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真実という「何か」

もし「私」から言葉が消えて

 

沈黙のみが残ったときにはじめて

 

平和という「何か」が

 

自由という「何か」が

 

愛という「何か」が見えるのかもしれない。

 

 

 

 


宇宙

どうでもいい仮説とか何とか言うより

単なる空想だがたまにはいいだろう。

宇宙の膨張とかダークマターなどの話を聴いていて思ったこと。

つまり0=∞、無とは無限なのではないかという空想。

いつもその手の話をすると、

宇宙はいつ出来て今何歳だとか、

宇宙の果てのその外側は?などという話になるのだが、

私の空想では、

宇宙が出来た時というのはつまり時間が始まった時であり、

終わりも果てもない無限のものだということだ。

時間というものが無かったというか、

人が時間ということを「考え」ない時には

そこには始まりも終わりもないのである。

たとえば、

ものすごく性能の良い望遠鏡で宇宙の果てを見ていたら

自分の頭の後ろが見えたという話があるように、

宇宙には始まりも終わりもないのである。

それは時間というものが存在するかどうかにかかっていることになる。

つまり時間とは何か?ということを考えることになる。

時間と思考は密接な関係にある。

つまり思考が存在しないところには時間は存在しないのだ。

だから始まりも終わりも果ても何もないのである。

うーん。笑。


価値観あるいは哲学の転換ということ

自分も含めて2011年は哲学の転換の年だみたいなことを言う方がいるが、

哲学は簡単には変わらないしそれが自然なのだろう。

学の転換などというのは後年の歴史家の勝手なせりふかもしれない

たとえば原発のことで言えば、

櫻井よしこ氏も指摘したように、

途上国を中心に世界の趨勢は原発推進であるという認識が冷静な分析と言うべきだろう。

もちろん私は個人的にはそうであってほしくないが。。。。

 


「反動」的せりふ

今年の震災というか原発事故で驚くべきは
 
失敗や想定外や不手際なども「絶対に赦せない!」という論調の多さだ。
 
あなたはそんなに完璧なんですか?と言いたい。
 
だとしたらあなたは人間ですらない。
 
と言うのも酷かな?
 
もちろん赦すことは大事だが、
 
つい不用意に「赦せない!」と言ってしまう気持ちも分ると言えば分るし。
 
自分は勤めて気をつけているが。。。
 
 
 

まっとうな人間

まっとうな人間としてありたい。

たしかに私はひきこもりの精神病患者だが、

それでも、

コミュニケーション能力が足りなくても、

心や身体の調子が乱れてたとしても、

「インターネット社会人」でしかなくても、

当たり前のことだが、

そこに於いてはきちんと決まりを守り、

たとえば著作権保護法も守れるような、

そして可能な限り礼を尽くせるような、

そんなまっとうな人間でありたい。

確かに私の社会はコンピュータの中でしかないかもしれない。

しかしその端末の向こうには生身の人間が本当に存在し

血を通わせ息をし心を震わせているということを忘れない、

そんな私に出来うる限りのまっとうな人間としてありたいと思う。



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