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苦諦

 錯覚に陥っていてそのことを知らないならば、錯覚から抜け出すことはとてもできないであろう。それと同じく、人々(衆生)は苦に安住しているが、苦の本質を知らなければ苦から脱れようとは思わないだろう。

 
 錯覚は、それが錯覚だと分かっても錯覚としての感覚的認知は相変わらずである。つまり、それが錯覚だと知っただけではその錯覚そのものから脱れることはできない。その一方で、苦はそれが苦であると覚知したならば最終的には抜け出すことができる。苦を脱したときには苦を脱したとはっきりと覚知することができる。これを解脱知見と呼ぶ。
 
 さて、四聖諦では苦・集・滅・道の四つを説くが、実は苦を知った時点でそれを滅する道をすでに歩んでいるのである。もちろん、苦を知っただけですぐに覚りが訪れるわけではない。しかしながら、苦を知った人が正しい遍歴を為すならば覚りは遠からず訪れることになるであろう。それが道に他ならない。聖求ある人は、自ら機縁を生じ、不可思議なる因縁によって覚ることになる。解脱を達成するまでの時間には修行者によって早い遅いの差はあるが、苦を知った人の覚りはその時点ですでに約束されていると言ってよいのである。
 
 ところで、本書では苦の説明そのものは割愛する。苦の本質は、修行者が自分自身で見極めなければならないものだからである。ここでは苦諦の心髄だけを書いておく。
 
 苦諦: 衆生はすべて苦に安住している。

集諦

 苦の原因にはたくさんのものがある。しかしながら、それらはすべて群を為しており各個撃破ではなく一掃することができる。これが集諦である。

 
 すべての苦は縁起であり、原因と結果とが互いに相依関係にある。すなわち、
 
  ”これ”があるゆえに、”かれ”がある ── ①  順観
 
  ”これ”がないゆえに、”かれ”がない ── ②  逆観
 
であると知られる。また、
 
  ”これ”が生じるゆえに、”かれ”が生じる ── ①´  順観
 
  ”これ”が滅するゆえに、”かれ”が滅する ── ②´  逆観

 そして、これらのことが苦の原因を一掃できることの根拠となる。
 
 集諦の心髄: どれでもよい 一つの苦の原因を滅したならばすべての苦の原因が同時に滅する。

滅諦

 いくら苦の原因を一つでも滅しさえすればすべての苦の原因が同時に滅するとは言え、どの苦の原因も滅することができないものならば集諦を説く意味はない。しかしながら、苦の原因は滅することができる。それが滅諦である。

 
 滅諦の根底には無常観がある。無常観と言うのは、この世のことがらはすべて移ろうという真理である。この世には何一つとして、極わずかでさえも移ろわないものなど存在していない。それゆえに、苦もまた無常であると知られる。苦が無常であるゆえに、苦は滅することができるものであると分かるのである。そして、実際に仏たちは一切の苦の滅を見た。その事実を以て滅諦を説くのである。
 
 滅諦の心髄: 苦の原因はどれもが滅することができるものである。

道諦

 苦の原因を滅する道がある。それによって苦の全体が滅することになる。それ説くのが道諦である。

 
 ところで、修行者にとって重要なことは道はあっても自分を含めてすべての人々(衆生)がその道を歩めるのかということであろう。また、先だって解決すべきことはその道を歩むためには何か特定の条件が必要にならないかという疑問であろう。道諦は、まさにそれらの疑問に答えるものである。
 
 道諦の心髄: それぞれの人にはそれぞれに苦の原因を滅する道が確かに存在している。
 
 その根拠を問う人もあるだろう。それには次のように答えなければならない。
 
  『この世に仏が出現するということが道諦の存在を確からしめているものである』
 
 すなわち、もしもこの道諦が法(ダルマ)として普遍に成立していなければ、この世に生き身の仏が出現して広く理法を説くということ自体があり得ないこととなるであろう。しかしながら、実際にはこの世に出現した仏たちは皆、この道諦が真実であるという揺るぎなき確信をもって人々(衆生)に広く理法を説く。ゆえにこの道諦は正しいと言えるのである。

聖求とは

 求めるから得ることができる。覚りもまたそのようである。しかしながら、覚りはただ求めるだけでは得ることができない。覚りは、聖求(しょうぐ)によってのみ得ることができると説かれる。

 修行者の中には、覚りを求めてはいるが聖求なき者がある。それでは彼は修行者とは呼べない。その一方で、人々の中には覚りを明確に求めてはいないが聖求ある人がある。そのような人はすでに修行者の部類に入る。

 もし覚りに素質というものがあり敢えてその有無を論じるならば、それはこの聖求の有無に帰せられるだろう。

 聖求ある人の聖求を損ない挫くことは誰にもできない。聖求なき人に聖求を与えたり喚起することも誰にもできない。聖求とは求めでありながらその本質は心底においてすでに知っている「それ」のことだからである。この心底の「それ」を表面的なことで云々することはできないからである。つまり、聖求は外的なことにも内的なことにも影響を受けず、他の人が影響を与えることもできない。

 聖求ある人は修行の成否を心配するに及ばない。遠からず覚るだろうからである。問題は聖求なき者である。聖求なき者は覚ることができないのであろうか? 結論を先に言えば、聖求なき者はおそらく今世で覚ることはないであろう。今世の功徳を来世に廻向するしか方法はあるまい。そのような者はSRKWブッダという仏との縁によって覚ることはないが、功徳を積んで聖求を廻向するならば他の仏との縁によって覚ることができるだろう。

 ところで、ここで言っておきたいことがある。聖求の有無はどうあれ、今現在の修行は決して無駄にはならないということである。その果報が今世で現れるか、来世で現れるかの違いがあるだけである。その意味では、修行に勤しむ人は何ら心配することはない。

 あるものを無いことにすることはできない。無いものをあることにすることもできない。それが聖求の真実である。また、自分に聖求があるかどうか気になる者もあるかも知れないが、聖求とはそのような範疇のものではない。ではなぜ仏たちは聖求について語るのかと言えば、聖求があってこそ覚ることができるからである。



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