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目次



1 スーレのねむ

2 樹林の見た夢 ~続『スーレの睡り』~

※表紙に使用した画像はアンリ・ルソー画『夢』(部分)です。
※このページの画像はアンリ・ルソー画『蛇使いの女』です。

   スーレのねむ


 リュバ・ジンは夢を見たのだった。
 暁闇に独り目覚めた彼は、夢の呼び声に導かれるままにひっそりと臥所を抜け出し、未だ微睡む集落を後に樹林に分け入った。
 片時も手放さぬ愛用の槍を携えて、彼は音もなく木々の間をすり抜けてゆく。誇り高い戦士であり練達の狩人である彼の、しなやかな筋肉に覆われた敏捷な躯は、樹林に溶け込み、気難しい精霊たちを騒がせずに歩くすべを身に付けている。
 いつしか空が白み、湿地の泥からはひそやかな蒸気が立ち昇って、低くたゆたった。窪地に溜まった靄の中に巨木の梢越しの曙光が差し込むと、夜の間眠っていたベルサの花たちが重たげに首をもたげて、重なり合った花弁をはらりと解く。あちらでもこちらでも、乳色の靄の底に、薄紅を滲ませた花が次々と開きはじめる。粘つく泥にまみれたリュバ・ジンの裸足の踵が、わだかまる靄を乱して花々の間を浮き沈みしながら、幻のように窪地を過ってゆく。頭上で鳥が唄い始めた。
 やがて昼の熱気が大気に立ちこめ、湿地には虫柱が立った。黙々と歩き続けるリュバ・ジンの漆黒の膚が汗に濡れて光る。汗ばんだ膚に温められた泥と踏みしだかれた草の匂いが絡みつく。
 大樹の天蓋を透かして降り注ぐ陽光にまだらに彩られて、リュバ・ジンの引き締まった肢体は、ふと、樹下を過ぎる豹に似る。膚の上を通り過ぎる金色の光の斑と滑るような身ごなしのせいだけではない。リュバ・ジンの心は今、己が人であることを忘れかけている。それが樹林に受け入れられるための狩人たちの秘密だ。樹林に溶け込み獣に近づいた狩人は、人間の気配が薄くなるため、獣たちに恐れられずに獲物に近づくことが出来る。けれど、完全に獣になりきってしまってはならない。心のどこかに常に人である自分がいて、必要な時にはいつでも瞬時に己に立ち返ることが出来なければならない。獣に近づきすぎた狩人は、樹林に取り込まれてしまう。経験の浅い若い狩人が稀に陥る樹林の罠だ。樹林の精霊は、芳香を放つ花が虫を誘うように、瞳に媚を湛えた娘たちが若者を誘うように、若い未熟な狩人を誘う。取り込まれぬよう、けれど騒がせて機嫌を損ねぬよう、狩人たちは、気まぐれな女を扱うような注意深さで樹林にその身を滑り込ませる。
 小さな流れを跨ぎ越え、絡まりあった蔓草を押し分けて、生い茂る下草の陰に小暗い湿地を隠した樹林の奥深く、リュバ・ジンは分け入ってゆく。足元の朽葉の下で青光る甲虫が蠢き、葉陰にきらめく水溜りには虹色の蝶が水を求めて群れ集う。
 光は移ろい、影が躍り、樹冠に隔てられた蒼穹では日が天頂に差し掛かった。温気に蒸れた林床は、朽ちゆく樹木の芳香を物憂く垂れ込めさせる。
 リュバ・ジンは足を止め、水を蓄えた草蔓を小刀で切り落として滴る樹液で喉を潤し、腰に下げた袋から取り出した僅かな干し肉と手近の枝から摘み取った果実、それに瑞々しいラシの茎を小刀で切り開いて掴み出した乳白色の髄で簡素な食事を摂った。そしてまた、歩き始める。彼ら身軽で強靭な樹林の狩人たちは、僅かな食糧で丸一日でも疲れることなく樹林を駆けることができる。実際、彼は、大きな獲物を追って日がな一日樹林を彷徨ったことが幾度もある。
 けれど、今日、彼が追っているのは、獲物ではなく、ただ、明け方の夢の痕跡だった。
 明け方の夢が、樹林の向こうから、彼を呼んでいる。
 ――呼んでいる、呼んでいる……。
 呼び声の残響を聴いたような気がして金色の眼差しをふと彷徨わせ、一瞬遠くに意識を飛ばしたリュバ・ジンは、己の足が小枝を踏み割る音に我に返って、歩行に注意を戻した。細心の注意無しに樹林を歩くのは、聖なる樹林を冒涜し狩人の誇りを汚す愚行だ。リュバ・ジンは己を愧じた。
 あたりの景色が見慣れぬものになっていることにふいに気づいて、リュバ・ジンは戸惑った。集落から一日で歩いてこられる距離に、このような地形があっただろうか。
 けれど、一瞬心を掠めた疑念は、身の裡をいっぱいに満たす夢の呼び声に押しのけられて、すぐに霧散した。
 己がどこに向かっているかも知らず、ただ、何かに引き寄せられるままに、リュバ・ジンは歩き続ける。いつのまにか覚めない夢に入り込んだような心地で、ひたすらに足を運び続ける。進むにつれて、彼の中で、夢の呼び声は強さをいや増し、いまや全身を満たして脳裏に鳴り響き、すべての思考を霞ませて彼を衝き動かしていた。
 ――俺は、行かなければならないのだ。何故かは知らない。それでも、行かなければならないのだ。
 狂おしい衝動に駆られて、いつのまにか彼は飛ぶように樹林を駈けていた。
 ――待っている、待っている。俺を待っている。もうすぐ、もうすぐ会える……。だが、何に?

 突如、白熱の光が眼前に溢れた。
 幾重にも重なる緑の帳の最後の一枚を押し分けた瞬間、彼は、樹林を抜け出していたのだ。
 仄暗い樹林からいきなり遮るもののない蒼天のもとに飛び出した彼は、とっさに閉ざした瞼を掌で覆い、次いでその掌を庇に少しずつ眼を開いた。
 灼熱の昼光が、襲い掛かるように彼の頭上に降り注いでいた。
 そこは、一面の荒野だった。生きているものの気配すらない乾いた荒野にただ灰色の岩だけが烈日に曝されて無数に連なる荒涼の風景が、見渡す限りどこまでも続いているのだった。
 樹林に、涯はないはずだった。少なくとも、集落から歩いていける範囲に樹林が終わる場所があるはずはなかった。今まで、集落からどの方向に何日歩き続けても、樹林が途切れたことはない。緑の陰なす樹林は、彼らの世界のすべてだった。樹林は世界であり、世界は樹林であった。――そのはずだった。
 けれど今、彼の背後で唐突に樹林は途切れ、眼前には見知らぬ荒野が広がっている。
 自分は夢を見ているのではないかと、リュバ・ジンは訝った。
 空は青白く光り、大地は灰褐色に乾いてひび割れ、動くものといえば時折の僅かな風に移ろう砂以外には何一つ無かった。
 ふいに、今背後を振り返ったらそこに樹林は無いのではないかという、奇妙な恐れが彼を捉えた。
 もしかすると、今目の前にある荒野ではなく、背後にあったはずの樹林こそが、夢だったのではないか。自分は今まで、ずっと夢を見ていたのでないか。生命のざわめきに満ちた湿潤な樹林は己の見ていた夢であり、今眼前にある荒涼の光景こそが世界の真相なのではないか――。
 圧倒的な熱と荒々しい光の氾濫に、目眩がする。
 リュバ・ジンは振り返らなかった。荒野の彼方から、夢の呼び声が今までに無いまでの強さで響いて、彼に前進を促したのだ。
 見えない糸に引かれるように、彼は荒野に足を踏み出した。
 簡素な樹皮のサンダルを足裏に括りつけただけの素足が、たちまち熱い砂にまみれる。容赦なく押し寄せる剥き出しの熱気がじりじりと膚を灼く。
 遠目に小さいと見えた岩々は目の前まで来ると一つ一つが思いがけないほど大きく、よく見れば元は人の手の入った石材のようでもあって、無秩序に見えた連なり方も、巨大な建造物が崩れ落ちた跡にも見え、まるで遠い昔に打ち捨てられた壮大な石造りの都の跡かとも思われた。が、リュバ・ジンはもう、そのことに何の関心も覚えなかった。脳裏に響く呼び声はますます近く大きく、ほとんど本当に耳に聞こえているような気がするほどはっきりと高まって、あらゆる思考を締め出し、彼を駆り立てている。巨大な岩の間を縫って、リュバ・ジンは進んでゆく。
 熱に浮かされたように歩き続けた彼は、一つの巨石の前で足を止め、その頂を見上げた。
 そこに、いる。その向こうに。彼を呼んでいたものが。
 立ちつくす彼の目の前で、突然、岩の上に、もう一つの巨大な岩がせり上がった。
 一瞬灰色の岩と見えたそれは、岩ではなかった。岩のようにごつごつした、硬く乾いた皮膚を持つ、巨大な生き物の首だった。
 たった今砂の中から生まれ出たというようにさらさらと砂を振り落としながら、長い首がゆるりと持ち上がり、巨大な頭部の両側面に、二つの巨大な眼が開く。眩い黄金の双眸が、射るように真っ直ぐに彼を見据えた。

 ――《竜》ドラカ……!

 リュバ・ジンの全身を激しい歓喜が貫いた。
 竜の眼の中で炎がくるめき、雄大な翼が重たげに打ち振られた。岩が罅割れるように口が開いて、人のものではない不思議な言葉で厳かに何事かを呼びかけた。細長い瞳孔を持つ金色の眼に、彼の姿が映っている。リュバ・ジンと竜、両者の、共に黄金の眼差しが、ひたと互いに据えられる。
 では、おまえが俺を呼んでいたのか――。
 リュバ・ジンの胸は熱く打ち震えた。
 力強くしなやかな首が、彼に向かって悠然と差し伸ばされる。
 そう、やはり、自分のあの樹林での今までの人生はすべて夢だったのだ。今、この瞬間の、乾いた大地と目の前の竜こそが、現実なのだ。この竜と出会うためにこそ、俺は生まれてきて、今ここに在るのだ。――おお、竜よ。俺の竜よ! 今こそおまえと一つになろう……。

 リュバ・ジンは逞しい胸を反らして高く掲げた両腕を抱くように広げ、近づいてくる竜の首を恍惚として待った。
 爛爛と燃える黄金の眼差しが、開かれた巨大な赤い口が、見上げる彼の視界いっぱいに迫る――。



 その日から、リュバ・ジンを見たものはいない。リュバ・ジンがどこに行ったのか、誰も知らない。
 集落の長老は、悲しげに首を振って言うのだった。
 リュバ・ジンは、眠るときに頭の傍にスーレの花を置くのを忘れたから、夢に呼ばれてしまったのだ。樹林の夢に呑まれてしまったのだ。立派な戦士であったのに、優れた狩人であったのに、愚かなことだ。残念なことだ。樹林は時々、奇妙な夢や、危険な夢を見るのだよ。それに取り込まれると、帰ってこられなくなる。だから、よいか、眠るときには、樹林の夢から己を守る為に、スーレの花を枕辺に置くのを忘れてはならぬ。なかでも年若い者、夢想がちな者、不遇をかこつ者、血気に逸る者は、特に気をつけることだ――。

 それからしばらくあったある日、枕頭の花を寝相の悪い兄弟にうっかり蹴り飛ばされてしまった一人の子供が、夢に、竜に乗って天を翔けるリュバ・ジンの姿を見た。
 子供の夢に降り立ったリュバ・ジンは語った。
 子供よ、スーレの香りは、夢を見ない為ではなく、夢から覚めぬ為にあるのだ。覚めぬほうが幸せな夢もあるのだよ。だから、これからは、決してスーレの花を忘れるな――。

 子供はその夢のことを、誰にも話さなかった。


樹林の見た夢

~続・スーレの睡り~


 スーレの花が、咲かなくなった。
 そういえばいつのころからか、花枝につく蕾の数が徐々に減っている気はしていたのだ。
 臥所の枕辺に置くスーレの花に事欠くようになった集落からは、夜の間にひとり、またひとりと、子供たちが樹林に消え始めた。樹林の夢は、まず最初に年若いものたちから連れ去るのだ。
 大人たちは夜通し目覚めて子供たちを見張ろうとしたが、どんなに堅い意思を以てしても、数人で交代するように試みても、明け方近くになると、きまって知らぬ間に夢の無い眠りに引き込まれてしまうのだった。そうして、目覚めると、子供の姿が消えている。
 子を奪われた親たちは我と我が胸を打って嘆き悲しみ、我が子の返還を樹林に祈ったが、叶えられることは無かった。
 集落の周辺では咲かなくなったスーレの花が、他の集落や樹林のどこかにはあるかもしれないと、屈強の男たちが志願して探索に向かったが、花を求めて樹林に分けいったものたちは、誰ひとり帰ってはこなかった。
 やがて、幼子だけでなく若者たち、娘たちの中からも、夜のうちに樹林に消えるものが出るようになった。
 篭る熱気の中で、集落は不安と怯えに浸され、老人たちは息を潜めて樹林に祈り続けた。

 そんな中、若者たちの間で、一つの名前が密やかに囁かれ始めていた。
 リュバ・ジン――かつて夢に呼ばれて集落から姿を消した一人の戦士の名が。


 その名を最初に口にしたのは、子供の頃に夢の中でリュバ・ジンと会ったという若者だった。
 それは、リュバ・ジンが集落から消えてしばらく経った頃のことだったという。
 幼かった彼の夢にある夜訪れたリュバ・ジンは、巨大なドラカに乗って天を翔け来たり、スーレの花は夢を見ない為ではなく夢から醒めぬ為にあるのだと、彼に語ったというのだ。
 ならばスーレの香りに守られたかつての平和な集落はスーレの見せていた夢であり、スーレを失った後に立ち現れるものこそが、夢ではない、世界の本当の姿なのではないだろうか――と、その男、ケサル・シンは、仲間の若者たち、娘たちに語った。

 俺たちは今まで、スーレがもたらす夢の中で、安穏な日々という幻を見ていたのだ。俺たちが見ていた世界の姿の、すべてはまやかしだったのだ。
 では、本当の世界は、どのような世界なのか。リュバ・ジンのいる世界だ。竜のいる世界だ。
 その世界は、どのような姿なのか。乾いた砂礫に白熱の日の照りつける、はてしない熱砂の荒野だ。
 スーレを失った集落は熟した果実が腐り落ちるようにゆるやかに死に絶えて、滅びののちには、白日に曝された荒寥たる真実が立ち現れるのだ――。

 その言葉は、若者たち、娘たちのあいだをひっそりと駆け巡り、子供たちもしばしばそれを漏れ聞いて、幼い瞳にあやふやな熱を宿した。
 そうして、ケサル・シンの言葉を聞いた若者たち、子供たちの夢には、竜の咆哮が忍び込んだ。
 夢に竜の咆哮を聞いたものたちの多くは、幾夜か経るうちに日中も虚ろな眼差しで竜の夢を追うようになり、やがて樹林に消える。
 はじめは独り身のものたちが。
 やがては夫や妻を残して去ってゆくものも現れ、赤子を抱いて樹林に消えた若い母親たちも数多くいた。
 夜を忍び歩く獣のように、木漏れ日のまだらに紛れて林床を滑り抜けるくちなわのように、疫病えやみを運ぶ危険な風のように――リュバ・ジンの名がひっそりと集落を吹き抜け、夜の間に、ここでない場所を夢見る年若いものたちを攫っていった。
 昼のさなかにも、若者たちが見た竜の夢は集落の屋根屋根の上に靄のように垂れ込め、白熱の日射しのただ中に小暗い影を落としているかに思われた。
 竜の夢が、真昼の集落をひたひたと浸してゆく。一つの集落が、彼方から訪れた竜の夢に囚われてゆく。

 かつて、近隣の集落の一つが、熱病に冒されて潰えたことがある。
 無人となった集落は、またたきの間に樹林に呑み込まれ、今では場所さえ分からなくなっているという。
 この集落も、そのようにして消えてゆくのだろうか。
 けれど、この集落が熱病で消えた集落と違うのは、最初に消えてゆくのが体力の弱い赤子や年寄りたちではなく、ある程度まで育った子供や、体力盛りの青年たちだということだった。
 怯える大人たちをよそに、若者たち、娘たちは、もはや人目もはばからず、夢見る瞳で竜を語った。
 ――樹林の向こうで、竜が待っている。俺の竜が。運命に定められた、私の竜が――。


 そんな中で、若いオブ・シンだけは、ケサル・シンの言葉を耳にしてもリュバ・ジンの夢を見ることなく、竜の声を聞くこともなかった。
 オブ・シンは、幼い頃から、ここでない場所を夢見ぬ質の若者だった。仲間の若者たちの中で、おそらくただひとり、樹林の向こうに焦がれたこともなく、空の彼方に夢を描いたこともない。
 若者たちの誰もがどこかへ消えてしまったら、誰が残る年寄りたちの面倒をみるのだろう。彼は、竜の咆哮を聞かぬよう、夜ごと心の耳を塞いで眠った。そうして、ひとりまたひとりと消えて行く仲間たちから目を逸らし、心を鎧って、黙々と日々の勤めを果たし続けた。

 けれど、やがてほとんどの若者たちが姿を消した頃、オブ・シンの許婚である美しいノーマが竜の夢を見るようになった。
 年老いた親たちの嘆きをよそに夢見る眼差しをひがないちにち樹林の向こうにさまよわせたノーマには、もはや許婚の声も届かず、かつては愛に輝いていたその瞳にオブ・シンの姿が映ることも、もうなかった。
 娘が樹林に消えることを恐れた両親は、夜の間、彼女の手足を枷で縛め、その枷を家屋の柱に縄で縛り付けた。老いて力の弱った親たちの代わりに、オブ・シンがその仕事を手伝った。
 娘は遠くを見やる目のまま、抵抗するでもなく枷に繋がれたが、夜明け近くになると縄を引っぱって暴れ、もがいた。ノーマの両親は辛い思いでそれを見守り、最初のうちは朝になると縄を解いていたが、やがて娘が昼の間も夢の中のような足取りでふらふらと樹林に向かおうとするにいたって、昼間も縄を解くのを止めた。
 縛められ、狭い家屋の奥に押し込められた娘は、ものも食べずに日に日に痩せ細って、艷やかだった頬は窶れて目の下に隈が浮き、瞳ばかりが病に浮かされたように中空をさまよいながら、薄暗い家屋の中で獣のそれのように熱を孕んで光っていた。もはや目の前に立つ許婚の姿も目に入らず、親の言葉さえ聞き分けず、罠に囚われた獣のように暗がりに蹲るノーマの姿に、両親とオブ・シンの胸は痛んだ。
 それでもノーマは美しかった。竜の夢にうっとりと瞳をさまよわすノーマの、これまで自分には見せたことのないような、どこかなまめいた表情が、オブ・シンを苦しめた。

 やがて娘は、水すら口にしなくなった。
 このままではノーマは死んでしまう。
 日に日に弱ってゆく恋人の姿を見るに忍びず、オブ・シンは両親を説得して、ある夕べ、ノーマの縛めを解いた。
 朧な夕星ゆうづつの下、枷から解放された娘は、外した枷を手に目の前に立つ許婚にも、その後ろで両手をもみ絞って嘆く老いた父母にも一瞥すら向けることなく、ただ吸い寄せられるように樹林の奥にだけ眼差しを注いで、振り返りもせずに月下の樹林に消えていった。その首に、オブ・シンが婚約の証に贈った首飾りをつけたまま。
 オブ・シンは、去ってゆく恋人を黙って見送った。

 今や、集落に残っている若者は、オブ・シン一人となった。
 他に残っているものは、老人たちばかりであった。
 オブ・シンは、ただ独り、それまでと同じように許婚の老いた父母に尽くし、老人たちのために狩りをし、老いて動作が不自由になったものたちの手助けをした。
 何も変わらぬように黙々と働くオブ・シンの中で、ただ一つ、変わったことがあった。
 ノーマが樹林に消えたその夜から、彼も夢に竜の咆哮を聞くようになったのだ。

 けれど彼は集落を離れなかった。
 彼には父母は既に亡かったが、世話してくれる娘を失った許婚の父母を護る者は彼しかいなかった。
 老人ばかりになって滅びを待つ集落を、己が看取らずして誰が看取るのだろう。淀んだ熱と衰退の気配ばかりが重く垂れ込める集落で、彼は毎夜、老人たちに頼んで我が身を臥所の柱に縄で繋いでもらって眠った。そうして眠りの中で竜の咆哮に耳を塞ぎ、人知れず樹林の夢に抗い続け、一夜の苦しみの後に、朝には縄を解いてもらった。
 生温い雨の中で咲きながら腐れてゆく花のように、生きながら死臭を放ち始めた不治の病人やまいびとのように、ゆるやかに滅びゆく集落で、彼は幾年もの間、祖霊の国に旅立つ老人たちを静かに見送り続けた。

 やがて最後の老人が旅立つと、魂送りの儀式を終えた後の集落中央の広場で、オブ・シンは、祖霊を祀った聖木柱に己を縄で幾重にも縛り付け、その後、あらかじめ用意していた石を左手に握りこんで、利き手である右手を叩き潰した。これから訪れるであろう竜の夢に浮かされて、自ら縄を解いてしまうことがないように。
 そしてそのまま、飢えと乾きでゆっくりと息絶えて、獣と禽と虫たちにその肉を与え、僅かな衣服の痕跡だけが纏いつく乾いた白骨となった。
 まもなく巨大な柱には蔓草が這い上がり、やがて腐り落ちた縄に代わって愛撫するように骸に絡みつき、血の色をした大輪の花を無数に咲かせた。花は一日で萎んだが、日々途絶えることなく次々と湧き上がるように開き続け、朽ちゆく柱と白骨を彩り続けた。その周囲では、人々の営為の跡のすべてが猛々しい緑に覆われて埋もれていった。

 こうして、一つの集落が樹林に呑まれた。



 ある日、かつて集落であった場所の上空を、竜に乗った黒い膚の精悍な戦士たちの一団が通りすぎていった。
 その中の一人、ゆるやかに波打つ長い黒髪を豊かにたなびかせた女戦士が、天翔ける戦士たちの隊列をふと離れ、竜の首を巡らせた。表情のない美しい顔を下界に向け、高度を下げて旋回する。やがて地表に何かをみとめると、つけていた首飾りを片手で器用に外し、漆黒の美貌の中の琥珀の瞳をふと伏せて、外した首飾りにくちづけた。そうして、躊躇うことなく、それを地上に投げ落とす。
 美しい女戦士は、落ちてゆく首飾りの軌跡に謎めいた眼差しをつかのま投げると、あとは振り返ることなく、隊列を追って、そのまま何処へか飛び去っていった。

 しなやかな腕から無造作に放たれた首飾りは、樹林の一点、樹冠の網目が僅かに途切れる場所に吸い込まれるように落下して、その僅かな破れ目の中心、朽ちた柱に緑の蔓草の鎖で縛り付けられた白骨の上に落ち、肋に絡みついた蔓草にひっかかって、心臓があったはずの辺りで留まった。
 その首飾りも、すぐに緑の鎖に絡め取られ、次々と開き続ける緋赤の花に埋もれた。

 それ以来、この地に竜たちが戻ることは二度となかった。
 だが、あるいはそれもまた、樹林の見た夢の一つであったのかもしれない。


奥付



樹林の見た夢 ~二つの熱帯幻想~


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著者 : 冬木洋子
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/canopusfuyuki/profile


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