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観とはならないもの

 世間では、観ならざるものを観、あるいは観の補助となるものと見なして努力している者がある。しかし、観ならざるものにいくら熱心に取り組んでも、それによって解脱することはできない。

 
 論理的考究は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 哲学的探究は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 法学的研究は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 神学的追求は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 瞑想(メディテーション)は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 肉体的静止は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 音楽活動は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 ”ハイ”は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 薬物作用は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 知識の結集は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 経験の集約は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 見識の転用は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 ひらめきは観ならざるものであり、観とはならない。
 
 啓示は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 言葉で伝え得るものは観ならざるものであり、観とはならない。
 
 表情で表し得るものは観ならざるものであり、観とはならない。
 
 表象は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 情念の結びは濁りであって観ならざるものであり、観とはならない。
 
 煩悩そのものは観を生じる基底ではなく、観とはならない。

遍歴の実際

 修行者は正しい遍歴をせよ。それによって覚りの機縁を生じ、因縁によって覚ると期待され得るからである。ところで、正しい遍歴とは実際のところどのようなものなのだろうか? それを述べよう。

 
 ここに答えがあるであろうなどと決め打ちするのではなく、縁によって見聞きしたものをさらに吟味して、疑義を正し、疑問を解決しようとすること。それが正しい遍歴である。
 
 これ見よがしな境地に満足することなく、真の崇高なる境地を目指して真実を追究すること。
 
 自分ならざる何ものにも依拠することなく、目の前のことがらについて恥じることのない行為を適宜に為し、為し遂げること。
 
 目の前の人を軽んじることなく、もしその人がいなければ自分がやりたいことが出来なくなってしまうのだと考え、知って、誠実にことを処すこと。
 
 せき立てられることなく、自分をけしかけることなく、静けさを目指してゆっくりと邁進すること。
 
 怪しげなことを語る者は、都合が悪いことは隠してしまうだろう。しかしながら、この一なる道にはなにも隠すところがない。知りたい人は知ればよい。誰が何を隠そうとも、すでに聖求を起こした人は、自分自身で知るべきことをすべて知ることになるだろう。それが修行であり正しい遍歴に他ならない。
 
 ここで言っておきたいことがある。人は遍歴の結果として覚りに至るのではないという点である。つまり、遍歴の中身そのものは修行とはならない。遍歴とは、覚った後に遍歴で知った下らないことがらにはもう二度と戻らないという知識(=戒)を与えるものである。もちろん、遍歴の結果として自分の為すべきことが思い当たり、それが覚りの機縁になるという場合はある。しかし、それはむしろ例外的なことであると考えて差し支えない。聖求ある人は、まっすぐに覚りに到達するからである。それは遍歴の結果ではなく、多かろうが少なかろうが自分の遍歴そのものをまっすぐな道としたのである。このとき修行者は知る。紆余曲折な遍歴の結果として覚りに至ったのではなく、過不足のない正しい遍歴によってまっすぐに覚りに至ったのであると言うことをである。

それは遍歴とは言わない

 世の中をうろつき、さすらうことと遍歴とは違う。以下のことがらは遍歴とは言わない。

 
 手に取ったものを吟味することなく、次から次へとあさること。
 
 今まで触れたことのないところにこそ真実があると手前勝手に断じて、触れてはならぬものに不用意に触れること。
 
 世界の果てにこそ善知識がいると考え、その出会いを求めて流浪してしまうこと。
 
 快楽を求め、美に酔いしれて、あるいは圧倒されて、異教に馴染んでしまうこと。
 
 美辞麗句に惹かれ、あるいは脅されて、誤った教えに心酔してしまうこと。

 

 聞く耳を持たず、耳聡くなく、誤った見解を世間に吹聴して回ること。
 
 手段を選ばず、目的を遂げようと奔走すること。
 
 徒党を組み、独り居の時間を持つことなく、無為に過ごしてしまうこと。
 
 世間の利欲に幻惑されて、自分自身を見失ってしまうこと。

法界と諸仏

 法界の諸仏が現世に智慧を出現せしめて法の句として発する。それが善知識である。修行者はその善知識を耳にして正法の真実を知り、因縁によって解脱を果たす。これが覚りという現象の全貌である。

 
 ところで、そもそも法界とは何なのであろうか? 諸仏はなぜ現世に智慧を出現せしめようとするのであろうか?
 
 さて、そもそも法界を見たことがあるか? と問われれば
 
  『見たことはない』
 
と答えるしかない。では、なぜ法界があるなどと言えるのであるか? と問われれば
 
  『この世にはないものが時として出現するので、その出所が法界であると考えるしかない』
 
と答えなければならないであろう。この世にはないものとは何か? と問われれば
 
  『智慧』
 
と答えることができる。智慧をこの世に出現せしめているのは誰か? と問われれば
 
  『諸仏がそうしているのであろう』
 
と答えるべきだと言えよう。と言うのは、この世の誰も智慧を知らず、それを知るのはただ諸仏だけだからである。
 
 ただ、未だ分からないことがある。なぜ諸仏は智慧をこの世に出現せしめるのか? という点である。そのいわゆる動機については、次のように推定することができる。
 
  『この世の衆生が解脱して仏(如来)になると、衆生を自分と等しく異なることがないようにしたいという誓願を持つに至る。その誓願は法界の諸仏も同じなのであろう。そして、それゆえに諸仏は時としてこの世に智慧を出現させて、本質的に自分と等しく異なることのない生き身の仏(うつせみの仏)をつくり出そうとしているのであろう。』
 
 すなわち、そのような動機を持つ存在が諸仏に他ならず、それゆえに諸仏は諸仏と呼ばれるべき何かであると言うべきことである。

 なお、釈尊が法界について語っている経典は少ないが、少なくとも次の箇所は法界について詳細に述べている部分である。

【 第二六章 安らぎ(ニルヴァーナ) 】  注記1)

{中略}

21 不生なるものが有るからこそ、生じたものからの出離をつねに語るべきであろう。 作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為)から解脱する。

22 生じたもの、有ったもの、起こったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、──それは喜ぶに足りない。

23 それの出離であって、思考の及ばない境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。

24 そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。

25 来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。 住してとどまることも無く、依拠することも無い。──それが苦しみの終滅であると説かれる。

26 水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ──、そこには白い光も輝かず、闇黒も存在しない。

27 そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。 聖者はその境地について自らあるがままに知り、自己の沈黙をまもって、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

28 さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。 これがかれの最後の身体である。

29 これは究極たる最上の境地であり、無上の静けさの境地である。 そこは、一切の相が滅びて無くなり、{世間に}没することのない解脱の境地である。


注記1) 引用: ブッダの 真理のことば 感興のことば 中村元訳 岩波文庫 青 302-I ISBN4-00-333021-8

諸天・諸神

 ここでは諸天・諸神と表現するが、一般には護法善神と呼ばれている。その名の通り、法(ダルマ)を守る神々であり、ひいては仏道を歩む修行者を守護すると言われている。実際、修行者にはまるで何かが危険を回避してくれているような不可思議なことが起こるし、それは解脱しても変わらない。法(ダルマ)を求め、実践する人は何かに護られているという実感が確かにある。
 
 さて、諸天・諸神の出自であるが、それは法界ではなく天界であると考えられる。と言うのは、諸天・諸神が修行者を守護するやり方がとても人間的なものだからである。それらはまるで偶然を装ってはいるが、どこか人が差し向けたような匂いを感じるのである。この点は、法界の智慧とはまったく違っている。
 
 修行者を守護するためには、その他の人間を動員しなければならない。それでその手法は人間くさいものとなるのだろう。智慧は人間とは余りにかけ離れていて、相手が菩薩ならいざ知らず、それを用いてはいわゆる低俗な人々(衆生)を動かすことはできないからである。たとえば町中で妙なる調べを流しても足をとめる人は少ないであろう。が、どこかの一角で大きな爆発音を立てれば多くの人々が何事かと急ぎ集まってくるだろう。一種野蛮なものほど人々を動員する変な力を持っているからである。
 
 それでも一部場合によっては高尚な手段が用いられる。その一つが陀羅尼(ダーラニー:総持)である。これは智慧に似たものであり、極わずかな言葉によってあらゆる人々を御することができる特別な言葉(呪文)である。これはとくに善男善女を守護するために用いられる。この陀羅尼を耳にした人は、彼らに危害を加えることは決してあり得ない。この陀羅尼の出自も天界だと考えられるが、これは諸天・諸神が未来において自分たちが仏になるための功徳を積んでいるのだと考えてよいであろう。


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