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涼風通信のパスワード

ホームページ『覚りの境地』(http://www.geocities.jp/srkw_buddha)


 「涼風通信」の最新パスワードは下記の通りです。

   → 無料化にともない非掲載。

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【更新履歴】

 2011年12月18日  第一版完成。
 2011年12月19日  四聖諦について章を追加。 第一版として継続。
 2011年12月22日  一部ルビに対応。
 2011年12月26日  遍歴について拡充した。
 2012年01月05日  集諦について拡充した。
 2012年01月07日  遍歴の実際および修行とは何かについて拡充した。
 2012年02月01日  2章に一節を追加した。 「誤った修行は地獄行きになるのか?」
 2012年02月10日  1章に一節を追加した。 「帰依」
 2012年02月22日  全体的に、細かい点について拡充した。
 2012年12月29日  11章を追加した。 「地獄」
 2013年01月23日  9章-1節「法界と諸仏」に引用を追加した。

はじめに

 一般に、仏教は難解であると見られているようである。しかしながら、仏教そのものは本来分かりやすい平易な教えである。実際に難しいのは仏道を歩むことである。釈尊以来およそ2500年が経過しているが、覚りの境地に至った人は極めて少ないという事実がそれを何よりも物語っている。これは仏道が険しい道であるということではなく、仏道を最後まで歩む人が少ないことを示している。ある者は途中で道を踏み外し、ある者は袋小路に迷い込み、ある者は落とし穴に落ち、ある者は道草を食って、ほとんどの修行者が生きている間に目的地まで到達しないのである。

 本書は、この仏道を歩むことについて修行者が心得ておくべきことがらについてその心髄を記したものである。もちろん、すでに功徳を積んだ育ちのよい人(=生まれながらの菩薩)は本書を読まなくても周到に覚りに達するであろう。まっすぐに道を歩める人は、道の途中に道標などなくても目的地たるニルヴァーナに到着するからである。しかしながら、そうでない修行者もあるだろう。本書は、そのような修行者に向けて書いた。

 本書は、仏道の心髄を簡潔に述べることを旨としており、敢えて平易な表現は採っていない。そのため、初学の修行者にとって内容は極めて難解なものとなっているかも知れない。また、仏道の心髄をずばり指し示すことを旨として書いており、敢えて冗長な表現は採っていない。本書を読み物として楽しんで読もうとする人にとっては物足りなく感じるかも知れないが、心髄のみを簡潔に書くことによってむしろそれぞれの真意が鮮明になると考えた。

 静けさを目指し、究極の安らぎたるニルヴァーナに至り住することを願う人は、本書に挑戦して欲しい。浅学の者は読みこなすのに苦労するであろうが、修行者にとってそれは必ずや空しからざる努力となるものと確信するからである。

 ただし、邪な心で本書を読めばニルヴァーナに達するどころか地獄行きとなるであろう。正しい道の案内であっても、心得違いをする者にとっては役に立たないどころか身を滅ぼす悪魔の説と化してしまうからである。この点に留意してじっくりと読まれることを願う。

覚りとは何か

 そもそも覚りとは何か? それを説明したい。

 覚りとは目覚めることである。何から目覚めるかと言うと、この世の虚妄から目覚めるのである。この世の真相は、世人が見ているようなものではない。覚るとそれの真相が見え、種々さまざまな虚妄が消滅する。

 消滅するものの中でもっとも重要なものが「識別作用」である。と言うのは、人々(衆生)はこの識別作用があるために苦悩しているからである。

 たとえば手でテーブルを強く叩くと音がする。人々にとってその音は不快なものとして感じられるであろう。しかし、よく考えてみるとその音自体には人を不快にするような特別な何かがあるわけではない。ただ机を叩いた音がしただけの筈である。実際、机を叩いた音は机を叩いただけの音に過ぎない。覚るとそれがまったくそのように聞こえ、不快感を生じたり、その音に驚いたりすることがなくなる。それで覚ったことによって識別作用が消滅したと分かるのである。

 この識別作用は、いわゆる六識(眼耳鼻舌身意)それぞれに影響を与えている。覚るとそのすべてについて識別作用が消滅する。すなわち、外界との接触によって起こるそれぞれの識について人を不快にするような識別作用だけが消滅するのである。

 ここで、「人を不快にするような識別作用だけが消滅する」という点が重要である。認識作用自体が消滅するのではなく、不快なものだけが消滅する。これは本当に不可思議なことであるが、覚ると実際にそうなるのである。ただし、同時に人に快を与えるような識別作用もほぼ終滅する。したがって、覚ると飛び上がって喜ぶような快を味わうことはできなくなる。それでも不快なものが一掃されるのは素晴らしいことである。それで覚りの境地を”楽”と称するのである。

 覚ると、この世は余計なものだらけであることが分かる。それどころか、この世のほとんどすべてが余計なものなのだと気づく。たとえば、子供が大人になったとき、子どもじみた玩具の数々がもうどうでもよいガラクタに映るようなものである。すでに覚った人にとって、衆生が喜ぶようなものは喜ぶに足りないものと映る。また、衆生がそれを無くしたと言って悲しんでいるようなものも、実は悲しむに値しない下らないものだと知るのである。

 もちろん、この世のすべてが下らない、不要なものだと映るのではない。必要なものは必要なものだと分かる。ただし、そのようなものでもどうしてもそれがなければならないかと言われれば別に無くてもよいもの、他のもので充分に代替できるものだと知っている。それゆえに、覚った人は特定の何かにこだわらない。たとえば釘を打つのにはハンマーが最適であることは当然のことであるが、ハンマーが無くても他のものを適切にその代わりにして釘を打つことができるようになるようなものである。

 また、衆生は人間関係で多くの苦悩を受けている。しかしながら、覚った人は人間関係で苦悩することがない。全人類がいわば我が子か家族になったような対応ができるようになる。心の中に巣くっていた悪を完全にとどめているので、何かと敵対することがない。敵対することがないので無敵(敵がいない)である。それで未来を危ぶむような不吉なことがない。不吉なことは多く人間関係から現れるものだからである。

 覚った人は、憂いがなく、過去のことを思い出して悲しんだり、未来のことがらについてあくせくすることがない。ただ現在のことがらについてだけで生きている。なぜそうなるのかと言えば、過去はすでに過ぎ去ったものであり、未来はまだ到来していないと如実に知るからである。現在の安らぎは過去のことがらすべての結果であり、過去を変える必要がない。未来のことは今現在何をどのように計らおうともそれに従ったものとはならないことを知っている。すべては結果オーライとなり、思惑など抱かなくても最善・最良・最高の結果となることを知っている。なぜそうなるのかは説明できないが、覚った人の行為は必ずそのようになるのである。これは本当に不可思議なことであるが、それがそうなる境地が覚りの境地であることは確かである。

 覚った人は、死を超克している。死の恐怖はなくなり、来世を願うこともない。この世においても、すでに為すべきことを為し終えていることを知っている。衆生世間に楽しみがあることは知っているが、その楽しみはすでに自分を心から楽しませるものとはならないことを知っている。けだし、真の楽しみは安らぎ(=ニルヴァーナ)であることを如実に知っているからである。これは痩せ我慢ではない。余計なものがない楽しみを知り、世間の人々が余計なものを抱え込んでいるゆえにかえって苦悩に喘いでいることを見るからである。


覚りの解釈

 覚りとは何であろうかと覚ったあとで考える。それが覚りの解釈である。覚りの境地は、覚る以前にはまったく知らなかった境地である。本来、世俗の何かに似ているとか似ていないとは言うこと自体ができないものである。それでも敢えて覚りを解釈するとすれば以下のようになるだろう。

 もちろん、覚りの解釈など本来は不要である。そんなものを知らなくても覚る人は覚るだろうし、それを予め知っていても覚らない者は覚らないだろう。それでもここに覚りの解釈を述べる気になったのは、これを知ることによって少しでも覚りに近づく人もあるかも知れないと思ったからである。

 さて、衆生にとって覚りとはどのようなものだと考えられているのだろう。一般によく見受けるものの一つは「覚りとは何か重大なものを身につけることである」という見方である。しかし、覚りの実際はこれとは正反対である。覚りとは「余計なものが無くなって、すべてが明らかとなるもの」だからである。

 端的に言えば識別作用の滅がそれである。識別作用の滅を見たからには、心を含め、身体の中にある何かが無くなったと考えるのが通常の理解だろう。仏教では、その無くなったものを名称と形態(nama-rupa)と呼ぶ。なお、これらが同時に消滅するのが本当の覚り(慧解脱)であるが、形態(rupa)だけが消滅する場合がありそれを形態(rupa)の解脱、あるいは身解脱と呼ぶ。また識別作用の滅には至らないが言葉によって起こる苦悩の消滅を見る場合がありそれを名称(nama)の解脱、あるいは心解脱と呼んでいる。

 これらをたとえて言えば、壊れた弦楽器があり聞くに堪えない音を出していたとしよう。楽器そのものを完全に粉砕消滅してしまうのが慧解脱である。楽器の本体と言うべき重要な部分を破壊してしまうのが形態(rupa)の解脱である。弦をうまく張って綺麗な音がでるように調弦したのが名称(nama)の解脱である。もちろん、完全なのは慧解脱である。形態(rupa)の解脱は、もうそれが音を出すことはないので慧解脱と近いが、そこにまだ楽器の残骸が残っているという点で違いが認められる。名称(nama)の解脱は楽器を本来の姿で用いることであるが、調弦されているとは言えうっかり不快な音を出す恐れが残るという点では不完全な解脱である。

 ところで、覚りによって無くなる二つのもの、すなわち名称と形態(nama-rupa)とはそもそも何なのであろう。構成概念として考えたとき、名称(nama)は言語や文化の基底を為すものと考えられ、形態(rupa)は人間としての魂(元型:アーキタイプ)や情念、本能などを司る諸機能の土台とでも言えそうである。つまりこれらこそ人を人として見せているものの本体なのであろう。覚るとそれらが適宜に消滅するわけであるから、覚った人は根本的に人としては数えられない存在となる。

 人々(衆生)は、名称と形態(nama-rupa)ゆえに人として生活している。しかし、この二つのものがあるゆえにありとあらゆる苦悩が襲いかかるのであることを知らない。ただ、これら二つのものを滅した覚者だけがこれらこそ苦悩の本体となるものであると知っている。そしてこれら二つのものがなくても何ら困ることはなく、むしろそれによって人格の完成を見るのだと知るのである。そして、それゆえにもろもろの如来は覚りを勧め、苦悩からの解脱を説く。名称と形態(nama-rupa)とを残りなく滅ぼすことを目指して修行せよと説くのである。

 子供達にとって子どもじみた玩具が宝物であり、他愛のない遊びに興じることが人生のすべてに見える。しかしながら、その子供達も大人になったならば、他愛のない遊びに興じることには楽しみを見い出せなくなり、子どもじみた玩具も捨て去ってしまう。大人には大人らしい本当の趣味の世界が広がっており、仕事に精を出すことに喜びと楽しみとを見い出すようになるからである。それと同じく、覚った人はニルヴァーナという大いなる楽しみがあり、信仰と功徳という宝がもたらされ、智慧によって生きる最高の生活を送る。そうして世俗の楽しみをすべて捨て去ってしまう。それと同時に、一切の苦悩と憂いをも捨て去るのである。



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