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(1)

 

 

窓の外に見入っていたシェンは、気配を感じ後ろを振り返った。
「何か見えるのか?」
 シェンのやや右後ろに立つ福島英明が、抑揚のない平坦な声でそう言う。
 少し霞がかったいつもの東京の街並み。だが、シェンにとってそれは特別なものだった。いや、特別なものになったと言った方が正しいのかもしれない。
「初めて日本に来た時に見たのがこの風景だった」
 ぽつりと言ったシェンを福島がいぶかしげに見やる。
「どこまでも灰色の街が続いていて……機械の基板みたいに見えた」
「基板――か」
「確かにな」と呟き福島は唇を上げた。
「おまえの故郷は違っていたか?」
「故郷は……」

言いかけ、シェンは口をつぐむ。何かを探すように目を泳がせ、そして諦めたように福島を見上げた。
「故郷は何もなかった。本当に何も――
 中国の東北部、黒竜江省北安市。そこがシェンの故郷だった。北部がロシアとの国境にあたる山岳地帯で、冬になるとマイナス二十度まで気温が下がる。北安市は鉱物資源が豊富な県でもあったが、シェンの里である村は鉄道の路線から外れた寒村で、漢方薬などを栽培する農家がわずかに点在するのみだった。
「もしも老楊に買われなかったら、俺はたぶん今でもあの村にいたんだと思う」
 シェンの口から老楊――楊天文の名を聞き、福島はまた唇を上げた。
 己を追う者を、命を狙うものをシェンはまだ『老楊』と敬いの意味を込めた名で呼ぶ。福島にとってそれは滑稽にも見え、また過去の自分自身を見ているようでもあった。
「シェン」
 不意に名を呼ばれシェンが顔を上げる。
「楊の下に帰りたいか?」
 そう問われてシェンは一瞬目を見開いた。
 元の場所へ、あの中国の闇社会へ戻る。戻って、そして――。


(2)

そこまで考え、シェンは小さく首を横に振った。
「帰れない
「帰りたい。けれど帰れない、そういうことか?」
「……帰りたいのかどうかもわからない」

十二の時に楊に買われ、寒村から香港へと渡った。始めて見たきらびやかな香港の街に、シェンは圧倒された。そして、北安の寒村から自分をここに連れ出してくれた楊に心から感謝をした。楊の言うままにさまざまな教育を受け、そして気がついた時には立派な暗殺者になっていた。
 人を殺すことに何の疑問も抱かなかった。対象者の懐の内まで入り込み、命を奪う。
 いつだったか、ベッドの中で自分の胸に突き立てられたナイフを呆然見ていた男がいた。「どうして」と呟いたその額の真中に銃弾を撃ち込んだ。
たった数分前まで肌を合わせて戯れ、睦言を囁き合っていた相手を殺す。それでも心は何も感じなかった。
 楊が作り上げた化け物。
 シェンをそう呼ぶ者もいた。確かにそうかもしれないとシェン自身も思った。
 自分は一生こうして楊に命じられるままに誰かを殺して生きていくのだろう。そして、いつか自分が殺される側に回るのだろう。それはそれで仕方のないことだと達観していたはずだったのに。
 隣に立つ福島を見上げ、シェンはふと小さく息をついた。
 シェンはかつてこの男の命を狙う側にいた。
 福島英明。広域指定暴力団稲村組関東支部の支部長であり、後藤組の若頭でもある。
 素性のよくわからない男だった。凶手の頭である楊の情報網をもってしても、福島英明という男についての情報は、まったくもって掴めない状態だった。
 出身は不明。経歴も不明。いったいどういう理由で後藤組という組織に入り、どうやって若頭などという地位まで登っていったのかすら掴めない。
 その福島が率いる後藤組は、新宿界隈の覇権をめぐって中国福建系の組織である劉道明と激しい抗争を繰り広げている。
 数々のフロント企業を抱える後藤組は、日本の暴力団の中でも異彩を放っていた。後藤組の親組織である稲村組の組長、黒川征二の影響が強いこともある。経済界に食い込み、国際社会にも平然と立ち向かっていく。それが後藤組の福島英明だ。
 何かにつけあと一歩というところで立ちはだかってくる福島という存在は、劉道明にとって疎ましいことこの上ない存在だった。そうして劉は、凶手の元締めである楊天文に依頼を出した。
 後藤組の福島を始末してほしい。
 劉からの依頼を受けた楊は、早速日本を任せている凶手である張大偉に福島の始末を任せた。そうして張によって福島殺害の命を受けてやってきたのがシェンだった。
「日本に行け。おまえの獲物だ」
 香港での仕事を済ませマレーシアで休養を取っていたシェンだったが、突然の東京行きに素直に応じた。


(3)

 もう少しゆっくりとしていたかったが、仕事ならば仕方ない。たかが日本のヤクザ一人だ。すぐにカタがつくだろう。そう思いながら、シェンは久しぶりに日本の土を踏んだ。
 そして、シェンは福島に出会った。
 シェンは自分のことを冷酷な人間だと思っていたが、それ以上に冷酷な男が日本にいた。
 闇のような暗い瞳。感情が一切こもっていない声音。シェンの『獲物』は機械そのもののようだった。
 襲撃に失敗し、捕えられたシェンは素直に死を覚悟した。けれど福島はシェンを殺しはしなかった。
 手の甲に押し付けられた銃口の冷たさと、銃弾が骨と肉を抉る激痛。
『利き手は残しておいてやろう』
 機械的な声でそう言った福島は、ためらうことなく引き金を引いた。
 それをまざまざと思い出したシェンは、思わず自分の左手を右手でそっと覆った。
 手の甲に残された歪な傷痕と、その周囲を囲うように染みついている黒い煤の痕。シェンの左手の指は以前のようには動かない。福島はシェンの命は奪わなかったが、凶手としての手を奪った。奪ったうえで、シェンを野に放った。
『どこへでも行って野たれ死ね』
 福島はそう言ってシェンを街に放り出した。
 福島の殺害に失敗したシェンは、楊の元へは戻れない。戻ったところで待っているのは同じ楊の凶手による制裁だけだ。
 シェンは、福島の殺害に失敗したことで、楊から排除の対象となった。楊の庇護下から外れたシェンには、死以外の未来はない。福島が手を下さずとも、いずれどこかで無様な死体を晒すことになる。
 この時、シェンは初めて人に恐怖した。正しくは福島英明という男に恐怖した。


(4)



 あれから二年。今は福島の飼い犬となり果てたシェンに、楊は幾度となく刺客を送りつけてくる。
 シェンはいらぬことを知りすぎている。早く始末しなければ楊の信用問題にも関わってくるのだろう。
 楊の焦る気持ちはシェンにはわからなくもない。けれど、だからと言って楊に命を差し出してやる気などシェンにはさらさら無かった。
 いつ死んでもかまわない。その気持ちは、いつの間にか死にたくないという気持ちに変わっていた。
 生きていたい。少しでもこの男の側で生きていたい。
 福島英明というこの男の側で――。
 いつの間にか真横に立っていた福島をちらりと見上げ、シェンはまた窓の外に目をやった。
 どこまでも広がる灰色をした東京の街。ところどころに突き立っている高層ビルは何かの墓標にも見える。
「……俺はいつかあんたに借りを返せるんだろうか」
 ぽつりとそう呟いたシェンを、福島は驚いたように見やった。
「なんだ、返す気があったのか」
 揶揄するような福島の言葉に、シェンはふてくされたようにそっぽを向く。そんなシェンの仕草を見ていた福島は、ふと唇をほころばせた。

「……何だ」

「おまえでもそんな顔をするのかと思ってな」

くすくすと笑う福島をじろりと睨み、シェンはまた窓に目をやった。
「――そうだな。おまえにその気があるのなら待つ事にするか」
 そう言った福島を、シェンはゆっくりと振り返った。

「待つ――?」
「ああ。俺は生き意地が汚い。おまえが借りを返してくれるというなら、その日が来るまで意地汚く生きておいてやる」
「英明……」
「だから、おまえも俺以上に意地汚く生きていろ。借りを返すまで勝手に死ぬな」
 福島の言葉にシェンは何かを言いかけ、だが結局何も言うこと無くただ小さく頷いた。
 そんなシェンの頬に手を伸ばし、福島は珍しく柔らかな笑みを浮かべる。ゆっくりと近づいてくる唇を招くように、シェンは唇を開いた。
 温かな唇が遠慮がちに触れ、そっと離れていく。ただ触れるだけの口づけに、シェンは少し面映ゆいような気がした。

 

己の人生を変えた男。そして新たな人生を与えてくれた男。この男にいつか本当に借りを返せる日が来ればいい。
 福島の抱擁を受け入れながら、シェンは静かにそう思った。

 

 

(終) 

 


あとがき

 こんにちは。オハルです。

「無限荒野 序章」を読んでくださってありがとうございます。

 これは、同人誌で発表している「無限荒野」シリーズのお試し読みバージョンとして、同人誌即売会で無料配布をしていた本の電子書籍版です。もともと無料配布の本なので、電子書籍も無料となっています。

 本編はまだ電子書籍化していません。時間ができましたら、発行済み同人誌やサイトにアップしている小説の電子書籍バージョンを作るつもりでいます。

なお、この序章のPDF版はスマホ用になっています。電子書籍ビューワのAldikoにも対応するようにしていますので、そちらもご利用ください。

「無限荒野」シリーズはまだ完結していない小説ですが、今後もゆるりとお付き合いいただければと思います。

 

 

 

2011年12月吉日 オハル



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