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 ここに一枚の肖像画がある。

 

 美しい金色の髪に印象的な大きな蒼い瞳の少女は、その教養の高さを表す書物を膝に乗せて、慈悲深い微笑を湛えていた。金色の豪奢な額縁に隠されたキャンバスの裏には、木炭でノースブルック女子爵と書かれている。後の第五代ノーサンプトン伯爵となられるはずの方であった。

 しかしその肖像画は、本来その館の当主の肖像画を掲げる大階段の正面ではなく、図書室(ライブラリー)にひっそりと飾られていた。

「私の天使(エンジェル)……永久(とわ)に貴女と共に……」

 肖像画に向かってそう囁いた老齢の紳士は、翡翠色の瞳を愛おしそうに細めた。

 


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プロローグ

「あんの、タヌキ親父~っ!」

 一八六〇年。イングランド ノーサンプトンシャー オルソープ。

 ノーサンプトン伯爵領の領地の館(カントリーハウス)に、貴族にはあるまじき汚い言葉の怒声が轟く。当家の近侍(ヴァレット)であるヘロルド・スペンサーは、雄叫びを上げた張本人――お仕えするお嬢様、アンジェラ・ノースブルックを見て嘆息する。どうやら今日も『愛情深く・寛大で・素敵なお父上』からぎゃふんと言わされたようだ。

 握り締められた拳はプルプルと震え、口からはハーハーと乱れた息が漏れている。こうなったら暫く一人で放って置くしかない。ヘンリーは茶を用意するため、アンジェラの書斎から出た。

階下の厨房へ行く途中、擦れ違う同僚達から「ご愁傷様」と労いの言葉を受ける。彼女の奇行は日常茶飯事なので、皆慣れっこなのだ。ティーセットを準備して部屋に戻ると、アンジェラは一応落ち着きを取り戻し、しかし憮然とした顔でソファーに座り込んでいた。

 金色の豊かな巻き毛、きめ細かい象牙色の肌、一級品のサファイア石を填め込んだかのような深い蒼色の大きな瞳。まさに見た目は純情可憐、黙って座らせておけば陶磁器人形(ビスクドール)が置かれているかのごときだ。

加えて、一を聞いて十を語る知性と頭の回転の速さ、独創的な着眼点。家庭教師(カヴァネス)などほとんどお飾り、十二歳にして経済学を中心としたほぼ全ての学問を習得し、十三歳で起業した末、十六歳となられた今、英国内で指折りの実業家として成功を収めている。

 そう、才色兼備なお嬢様なのです。たまに口が悪くなるのと、男顔負けの言動を除いては……。

「お嬢様、お茶をご用意いたしました」

 白い湯気を燻らしたティーカップをアンジェラの前に置いてやる。カップから香りたつ馨しい香りに、彼女の険しく釣りあがっていた眉がすっと下がった。

「いい香り……」

 紅茶を口にした彼女の顔が、締まりのないふにゃとした表情になったのを確認して、ヘンリーは口を開いた。

「旦那様は、今度は何を仰せになられたのですか?」

「純利益前年比二十パーセントアップを達成しろって! ってそんなことはどうでもいいの! 今のところこの調子だと何とかなるから。それよりも……」

 勢い込んで父からの命令を口にしたアンジェラだったが、しかし急に言い淀んでぐっと詰まった。何か言いたげな顔でヘンリーの顔を見上げてくるが、悔しそうに俯くと「なんでもない」と呟き、新聞を広げて経済面を読み始めた。

「………」

(そんな顔をされたら、ものすごく気になるのですが……)

 彼女が友人であれば、あらゆる手段を使って聞き出すところだが、一応お仕えする主であるため、ヘンリーはぐっと好奇心を抑えた。

 二人しかいない書斎は静まり返り、アンジェラが新聞をくる音だけが響く。外はそう積もらないだろうが、しんしんと雪が降り続いていた。締め切った大きな窓から、何台もの馬車がこの館に押し掛けている音が聞こえ始める。ヘンリーは胸ポケットに入れていた懐中時計で時間を確認すると、アンジェラを急かした。

「さあ、お嬢様。そろそろ御支度を始めましょう。なんたって、本日は貴女様の十六歳のお誕生日でございますからね――」


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一.十六歳の誕生日

 

 誕生日パーティーは盛況であった。

 百人超のお客様をお迎えし大広間(ホール)で行われる舞踏会は、まず主役のアンジェラが伯爵である父とダンスを踊り、幕切られる。彼女は本日のエスコート役、父方の叔父バーナード卿と連れ立って、招待客へ挨拶をして回っていた。

 通常、まだ社交界にデビューしていない娘の場合、自分の誕生日とはいえほとんどの客は両親の知人で、さらに目立った言動が許されない為に主役の本人はつまらないものだ。

 しかし彼女の場合は叔父のバーナード卿を代表に据え、実際の事業経営は彼女がしていることが社交界の暗黙の了解とされている為、今日の招待客の大多数が彼女自身の得意先、又はご機嫌伺いであった。

 二時間ほど客への挨拶をしていたアンジェラはくたくたになり、小さめで人の少ない広間(サルーン)に逃げ込んだ。各広間には客の為に立食形式の食事や飲み物が用意されている。

「アンジー、少しここで休憩しておいで。ヘンリー頼んだよ」

 彼女の叔父はアンジェラを手近な椅子に座らせると、近くにいた知り合いのところへ行ってしまった。

「お嬢様、お疲れではありませんか?」

 彼女の好きなオレンジジュースのグラスを手渡すと、アンジェラは少し疲労の溜まった顔を上げて嬉しそうに受け取り、一気に飲み干した。

「ええ、大丈夫。後一時間したら抜けていいってお父様に言われたから、もう少し頑張るわ。それより、ちょっとのぼせちゃったから外に出たいわ」

 ヘンリーは彼女の手を取って、雪かきをされた近くの露台(バルコニー)に出た。肩を出したデザインのドレスではさすがに寒いだろうと、自分のディナージャケットを主の細い肩にかけてやる。アンジェラは「ありがとう」と嬉しそうに笑うと、火照った体に夜風を浴びて気持ちよさそうに深呼吸をしていた。粉雪を纏った風が彼女の薄紅色のドレスの裾を煽り、ヘンリーの足に絡ませる。

「よくお似合いです」

「あ、ドレス? やっぱりヘンリーの押してくれたピンクにして良かったわ」

 ドレスを褒められた彼女は嬉しそうに、くるりとその場で一回転してみせる。絹タフタと絹サテンのストライプの布地に、繊細なレースと手の込んだトリミング装飾が凝らされたオーバースカートを重ねたクリノリンシルエットのドレスは、フランスで流行のそれを彼が取り寄せたものだった。

「とてもお綺麗です」

 彼女の白い肌に映えてとても綺麗だと思い、咄嗟に口にした言葉に、アンジェラはぱっと頬を薔薇色に染めた。彼女の潤んだ瞳に見つめられて何故か言葉を失ったヘンリーは、主に対して無遠慮とは思いながらも、彼女の蒼い瞳を直接見つめ返してしまう。

「ねえ……ヘンリー……」

「はい、お嬢様」

 彼女はとても言いにくそうに、細切れに言葉を繋ぐ。

「……あの……約束、覚えて……いる?」

 はっとしてヘンリーは言葉に詰まる。

あの『約束』。

(アンジェラ様の十歳の誕生日に私と交わした、約束――)

「……はい。勿論です」

 忘れることなど、ある筈がない。

自分達主従の間でただ一つ、唯一交わされたものだから。

しかしヘンリーの返答を聞いた彼女の表情は、何故かとても怯えて戸惑ったそれだった。アンジェラの手が寒さのためか小刻みに震えているのに気付き、ヘンリーは彼女の背を押して室内へと導く。

「……ごめんね……あと……一年だから……」

 そう呟かれた彼女の言葉は微かにヘンリーの鼓膜を揺らし、強くなった風に攫われて行った。

 

 

 

 

 

『私が社交界にデビューする十七歳の誕生日まで、結婚しないこと』

 

 アンジェラが十歳の誕生日に、彼女の近侍(バレット)・ヘンリーを縛りつける為に取り交わした、『約束』。

(約束……か。私もまだ子供だったから、そこまで気が回らなかったのよね……二人の立場が対等でない場合に取り交わされるものなんて、ただの命令と同じなのに………) 

 自分の誕生日パーティーから解放されたアンジェラは、重いドレスを引き摺りながら私室に戻った。レディーズメイドに就寝の準備を整えてもらい、下がらせる。いつもなら就寝している時間だったが、身体の疲労の割に頭は覚醒して眠れず、天蓋付きの寝台から這い出す。

 真鍮の三灯燭台の仄かな灯りが、彼女の凭れ掛かった窓際の硝子にぼんやりと映りこむ。

 アンジェラは結露に濡れた硝子越しに暗い外を眺めながら、この『約束』の事の発端を思い起こしていた。

 

 アンジェラとヘンリーは乳兄妹だった。

 ヘンリーの一家は代々伯爵家に仕える家柄で、祖父は家令(ハウススチュワード)、父は領地の執事(バトラー)、母は乳母(ナニー)だった。彼女と七歳離れたヘンリーは、彼女の兄であり、憧れだった。彼女達は領地で育ち、家庭教師から一緒に教育を受けていた。

 しかしヘンリーは元々の飲み込みの速さ、自身で図書室(ライブラリー)の書籍でも知識を習得する勉学への貪欲な好奇心をアンジェラの父に買われ、貴族の子弟若しくは中産階級の子息しか入ることを許されない、ロンドンの名門パブリックスクール・ウェストミンスターに進学した。彼が十三歳、アンジェラが六歳の時だった。

 ヘンリーが領地を出てロンドンに経って一ヶ月。アンジェラは彼を恋しく思うあまり、毎日泣き暮らして食事も取れず、みるみる痩せ衰えて死の淵に立った。焦った彼女の両親はヘンリーがロンドンにいる期間は、彼女もロンドンで暮らす許可を与えてくれた。

 そう、アンジェラはずっとヘンリーの傍にいて、彼に恋をしてきた。

 ヘンリーは子供の頃からとても素敵だった。

 焦げ茶色(ブルネット)のさらさらの髪に、理知的な緑色の瞳。繊細さを感じさせる彫刻のような骨格。外見は綺麗で高貴な貴族の子息にしか見えなかった彼は、内面は典型的なガキ大将で、いつも何処かに傷を作っている子供だった。

 悪戯っ子でやんちゃなヘンリーだったが芯は慈悲深くて優しく、アンジェラを本当の妹以上に可愛がってくれた。しかし、彼女がいくら「ヘンリーのお嫁さんになりたい」と言っても、笑って相手にしてくれなかった。

甘やかされ放題で我侭に育ったアンジェラはそんな彼の態度に焦り、父に「十歳の自分の誕生日プレゼントはヘンリーとの婚約がいい」と言ってしまった。

 

「ほう、そうかそうか。アンジーももう、男の子に興味のある年になったのか。よしよし、父上がお前にお似合いの、貴族の婚約者を直ぐに探してやるからな」

 父は相好を崩してアンジェラを抱き上げたが、小さな彼女は父の胸に腕を突っ張って抗議した。

「そうじゃありませんわ、お父様! ヘンリーじゃないと嫌なの。ヘンリーだけが私の王子様なの!」

「ほ~う」

 彼女の答えを聞いた父は、ものすごく意地悪そうな顔で笑った。

「私、本気ですわ!」

「では、ヘンリーの一家は当家から放り出すしかないな」

 アンジェラを床に降ろした父は、そう言ってアンジェラを見下ろした。彼女は一体何を言われたのか咄嗟に理解できなかった。

「え? ……何を言っているの? ……どうして、そうなるの?」

「お前は今まで家庭教師に何を習ってきたのだ? 貴族は貴族、労働者階級は労働者階級としか結婚してはならん。ヘンリーは私の好意を踏みにじり、大切な娘の心を弄んだ。その報いを受けさせなければならない」

 大好きな父がそんな差別的な考えを持っていたことを初めて知ったアンジェラは、悲しくなって喚いた。

「お父様、そんな法律は存在していません!」

「法律がなくても英国ではそう決まっておるのだ。ましてやお前は長女だろう。我が伯爵家は男児に恵まれなかった。お前はわが伯爵家に相応しい貴族子息を婿に取り、この伯爵家を継ねばならんのだ」

「そんな……だったらスージーがいるわ! 私は伯爵になんてなりたくないから、妹にあげるわ!」

 アンジェラは咄嗟に二つ下の妹の名前を出す。スージーはアンジェラが生物学や物理学の本を読む傍らで、いつも女の子らしい絵本やロマンス小説を読んでいた。アンジェラはそんな可愛い彼女のほうが、煌びやかな貴族の世界が似合っていると常日頃から思っていた。

 父はアンジェラの返答に少し驚いているように見えた。じっと彼女のことを上から威圧するように見下ろし、随分と長い間黙り込んでいた。アンジェラはずっと祈るような気持ちで父の灰色の瞳を見上げ続けていたが、最終的には父は自分の要望を聞いてくれると楽観視していた。

 それまでのアンジェラはちやほやと甘やかされて育ってきた。父はいつも愛娘を「天使(エンジェル)ちゃん」と可愛がり、ほっぺにキスの一つでもすれば欲しい物は全て与えられてきた。

 しかし、返された言葉は期待通りのものではなかった。

「……ならん。お前はとても頭のいい子だが、如何せんまだ子供なのだよ。もう少し大人になれば世の中の事が見えてくる。そうすればヘンリーは一介の使用人で、お前の婿にはふさわしくないことが分かるだろう」

 父はそう言うと、デスクの上の呼び鈴をチリンと鳴らした。

「……お父様?」

「ヘンリーの一家に今日限り暇を出す。分かったら、部屋に戻りなさい」

 目の前が真っ暗になった。

 あんなに自分に甘かった父の、あまりにも厳しく酷な対応に衝撃を受けた。信じられなかった、あんまりだと思った。 自分が我侭でヘンリーを自分のものにしようとしたばかりに、彼を一番不幸な目に合わせてしまうなんて!

「お父様! お願い。私、なんでもするわ。お父様の言うとおりにします。だから……だから、ヘンリー達を首にしないで! お願い――っ!」

 アンジェラは必死の思いで父に駆け寄り、取り縋った。自分の考えなしの行動を、深く深く後悔した。

「………」

「旦那様、お呼びでしょうか」

 ベルで呼び出された執事――ヘンリーの父――が部屋に入ってきたが、伯爵は顎で追い返した。執事はアンジェラが半べそで父のガウンにしがみ付いていているのを見てぎょっとしていたが、直ぐに出て行った。

「……なんでもする……だと?」

 目をむいてアンジェラを見下す父に恐怖を感じながらも、彼女は引き下がるわけにはいかず言い募る。

「何でもします。お父様の言うとおりにします。だから――」

「ではアンジー、わしと『契約』をしようではないか」

「『契約』……?」

「ああ。お前が社交界にデビューする十七歳の誕生日までに、わが伯爵家の総資産の五分の一に充つる資産を自分の手で作り出してみろ。そうすればヘンリーの一家をこのまま雇ってやる」

「……私が……ですか?」

 ぽかんと見返すアンジェラに、父は目を眇めてみせる。

「何でもやるのであろう?」

「………」

 まず自分の家の総資産がいくらあるかなど、十歳のアンジェラが知っているはずも無く、その五分の一を稼ぐことが可能なのかどうかの判断が付かなかった。さらに、今から七年後という期間が長いのか短いのかも分からなかった。今でさえ雇っている家庭教師では役に立たず、館の図書室にある本で自分で勉強をしている状況なのに、一体誰から稼ぐ方法を学べというのだろうか。

 黙りこんで下を向いてしまったアンジェラは、床の精巧な絨毯の模様を凝視しながら、父の気持ちを変えられる代替案がないか、必死に頭をフル回転させた。焦りで握り締めた掌がじっとりと汗ばむ。

しかし父はまるで彼女に考える時間を与えないかのように、直ぐに返事を求めてきた。

「出来ぬのか。では、この話はなかったことにしよう」

 背を向けた父が後ろ手で、しっしと彼女の退出を促す。

(ここで私が出来ないといってしまったら、愛するヘンリーと彼の家族がたった今、路頭に迷ってしまう……この雪深い一月に!)

「待って! やるわ。やらせてください……ただ……」

「ただ?」

「もし、実現できたら……私とヘンリーの結婚を許して下さる?」

 父にとってヘンリーの祖父や父は、領地を維持する為に今や替えが効かない大切な人材であるのは分かっていた。つまり父は、本当はヘンリーだけ追い出したいのだろう。

この契約がどれだけ実現困難なものなのかは、実際良く分かってはいなかったが、契約からもたらされる利点が父にとってのみ多すぎる気がして、アンジェラは言い募った。

「……ふむ」

 アンジェラの申し出を苦々しそうな顔で聞いた父は、大理石のマントルピースに腕を持たれ掛けて考え込んだ。

「よかろう。ただし、条件がある」

「なに?」

 静まり返った室内に、アンジェラがごくりとつばを飲み込む音が響いた。

「一つ目は、他の者にこの事は言ってはならない。勿論、ヘンリー本人にもだ」

「……分かりました」

 彼女はしぶしぶ了承の意を示す。

「もう一つは――」

 

 

「十六歳の誕生日まで、ヘンリーに自分の気持ちを言ってはならないなんて……お父様、私の事が嫌いだったのかしら」

 当時を思い出したアンジェラはがっくりとうなだれて、窓枠に手をついた。

 そりゃあ、今となれば父の言いたいこともわかる。彼女が早々にヘンリーと恋人になり、もし体の関係にまで発展してしまったら『契約』が達成できなかったとしても、彼女の結婚が台無しになってしまうからだろう。だからアンジェラも当時は散々ごねたけれども、しぶしぶその条件をのんだのだ。まあ、のまなければヘンリー達が首になるから、他の選択肢は無かった訳だけれども……。

 でもその時は、まさかこんな状況に陥るなんて想像していなかったのだ。

(ヘンリーに恋人が出来るだなんて――!)

 

 アンジェラはずっと「十六歳の誕生日にヘンリーに告白するんだ!」とそればかりを心の励みに、それこそ血を吐く思いで頑張ってきた。

 父は『契約』に関して二つしか条件を出さなかったので、彼女は利用できる物は全て利用した。

まずパブリックスクールの五年生で当時十七歳だったヘンリーを、強引に自分の近侍(バレット)にし、学校以外の全ての時間を自分との学習の時間に充てるよう強要した。若くて遊びたい盛りであったろう彼は、それでも取り憑かれたように勉強を始めた彼女に何か感じるものがあったのか、泣き言も一切言わず熱心に取り組んでくれた。

 アンジェラ達は今まで全く興味の無かった経済学、商学について独学で書籍から学び、父の知り合いのオクスフォード大学の教授を家庭教師として個人的に雇った。本当は大学に通いたかったが、まず十歳と十七歳の自分達は年齢的にも満たなかったし、なにより女子に対して門戸を開く大学など、十九世紀のこの英国にはどこにも存在しなかったからだ。

 領地の経営については、家令から過去の実績を出してもらい分析し、強みをさらに引き伸ばす為の準備期間とした。

 三年間、試行錯誤で教養を身に付けた彼女達は、アンジェラが十三歳、ヘンリーが二十歳の時に父方の叔父バーナード卿を代表とした会社を設立し、実業家として歩み始める。

 一つ目は、領地の地場産業である家具の製造販売業に着手した。優れた家具職人を多数有する伯爵領は、品質がよくブランドとして一定の評価を頂いている。その職人達の腕を借りて、新たにドールハウスファクトリーを立ち上げた。既存のロンドンの店舗に加え、百貨店とも販路を締結し、上流階級の子女達に受け入れられた結果、着実に売り上げを伸ばした。

 二つ目は、以前から目を付けていた経営不振に陥った証券会社を買収し、経営を立て直し、その頃目新しかった投資信託事業に着手した。貴族である彼女は顧客の獲得には対して苦労しなかった。代表取締役に据えた父方の叔父・バーナード卿の人脈の広さ、生まれ持った社交性・カリスマ性にも助けられ、自身で細々と株投資をしていた個人貴族投資家を募った。そしてヘンリーの投資への先見の明も手伝い、気がつけば前年同比二百パーセントを達成した。

 三つ目に証券会社から派生して、英国植民地ケイマン諸島を使ったタックス・ヘイブン(租税回避)の斡旋会社も創設した。顧客は税率の低いケイマンにペーパー会社を設立し、そこで税申告することにより、本国の課税を間逃れることが出来た為、上流階級・中産階級の法人から絶大な支持を得て、今に至る。

 

 おそらく伯爵は自分の娘の桁外れの頭脳と、天授の才を早くから見出していたのだろう。そして普通の娘として、退屈と浪費しか生み出さない貴族社会を生きていくことが出来ないであろう事も……。

 だから彼女が欲した男を餌にして、その才能を開花させた――残念ながら、その娘には父の親心が全く伝わっておらず、『契約』を結んで以降、ずっと父娘の間柄は険悪なものになっていた。

 周りの者の助けがあって、父との『契約』は十七歳の誕生日を待つべくも無く達成できそうだった。なのに達成した暁に彼女が受け取るべき対価であるヘンリーに、恋人がいるらしいという噂が、もう数年前からアンジェラの耳にまで入って来ていたのだ。

 ヘンリーは悪くない。

(だって、彼は『約束』は破っていないのだもの――!)

「私、一体なんのために、今まで頑張ってきたのかしら……」

 自分の短絡的な考えが情けなく、さらに「ヘンリーは自分以外の女性を見ることは無い」と高を括っていた思い込みの激しさが恥ずかしくて、アンジェラはベッドの中に逃げるように潜りこんだ。

 

 

 翌日、ほとんど眠れなかったアンジェラは、早朝にベッドから抜け出し、ガウンを引っ掛けて底冷えする廊下に出た。調理場以外の他の使用人達はまだ起きていないのだろう、しんと静まり返った廊下をぺたぺたと歩き、隣の部屋にノックもせずに入った。そしてその部屋の主の寝室に入り込み天蓋つきの寝台を登ると、主の肩を揺さぶって耳元で喚いた。

「スージー、お願い。起きて!」

 妹のスージーは寝汚い貴族にしては寝起きがいい。ぱちりと真ん丸い目を見開いて、何事かとアンジェラを凝視してくる。

「何? 火事? 天変地異?」

「それに近い! お願い、お姉様を助けて!」

 アンジェラの必死の形相に「まあ、とにかく落ち着きなさいよ」と冷静な妹は突っ込み、ベッドから身体を起こした。

「私、ヘンリーが好きなんだけど――っ!」

妹に向き合うや否や、アンジェラは悩みの種を口にした。するとそれを聞いたとたん妹は、ものすごく呆れた顔をして暖かい羽根布団の中に戻ろうとした。

「え……ちょっと、スージーってば!」

「何を今更……そんなの前から知っているわよ」

 そんなことで起こさないでと、妹は半開きの目で睨んできた。

「え……なんで知っているの?」

「お姉様ほど見ていて分かりやすい人、この世に存在しないわよ。ていうか、何でそれを今、言いに来る必要があるの?」

 妹がそう言うのもしょうがない。まだ早朝の六時だった。しかしアンジェラはそんな妹の訴えを無視して、話を先に進める。

「あ、あのね……私、来年の誕生日までにヘンリーと恋人になりたいの」

 恋人という言葉に、アンジェラの頬が赤くなる。

「……どういうこと?」

「……ごめん、理由は教えられない」

 不思議そうに聞き返す妹に、父との契約を思い出し、アンジェラは口を噤む。

「ふうん……どうせ、お姉様が必死こいて実業家になったのと、何か関係があるのでしょう?」

「うう……」

 鋭い妹の指摘に肯定する訳にもいかず、アンジェラはうなってみせる。

「でもさあ、確かヘンリーって領地に彼女がいるのじゃなかったかしら? あの人、女の使用人達に人気があるから、みんなもの凄く悔しがっていたわよ」

「そう……そうなの。だからスージーに相談に乗って欲しくて」

 やる気の無さそうな妹は、姉の一大事にも関わらず面倒くさそうな顔をした。

「はあ……無理じゃない?」

「ええ~! お願い、スージーにしかこんなこと相談できないの! 見捨てないで」

 暖かい羽根布団の中に戻りたそうな妹に抱きつくと、アンジェラは必死の思いで頼み込む。 

「え~……じゃあさ、とりあえずお姉様がどれだけ本気か見せてくれる? 今日中にヘンリーに好きって告白して。それが出来たら相談に乗ってあげるから」

妹は気だるげにそう言いい、その後ボソッと「面白そうだし」と小さく呟いた。

「え……今日中? 無理! 絶対無理!」

 告白するだけでも勇気がいるのに、ましてや彼女持ちの彼に気持ちを伝えるなど出来る気がしないアンジェラは、必死に胸の前で両手を振って抵抗した。

「あ、そ。じゃあ、もう諦めなさい」

 上掛けを掴んで欠伸をした妹は、もう興味を失ったかのようにそう言った。アンジェラは焦って言い募る。

「いや、ちょっと待って! やる、やるから。今日、ヘンリーに告白する――っ!」

「オッケ~。じゃあ、今日の夜二十二時にこの部屋に集合ね。私寝なおすから、出てって」

 妹はそう言ってベッドに潜り込むと、手だけでしっしと退去を命じた。

 

 

「お嬢様、昨日は眠れなかったのですか?」

 朝、ヘンリーはアンジェラの顔を見るなり、そう言って心配そうな顔をした。

「え……ええ? どうして分かるの?」

 びっくりした彼女に、彼は肩を竦めて見せる。

「目が充血していますし、少しクマになっていらっしゃいます。何かございましたか?」

「あ……ちょっと、考え事を……ね」

 好きな人の前にそんな酷い顔で立っていたことに今頃気付き、アンジェラは恥ずかしくなって俯いた。

「そうですか。私でご相談にのれることでしたら、何でも仰ってくださいませ」

 あまり感情を顔に出さない彼が、アンジェラに向かって微笑する顔を見て、彼女の胸の奥が高鳴る。

(言えません……貴方への恋心の相談なんて、出来るはずがないでしょう――)

こんなに素敵な人で二十三歳という立派な大人なのだ。今まで数多くの女性に言い寄られ、彼女の一人や二人、いない筈が無い。しかし思っている長さならば、誰にも負けない。こちらは伊達に十三年も片思いしているのだから!

 その想いに勢いづけられた様に、アンジェラは口を開いた。

「あ……あのね、ヘンリー……」

「はい」

 顔が火照って熱い。早鐘を打つ心臓が食道を刺激して、吐きそうなくらい緊張していた。

「わ、わわわわ私――!」

「お嬢様?」

 ヘンリーより二十センチも低いアンジェラを覗き込もうと前かがみになった彼の額に、前髪がさらりとかかる。いつもより色気が倍増したヘンリーに、アンジェラは一気にまくし立てた。

「きっ……今日の夕食の後話したいことがあるから私の部屋に来てくれるっ?」

「え……はい。分かりました。必ずお伺いいたします」

 ヘンリーは一瞬目を瞬かせたが、直ぐポーカーフェイスに戻ってそう答えた。

(はあ……私って、ホント、女として駄目駄目だわ)

 

 

 その後は昨日の招待客への礼状を書いたり、気になっていた不動産投資事業の配当等について確認したりしていると、あっという間に夕食の時間になってしまった。

 ディナー用に正装して食堂に現れた妹はアンジェラを見て目配せしたが、彼女は情けない顔で首を振って見せた。両親と姉妹だけで囲む長い食卓には蝋燭が煌々と灯され、従僕(フットマン)達が温度管理を徹底した美味しそうな皿の給仕をしてくれる。ヘンリーは父の近侍(バレット)達と壁際に立って、いつも通り見守っていた。

アンジェラはこの後のことを考えると、勿論食事が喉を通るはずも無い。次々と供される皿にほとんど手を付けない愛娘の様子に気付いたのだろう、父が

「食が進んでいないようだな、マイスイート。悩みがあるのなら、いつでも聞いてやるからな」

 と白々しい言葉を吐いて、にやりと嗤って寄越した。きっと父には彼女の告白計画など、全てお見通しなのだろう。視界の端に妹がやれやれと肩を竦めているのが、目に入る。

「ありがとうございます……お父様」

 アンジェラは皆から見えない食卓の下で怒りに震える拳を握り締め、父に向かって愛想笑いをしながら眼を飛ばした。

(何が、マイスイートよ――! このタヌキ親父!)

 

 

「お嬢様、本当にどうかされたのですか?」

 夕食後、約束通り部屋に来てくれたヘンリーは、夕食を食べなかったアンジェラをとても心配してくれた。

(どうかしていますとも! もう、心臓バクバクで、口から飛び出してしまいそう!)

「ううん……なんでもないの。ちょっと食欲が無かっただけだから」

「しかし……」

「だっ……大丈夫。ありがとう」

 アンジェラが彼の言葉を遮って礼を言い黙ってしまうと、部屋の中に沈黙が訪れる。暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音が妙に大きく感じられた。

(ああ……彼女がいると分かっている人に、思いを伝えなければならないなんて……でも私

には来年の誕生日までもう一年しかない。とにかく私の気持ちを知ってもらわなければ、先

に進めないわ――!)

 アンジェラはそう意を決してぐっと拳を握りこみ、ヘンリーの顔を見つめた。

唇が震える。死んでしまうのではないかと思うぐらい脈拍が急上昇し、どくどくと耳の中で五月蝿いほど鼓動が木霊している。

「へ……ヘンリー……」

「はい」

「……私、好き……なの。貴方のことが……」

(い、言っちゃった~っ!)

 絞り出した言葉は声が震えて掠れてしまったため、言った後ちゃんと彼に聞こえたのかどうか不安になった。しかしその心配は杞憂だったようで、彼は一瞬眉を潜めたあと、少しだけ頬を緩めて返してくれた。

「ありがとうございます。光栄です……しかし、改まってそのようなことを言って頂くと、やはり照れますね」

 彼の反応がどうもおかしいと気付き、アンジェラは不安になりさらに言い募った。

「えっと……ヘンリー……私はその……貴方を殿方として――」

「私もお嬢様の事をお慕い申し上げております。私のお仕えするお嬢様としても――乳兄妹としても」

 普段ならば絶対主の言葉を遮ったりしない彼が、顔色一つ変えず会話に割り込んだ。

(……ヘンリー?)

「ですから今、こうやってお傍でお嬢様のお世話が出来ることがとても嬉しいですし、安心します。貴女はいつもご自分の健康を省みないで無茶をしますからね、兄代わりとしては近くで見守っていられると安心できます」

 彼はそう言って、昔アンジェラによくそうしたように、手袋に包まれた大きな掌で彼女の頭をぽんぽんと軽く叩いた。

「………」

「お嬢様、御用がお済みのようでしたら、そろそろご就寝の準備をなさいませ。今、メイド達を呼んで――」

 勝手に用を済ませて背を向けて出て行こうとしたヘンリーに、アンジェラは必死で叫んだ。

「私はっ! 貴方を殿方として好きっ!」

 ヘンリーの黒いお仕着せの背中がピクリと震え、こちらに背を向けたまま立ち止まった。

「貴方を……愛しているの……」

 アンジェラは必死に、彼の心に届くように言葉を紡ぎ出す。

 流されたくない……たとえ振られると分かっていても、私のこの十三年間の想いを無かったことには絶対にして欲しくない! そうアンジェラは心の中で祈った。

「……お嬢様……私が使用人ということを、お忘れですか?」

 沈黙の後発せられた彼の声は、今まで聞いたことのない冷たい声だった。アンジェラは竦み上がりそうになる心を必死に抑え、言い返す。

「……ヘンリー。主だろうと使用人だろうと、同じ人間でしょう? 恋だって、するわ」

「違います。貴女は何も解ってはいない――」

 背を向け続ける彼は、アンジェラの言葉に大きく息を吐き出した。

「ヘンリー……」

「私には恋人がいます。貴方の気持ちには、答えられません」

 硬い拒絶の言葉だった。

 そう言われるだろうと覚悟していたけれど、実際彼の口から言われると、想像していたショックの何倍もの衝撃が、アンジェラの胸を刃のように貫いた。

(でも……でも、諦めるなんて……出来ないのよ――!)

「……知って……いるわ……」

 口から零れた言葉に、ヘンリーがはっとアンジェラを振り返った。その瞳は驚愕に満ちたものだった。

「でも、知っているけれど……私の気持ちを、ヘンリーに伝えたかったの――」

 まっすぐにヘンリーの緑色の瞳を捕らえて、アンジェラは渾身の気持ちを伝えた。しかし彼は暫くして視線を外すと、無言できびすを返して出て行った。

「………」

 アンジェラは動くことも出来ず、ずっと彼が出て行った扉を見つめていた。

 

 


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