が女湯の脱衣場で待っているとなると、たとえ紋付もんつきを着てはかま穿いていたとしても、今のこの世の中、ただちにその方面のお世話になるところだが、男湯へ女が出入ではいりするのは、式亭三馬しきていさんば滑稽本こっけいぼん以来大目おおめに見られている。
番頭ばんとうにうめさせとるが、なかなかぬるくならんのじゃ。」
 と父様とうさま自身も寒いから、湯をひたした手拭てぬぐいで、ひたいこすって、その手を肩へ回して、ぐしゃぐしゃと背中をたたきながら、例の突き出た尻も落ち着かずに全身を震わせている様子は、いくさに負けた武者が、野武士のぶしに着ている物をすべてがされた上、さらに悪いことに、弓矢と鉄砲玉てっぽうだまの音に気が動転して、思わず子どもを産み落としてしまったようにも見える。
「さっさとおうめなさいな、貴下あなた水槽みずぶねからめばいいじゃありませんか。」
 と奧方は襟元えりもとを合わせ、ついでに下に着ている肌着の白いえりらしいものをちょっといやらしく出して、喉元のどもとで一つしごいたものである。
「そうじゃ、そうじゃ、はあそうじゃ。はあそうじゃ。」と、亭主はにぎやかな祭り囃子ばやしに浮かれたように、『よいしょ』とはずみをつけて、『にょい』と突っ立ち、腕に抱いた子どもの胸へ、も一つ自分のあごを押さえとして置くと、これで『さあ、取ってやるぞ』という身構えができた。
 さてそうして、出入り口の横に組み違えに積み重ねられた、かどのない千両箱といったおもむきおけを、片手でつかんで、水槽みずぶねからみ出しては、これから入ろうとするところをねらって十杯ほど立て続けにざぶざぶとぶちまける。
 それでもまだねんのために、さらにおけに七八杯、こおるように冷たい水道の水を満々まんまんたたえたのを、湯船ゆぶねと同じくらいの高さまでそばに積み重ねた。これは奧方の注意には入っていなかった亭主独自の知恵で、ざぶざぶとき回して、
「よかろう、よかろう、そりゃざぶりとじゃ。」と桶を逆さまにして、子どもの肩から自分の背中へ湯を引っかぶせ、
たきの水じゃ、滝の水じゃ。」と言う。
貴下あなた、それは湯滝よ。」
 と奧方も、実に気分よさそうに浮かれて言う。
「そうそう、湯滝、湯滝、それこい滝登たきのぼりじゃ、坊やはえらいぞ。そりゃもう一つ。」
 とざぶりと掛けるのはいいが、突っ立ったままであたりをまるで気にかけない。我々凡人にこのような英雄の心の中をうかがい知ることはできないのであるが、ともかくぶちまけられる湯の方には、なん遠慮えんりょもあるわけでないから、『真っ逆さまに流れ落ちる三千丈さんぜんじょうの湯滝』といった具合に、流し場一面の土砂降どしゃぶり、床板ゆかいたから、ばちゃばちゃと湯のね返りが飛ぶ。
「あぶ、あぶ、あッぷう。」と、まるい顔を、べろりと幼い小さな手ででて、頭からびたその湯のしずくぬぐったのは、五歳いつつほどの腕白わんぱく小僧で、きょろりとした目でひょいと滝のみなもとを見て、その目を今度は自分の親父おやじの方へ向けた。
 この小僧を、腰巾着こしぎんちゃくという風に、腰のところへ引きつけて、おけを前に置き、流し台にあしのような細いすねを投げ出し、せた仁王におうといった形で、腕を上下にして手拭てぬぐいを斜めに突っり、顔をしかめて背中を洗っていたのは、彫り物ほりものも既にしなびた四十五六の職人しょくにんであった。


試し読みはここまでです。続きは購入後にお読みいただけます。

この本は有料です。閲覧するには購入する必要があります。
購入するにはしてください。
有料本の購入に関しては、こちらのマニュアルをご確認ください。
販売価格32円(税込)

読者登録

白水銀雪さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について