閉じる


<<最初から読む

30 / 42ページ

公案を援用した方法

 公案は、ある程度まで観の代用品となるものであるが、代用品はどこまで行っても代用品に過ぎない。まして公案で覚りに近づくことができるなどと考えてはならない。精神統一をしたいのに、精神集中で代用するようなものである。円を描きたいのに、多角形で代用するようなものである。まるで本質を欠いた行為なのである。

 
 ただし、公案を解く過程においてそれが観になる場合がある。公案が観に化けたのではない。公案を解いているつもりで、実は観を実践してしまったのである。この場合に限り、公案は観を援用するものとして働いたと認められる。
 
 このようなことが起こるのは、取り組んだ公案がまるで曖昧な表現を持ち、しかもより本質的なものだったからである。そのような公案として(久松真一氏の)基本的公案が挙げられる。すなわち、
 
 「どうしてもいけなければどうするか」
 
を公案とするのである。

観(=止観)の完成

 観は、止観の両方が同時に完成したときに完成する。止によって観が現れ、かつ観によって止を生じる。

 
 また、止観は定慧とそれぞれ対を為している。止によって定を生じ、かつ観によって智慧が現れ得るからである。したがって、観の完成とは智慧を導き出す起爆剤となるものであると考えて大過ない。
 
 ここで注意しなければならないのは、観の完成がすなわち覚りではないと言うことである。観の完成によってさらに覚りを生じるには、それらをつなぐ因縁が必要である。それを一大事因縁と呼ぶ。
 
 それでも観の完成を見れば心解脱の完成は認められる。観の完成に伴って名称(nama)の解脱が達成されるからである。これにより修行者は少なくとも不還果となる。

観とはならないもの

 世間では、観ならざるものを観、あるいは観の補助となるものと見なして努力している者がある。しかし、観ならざるものにいくら熱心に取り組んでも、それによって解脱することはできない。

 
 論理的考究は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 哲学的探究は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 法学的研究は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 神学的追求は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 瞑想(メディテーション)は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 肉体的静止は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 音楽活動は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 ”ハイ”は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 薬物作用は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 知識の結集は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 経験の集約は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 見識の転用は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 ひらめきは観ならざるものであり、観とはならない。
 
 啓示は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 言葉で伝え得るものは観ならざるものであり、観とはならない。
 
 表情で表し得るものは観ならざるものであり、観とはならない。
 
 表象は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 情念の結びは濁りであって観ならざるものであり、観とはならない。
 
 煩悩そのものは観を生じる基底ではなく、観とはならない。

遍歴の実際

 修行者は正しい遍歴をせよ。それによって覚りの機縁を生じ、因縁によって覚ると期待され得るからである。ところで、正しい遍歴とは実際のところどのようなものなのだろうか? それを述べよう。

 
 ここに答えがあるであろうなどと決め打ちするのではなく、縁によって見聞きしたものをさらに吟味して、疑義を正し、疑問を解決しようとすること。それが正しい遍歴である。
 
 これ見よがしな境地に満足することなく、真の崇高なる境地を目指して真実を追究すること。
 
 自分ならざる何ものにも依拠することなく、目の前のことがらについて恥じることのない行為を適宜に為し、為し遂げること。
 
 目の前の人を軽んじることなく、もしその人がいなければ自分がやりたいことが出来なくなってしまうのだと考え、知って、誠実にことを処すこと。
 
 せき立てられることなく、自分をけしかけることなく、静けさを目指してゆっくりと邁進すること。
 
 怪しげなことを語る者は、都合が悪いことは隠してしまうだろう。しかしながら、この一なる道にはなにも隠すところがない。知りたい人は知ればよい。誰が何を隠そうとも、すでに聖求を起こした人は、自分自身で知るべきことをすべて知ることになるだろう。それが修行であり正しい遍歴に他ならない。
 
 ここで言っておきたいことがある。人は遍歴の結果として覚りに至るのではないという点である。つまり、遍歴の中身そのものは修行とはならない。遍歴とは、覚った後に遍歴で知った下らないことがらにはもう二度と戻らないという知識(=戒)を与えるものである。もちろん、遍歴の結果として自分の為すべきことが思い当たり、それが覚りの機縁になるという場合はある。しかし、それはむしろ例外的なことであると考えて差し支えない。聖求ある人は、まっすぐに覚りに到達するからである。それは遍歴の結果ではなく、多かろうが少なかろうが自分の遍歴そのものをまっすぐな道としたのである。このとき修行者は知る。紆余曲折な遍歴の結果として覚りに至ったのではなく、過不足のない正しい遍歴によってまっすぐに覚りに至ったのであると言うことをである。

それは遍歴とは言わない

 世の中をうろつき、さすらうことと遍歴とは違う。以下のことがらは遍歴とは言わない。

 
 手に取ったものを吟味することなく、次から次へとあさること。
 
 今まで触れたことのないところにこそ真実があると手前勝手に断じて、触れてはならぬものに不用意に触れること。
 
 世界の果てにこそ善知識がいると考え、その出会いを求めて流浪してしまうこと。
 
 快楽を求め、美に酔いしれて、あるいは圧倒されて、異教に馴染んでしまうこと。
 
 美辞麗句に惹かれ、あるいは脅されて、誤った教えに心酔してしまうこと。

 

 聞く耳を持たず、耳聡くなく、誤った見解を世間に吹聴して回ること。
 
 手段を選ばず、目的を遂げようと奔走すること。
 
 徒党を組み、独り居の時間を持つことなく、無為に過ごしてしまうこと。
 
 世間の利欲に幻惑されて、自分自身を見失ってしまうこと。


読者登録

SRKWブッダさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について