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琵琶伝(びわでん) 現代語訳

 

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 婚礼の夜、新婦が、床杯とこさかずきの儀式をするため、座敷から控えのへと下がった時、付き添いの女は何気なくその顔を見て驚いた。
 顔にはほとんど血の気がなく、今にも倒れそうに見えるにもかかわらず、感情がひどくたかぶっている様子なので、付き添いは心配そうに、ゆかひざをついて着換えをささげ持ちながら、
「あの、御気分でもお悪いのじゃございませんか。」
 と声をひそめてそっと問うた。
 新婦はすごみを帯びた冷たい瞳を向けて、付き添いを見つめた。そして、
「何でもありません。」
 とだけ簡単に言い捨てたまま、身体からだも目も動かさずに、何か思うことがあるらしい、その方向をじっと一心に見詰めながら、ころもを換えるのも、帯を締めるのも、襟元えりもとを直すのも、すそそろえるのも、みな付き添いの手に任せきっていた。
 ただごとではない新婦の顔色を不安に思った付き添いが、その理由がわからずおどおどしながら、
「こちらへ。」
 と言うと、彼女はそれに従い、少しも躊躇ためらうことなく、静かにゆっくりと廊下を歩み進んで、やがて寝室へ行き着いた。
 とこにはすでに良人おっとがおり、新婦の来るのを待っていた。彼は名を近藤重隆こんどうしげたかといい、陸軍の尉官いかん将校である。床杯の儀式は特に行われることなく、仲人なこうどの妻と、付き添いの女はみな退出した。
 ただ二人、寝室のとこの上に相対し、新婦はきッと身体からだを固くして、姿勢を正しきちんと座ったまま、真正面に良人おっとの顔を見据えて、打ち解けた様子は少しもなく、また恥じらう風情もなかった。
 尉官は腕を組んで、こちらもまたやわらいだ態度を示すことなく、ほとんど五分ほどの間、互いに目と目を見合わせていたが、ついに良人の方からまず低く太い声で、
「お通。」
 とだけ呼びかけた。
 新婦の名はお通なのであろう。
 彼女は呼ばれたのにこたえて、
「はい。」
 とだけ、きっぱりと言った。
 尉官はひどく苛立いらだつ胸を、いて落ち着かせようとするような、沈んだ、力のこもった口調で、
「おまえ、俺のところへよく嫁に来たな。」
 お通は少しも口籠くちごもることなく、
「どうも仕方しかたがございません。」
 尉官はしばらく黙っていたが、少しその声を高くして言った。
「おい、謙三郎けんざぶろうはどうした。」
「元気でおります。」
「よく、おまえ、あいつと別れることができたな。」
仕方しかたがないからです。」
「なぜ、仕方がないのだ。ええ。」
 お通はこれには答えず、懐中に手を差し入れて一通の書状を取り出し、それを良人の前にり広げてから、再び両手を膝の上に揃えた。尉官は右手めてを差し伸ばし、身体の近くに行燈あんどんを引き寄せると、目を据えてそれを読み通した。
 そこに書かれていた内容は、おおよそ次のようなものであった。

    お通に言い残す、おまえと近藤重隆殿とは
    許婚いいなずけである
    しかしながら、おまえはひどくあの人を
    嫌っているように、わしの目には見えたので、
    娘ではあるがそのことをおまえに言い聞かせ
    ることができず、臨終いまわきわまで黙っていた
    そうはいうものの、おまえを嫁にやって親戚
    となることを一旦約束したからには、それを
    いまさら破ることは、義理を重んじられた重
    隆殿の亡き父上に対し申し訳なく、とてもで
    きないことであるから、可哀相かわいそうだが犠牲いけにえとな
    ってわしの名誉のためにあの人に身をまかせて
    もらいたい
    この遺言を書き記す時のわしの心中の苦痛
    で、おまえに謝罪する

      月 日
                  清川通知みちとも
     お通殿

 これを二度三度繰り返し読んで、尉官は改まった態度になった。
「通、俺は良人だぞ。」
 お通はこれを聞いて両手をついた。
「はい、貴下あなたの妻でございます。」
 その時尉官はうつむいたお通を傲然ごうぜんと見下ろしながら、
「俺の言うことには、おまえ、何でも従うだろうな。」
 こちらは頭をたれたまま、
「いえ、わたしが従うようになさらなければいけません。」
 尉官はまゆを動かした。
「ふむ、そうか。しかし通、俺を良人とした以上は、おまえ、妻としてのみさおは守るだろうな。」
 お通はきッと顔を上げて、
「いいえ、できさえすれば破ります。」
 尉官は怒りが心の中に湧き起こり、激しく燃えさかる火のような声で、
「何だと!」
 とその言葉を聞きただした。お通はおびえもせず、気後きおくれした表情もなく、
「はい。わたしに、わたしに、みさおを守らなければならないという、そんな、義理はございませんから、できさえすれば破ります!」
 恐れる様子もなくこう言い放ったお通の片頬には、微笑えみが浮かんでいた。
 尉官はただちにうなずいた。その胸中には、前もってこの答えの予想があったのであろう、彼は熱情が極限にまで達して逆に冷静になり、非常に静かな口調で、
「そうか、絶対にみさおは守らせるぞ。」
 と言って、くちびるの先で嘲笑ちょうしょうした。


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 相本謙三郎あいもとけんざぶろうはただ一人、清川の家の書斎にいた。どこということもなく部屋の一方を見詰めたまま、口をつぐんで物思いにふけっていた。彼の書斎の縁側の端には、風流な工夫をほどこした一個の鳥籠とりかごけられており、その中に、一羽の純白の鸚鵡おうむがいた。ついばむのにも飽きたのだろう、鸚鵡は何となく寂しそうに謙三郎の後ろ姿をながめながら、頭を左右に傾けていた。室内にじゃくとした時間がしばらく流れた後、謙三郎はその清秀な顔を鸚鵡に向けて、ひどく思い悩んでいる様子で、悲しそうに、不安そうに、また人に気兼きがねするように、「琵琶びわ。」と一声、鸚鵡に言った。琵琶とはきっとこの鸚鵡の名であろう。続いて彼が低く口笛を鳴らすと同時に、
「ツウチャン、ツウチャン。」
 と鸚鵡の叫ぶ声が、奥まったこの書斎をつらぬき通って、不思議な音調で響き渡った。それを聞くと、謙三郎はうれいに沈んで、思わず目に涙を浮かべた。
 琵琶は長年清川の家に飼われていた。そして、お通と彼女の従兄にあたる謙三郎との間に身を置いて、巧みに二人の仲を取り持ったのだった。ほかでもない、お通がまだ近藤にとつぐ前、この家の愛娘まなむすめとして、謙三郎と部屋を隔てながら家の中を整えていた頃、彼に何か用があって、お通に来て欲しいと思うことがあるたびに、ちょうど今したように、籠の中の琵琶を呼んで、さらに口笛を鳴らせば、すぐに琵琶がぎょくの触れ合うような美しい声で、「ツウチャン、ツウチャン。」と伝令するよう、よくらされていたため、いつもこの時のように声を出して二度三度叫ぶ。すると、奥の部屋で静かにい物をしていた女は、物差しをて、針を置いて、ただちに謙三郎のところへ来て、互いに笑顔を合わせるのが例であったのである。
 だが、今はもうそうではない。そのことを知りながらも、謙三郎は昼に幾回いくかい、夜に幾回、むなしいこのたわむれを繰り返さずにはいられなかった。
 さてその頃は、日清戦争への出兵が行われていた時代で、特にちょうど予備役よびえき後備役こうびえきに対する召集令しょうしゅうれいが発表された時であった。
 謙三郎もまた、我が国の兵役へいえきの義務により、予備役の籍にあったので、一週間前にすでに一度連隊へ入営したのだが、その月その日の翌日は、軍隊が戦地へつことになったため、軍が親戚しんせきや父兄の気持ちを思いやり、一日の出営を許したのだった。謙三郎は父も母もいない孤児みなしごで、兄弟や妻子もなかったが、子として幼い時から養育されて、母とも思っている叔母おばに会い、これからの長い別れをしむため、朝からずっとここに来ていたのである。聞くことも、また言うことも、長い夏の日に尽きることはないのに、帰営の時刻は無情にせまった。謙三郎は身にぴったりと軍服をよそおい、今まさに別れの挨拶あいさつをしようとして躊躇ちゅうちょした。
 すでに玄関まで出ていたものの、彼は『書斎にものを置き忘れてきた』と言って、一人そこへ引き返した。
 叔母とその召使めしつかいたちは、みな玄関に立ち並んで、だれもがうれいの表情を浮かべていた。叔母たちは、これから弾丸の飛びう戦地へ行くその人が、すぐにも戻ってくるつもりで待った。だが、五分を過ぎ、十分を経ても、彼はまだ書斎から戻らなかったので、『謙三郎殿はどうしたのだろう』と、おのおの心の中で思っていた時、しんとした広い家の、はるか奥の方から、
「ツウチャン、ツウチャン。」
 と鸚鵡の声が響いてきた。これを聞き馴れた叔母は、何を思ったのか急に顔色を変えて、あわてて書斎へ走り向かった。
 謙三郎は琵琶に命じて、お通の名を呼ばせはしたが、今となってはいつもの通り、来てくれる人はいない。あすは戦地へ向かう身なので、もうあの人の姿を見、再びその声を聞くことはできないであろう。そう思うと、決意をしての旅立ちとはいえ、彼は自然と涙ぐんだ。
 その時、縁側に足音がした。女々めめしい姿を見られないようにと、謙三郎が立ち上がった時、叔母はもうこちらに来て、いきなり鳥籠のふたを開けた。
 彼が驚いて見ている間に、琵琶は激しく羽ばたいて、籠の中から逃げ去った。
「おや!何をなさるのです。」
 と謙三郎はあわてて問うた。叔母はこちらを振り向きもせず、琵琶の行方ゆくえを見守りながら縁側に立っていたが、はかなく消え残った樹のこのまの雪のように、白い鸚鵡が暗い緑色の中に見え隠れしている光景に、ひぐらしが鳴き声を一つ重ねた時、手で涙をぬぐいながらゆっくりと振り返って謙三郎を見た。
「いえね、未練みれんが出るといけないから、もうあの声を聞かないようにしようと思って。…」
 叔母は涙声を飲みおさめた。
 謙三郎はじたような表情を浮かべた。そして、叔母の言葉には答えず、胸の前の釦鈕ボタンをかけ、
「さようなら、参ります。」
 とつかつかと書斎を出た。叔母は彼に寄り添うようにして、その左側に従い、歩きながら口早に、
「いいかい、さっき言ったことは必ずしてくれるだろうね。」
「何ですか。お通さんに会ってゆけとおっしゃった、あのことですか。」
 こう言って謙三郎は立ち止まった。
「ああ、そのことですとも。お前、これからいくさに行くという人に、ほかのお願いがあるものですか。」
「それは困りましたな。あすこまでは五里あります。もし今朝言われたのでしたら、人力車くるまけて行ったんですが、『とても会わせてくれないだろう』というお話でしたから行こうという気も起こりませんでした。今からじゃ、もう時間がございません。三十分では、兵営まで戻るのも大急ぎでございます。とんだ長居ながいをいたしました。」
 謙三郎の言うことを聞き終わらないうちに、叔母は少しきこんで、
「そのことは聞いたけれど、あのの身にもなってごらん。あんな田舎いなかへ押し込まれて、一年以上外出もできず、機会があったらお前に会いたい一心で、どうにか命をつないでいるというのに、顔も見せないでお前に行かれちゃあ、それこそあの娘は死んでしまうよ。お前もあんまり思いやりがなさ過ぎる。」
 と軍服をつかんで放さないため、謙三郎は困って、
「そうおっしゃるのも無理はございませんが、もう今から会うには、軍隊を脱走しなければなりません。」
「ああ、脱走でも何でもおし。私は通が可哀相かわそうでしょうがないのよ。ねえ、お願いだから。」
 と片手で軍服のそでをつかんで、片手でおが形振なりふり構わない叔母の様子に、謙三郎はあおくなって、
「何、私の身はどうなっても、また名誉も何も気にはしませんが、それでは、それではどうも国民としての義務を果たせませんから。」
 と真心まごころめた強い声音こわねで言っても、叔母の耳には入るはずもない。ひたすら頭を振り動かして、
「何が果たせなくても構わないよ。何がどうなってもいいんだから、ねえ、たった一目、お願いだ。頼むよ。会って行ってやっておくれ。」
「でもそれだけは。」
 謙三郎がなお断ると、とうとう怒って血相を変え、
「ええい、どう頼んでもきいてくれないのかい。私一人だからと思って軽く見て。伯父さんが生きている時なら、そんなこと、言えやしないだろうが。え、お前、いつも口癖のように何と言っていなさった。『必ず養育された恩を返します』ッて、偉そうな口をきいていたくせに。私がこれほど頼むのに、それじゃあ義理が済まないだろうが。あんまりだ、あんまりだ。」
 謙三郎はどうにも言い訳の言葉が思い浮かばず、しばらく頭をれて考え込んでいたが、やがて叔母の背中をさすりながら、
「わかりました。何としてでもきっと会って参りましょう。」
 こう言われて叔母は勢いよく顔を上げ、いかにも嬉しそうに見えたが、謙三郎の顔色が普通でないことに不安を感じ、
「お前、ほんとにいいのかい。何ともなりはしないかね。」
 この言葉に謙三郎は、
「いや、ご心配には及びません。」
 とひどくさびしそうに微笑ほほえんだ。


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