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楽して小説家になる方法

マルチメディアクリエイター 菅原 学

「楽をする為の努力は惜しまない」という言葉があるが、それは楽をするにも苦労があり、それなりの道のりがあるということだ。
小説を書こうとした事がある人ならわかると思うが、小説を書くということはかなり困難な作業である。
あなたはどうして小説家になりたいのだろうか。人それぞれの理由があるだろう。
大切なのは目標をもって行動し、できればその目標を達成することだ。その過程にこだわる必要はない。
ヘレンケラーも「頂上へは楽な道などない」と言ったあと「それなら自分なりにジグザグに登ればいい」と付け加えている。
小説家になる道のりというのも一つではなく、様々なメディア媒体が普及した今は頂上も一つではなくなった。
この記事では、楽をして小説家になる方法を紹介し、たくさんある中の一つの道筋と、いくつかの頂上を提示する。

一章では、まず目標である「小説家」というものが、どのようなものなのかを説明していく。
どのようなタイプがあり、どこを目指すべきなのか、光を当てていこう。
次の二章では、一章で示した定義を使い、あなたが小説家としてランクアップできる一つの方法を紹介する。
最後の章である三章では、あなたがこれから書く小説をどう人に読ませるかというテクニックを教えていく。
最後まで読めば、あなたは「これなら小説家になるかもしれない」という実感を掴むことだろう。

確かに小説には古くからの歴史があり、偉人がいて、名作がある為、小説家になるのは困難だ。
しかし、現代に生きる我々がその伝統に対してクソ真面目に付き合ってやる必要はない。
どうか肩の力を抜いて読み進めていってほしい。


一章 小説家ってそもそもなんだろう

まどろこしいかもしれないがまずは本書における小説家の定義から話していきたい。何故なら小説家には資格や証明といったものがない。だから小説家という定義が曖昧なことが多い。
もちろん、辞書を引けば「小説を書くことを職業としている人」とある。
しかし、インターネットや同人誌などマーケットが他分野に広がった現代では様々なタイプの作家が存在しているし、「アマチュア小説家」や「プロの小説家」といった表現があるからには、小説家の「家」が「職業」から離れ、収集家や、愛妻家といったパーソナリティーに属した「家」に転じてきてるといえるだろう。
現在では様々が小説家が存在していて、そのいくつかは非常に簡単になることができるし、またはもう実際になってる人もいるだろう。ざっと分類を図にしてみた。
(慣れないソフトウェアで急ぎで作った為、線が乱れていて申し訳ない)

このように、まず大きな「小説家」というカテゴリーがあり、その下に「プロ」と「アマチュア」が存在していて、さらに職業形態として、「兼業」「同人」「ネット」と並んでいる。「受賞」は形態というより称号みたいなものなので厳密にいえば別のカテゴリーなのだけど、同じように機能する為ここに入れてある。
生物の分類でいえば、「小説目/アマチュア科/同人属/SF種」となるわけだ。

この小説家の下にある「プロ作家」と「アマチュア作家」の違いというものは、小説で飯が食えているかいないかという括りになる。そして、その下にある「科」以降はプロアマ関わらずにどちらにも適応される。



宮沢賢治は「小説目/アマチュア科/兼業属/童話種」

たとえば宮沢賢治を例にして当てはめてみよう。現在では全16巻に及ぶ宮沢賢治全集なるものが発売されているが、生前のうちに発表された本は詩集の『春の修羅』と、童話集の『注文の多い料理店』だけである。
その上、資料によれば彼が原稿料としてもらったお金は5円だけであったといわれていて、いくら現代とは物価が違うといえど、これだけで飯が食えていたとは思えない。つまりアマチュアに分類される。また宮沢賢治は農業校の教師を務めていたので兼業作家ということになる。
今では教科書に必ず乗るような超有名小説家ではあるが作家分類でいうと「小説目/アマチュア科/兼業属/童話種」になってしまうわけだ。
結局のところ、宮沢賢治は生きている間にクオリティーの高いの作品を作る小説家としては大成していたのかもしれないけど、小説家としての地位としてはまったく大成しなかった。
先にも書いたが、辞書によれば小説家の定義は「小説を書くことを職業としてること」であるから、宮沢賢治はここから逸脱していることになる。
というわけで長々と書いてきたが、この記事での小説家の定義は「小説を書いている人」ということになっている。

「小説家」=「小説を書いてる人」

夢のない話になるが、現在小説だけを生業として食べていける作家というのはごくごく一部だとされている
だからプロ作家というのはよく名前をみるような有名作家だけであり、あとの大半はアマチュア作家ということになる。
そのプロ作家でさえ兼業作家であったり、同人作家であったりする場合もあるし、またなんらかの文芸賞を受賞しても食っていけずにアマチュア作家の場合もある。
また当然のようにアマチュアがプロになることもあるし、プロがアマチュアに転落することもあるわけだ。
図では「プロ」と「アマチュア」に分けたものの、境目はほとんど曖昧であり、あとの分類は関係なく付随されることになっている。
かのように、プロ作家とアマチュア作家の境界線は曖昧なものとなっている。
おそらくプロとアマの中で一番違うものは、はじっこに赤い枠で囲ってある「小説家志望」と「小説家の卵」の要素だろう。この二つは、アマチュア作家でしかありえないものだ。
そして、この赤枠から脱することができれば、境界線の曖昧さを利用し、胸をはって「我は小説家なり」と宣言することが可能になる。

二章 受賞作家のススメ

一章でプロの小説家だけが小説家ではないことを書いた。
宮沢賢治のことを考えてみれば、小説さえ書いていれば小説家と名乗って問題ないわけだ。
だが、それだけでは心細い。
世間一般では「小説家を目指してるんだ」とか「小説を書いてるんだ」といった時の相手の反応というのは、はっきりいってあまりよくない。
小説家のイメージの中には「知的」で「崇高」なイメージがあるけれど、他にも太宰治のように自殺志願者のイメージがあるし、最近だとバスを襲った通り魔なんかも小説家志望だった。古くたどれば津山三十人殺しの犯人もそうだ。精神病の類がついてまわる。

しかし、これを「実は小説家を目指していて、この前、雑誌に投稿したんだけど、掲載されて賞まで取ったんだよ!」といったら、どうだろうか。
たぶん、ただ「目指してるんだ」というよりはるかに反応はいいだろう。尊敬され評価を受けることもあるだろう。クリエイティブな職種に就くのならば、履歴書の趣味・特技の欄に実績として「小説書き ○○賞受賞」と書くこともできるし、後々自費出版や、電子出版をする時に肩書きとして書くこともできる。

最初に小説家には資格などないといったが、実はこの「受賞」というは資格と同じような効果がある。
出版会社が新人を売り出す時も、ただの無名の新人として売り出すより、受賞作家として売り出した方が売れるから文芸賞というものは、いくつも存在しているのである。
受賞は他人からの絶対的な評価であり、作家活動というわかりにくい趣味での確実な実績となる。あるかないかでは、雲泥の差がある。

これを読んでるあなたは「そりゃそうだろうけど、賞なんてそんな簡単にとれるもんじゃないだろう」とお思いだろう。
ところが簡単に取れる賞がある。
下にあるのがそれである。

第一回 新脈文芸賞 原稿募集

公募要項

賞品:なし
締切:2月14日(バレンタインデー)
発表:3月発刊予定の『山脈Vol.2』にて

1.応募原稿は完結しているものに限る
2.文字数制限はとくになし。
3.ジャンル制限もなし
4.タイトルとペンネームを記載してtxt形式で送ること。
送り先:yes_ks@yahoo.co.jpまで

メールのタイトルは「新脈文芸賞応募作品」でお願いします。
作品を受けとり次第、確認として3日以内に返信します。
返信がない場合はお手数ですが、もう一度メールしてみてください。

見ての通り当雑誌『山脈』が主催している文学賞である。
これは「この賞に応募した作品には無条件で賞をあげる」という企画である。
他の小説の書き方の本や、商業雑誌ではまずできない読者へのプレゼントだ。

「賞は実力でとらないと意味がない」と思う人もいるだろうけど、
あまり難しく考えず、この賞を「よく書き上げましたで賞」だとでも思ってほしい。
おもしろい、おもしろくないに関わらず小説を一本書き上げるということはかなりハードなことだ。
しかも、書いたからって、人がちゃんと読んでくれたりするとは限らない。
山脈に応募してくれれば、とりあえず数人の編集者が読むし、何より「新脈文芸賞」という名の「よく書き上げましたで賞」という評価がもれなくついてくる。
書き上げた小説を個人的に発表する時も「新脈文芸賞受賞作品」と書いておけば、何もないものよりかは、読まれる可能性はあがるだろう。
それにあなたが「電子出版の雑誌に小説を投稿して賞をもらった」という行動においては、なに一つ嘘はない。

というわけで、山脈では君の書いた小説を待っている!

次の章では、いよいよ、「書き方について」を紹介する。

3章 読まれる文学の書き方

この章では小説の書き方を紹介する。といっても物語の組立方とか、登場人物の作り方とかを紹介するわけではない。
そういった情報はすでにインターネットに溢れかえっているので、ここでやる必要がないからだ。
じゃあ、なにを紹介するのかというと、最後まで読んでもらえるような「書き出し」の書き方である。

作品の顔である書き出しに力を入れるのは、基本中の基本ではあるが、おもしろい書き出しを書くというのはかなりのテクニックが必要になる。
実際、はじめて小説を書く人は最初の一行でつまずいてしまうのではないだろうか。
作品の第一印象を決める大事な部分をいきなり書かなくてはいけないのだから無理もない話だ。

そんな人に勧めるのが、「ミゲル・デ・セルバンテス式」である。

「ミゲル・デ・セルバンテス式」とはなにか

ミゲル・デ・セルバンテスというのは言わずもがな『ドンキホーテ』の作者の名前である。
この名前なら誰でも知っているであろう大古典作品『ドンキホーテ』という作品は1605年に書かれたとても古いものなのだが優れた多くのテクニックを使っている。
そのテクニックの一つが「クソながったらしい偉そうかつ卑屈な文章で他人の作品を引用しまくってる序文」である。

この「クソながったらしい偉そうかつ卑屈な文章で他人の作品を引用しまくってる序文」という文章にはもちろん悪意がこもってる。それは私がこの作品をあまり好きではないからだ。
しかしながら、私の好みに関係なく『ドンキホーテ』は世界的に有名な作品であり、過去から現代まで評価されつづけた名作に違いなく、この先もずっと愛され続ける小説に間違いない非常に優れた小説だ。
今から400年も前に書かれたこの素晴らしい序文には、今でも充分に通用されるテクニック法が語られている。

「たとえいかに荒唐無稽な通俗本であっても、アリストテレスやプラトンをはじめとする一群の哲学者の格言でもって飾りたてられているものだから、読者はすっかり感心して、それらの本の著者連を、学問のある、博識な名文豪と思い込んでしまうというわけさ」
 - 岩波文庫 セルバンテス作 ドン・キホーテ前篇(一) 牛島信明訳 から引用 -

『ドン・キホーテ』という作品をわかりやすく伝える為に、舞台を日本に置きかえて説明すると「宮本武蔵好きのおじいちゃんが時代劇小説や歴史本を読んでいるうちに自分を宮本武蔵と思い込んでしまい、侍のコスプレをして馬にのりこみ、日本刀を振りまわしながら全国を練り歩く」といった話だ。本編はスペインを舞台とした物語なので、侍ではなく騎士になっている。
時代によって「滑稽本」とか「風刺本」とか様々な評価されていて、実際、読んでみると濃厚な文学というよりかは、いわゆる時代劇もののパロディといった感触が強い。

この序文は当時に人気があった書物や、それを安易にもてはやす読者に対する揶揄だが、この発言とは裏腹に、この後数ページにわたって哲学者の格言などによって飾りたてる展開になる。

セルバンテスは「哲学者の言葉で飾り立て、自分を学問のある博識な名文豪だと読者に思い込ますテクニック」を一旦批判した後で、自分の作品を哲学者の言葉で飾り立て、自分を学問のある博識な名文豪だと読者に思い込ましたわけだ。

筆者の体験になるが、ドンキホーテをおもしろいと評した知り合いに対し「この本のどこがおもしろいのだ。こんな通俗本が今だに世界的古典作品として流布しているのに納得がいかない」と問うと「セルバンテスはそもそも小説家である前に有名な哲学者なのだ。私はドンキホーテよりも先にその哲学に感銘を受けていたので、大衆向けに書かれたドンキホーテも大変おもしろく読めた」といったのである。

手元に辞書がある人はセルバンテスを引いてみよう。ない人はwikiで調べてみるといい。
とりあえず、セルバンテスは波乱万丈な人生を送ってきたとは書かれているが、哲学者であったという説明は一切ないし、もちろん哲学本を出したという記録も一切ないのである。

彼がどこでセルバンテスを哲学者と勘違いしたのは定かではないが、この序文が少なからず関与していると考えていいだろう。
見事にセルバンテスを学問のある博識な名文豪だと思い込んでいたのである。

書き出しは哲学者の格言からはじめよう

「ミゲル・デ・セルバンテス式」とは、簡単にいえば「書き出しは哲学者の格言からはじめよう」ということだ。
そうすることで、作者のことを学問のある博識な名文豪だと読者に思い込まし、多少つまらないところがあっても、権威の力によって最後まで読まそうというテクニックである。
せこい。確かに せこいかもしれない。しかし、セルバンテスが言っているように実際多くの小説で使われている常套手段だ。
現在でも多くの小説の序文に、格言や、名作の引用が使われている。

あなたが無名の小説であればあるほど「ミゲル・デ・セルバンテス式」を強く薦める。
小説というのは、各あるメディアの中でも特に時間かかるし、楽しむのが面倒くさいメディアだ。
だから、誰だって無価値な小説は読みたくないし、できれば自分のプラスになるような価値のあるものを読みたがる。
この価値というのも人それぞれなのだけど、基本的には「自分より頭が悪かったり、センスがない奴の小説は読みたくない」ということだと思ってくれればいい。
今回はわかりやすく、哲学者の格言から入る方法を紹介したけれど、『ミゲル・デ・セルバンテス式』の基本的な考え方というのは400年前にミゲル・デ・セルバンテスがドンキホーテを書いた時のように、あなたも精一杯かっこつけろ、ということである。

最後に

長々と小難しく書いてきてしまったが、小説というものは人を感動させる壮大な嘘の塊だ。
現実生活において正直もので誠実でいることは結構だが、小説を書いている時は稀代のペテン師になるくらいの遊び心と色気がほしい。小説にルールなんかない。おもしろいことが全てだ。

また小説だから間違ったものを書いてはいけないと肩をはる人がいるけれど、先に言ったように小説は大前提としてフィクションなので、別に間違いだらけだとしてもその間違いにリアリティーがあり読者を惹きつけることができれば、基本的には問題ないのである。
逆に正しいものを書きすぎて問題になるケースすらある。
たとえば、ミステリーのトリックなんかは、実用性があると本当に犯罪に使われてしまう為、実現不可能なトリックしか採用されないのだ。
だから、まあ、肩の力を抜いて自由に書いてくれればいいと思う。ただ自由奔放がすぎると読者に舐められてしまう場合もあるから、せっかくなので「ミゲル・デ・セルバンテス式」を使って執筆活動を楽しんでくれれば幸いである。


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