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無比較、無選択の気づき~最後の自由

私たちに残された最後の選択肢は選ばないということかもしれない。 J.クリシュナムルティの「自我の終焉(the first and last freedom)」は1980年代に読んだ本であるが、私の精神性に大きな影響を与えた。たとえば「無選択の気づき」というキーワードは非常に重要な言葉である。そしてこの本の原題である"the first and last freedom"。つまり彼は強調する。「私たちが自由になるためには、まず最初に自由でなければならない」。ものごとに優劣をつけたり好き嫌いを言うのは実に安直なことだが、真の自由とは相対的価値観からの自由であり、選り好みをせずに超然としているということだ。つまりそれこそが、「無選択の気づき」であろう。これは良いあれは悪いとか、こちらの方があちらより優れている、あるいは、われわれが正義であちらが悪だというような、比較に基づく視野の狭い価値観をたとえば私なら「相対的価値観」と呼ぶ。自我にとって、思考にとって、比較しないことは極めて難しい。と言うより比較することもまた自我の本質的な性質である。そして何でも比較してより良いものに対する欲望が生まれるというわけだ。そして無選択であることを保ち、気づきが重要であると。つまり私が作ったせりふ「選ばないという選択肢」という言葉は、もちろん言葉の矛盾わけだが、精神が自由であるためにはまず「比較せず選ばない」という実に中立的な立場が必要なのだ。そしてその比較せず選ばないということによる気づきこそが「最後の自由」であるのだと私は理解している。たとえば自由(freedom)と勝手(liberty)は違うと言うが、何が違うのか?それはおそらく勝手は自我にしがみつくことであり、自由は選ばないということではないか?たとえば政治的に言えば、右翼であってもいいし左翼であってもいいということだ。そんなものは本質的には何の違いもないからである。思考は、つまり自我は常に選びたがる。どちらかでないと嫌なのだ。自由はどっちでもいい。どちらでもかまわないのだ。つまり、自由とは選り好みをしないということだ。好き嫌いを言わないということだ。逆説的だが、よく考えるとそういうことになる。つまり、選り好みあるいは好き嫌いを言って「選んでいる」人は、自身の欲望に束縛されているということだ。「思考はわれわれの問題を解決することができるだろうか」とクリシュナムルティは洞察する。真に自由な精神は常に自由である。これは嫌だあれは嫌だとは言わない。それがつまり選ばないという選択肢であり、私たちに残された最後の自由ではないだろうか。つまりそれが気づきであり、精神が自由であるということなのだ。クリシュナムルティはそう言っているように私には読めた。そして比較することが止んだ、選ぶことが止んだ時私たちは、はじめから自由であったことに気づくのかもしれない。


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奥付

 

勝ちたい奴に用は無い


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著者 : 篠田 將巳
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