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価値観あるいは哲学の転換ということ

自分も含めて2011年は哲学の転換の年だみたいなことを言う方がいるが、

哲学は簡単には変わらないしそれが自然なのだろう。

学の転換などというのは後年の歴史家の勝手なせりふかもしれない

たとえば原発のことで言えば、

櫻井よしこ氏も指摘したように、

途上国を中心に世界の趨勢は原発推進であるという認識が冷静な分析と言うべきだろう。

もちろん私は個人的にはそうであってほしくないが。。。。

 


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「反動」的せりふ

今年の震災というか原発事故で驚くべきは
 
失敗や想定外や不手際なども「絶対に赦せない!」という論調の多さだ。
 
あなたはそんなに完璧なんですか?と言いたい。
 
だとしたらあなたは人間ですらない。
 
と言うのも酷かな?
 
もちろん赦すことは大事だが、
 
つい不用意に「赦せない!」と言ってしまう気持ちも分ると言えば分るし。
 
自分は勤めて気をつけているが。。。
 
 
 

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まっとうな人間

まっとうな人間としてありたい。

たしかに私はひきこもりの精神病患者だが、

それでも、

コミュニケーション能力が足りなくても、

心や身体の調子が乱れてたとしても、

「インターネット社会人」でしかなくても、

当たり前のことだが、

そこに於いてはきちんと決まりを守り、

たとえば著作権保護法も守れるような、

そして可能な限り礼を尽くせるような、

そんなまっとうな人間でありたい。

確かに私の社会はコンピュータの中でしかないかもしれない。

しかしその端末の向こうには生身の人間が本当に存在し

血を通わせ息をし心を震わせているということを忘れない、

そんな私に出来うる限りのまっとうな人間としてありたいと思う。


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孤独の一言ではじまった2012年

facebook上で私が今年はじめて発した言葉は「孤独」の一言だった。

まさに私の人生を象徴しているように思う。

そして、田崎光哉氏は、

人に評価されるために僕の人生はあるのではない、との名言を放った。

けだし。

しかしもし私のことを誰も「評価」してくれなかったとしたら、

私の自我は「孤独」と言うだろう。

しかし言うまでもないが、

人は孤独でしかあり得ないのである。

誰もがそのことを感じ、

そして目を瞑りごましながら生きている。

その集合が社会というものであるわけだ。

したがって私が発した「孤独」という言葉はあまりにも凡庸すぎて、

それこそ誰も「評価」しないだろう。

せいぜい私は、

それでいいのだと自己憐憫の感情に浸るばかりである。


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勝ちたい奴に用は無い

私は勝ちたい奴には用は無い。
 
 
ぜひとも負ける用意のある奴と友達になりたいものだ。
 
 
まあこう言うと、
 
 
それは単なる負け惜しみだと言う方も多いだろう。
 
 
そうかもしれない。
 
 
でもそれでも私はいいのだ。
 
負けるが勝ちというつもりもない。
 
 
私は元々勝ち負けということが好きじゃあない。
 
勝ち負け、成功失敗に拘泥する人には興味が無い。
 
 
勝つことしか頭にない人が好きになれない。
 
 
 
よく「生存競争はそんなに甘くない」と言う人がいる。
そしてずるく計算高く立ち回る人がいる。
詭弁で負け惜しみだと言われるかもしれないが、
 
 
しかしこう考えることができる
 
 
要するに成功失敗にこだわる人は生きるということをなめているのだ。
彼の言っていることは逆なのだ。
そういう人は「全体」に甘えて生きているのだ。
正直で誠実な人に甘えて生きているのである。
愛とは心を開くことである。
 
負けを認めることである。
 
失敗することである。
 
本当に純粋な人は喜んで負けることを知っている。
彼は喜んで損をすることを知っている。
そういう純粋な人に向かって「そんなきれいごとを言っていては生存競争に生き残れないぞ」
と言う人はその純粋な人に甘えているのだ。
正直者は馬鹿を見るのが正しいあり方だ。
喜んで馬鹿になろう。
 
純粋な人はそれを喜んで受け入れる。
 
 
負けることの何が悪い?
 
 
失敗することの何が悪い?
 
 
結局のところ誠実に生きている人ほど本当の生きる喜びを知るのである。
真実を知ることができるのは純粋な人のみである。
愛を知ることができるのは純粋な人のみである。
当然と言えば当然だが。。。
 
そしてそれは勝ち負けや成功失敗には関係ないことだ。
 
 
勝とうが負けようが、
 
 
成功しようが失敗しようが。。。。。
 
 
勝ちたい人は、
 
 
負ける用意の出来ていない人は、
 
 
ある意味では欲望におぼれている人だ。
 
 
慢心している人だ。
 
彼は得をしたいのだ。
 
そういう人は決して真実を知ることがないと思う。
 
 
真実を知るということは負けを認めることだからだ。
 
 
全体は大きくて強い。
 
「あなたは私より大きくて強い」素直にそう言える人のみが真実を知ることができるかもしれない。
 
 
               *
 

でも要するに真実を知りたいんだろう?

 

とういうことは勝ちたいんだろう?

 

 

 

もちろん今の私には欲望がある。

 

しかしおそらくもっと偉い人はそういう欲望もないのだろう。

 

つまり、そんなことはどうでもいいのだ。

 

真実だろうが何だろうが、

 

分っても分らなくてもどちらでもいい。

 

勝とうが負けようがそんなことは知ったこっちゃない。

 

分るときが来れば自ずと分るだろう。

 

それまで生きているかどうか知らないがどっちでもいい。

 

あるいは分るときは永遠に来ないかもしれない。

 

同じことだ。

 

風は吹くかもしれないし吹かないかもしれない。

 

あるいは真実などというものは

 

そもそもどこにもないかもしれない。

 

どっちでもいい。

 

ましてや勝とうが負けようが、

 

そんなことはどちらでもいいのだ。

 

 



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