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悪魔とその軍勢

 その本当の正体は不明であるが、人々(衆生)が解脱して覚ることを好まず、人々をこの世にそのまま留めようとする存在が知られる。それが悪魔とその軍勢である。

 
 悪魔とその軍勢は人々にいろいろな影響を与えようとするが、その手段は一般に低俗で野卑である。それゆえに、彼らの出自は人間界よりもいわば低い界であると考えて差し支えないであろう。仏教用語にはそれらを表すいくつかの名称があるが、ここでは敢えて特定しない。
 
 悪魔とその軍勢の特徴は、言葉を使わずに身振り手振りや表情、音声などで人々を惹きつけ、あるいは脅し、すくませ、また意味もなく安心させて、結果的にこの世に留めようとすることである。しかし、その活動は単発的であり、連動して畳みかけたようなものは少ない。それぞれの手口もバラバラで、統一性に欠けている。指揮系統がはっきりとは見えない。どこか投げやりで、起伏が激しい割には散漫であり、集中的でない。その場限りで、永続性が認められない。知的でなく、動物的な臭いがする。それでも人々(衆生)をこの世に留め置くには充分過ぎる力を持っているのは確かである。釈尊という偉大な仏の出現以降にも多く存在する享楽的で俗悪な歴史の事実群がそれを物語っている。
 
 さて、具体的には 1)欲望 2)嫌悪 3)飢渇 4)妄執 5)惰眠 6)恐怖 7)疑惑 8)傲慢 が悪魔とその軍勢の仕業によるものであると考えられる。
 
 人々(衆生)がこれらに馴染むと、無上の楽しみたるニルヴァーナに向かうことを止め、劣悪なこの世にこそ留まりたいという気持ちにさせられる。また、本来、人にはこれらの8つの悪癖は無いのであるが、まるでそれが人の本来的な性質であるかのように見せかけられ、思い込まされてしまう。その結果、人々(衆生)はこれらを容易に捨て去ることができなくなってしまう。自分自身で自分をこの世に縛りつけてしまうのである。
 
 しかしながら、解脱した人はこれらの悪癖をすでに離れている。元々存在しないものなのであるから、解脱と共にこれらが一掃されるのは当然のことである。

魔境とは

 修行者に隙があると、魔境に陥ることがある。一度魔境に落ち込むと、人によっては容易に抜け出すことが出来なくなる。しかし、魔境がどんなものかを知っていれば恐れるに足らない。

 
 魔境とは、一言で言えば「仏国土の下手な複製」である。まともな人であれば、本物よりも複製(おもちゃ)の方が好ましいとは思わないだろう。しかし、悪魔とその軍勢は人々(衆生)の隙につけ込んで、複製が本物よりも魅力的なものであるかのように見せかけ、愚かな人々を惹きつけてしまうのである。
 
 さて、悪魔とその軍勢はいわば勝手に人々(衆生)を幻惑しようとするのであるから、それを横から止めさせることはできない。できることは、人々が幻惑されないように魔境の真実を知らしめることであろう。
 
 先ず大事な結論を言おう。それは、聖求ある人は決して魔境には陥らないということである。と言うのは、聖求ある人は、自分が到達すべき境地について微かであるが確かな覚知を持っているので、魔境はそれにはあたらないことをすぐに見破ってしまうからである。たとえば、葉っぱでできたままごと遊びのお札を、本物のお金ではないと簡単に見破るようなものである。
 
 聖求なき者は、魔境に陥ることがあり得る。そのような人でも、魔境に陥らないための方法や抜け出す方法を知っていることは役立つに違いない。その具体的な方法は、悪魔とその軍勢の手口を知ることである。すなわち、1)欲望 2)嫌悪 3)飢渇 4)妄執 5)惰眠 6)恐怖 7)疑惑 8)傲慢 がそれである。日々の修行によってこれらの悪癖を御すならば、魔境に陥ることは決してないであろう。うっかり魔境に陥ってしまった人でも、こららの悪癖を御することで魔境から抜け出すことができる筈である。
 
 子供達がつまらない遊びを卒業して大人になるように、修行者は世俗のつまらない享楽や騒動から離れ抜け出して、仏の世界に親近すべきである。

チャクラおよびナーダ音

 魔境ではないが、瞑想(メディテーション)を行なうとチャクラが見えたり、ナーダ音が聞こえたりするようになる。これらは覚りとは本質的には関係がないものであるが、一定の関係が認められるものでもある。と言うのは、解脱するとチャクラが見え始める人があるからである。

 
 チャクラは、釈尊の仏伝では覚りを開いた朝に見た「明けの明星」として知られているものである。しかしながら、スッタニパータやダンマパダなどの主要な原始経典においてはその明確な記述は認められない。つまり、釈尊もこれは覚りとは無関係であると考えていたのであろう。
 
 私(=SRKWブッダ)のことで言えば、覚る20年前からチャクラは見えていた。さらに覚る15年前には目を開けた状態でもつねにチャクラが見えるようになった。現在もそうである。チャクラはつねに見えている状態である。しかしここで考えてみて欲しい。もしもチャクラが覚りに関係があると言うのならば覚る20年も前から見えていたのはいかなる理由であろうか。チャクラがつねに見えるようになった時から15年も経ってやっと覚ったのであると考えたとき、チャクラは覚りとは無関係であろうと言うべきことが分かる。このことはナーダ音についても同様である。いわゆるナーダ音が聞こえるようになったのも、覚る20年前であるからである。
 
 それでも早とちりする修行者は、瞑想(メディテーション)によってチャクラが見えたりナーダ音が聞こえるようになると何かの境地に達したような気がして有頂天になるかも知れない。それこそが魔境に陥る隙となる。神秘的なものに憧れる性質のある修行者は、とくに気をつけるべきことである。

地獄

 地獄について述べたい。

 地獄には光がない。地獄から這い上がる手段が基本的に存在していない。それで、一度地獄に堕ちると長い間苦しむことになる。

 さて、この世に善悪の区別が無いならば、最初から善悪を論じる必要はないであろう。しかし、衆生にとって善悪はまさしく実感されるものである。ところが、善悪は超えることができる。それが智慧の体現であり、真如である。

 善悪を認めるが、善悪に左右されない境地が真如である。これは、たとえば病気のキャリアのようなものである。世に善悪があることは知っているが、善悪そのものを超えた境地が覚り(智慧)である。これは、病気の根治(免疫)のようなものである。

 また、善悪がそもそも存在しない世界が想定され、間違いなく実在している。それが法界である。ゆえに、法界からこの世へのアクセスは法の句の形を採ることになる。

 さらに、善悪が意味を持たない世界も想定され、これも間違いなく実在している。それが地獄である。それで、一度地獄に堕ちると功徳を積むことができず、この世に戻ってくることができない。

 因果応報と言うのは、善いことをすれば善い世界に生まれ、悪いことすると悪処に堕ちるなどというような単純なものではない。因果応報の真実は、善いことを善いことだと知り、悪いことを悪いことだと知る人は、天界に生まれてついに覚るということである。

 また、因果応報の真実は、善いことを悪いことだと言い張り、悪いことを善いことだと言い張るひねくれ者は、善悪が倒錯した地獄に堕ちて長い間苦しむということである。地獄では善いことを為しても善いことだと見てくれず、悪いことを褒める世界である。誰もこんな処に居たくないであろうが、それはまさしくかつての自分が現世においてしたことである。その因縁によって地獄に堕ちるのである。

 因果応報についての第一種の理解は、真理を真理だと理解する人は天界に赴きついに覚り、真理を真理だと理解することのできない者は地獄に近づくことになるというものである。

 因果応報についての第二種の理解は、真理ならざるものを真理ならざるものだと理解して離れる人は天界に赴きついに覚り、真理ならざるものを真理だと見なして近づく者は地獄に堕ちてしまうということである。

 たとえば、薬を薬だと理解する人の病気は癒えるが、麻薬を(快楽の)妙薬だと見なす者は当初健康であっても末路は悲惨であるようなものである。あるいはまた、麻薬を危険なものだと理解する人は廃人になる怖れが無いが、薬を毒だと見なす者の病はついに癒えないようなものである。

 本来、人々に賢愚の区別はないが、それぞれの功徳の有無によって賢愚が現れる。そうして、それぞれの人はそれぞれに相応しい処に行き着くことになる。天界に行って覚るも、地獄に堕ちて苦しむも、各自のことがらである。どちらに行くにせよ、そは自分自身で選んだ道なのである。


あとがきに代えて

 私(=SRKWブッダ)が慧解脱を果たして覚り、仏となってから丁度10年になる。その間、無上の楽しみたるニルヴァーナの境地は、途切れることなく続いている。覚りは、一切の苦悩からの解脱であり憂いなき境地の体得である。その境地が継続しているのである。そして、それは私が生きている間続くことは間違いない。

 
 さて、仏となってからこの10年間にはいろいろなことがあった。覚りと同時に疑惑は去りその真相が明らかになったことがいくつかあるが、それだけでなく覚りが継続する中でこの境地について理解が深まったこともある。本書は、それらについても記した。
 
 また、とくに仏教の世界観について釈尊以来伝えられていることについても一部触れたが、分からないことは分からないと書いた。それでも推定で論じられるものについては論じている。仏がどのように世界を見ているのかを垣間見ることができるであろう。
 
 ところで、何の予備知識もない者がこの本をいきなり読むと理解を超えた奇怪なものに映るかも知れない。覚りの気根のない者が読んでも、混乱して信じることは難しいだろう。そのような場合には、まだ自分には仏縁がないのだと知って考え込まないようにして欲しい。いずれ功徳を積むことがあったならば、その時にこそこの本が役に立つであろう。
 
 例によって、この本も必要があれば適宜拡充して行くつもりである。コメントやメールなどで読者の感想や意見があれば歓迎したい。
 
     2011年12月18日 著者記す      


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