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懺悔

 『懺悔(さんげ)とは、懺とは死ぬまで犯さぬこと、悔とはこれまでの過ちを知ることである。 』 (六祖壇教)

 まさしくこの通りなのであるが、その具体的なこと、それがどのように修行者に起こるかは分かり難いであろう。

 懺悔は、修行の途中で起こることではなく覚りの刹那に起こることである。修行者は懺悔するゆえに解脱すると言っても過言ではない。修行者は解脱したゆえにその懺悔が懺悔として完成する。これが実際に起こることである。したがって、それ以前において修行者が懺悔と称するものはすべて懺悔の範疇には入らない。

 たとえば子供が大人になったとき、自分が大人になったと知り、子供に逆戻りすることはあり得ないと覚知するだろう。それがいわば懺にあたる。また、自分が大人になったと知ったとき、ついこの間まで自分が子供だったと知るだろう。それがいわば悔にあたる。これが懺悔の一つの有り様である。これはいわば客観的な観点による懺悔の理解である。

 そして、実は懺悔にはもう一つの有り様がある。それはいわば主観的な観点による懺悔の理解である。そしてそれこそが修行者が実感する懺悔に他ならない。解脱の瞬間、修行者にはある思いがよぎる。その思いはまるでふと思いついたものであるが、自分にとってあり得べき究極の思いであると実感されるものである。その思いの質や賢愚は問わない。まるで馬鹿げた思いに思えても、それが智慧にもとづく真実の想起であるならば、それこそが懺悔を為し遂げる原動力となる。すなわち、修行者はその思いにまつわって懺悔し、そのまるで懺悔だとは意識しない懺悔が悪を完全にとどめることになるのである。次いで解脱が起こる。

 このように、懺悔は覚りの道において重要な、決定的な行為を担っている。しかも修行者は、懺悔しようとして懺悔してはならない。結果的に真の懺悔を為し遂げたとき、その時に限り解脱は起こるのである。

 また、懺悔は信と結びついている。自分を信じ、さらに相手を信じるゆえに、懺悔は為し遂げられるからである。


帰依

 前節では、懺悔について述べた。そして、懺悔によって解脱が起こると書いた。

 ただし、実際には懺悔と同時に帰依を生じる。実のところ、懺悔によって解脱が起こるのか、帰依によって解脱を生じるのかは判然としない。ただ、覚りの刹那、これら二つがあることは事実であり、これら二つがあることによって解脱が起こると見てよいだろう。
 本節では、帰依について述べる。
 さて、懺悔は、功徳と関係があるものである。一方、帰依は信仰と密接である。すなわち、信仰の究極が、帰依であるからである。

 帰依とは、それ以降の人生をすべて仏道修行に充てるという決心である。

 したがって、覚り以前において帰依することはできない。帰依は、頭の中で行なうものではないからである。口で『帰依します』と言ったところで、帰依したことにはならない。帰依は、覚りを生じるまさにその直前に、その刹那の一瞬に為される、仏法への真の傾倒・没入を指す言葉である。

 人は、ことに臨んだそのときに「法の句」を見い出す。その一瞬に、善知識を見い出せば慧解脱が起こり仏となる。また、その一瞬に、三宝に帰依すれば身解脱が起こり阿羅漢となる。

 ことに臨んだそのときは、因縁によって出現する。それで、これを一大事因縁と呼ぶ。すなわち、一大事因縁によって智慧を見れば仏となり、三宝に帰依すれば阿羅漢果を得るということである。

 誰であろうとも、容易に帰依することはできない。仏教を篤く信仰していて、旦那(ダーナ)である人、さらにはすでに修行を積んだ立派な修行者であったしても、それだけで帰依を生じることはできないからである。

 全財産を三宝に布施・供養したところで、帰依とはならない。たとえ三宝に命を捧げても、それは帰依とは言わないのである。

 帰依は、自分を活かし、自分も三宝も輝かせるものである。この輝きによって帰依者には解脱が起こり、三宝は光を増す。帰依し終わった人は、出家者であり、〈道の人〉とも呼ばれる。帰依し終わった人は、ふたたび世俗に戻ることはできない。帰依し終わった人は、諸仏の誓願に生きる人、あるいは諸仏の誓願にしたがって生きる人となっているからである。

 くり返しになるが、帰依は信仰の究極の相である。正しい信仰を持ち、保ち、励む人は、必ず仏法に帰依することができるであろう。その時、その瞬間が到来するまで、修行者はゆっくりと邁進せよ。


覚りの機縁

 覚りの機縁を得て、それをものにした人は発心する。発心すれば一気に覚りへと近づく。覚りは、遠からず起こるであろう。発心した人にとって、今世での覚りは、ほとんど約束されたようなものである。

 
 通常、覚りの機縁は予想もしない思いがけないところから現れる。そもそも、覚りの機縁となる人が見知った人であるとは限らない。その時だけ出会い、その時点ではそうとは知らずに別れて行くことも当たり前のように起こる。事実、私(=SRKWブッダ)自身、覚りの機縁はまさしくそのようであった。今となっては、その人の顔も名前も覚えていない。初対面であったし、二度と会うことはないであろう人だからである。探そうにも、探しようもない。
 
 その一方で、すでに見知った人が覚りの機縁となる場合、好悪の感情を超えてそれは起こる。別に何とも思っていない人が覚りの機縁となることは普通のことであり、敵さえも機縁となることがあるだろう。もちろん、ごく親しい人が機縁となることも少なくないだろうが、そのような時でもそれは思いがけなく起こるだろう。実際、釈尊時代のテーリーガーターやテーラーガーターには、そのような例が散見される。
 
 今世で覚りを達成するには、この覚りの機縁を生じて発心しなければならない。しかしながら、血眼になってその人を探しても見つかる筈もない。覚りの機縁を恣意的に喚起することは、決してできないからである。ただ、仏道に勤しむこころある人は、きっとこの機縁を生じて発心するであろう。信仰篤き人は、必ず覚りの機縁を生じる。これは、おそらく間違いないことである。

修行とは何か

 覚るには修行が必要である。しかしながら、修行とは言ってもそれは何か固定的なものではない。人は次第次第に覚りに近づき、ついに解脱するのであるからである。それを為し遂げたとき、後づけで分かるのが修行である。あれこそが自分にとっての修行だったのだと覚った後で知るのである。

 修行は、功徳と密接に関係している。人は功徳を積んでついに覚る。そして、修行をすべて積んだ人が仏となるのである。

 修行を充分に積んでいないと仏になることは出来ず、阿羅漢となる。修行を僅かしか積んでいないと、不還や一来にとどまる。それはそれで素晴らしい境地であるが、仏でなければ知り得ないこともある。一切知見を得ようと思うならば仏にならなければならない。修行者は、本来仏を目指すべきである。仏こそが人としての真の完成だからである。

 修行を充分に積むためにはそれなりの時間がかかる。それで拙速なことは勧められない。修行はじっくりと行なうべきである。もちろん、今世で覚るに越したことはない。が、今世の覚りをあきらめて敢えて来世に功徳を廻向してでも仏を目指すという考えはあながち非難されるものではない。一来果の因縁はこのような考えがあって生じるものであろう。

 例によって知恵の輪の話で説明したい。時間をかけてじっくりと取り組み、見事知恵の輪を解いて、その全貌を完全に理解した人。つまり、外すことも元に戻すこともできて、知恵の輪の成り立ちをすっかりと知った人。彼が仏にあたる。つぎに、それなりの時間をかけて知恵の輪を正しく解いた人。彼が阿羅漢果である。彼は解くことは出来ても元に戻すことができない。解けはしたがじっくりと時間をかけて解かなかったので、知恵の輪の成り立ちを完全には理解し尽くすには至らなかったのである。それでも同じ知恵の輪を見たならばすべて解くことができる。それで解くという点では仏の境涯と何ら変わらないと言える。この世を正しく生きていくということについてはそれで充分である。さて、知恵の輪を拙速に解こうとして知恵の輪の正しくない別解を見つけてしまった人が一来である。ただ、彼はこの知恵の輪が解けるということは知った。確かにピースは分離されたからである。しかし、彼は真の解を知らない。したがって、すでに分離してしまった知恵の輪を元に戻すこともできない。それで同じ知恵の輪を別に探してきてもう一度挑戦するしかない。それで一来となる。ここで、覚りの場合にはもう一度挑戦するということは来世に望みを繋ぐしかないからである。そして、他の人が知恵の輪を解いたことを聞き知って、この知恵の輪は確かに解くことができるのであると正しく信じることができた人が預流果である。最後に、かれ自身はその知恵の輪を解くことが出来なかったが、やや低レベルの別の知恵の輪を見事に解いてその低レベルの知恵の輪の全貌を理解した人が不還である。彼は少なくとも知恵の輪がなぜ知恵の輪と呼ばれるのであるかについては完全に理解した。それで当該知恵の輪も知恵の輪であると知ることができた。当該知恵の輪を解くことはできなかったが基本的な目的は果たしている。それで、覚りの道の場合この世に戻ってくる必要性をすでに感じていないことになり、死してのちもうこの世には戻ってこない。

 知恵の輪はじっくりと取り組むべきもので、次第次第に解けるものであり、そうでなければ解いたときの感動を味わうことはできない。修行はじっくりと取り組むべきもので、次第次第に覚りに近づくものであり、そうでなければ解脱したときに〈特殊な感動〉を生じない。修行は、このように行なうべきものである。

 じっくりと... ゆっくりと... このとてもヒントには思えないことがらが大きなヒントである。と言うのは、最後の最後を決定づけるのはこれらのことがらに他ならないからである。具体的に何をしたかという内容ではなく過程そのものが修行の本体である。心構え正しく、功徳を積んだ人だけが覚るからである。
 
 極端に言えば一々の修行の内容などどうでもよい。過程が修行の本体である。それで、もろもろの如来は「正しい遍歴をせよ」と説く。知恵の輪に取り組んでいるときでも一々の操作を憶えたりしないであろう。そんなことをしなくても解けるときには完全に解けるからである。
 
 一々の操作を憶えていなくても、解けたときにはその全貌が明らかになる。赤色を知ろうとして見た一々の赤色を憶えていなくても、たった一つの赤色によって赤色全体を認知したときにはすべての赤色が分かるようになる。これが実際に起こることである。覚りも同様である。たった一つの智慧を知ることですべてが明らかとなるのである。
 
 人を覚りに導き至らしめる善知識も、言葉そのものは平易な言葉である。知恵の輪を解く一つ一つの操作が簡単なものであるように、赤色が無数にありながらそのどれによってでも赤色の認知が起こり得るように、子供でも知っているような平易な言葉が時として偉大な法の句となる。それが善知識に他ならない。それはいわゆる起承転結に従わず、その他のいかなる人為の感動のプロセスに準じない。それは咄嗟のことであり、一瞬のことであり、身近に出現する世にも不可思議なる言葉である。それを知って真実を明らめ、解脱する過程が修行に他ならない。


修行に役立つもの

 心構え正しき立派な修行者は、あらゆるものを修行に役立て、修行の役に立たないものには決して近づかない。しかし、そう言われても、普通の修行者は何をどうしてよいか分からず、身も蓋もないであろう。そこで、以下に修行に役立つものを挙げる。この通り修行に勤しむならば、その修行者こそが心構え正しき立派な修行者であると認められる。では、列挙しよう。

 身近かな人々と仲良くして、しかも安易に迎合しないことは修行に役立つ。人々(衆生)は距離的にも心理的にも年齢的にも遠くの人とは争わないが、身近かな人々とは争いがちだからである。

 生活が簡素で、ゆっくりとした時間を多くつくることは修行に役立つ。とくに夜は重要である。夜の三つの区分の一つだけでも目覚めているべきである。

 仏や菩薩に親近することは修行に役立つ。もちろん、誰もができる環境にあるとは言わないが。

 自分がどうなりたいのかを考えること(想起すること)は修行に役立つ。

 決して独りよがりにならず、身近かな人々との関係をよいものにしようと思うことは修行に役立つ。

 嫌なことをするのではなく、むしろ好きなことに取り組み、しかもそれによって覚ろうとしないことは修行に役立つ。

 嫌なことを嫌だと公言することは、修行を阻害しない。

 心の仕組みについて探究することは、修行に役立つ。

 人間の尊厳について考究することは、修行に役立つ。

 人と世の真実を見極めようとすることが、修行そのものである。



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