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その1

おもいこみレーズンバターサンド 

「桃さん、八つ橋は元気ですか?」  

 ドアを開けた途端、お隣の西原さんが勢いこんで訊ねた。
 八つ橋といっても、京都の銘菓の話ではない。彼の愛猫である。

 

 なかなか珍しい名前だとは思うのだが、出会ってから一週間ほどで、その狸と見まがうほど巨大、かつ無愛想な茶色の猫を笑顔満開の彼が抱いてあらわれた時、私は思わず納得した。

 それはまあなぜかというと、猫のなかには耳がぺこりと折れまがっている種類がいるのだが、八つ橋はそれだった。

  まるい顔に大きめの逆三角形の耳が二つ。その様子がどうしてもあれに似ている。薄い正方形の皮を半分の三角形に折って、粒あんを挟んだあのお菓子に。

「お昼寝してますよ」

 答えつつ、西原さんが提げている紙袋をすばやくチェックする。  彼が家を空ける間の猫の世話をするかわりに、行った先のおみやげをもらうというのが私たちの間に自然とできたルールなのだ。

 この前は伊勢の赤福で、その前は確か沖縄のちんすこうだった。  おかげで、私もだいぶ日本各地の銘菓通になってきたかもしれない。

「ええと、こんにちは。いつもお世話になってます」

「いえいえ私の方こそ八つ橋には相手をしてもらってます」

 やっと挨拶というものを思い出したらしく、細長い身体を折り曲げるようにして彼はお辞儀をした。銀縁眼鏡の奥では、ただでさえ細い垂れ目が、笑っているせいで糸のようになっている。

 ひょんなことから知り合ったこの隣人に、私はなみなみならぬ興味を抱いていた。

 断じて、誓っていうが、恋愛関係の話ではまったくない。ただひたすら、観察材料としてだけである。

 というわけで、お茶でもいかがですか、とそこで私が訊ねる。西原さんは常に遠慮のかけらもなくうなずく。それも今では、しきたりのようなものだ。

 やかんに水を汲んで、火にかけてからおみやげを開けた。その間、西原さんは八つ橋との久しぶりの逢瀬を楽しんでいる。

 といえば聞こえはいいが、どうやら愛情は一方通行で、飼い主が心底迷惑そうにしている猫を心底楽しそうに撫でまわしているだけだ。

 「今回は北海道におでかけだったんですか?」

 「はい!!」

 西原さんは嬉々として答えた。この人は何をしていても楽しそうな雰囲気なのだが、まあそれはこの際おいておく。

 「東北を少しまわって、通りかかった福島でゆべしを買って、仙台でずんだ餅を食べて。山形ではのし梅をはずすわけにはいきませんし、南部煎餅は押しも押されぬ岩手名物ですしね。あ、あと青森で久慈良餅を食べてから、北海道まで行って。でも北海道には残念ながらあんまりいられなかったんですけど、とりあえず一応は帯広まで行って。それで行ったならそれを買わなきゃと思いまして。 お好きでしたでしょうか?」

 たったの一泊二日で東北と北海道をそんなにまわれるものだろうか、と疑問に思うが、いつもといえばいつものことなので、つっこまないでおく。

 今回は六花亭のマルセイバターサンドだった。銀色の包み紙に古風な文字が印刷された赤いラベルが目立つ。

「食べたことないですけど、おいしいんですね」

 これは質問ではなく確認だった。

 いつも頭のねじを落としながら歩いているような西原さんだが、お菓子の評価、それのみについては信頼している。

「モチロンです!」

 包み紙がちょっと面白いでしょう。それ、依田さんが十勝で最初に作ったマルセイバタのまねっこなんですよ。1974年に出来たお菓子なんですけど、昔と変わらない味で……っていい意味でのことですけど。中のクリームが秘訣だと思うんですよね。ホワイトチョコとバターなんてすごくしつこそうに聞えますけど、それがそうじゃないんです。 でも溶けちゃうので冷蔵庫に入れるの忘れないでくださいね? そうそう六花亭ってわざわざ自分のとこ専用に小麦粉をつくるんですけど知ってました?
 立て板に水の勢いの言葉を聞き流しつつ、ポットとカップを温める。彼は一度お菓子について語りはじめると、自分が満足するまでやめようとはしない。

 どうやら乳製品がたっぷり入っているらしいからミルクティはやめよう。となるとダージリンかセイロンか。

 戸棚の前で少し考えてから、結局、買ったばかりのセイロンティー(ディンブラ産)にした。

 紅茶をいれる準備をしていると、おみやげの能書きを終え、そして八つ橋に愛想をつかされたらしい西原さんが、それぞれに一個ずつお菓子を出して、冷蔵庫に残りをしまってくれる。

 おいしい紅茶を入れるコツ、というのは結構色々とあるが、そのうちの一つは、ポットにお湯を入れる時、少し高めの位置から勢いよく注ぐことだ。

 二人でテーブルに頬杖をついて、砂時計の水色の砂が落ちるのを見ながら、私は出会ってからずっと気になっていたことをずばりと聞いてみた。

 「西原さんは何のお仕事をなさってるんですか?」

 「当ててみてください」

 いたって真面目に彼が言う。

 というわけで茶葉を蒸らす間、私はこれまで考えたことを、頭の中でもう一度並べ直してみた。

 日本各地にしょっちゅう出歩いているところを見ると自由業だろうか。しかし、ほとんどの平日に、スーツをかちっと着込んで結構朝早くから出ていくのをみると、そうとは思えない。

 だが、いつも出掛けて買い込んでくるあの各地の銘菓の量はなんなのだ。

 家にいる時でもこの人は、近所のコンビニで山のようにお菓子を買ってくる。

 ただの甘いもの好きとしても、あの量をこなすのはちょっと辛いんじゃなかろうか。

 

 「ヒントはですね、甘いものがないと生きていけません」

 

 ……チョウチョやアリじゃあるまいし。

 ポットをスプーンでひとまぜしてから、茶葉を漉しながらカップに注ぐ。  きれいな色が出た、と心の中で自画自賛してみる。
「製菓会社におつとめですか?」

 考えた末に出てきたのはこんな答えだった。

 ライバル会社の製品を食べくらべているとか、新製品の開発をしようとしているとか、そういう理由だったら、まだ、少しだけ理解できるような気がする。

 しかし、もしあれだけ糖分とカロリーの消費をしているのにこの体型だとしたらサギだ。ダイエットに奔走する女性の敵だ。

 

 「ぶっぶーはずれでーす」

 高らかに宣言してから、彼は突然声をひそめた。

 

「実はですね、桃さんを信用して言っちゃいますけどね」

「言いたくないなら言わなくてもいいですよ」

「それはそうですが言いたいので言わせてください」

「はあ」

「僕はね宇宙人なんです」

「ほう」

「英語で言うとエイリアンです」

 英語の方が何となく凶悪な感じがするのはなぜなのか。

 しかも当初の質問からかなりずれた答えである。ヒントの意味もまったくなかった。

 

 私は何も言わずにバターサンドを口に運んだ。おいしい。

 さくさくした歯触りのクッキーもおいしいが、特に挟まれたクリームがこたえらえない。ラム酒の香りがほのかにするバターにはレーズンの酸味がきいている。それでいて、まったりとやみつきになりそうな甘さだった。

「……あの、六花亭は、お嫌い、でしたか?」

  しばらくだまって味わっていると、西原さんがおそるおそると言った様子で聞いた。しかし訊ねるべきはそこではないような気がしなくもない。

 

「とってもおいしいですよ? どうしてですか?」

「あの、紙袋を見られた時、心拍音がちょっと……じゃなくて。ええとこんな顔をされたので」

 こーんな、と言いながら彼は思いっきり顔をしかめてみせた。鼻にひっかかった眼鏡がずれている。

 そこまであからさまだったろうか。げに食べものの恨みというのはおそろしい、と私は他人事のように思った。


「ああそれは、なんというか……私の逆恨みとでもいいますか」

「どうしたんですか? お菓子に何か不純物が入ってたとか!? そうなんだったら許しておけませんが!!」

「いえ、そんなたいそうなものじゃないです」

 私はあわてて否定した。許しておけないというのは、具体的にはよくわからないが穏やかではない。

 

「ちいさいころに六花亭というお菓子のお店があるということを、はじめて聞いた時にですね、想像力が暴走しまして」

 六花というのが雪の異名だとはなぜか知っていたので、雪の結晶のようなお菓子を売っているのだと信じこんだのだった。何年もたった今でも思い出せるくらい、はっきりとした想像である。  

 てのひら半分くらいの大きさで、ひんやりとしている。色は透明がかった白。結晶そのもののように繊細で、口に入れると優しい甘さがほろりと溶ける。
 その後、そんなお菓子が存在しないと知って、なんだか裏切られたような気がしたのだ。勝手に思い込んでおいて、裏切られるも何もないものだけれど。

 たとえてみるならば、『E.T.』 のビデオのパッケージを見て、かの異星人の皺くちゃさ加減に恐れをなし、かなりの長い間ホラー映画だと信じていたことに似ているかもしれない。

 ちなみに私はあの映画を初めて観た際、あのエンディングにぼろぼろ泣かされた。自慢ではないけれど涙腺は弱い。

「おいしそうなお菓子ですね」

 私の説明を聞いて、西原さんが目を輝かせた。

 そういえば、ここで目尻を下げてお菓子を食べている隣人も自称宇宙人だ。

「……そうでしょう」

「今度そういうお菓子を見つけたら、桃さんにもかならず買ってきますね」

 約束します、と何回もうなずきながら彼が紅茶を飲み干す。

 そうは言われても、私の頭の中にしか存在していないのなのだが。……いやだがしかし、この西原さんならいつか見つけてくるかもしれない。


「楽しみにしてますね」

 とりあえず宇宙人宣言を頭のなかから追いだして、お茶のおかわりどうですか、と私は訊いた。

 窓辺で八つ橋が大きな口を開けてあくびをした。

 

 


おしながき・その1


その2

みぬふりハニーバニラアイスコーヒー

 家に帰ると、八つ橋が脱皮していた。

 

 私の住んでいるアパートは狭い。何せ遊びに来た友人たちが付けたあだ名が「靴箱部屋」。

  これには天井が低く長方形で、まるで靴を入れるボール紙の箱のようだという意味のほかに、これだけ小さいと靴入れクローゼットくらいにしか使えないという暗喩が含まれている。

 つまりあまり名誉ある名前ではないわけで、真実でなかったら異議を申し立てたいところなのだが、彼らにテーブルの下や流しの前という寝場所しか提供できなかった実績には屈さざるを得ない。

 そんなことを言っても、住めば都とまではいわないが、埴生の宿もなんとやら。雨風も防げるし、家賃も安い。それよりなにより、ここに引っ越すまで一人部屋というものを持ったことがなかった私にとって、自分だけの空間というのは、あるというだけで贅沢なものなのだ。

 というわけで一人暮らしは存分に楽しんでいるのだが、大学生活を楽々と過ごしているとは、この時期とても言えなかった。魔のレポート提出期間だったからだ。

 窓の外が白々と明るさを増しはじめ、起きたばかりの鳥が平和に鳴き交わしている時間に就寝、という不規則かつ不健康極まりない生活態度にも、最後の課題が終了した今日やっと別れを告げられる。毎度のように、次からもっと勤勉にという誓いを胸にしても、でもまあ済んでしまったことにはくよくよせずにシャワーを浴びてさっぱりしてから気楽な格好をしてくつろぐ、もしくは寝ることだけを一心に、課題を提出して狭いけれども楽しい我が家に帰ってきてみれば、ビバ超常現象。

  ビバ。

 そう、どうしてこんなに長々しい前置きがあるのかといえば、その異常事態を説明するための心の準備をしていたからなのだ。

 
 ……もしも八つ橋が蝉だったなら、問題はまったくなかっただろう。
 蝉の脱皮をご覧になったことはあるだろうか。夏の早朝、木立の下の地面に親指くらいの穴が開いて、そこから出てきた茶色の奇妙なかたちをした虫が幹を登っていくことがある。足場のいいところにたどり着き、準備万端ということになると、背中が割れて、中から奇麗な翡翠色の成虫がゆっくりと出てくる。最初は縮れていた羽根も時間が経つうちにぴんと伸びて、それと同時に体色は緑から茶色などの保護色に変化する。

 これがご存知のように、その短い生涯ずっと鳴き続け恋に明け暮れる蝉だ。

 とにかく、私が帰ってきたとき、もう脱皮は最終段階に入っていた、らしい。

「ただい」  ま、と挨拶しかけたとき、私の目に入ったのは逆三角形の耳だった。

 飼い主が色と形が京都のあの銘菓に似ていると言い張る部分である。確かに似ていなくもない。   

 

 そこが通常の八つ橋の色……茶色ではなく、緑だということに、一番に気が付いた。
 ああ、抹茶入りの八つ橋に似てるなあ。

 そのときは、そんなのんきな考えしか浮かばなかった。  

 言い訳をさせてもらえるなら、極度の寝不足で判断力が低下していたのだ。  

 じわじわと目の前にしているもの――つまり、鮮やかな翡翠色をした巨大な猫と、その下の抜け殻とおぼしい茶色の縞の毛皮――の意味が頭にしみこんで来るなり、私は持っていた鞄を取り落とし、台所に逃げ込んだ。  

 まるで開けた引出しからゴキブリが飛び出してきた際のような悲鳴を上げたかもしれないが、よくは覚えていない。そういうことにしておいてほしい。

 まわれ右して外に飛び出せばよかったものを、なぜこんな逃げ場のないところにとっさに飛び込んでしまったのだろうか。  

 私は台所の隅で頭を抱えた。  

 換気扇を取り外しても、腕一本くらいしか外には出せないだろう。  

 手を突き出してひらひらさせたところで、誰かが気付いてくれるとは思えない。
「クラリィース……」  

 私は低い声でつぶやいた。言葉にたいした意味はない。英語でもしゃべれたら「オオマイゴーッド」とでも言うところだろう。  

 ただ先週『羊たちの沈黙』をレンタルビデオで観てから、衝撃を受けたときにはこの言葉が出てきてしまうのだ。ピンチの際に凶悪連続殺人犯の真似をしているのだから変といえば変ではある。

 変ということから自然と連想がつながるのは、八つ橋の飼い主、西原さんである。  

 飼い猫にこんな妙な名前を付けることからもわかるように西原さんは奇人だ。別に害があるわけではなく、観察するのは楽しい。が、自分のことを宇宙人だと大真面目に言ったことは記憶に新しい。  

 しかし八つ橋までにここまで常識外れというか地球外生物のような行動をされてしまうと、私が困る。  

 猫というからには昆虫ではなく哺乳類、しかも愛玩動物である。いくら八つ橋が巨大で足が短く愛想がなく、あまり鳴かない、はっきり言ってしまえば鳴き声を聞いたことがない、猫だとしても、ペット、なのだと思っていた。  

 

 思わされていた、のかもしれない。

 くれぐれも人を襲うとかそういうことはしないでほしい、と私は真摯に願った。ホラーは嫌いだ。だいきらいだ。  

 ここまで真剣に願懸けをしたのは、高校受験の際、試験会場が火事になって受験が延期されるのを祈った時以来だと思う。  

 八つ橋は魚より遊びで食べさせたコーンフレークの方が好きだったから、もしかすると肉食じゃないかもしれない。というか、そうであってほしい。  

 そういえばミルクよりは紅茶、しかもストレートの方が好きだった。生意気にも葉による味の違いというのも分かるようで、好きなのはアールグレイだった。調子にのってそればかり飲ませていたので、もう茶葉が残りわずかになっていたのだった。

「今度買わなきゃ……」  

 

 ここから無事に出られたら、の話だが。
 

 ガサリ、と何かが動く音がした。  

 ああだめだ、もうだめだ、ほらもうだめだ。きっと襲われ倒れたところにのしかかられ、鼻や耳の穴から体の中に進入されてしまうのだ。で、気が付いた時には全てのことを忘れているのだが、一ヶ月ほどたつと、胃袋や肺で胴に髑髏の模様のついた蛾が孵化し、中から体を引き裂いて、うようよと出てくるのだ。  

 クラリィース。
 ああ映画と現実がごっちゃになっている。それよりは頭から食べられる方が、一瞬で済むし、ずいぶんマシだろう。  

 

 どんどん気分は急な坂をころがり落ちていく。  

 遺書はないけれど、形見に残せるようなものはまったく持っていないので大丈夫だろう、といささか捨て鉢な気分になった時だった。


 「桃さーん!!!!???」  

 突然、バタンと玄関ドアが開き、西原さんが返事も待たずに飛びこんできた。  

 パニックで私の心臓はきっちり三秒は止まっていただろう。悲鳴をあげる余裕もなかった。  

 私がもう少しか弱ければ、いや乙女なのだからして充分か弱いのだが、私がここで言いたいのは心臓に疾患の類などを抱えていないということで、まあとにかくそうであれば有無を言わさず卒倒していたと思う。  

 

 

 何も起こらないようなので、10.04秒目にそっと台所から顔を覗かせた。  

 西原さんはひどい格好だった。髪の毛はいつも以上にぼさぼさで、ワイシャツは皺だらけ。ネクタイはかろうじて首に引っかかっていたが、いつもの何も考えていないようにのんきな顔は、これまで見たことがないほど必死で汗だらけだった。  

 失礼かもしれないが、今の西原さんの情けない姿ほどヒーローというものからかけ離れたものはないような気がした。  

 天の助け、だとは思わなかったし、思えなかったのだが、そういうことなんだろうと心で折り合いをつける。  

 終りよければすべて良し、というやつである。

 

「ここですよー」  

 ぐるぐる部屋中を見回して私を探しているようだったので、小声で呼んでみた。

「あああ」  

 私が台所の隅でしゃがみこんでいる、ということにはまったく頓着せずに、西原さんは息切れしつつ同じように座り込んで訴えた。
「僕は、八つ橋に、対して、ひどい、誤解を!」
 私も誤解、というか間違った認識をしていた自覚はある。私は黙ったままで先をうながした。
「本当は!! 八つ橋というのは京都で八橋検行を偲んで作られた琴のかたちをしているといってもこまかく言ってしまえば管を半分に切ったような湾曲がついた長方形のちょっとひなびた味がいける焼き菓子なんですがその生地を焼く前のものが生八つ橋でそれはやわらかくぺったりした長四角ですそれで僕は耳のかたちから安易に八つ橋と名付けてしまったんですけどでもあんなふうに餡を挟んで三角形に折りたたむお菓子は色々メーカーによって名前が違いますけど正式名称は粒餡入り生八つ橋と」

「ダマレ。」  

 液体窒素と同一温度の声で私は西原さんをさえぎった。  

 ちょうど良いタイミングで、にゃあ、と同意するような鳴き声があがる。  

 西原さんの後ろから、例の茶色の巨大猫がこちらを覗くのを、私はぽかんと口を開けたままで見ていた。  

 姿からは考えられないような可愛らしい声だった。

 

 その後、まあ私が軽く叫んだり今度は八つ橋が部屋の隅に逃げ込んだり西原さんがばたばたしたりして、落ち着くまでにはかなりの時間がかかった、とだけ言っておこう。

 とりあえず色々叫んだり威嚇したりなだめようとしたりで、のどが渇いてしまったから紅茶でも入れようか、と棚に手をのばしかけて、茶葉が切れていることを思い出した。  

 ふり向いて、西原さんをチェックする。彼は八つ橋を撫でようとして、手を思い切りひっかかれたところだった。

「西原さんはアイスコーヒーはお好きですか?」

「甘ければなんでも飲めます!」  

 見なかったふりをして訊ねると、空元気の返事があった。まあ大丈夫だろう。  

 冷蔵庫からアイスコーヒーのペットボトルを取り出して、ミキサーに注ぐ。眠気と闘うために試験勉強中はこればかり飲んでいた。冷蔵庫にそれを戻して、次は冷凍庫を開けてバニラアイスの容器を手に取る。  

 西原さんは好奇心丸出しで、今度は私の一挙一動を見ている。縁日の飴細工師を子供がじっと見つめているような熱心さで、居心地が悪い。  

 アイスクリームをスプーンで三杯と、最後に蜂蜜を大さじ一杯ほどミキサーに加え、スイッチを入れた。ぐいーん、と気持ちの良い振動音をしばらく聞いたあと、氷をたっぷり入れたグラスに中身を注ぐ。

 予想通り、おいしいです、と一口して西原さんは言った。  蜂蜜のやさしい甘さが私も好きだ。毎日飲むぶんには甘すぎるかもしれないが、たまにはこういうものもいい。  

 西原さんが自分のグラスから少し分けたので、八つ橋も満足そうに皿を舐めていた。  

 そうやっているのを見ると、ちょっと大きめの普通の猫にしか見えない。  

 脱皮したあとの抜け殻、つまり毛皮、も部屋中探したのだが、見つけられなかった。  

 

 なんだか、私が白昼夢を見ていたのだと言い聞かせてしまいたいような気がする。

「八つ橋の名前をどうしようかと思って」  

 心配そうに窓辺の愛猫を見やりながら西原さんは言った。  

 だって僕の誤解のせいで、名前を付けまちがえていたわけですから。本当にあの耳の形と同じお菓子の名前にするとすれば。
「粒餡入り生八つ橋って呼ばなくては……!」
 長い。音節にして十二文字。  

 が、主張する本人はいたって本気だ。変えるとなったら本当に変えるだろう。  

 この名前を真顔で叫びながら猫をさがし歩く彼を思い浮べて、私は笑いをこらえるのに必死だった。  

 今でさえ普通の名前とは言えないがこれはもっとすごい。

 八つ橋も災難である。

「……『つぶあんいりなま』までを名字にしたらどうですか?」

「名字、ですか?」

「あるでしょう。西原さんにも西原っていう名字が」

「下の名前は次郎左衛門といいます」
 じろうざえもん。江戸時代のサムライのような名前だ。  

 というか次郎ということは、上に兄が居るということなんだろうか。それもまた私の想像の限界をこえる。

「……そう、それで親しい間柄らしく、下の名前だけ呼んでることにすれば」

「桃さんも僕のこと下の名前で呼んでいいですよ」

「それはご遠慮させていただきます」  

 にっこりと微笑を作って、私は丁重に辞退した。

 関西の方に仕事で行ってきたんです。で、おみやげです。  

 コーヒーを飲み干したあと、生八つ橋と走井餅各二箱ずつを渡すと、西原さんはそそくさと帰る準備をはじめた。

 おみやげがいつもより多い気がするのは考えすぎだろうか。

 

「あのですね、再来週また出張なんですが……」

「いいですよ」  

 これしきのことで隣人の観察をやめるのはもったいないし、くやしい。  

 のど元過ぎれば熱くもないし、それに結局私は八つ橋が嫌いではない。お菓子も、猫(多分)も。

 

 

 だから私は八つ橋を抱いて帰っていく彼の背広のポケットが、まるで、毛皮かなにかのような、柔らかくてかさばるものを詰めこんだように、ふくらんでいたのを気にしないことにした。  

 急に予定より二日も早く帰ってきたことも。

 

 世の中知らない方がいいこと、というのも確かに存在するのだ。


おしながき・その2


その3

ほらふきフェイジョア

 

 世はなべてこともなし、という語句がぴたりとはまりこむような青空がひさしぶりに広がった日曜日のこと、私は洗濯物を干すという作業に朝からいそしんでいた。なんせ数日続いた雨のせいで、汚れ物がたまりにたまって見るだけでうんざりするほどだったのだ。そんなわけで週末恒例の朝寝もあきらめて、洗濯機をフル回転させていたのだが、それもやっと終わり、最後の靴下を洗濯ばさみでとめたところで、階下から声がした。

「桃さーん」  

 ふたたび窓から身を乗り出して外を覗くと、西原さんがこちらを見上げて、散歩に行きませんか?とのんきなことをやけに嬉しげに言った。  

 その隣、アパートの門灯の横で、彼の飼い猫の八つ橋が前足を揃えて座ったまま、ゆらりと尻尾を振ってみせた。

 

 

 まず初めにお断りしておくと、西原さんというのは、私の隣人である。それ以上でもそれ以下でもない。  

 たしかに彼の愛猫を預かることはあるし、そのお礼として彼が持ってくるお菓子を受け取るし、ときどきはそれと合う飲み物を出して二人でつまむことはないとはいえないから、最近は茶飲み友達程度には親しくなったようにみえても仕方ないことなのかもしれないが、私は断固としてここに宣言する。

 それは、不可抗力のせいであり、あくまで外見上の話である、と。  

 どちらかといえば、私と西原さんとは『友達』というより『知人』である。もっと正確にいうならば、多少聞こえは悪いが、彼は私の観察対象、である。  尋常ではない甘味好き、という点からして私の好奇心をくすぐるには十分だったが、それ以上に、自分のことを大真面目に宇宙人であると言うにいたっては、もう目が離せなくなっても仕方ないではないか。しかも、彼の飼っている猫も、その名前と巨大なサイズ以外にも、どうも普通の猫とは色々と違う奇妙なところがあるようなのである。  

 はっきりいえば、西原さん(そして彼の猫)は、変、なのだ。それも、ものすごく。  

 そんなわけで、友人というには、私は西原さんのことをあまりにも知らないのである。そして、正直なところ、この謎が多すぎる隣人を友達と呼ぶのは、ちょっと……躊躇しなくもない。

 

 そこまで考えて、私は隣を歩いている西原さんに尋ねた。アパートから2、3ブロック歩いた地点である。

「どこに行くんですか?」

「秘密です」  

 西原さんは、ひょろひょろ、という擬音語がぴったりの歩き方をしながら答えた。

 猫連れだからそんなに遠くには行かないだろうと思っていたのだが、西原さんがひょろ長い手足を交互に出しているのとは対照的に、その肩の上で八つ橋は襟巻きのように体を伸ばしていた。自分では歩かずに、飼い主を乗り物代わりに使ったりするから太るんじゃないかと思ったが、私は口には出さなかった。

「でもすぐ着きますよ、ここを曲がって……はい、到着」

 と言われたそこは、何の変哲もない住宅街の真ん中のように見えたので、私は思わずあたりを見回した。

 西原さんは、そんな私には構わずに、一軒の家の玄関へと近づいていく。おそるおそる後ろについていくと、彼はその家のインターホンではなくて、その下に生えている木に手を伸ばした。具体的には、その木に咲いている、長くて赤いおしべと柔らかそうなピンクの花びらの、なんだか南国っぽい花に。  

 そして、「すみません」と謝罪したかと思うと、私があっけにとられている間に、その花から花びらをちぎりとった。

「はい」  

 さも当然のように手渡されて、私は花びらと西原さんの顔を交互に見る羽目になった。  

 何がしたいのだろうこのひとは、と思わず八つ橋に助けを求めそうになったが、猫も興味津々といった表情で西原さんの次の挙動を見守っている。私が仕方なく路上で花びらを持っている横で、西原さんはもう一回謝りながら花を取った。そして今度はそれを自分の口の中に突っ込んだ。

 

「食べた!?」

 

「はい、おいしいですよ」  

 これはフェイジョアという木で、本当は実を食べるんですが、花もおいしいです。  

 にこにこしながら、西原さんは言った。

「前に、六花亭のマルセイバターサンドを食べているときに、雪みたいなお菓子が食べたいっていうお話をされていたでしょう。で、ああいうお菓子はまだ見つからないんですが、名前つながりで、花はどうかなと思って。八つ橋がフェイジョアの木がここにあるって教えてくれたので、花が咲いたら食べてもらいたいと思って。桃さんに」  

 そんな話をしたことすら忘れていた。思わず返答につまった私には構わずに、西原さんは滔々と語りはじめる。

「はなびら餅でもいいかな、と思ったんですけど。あのお菓子、ご存知ですか?」  

 正確には、菱葩餅っていいまして、ごぼうと白味噌餡をピンク色のお餅で包んで、その上から円形の求肥か白いお餅を二つに折って半円形に包んだお正月の和菓子です。うっすらと下のお餅の色が透けて見えて、すごくきれいなんですよ。僕はあれを見るたびに貝の剥き身を連想してしまうのですが、本当は宮中のおせち料理を簡略化して配っているうちにあの形になったらしいですね。ごぼうは鮎の塩漬け、白味噌餡はお雑煮の代わりなんだそうです。でも僕としては、元の食べ物より、はなびら餅を貰うほうが嬉しいです。

 

「西原さん」  

 私は彼の菓子談義をさえぎって言った。 

「ありがとうございます。あの、でも、これって」  

 ドロボウじゃないですか。  

 たかが花と言っても、明らかに他人のものなのだ。花泥棒に罪はないというが、それは美しさに惹かれて盗った場合であって、食料としてはカウントされないと思われる。  

 ささやくと、西原さんは愕然としたように目を見開いた。考えていなかったらしい。なぜか肩に乗ったままの八つ橋が、とてもわかりやすく目を逸らした。

「……そううわ痛!」  

 西原さんは口をぱくぱくとさせてから何かを言おうとしたが、それは八つ橋が爪を閃かせたことで中止となった。痛みに飛び上がって、次にかがみこんだ彼の首元あたりから、八つ橋の唸り声が聞こえてくる。  

 ようやく振り返った西原さんは、珍しく困った顔をして言った。

「実はこの家は八つ橋のものなんです」

 あまりにも無理がある。  

 私の表情に気がついたのか、八つ橋がまたもやぐるぐる、と唸った。西原さんの表情の困惑度がさらに上がる。めずらしいこともあるものである。

「といいますか、えー昔は悪い巨人が住んでいたんですが、ネズミに変身した際に、八つ橋がやっつけまして……」 「巨人!? この家普通サイズなんですが、っていうか『長靴をはいた猫』!?」  

 私は思わず突っ込んだ。いったい何がしたいのかわからないほどひどい出来の嘘を吐かれて、こちらも動転していたのである。  

 西原さんは八つ橋とちらりと目を見交わして、また八つ橋が喉を鳴らすのに耳を傾けた。

「いや実は、ここは八つ橋のセカンドホームなんです。八つ橋の卓越したネズミ捕りの才能に惚れこんだ奥様がですね、いたれりつくせり、なかなか離してくれなくて……ですから僕達は乗り込んでいって穏便に話し合いを……」

「『オゥオゥ奥さん、ウチの猫に手ェ出すなんて覚悟はできてるんだろうな』って?」

「いやそこまでは」  

 そりゃそうだろう、そこまでやったら美人局で恐喝である。

「でも、八つ橋の飼い主は西原さんなんですから、本来は、猫の面倒をみてもらっていることに対してお礼をする側なんじゃないですか?」

「……そうですよね……」  

 どうしよう、ちょっと楽しくなってきた。  

 

 八つ橋が今度はごろごろという音を立てる。西原さんは、なんだかだんだん困惑というよりは、悲愴という言葉が似合いそうな表情となってきていた。めずらしいことも、あるものである。

「『でも今ちょっとお金がなくて払えないんです』と言ったら、『それじゃあ仕方ないニャー』と……」

「ニャー!?」

「猫好きの方なんです」  

 すべての猫好きが語尾にニャーと付けるようになったら、世の中が大混乱に陥ると思ったが、私は言わないでおくことにした。  

 きっとその場合、犬好きの語尾は『~ワン』である。

「八つ橋はちょうどネズミに悩まされていた、こちらの奥様に召し上げられてしまいます。もし返してほしければ、八つ橋と同じ目方の金を持ってくるように、と」  

 それは重そうだ。

 証明するかのように西原さんは噂の飼い猫を乗せたままの肩を落とした。八つ橋は自分につけられた価値に満足しているらしい、目を細めると、口だけ開けて音もなく鳴いた。

「散々頼み込んで、僕と八つ橋は一週間の猶予をもらいます。でも、その間、ネズミが一匹目撃されるたびに返済金額が1000万円プラスされるニャー、という契約書に泣く泣くサインを」

「いっせんまん! 高いですよ!」  

 付け加えるとするならば、ニャーは譲れないらしい。

 

「嫌いなものをがまんする、ということに値段をつけるとすれば、まだ安いくらいかもしれません」  

 やけに深刻な顔をして西原さんは語った。

「しかもネズミはその名の通り、ネズミ算式に増えるので大変です」

「そこらへんシビアですね」

「そうなんです。そんな勢いで増える借金に対抗するには、道は一つしかありません。ギャンブルです。僕と八つ橋はまっすぐラスベガスを目指します」

「ラスベガス!」  

 ずいぶんスケールの大きい話になってきたものである。

「ええ。世界最大の娯楽街。砂漠のただ中にぽつんとある享楽の地。そこに僕と八つ橋は一攫千金を目論んで乗り込み、大勝をおさめます。カードを引けばポーカーの手札は必ずロイヤルストレートフラッシュ、スロットマシーンのバーに飛び乗れば7が三つ並ぶ、カジノのオーナー達が血眼でイカサマを見破ろうとしますが、何の証拠は見つけられません。それも当然、すべては八つ橋の幸福を呼ぶ招き猫としての才能にかかっていたのですから。猫と東洋人の男のコンビは瞬く間にブラックリストに載りつつも、借金返済を着々とこなしていたのですが、」

 

 八つ橋にネズミ捕り以外の才能があることが明らかになったにもかかわらず、どうやらハッピーエンドは遠いらしい。それにしても西原さん、語り口調がだいぶスムーズになってきている。

「最後の最後にルーレットに賭けたのが悪かった。ほら、あれって玉を転がすでしょう。あれに、本能を押さえ切れなかった八つ橋が飛びついてしまい、賭けは目茶苦茶に。八つ橋はそのへん可愛いふりなんてできませんから、止めに入ったディーラーや警備員相手に大激闘……」

 『シュレック2』に出てくる長靴をはいた猫なら、媚を売ってなんとか切り抜けそうではある。あれは何回見ても騙されるたぐいの可愛さだと思う。

 八つ橋には、確かに、無理そうだが。

 

「そんなことで僕達は、営業妨害をしたということで、これまで勝ったお金を全部取り上げられた挙句、放り出されます」

「あの砂漠に!」

「そうです、水の一滴もなく。どんどん衰弱して、横たわって空を見上げながら、最後に思い出すのは……桃さんに」

 

 何と続けるつもりだ。  

 ここまで荒唐無稽一辺倒だった話のクライマックスに自分の名前が出てきたものだから、私は固唾を飲んだ。

 

「淹れてもらったお茶で、はなびら餅食べたかったニャー、と」

「ここまでひっぱっておいて花より団子オチ!?」  

 しかもまさかのバッドエンドである。

 それなのに語尾がニャー。

 

 というか、結局何の解決にもなっていないことに気付いてほしい。  

 やってられん、という雰囲気を雄弁に漂わせて、くあ、と八つ橋が顔半分ほどの大口を開けてあくびをした。その気持ちは私もわからないでもない。

「あの、でも、桃さんはまだ食べる前ですから無罪……」  

 言いかけた西原さんを、私はさえぎった。

「いえ、私も食べます」  

 私は、言うが早いか、ぱくりと、話の間ずっと指先だけで持っていた花びらを口に含んだ。

 

 

 ……ところで、咀嚼しながらやっと気がついたのだが、目の前の車庫は空っぽだった。  

 車もないし、これだけ長い間、家の前に立ち尽くしていても、中に人のいる気配はなかったということは、きっと住人は、ひさしぶりに晴れた週末に出かけているのだろう。それなのに、よくもまあ、花一つで大騒ぎをしたものである。

 自分がきっかけを作ったことは棚にあげて、私は呆れた。花を取って食べてしまったことには変わりはないのだが。   

 すみません、と心の中で詫びてから、もうひとつ、好き勝手な設定を作ってしまったことに対して、すみません、と付け加える。

 特に、語尾がニャーというのは、もしも本当に猫好きだとしてもいただけないだろう。

 

「おいしかったです」  

 食べ終わって報告すると、「それはよかったです」と言う西原さんと、彼の肩の上の八つ橋が揃って目を細めた。確かにものすごく、変な一人と一匹なのだが、口に出した本人さえ忘れているようなことをおぼえていてくれて、そのために何かしてくれる。  

 たとえそのやり方がちょっと常識から外れているとしても、存在自体に謎が多くても。  

 ただの知人でいるにはもったいないかもしれない、のかもしれない。こんなこと考えてどうなることでもないし、空は青いし、世はなべてこともないし、なるようにしかならないものだけれど。知人を飛び越えて、窃盗の共犯者になってしまったことだし。

「お礼というにはなんですが、帰ったらお茶はいかがですか?」  

 とりあえず訊いてみると、バウムクーヘンがあります!という声と、本当の猫の鳴き声の二重奏で返事があった。

 思わず笑うと、花の、優しくほろりとした食感と、ほのかに甘酸っぱい味が舌先にまだ残っているような気がした。

 



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