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四聖諦とは

 四聖諦とは、四つの聖なる真理という意味である。通常、苦・集・滅・道の四つを挙げる。それぞれ、次のように要約される。

 
 苦諦:苦があるという真理
 集諦:苦には原因があるという真理
 滅諦:苦は滅することができるという真理
 道諦:苦を滅する道が存在するという真理

 仏たちがこれらを説くのは、人々(衆生)が苦に安住していながら、そのことについての自覚がないことを憂えてのことである。仏たちには苦は存在しない。そして、人々(衆生)もまた覚れば苦を抜くことができ、そのことそれ自体は保証されている。四聖諦は、それが誰にとってもそうであることを説くのである。

 素質豊かな人は、これだけ聞いただけで覚りを求める心を起こすだろう。そのような人は四聖諦についてこれ以上追求する必要はない。四聖諦は、人々(衆生)に覚りを求める心を起こさせることを目的として説かれたものだからである。それで原始仏典では四聖諦そのものはあまり登場しない。すなわち、原始仏典の舞台はサンガ(僧伽)が中心であり、サンガ(僧伽)に集う人々はすでに覚りを求める心を起こした人々であるので敢えて四聖諦を説く必要がなかったのである。


苦諦

 錯覚に陥っていてそのことを知らないならば、錯覚から抜け出すことはとてもできないであろう。それと同じく、人々(衆生)は苦に安住しているが、苦の本質を知らなければ苦から脱れようとは思わないだろう。

 
 錯覚は、それが錯覚だと分かっても錯覚としての感覚的認知は相変わらずである。つまり、それが錯覚だと知っただけではその錯覚そのものから脱れることはできない。その一方で、苦はそれが苦であると覚知したならば最終的には抜け出すことができる。苦を脱したときには苦を脱したとはっきりと覚知することができる。これを解脱知見と呼ぶ。
 
 さて、四聖諦では苦・集・滅・道の四つを説くが、実は苦を知った時点でそれを滅する道をすでに歩んでいるのである。もちろん、苦を知っただけですぐに覚りが訪れるわけではない。しかしながら、苦を知った人が正しい遍歴を為すならば覚りは遠からず訪れることになるであろう。それが道に他ならない。聖求ある人は、自ら機縁を生じ、不可思議なる因縁によって覚ることになる。解脱を達成するまでの時間には修行者によって早い遅いの差はあるが、苦を知った人の覚りはその時点ですでに約束されていると言ってよいのである。
 
 ところで、本書では苦の説明そのものは割愛する。苦の本質は、修行者が自分自身で見極めなければならないものだからである。ここでは苦諦の心髄だけを書いておく。
 
 苦諦: 衆生はすべて苦に安住している。

集諦

 苦の原因にはたくさんのものがある。しかしながら、それらはすべて群を為しており各個撃破ではなく一掃することができる。これが集諦である。

 
 すべての苦は縁起であり、原因と結果とが互いに相依関係にある。すなわち、
 
  ”これ”があるゆえに、”かれ”がある ── ①  順観
 
  ”これ”がないゆえに、”かれ”がない ── ②  逆観
 
であると知られる。また、
 
  ”これ”が生じるゆえに、”かれ”が生じる ── ①´  順観
 
  ”これ”が滅するゆえに、”かれ”が滅する ── ②´  逆観

 そして、これらのことが苦の原因を一掃できることの根拠となる。
 
 集諦の心髄: どれでもよい 一つの苦の原因を滅したならばすべての苦の原因が同時に滅する。

滅諦

 いくら苦の原因を一つでも滅しさえすればすべての苦の原因が同時に滅するとは言え、どの苦の原因も滅することができないものならば集諦を説く意味はない。しかしながら、苦の原因は滅することができる。それが滅諦である。

 
 滅諦の根底には無常観がある。無常観と言うのは、この世のことがらはすべて移ろうという真理である。この世には何一つとして、極わずかでさえも移ろわないものなど存在していない。それゆえに、苦もまた無常であると知られる。苦が無常であるゆえに、苦は滅することができるものであると分かるのである。そして、実際に仏たちは一切の苦の滅を見た。その事実を以て滅諦を説くのである。
 
 滅諦の心髄: 苦の原因はどれもが滅することができるものである。

道諦

 苦の原因を滅する道がある。それによって苦の全体が滅することになる。それ説くのが道諦である。

 
 ところで、修行者にとって重要なことは道はあっても自分を含めてすべての人々(衆生)がその道を歩めるのかということであろう。また、先だって解決すべきことはその道を歩むためには何か特定の条件が必要にならないかという疑問であろう。道諦は、まさにそれらの疑問に答えるものである。
 
 道諦の心髄: それぞれの人にはそれぞれに苦の原因を滅する道が確かに存在している。
 
 その根拠を問う人もあるだろう。それには次のように答えなければならない。
 
  『この世に仏が出現するということが道諦の存在を確からしめているものである』
 
 すなわち、もしもこの道諦が法(ダルマ)として普遍に成立していなければ、この世に生き身の仏が出現して広く理法を説くということ自体があり得ないこととなるであろう。しかしながら、実際にはこの世に出現した仏たちは皆、この道諦が真実であるという揺るぎなき確信をもって人々(衆生)に広く理法を説く。ゆえにこの道諦は正しいと言えるのである。


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