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修行者が持つべき戒律

 最低限度、修行者が持つべき戒律は次のものである。

 
 邪なことをしない。
 
 自らの悪を放置しない。
 
 自ら得たもの・与えられたもので暮らし、盗まない。
 
 自ら為すべきことを見失わない。
 
 とくに身近かな人を、悲しませない。
 
 言葉によって他の人を迷わせない。
 

観の実践

 観こそが、覚りの修行の王道である。観(=止観)を完成させてこそ、慧解脱は起きるからである。観の要諦について、以下に述べよう。

 観を行なうにあたって最も大事なことは、観の対象である。「衆生」を観の対象としなければならない。そうして、観においてこの衆生を完成させたとき、修行者は仏に出会うことになる。

 観は、観るということである。どこを観るかではなく、どう観るかでもなく、相手を観るのでもなく、自分を観るのでもない。正しく観るということであるが、それはありのままに観ることでもない。

 正しく観たならば、咄嗟のことが想起され、同時に仏を見ることになる。それを為し遂げたとき、観は正しく為されたのであり完成したのである。

 不味いものをいくら食べても、美味しいということは絶対に分からない。美味しいということを知るためには美味しいものを食べなければならない。美味しいものを食べて、美味しいということの意味が分かった人だけが美味しいということを知る。それと同じく、観でないものをいくら為しても、観でないものの情報をいくら集めても、それによって観が分かることはない。まして観を為し遂げることには絶対に結びつかない。魔境に陥る危険が高まるだけである。観は、正しい観を為してこそその本質が分かり、観を完成させる可能性が生まれる。

 観を為すことができるかどうかは、その人の功徳次第である。すでに観を為すだけの功徳を積んだ人だけが観を為し、ついに完成させる。そうして、仏と出会うのである。


公案を援用した方法

 公案は、ある程度まで観の代用品となるものであるが、代用品はどこまで行っても代用品に過ぎない。まして公案で覚りに近づくことができるなどと考えてはならない。精神統一をしたいのに、精神集中で代用するようなものである。円を描きたいのに、多角形で代用するようなものである。まるで本質を欠いた行為なのである。

 
 ただし、公案を解く過程においてそれが観になる場合がある。公案が観に化けたのではない。公案を解いているつもりで、実は観を実践してしまったのである。この場合に限り、公案は観を援用するものとして働いたと認められる。
 
 このようなことが起こるのは、取り組んだ公案がまるで曖昧な表現を持ち、しかもより本質的なものだったからである。そのような公案として(久松真一氏の)基本的公案が挙げられる。すなわち、
 
 「どうしてもいけなければどうするか」
 
を公案とするのである。

観(=止観)の完成

 観は、止観の両方が同時に完成したときに完成する。止によって観が現れ、かつ観によって止を生じる。

 
 また、止観は定慧とそれぞれ対を為している。止によって定を生じ、かつ観によって智慧が現れ得るからである。したがって、観の完成とは智慧を導き出す起爆剤となるものであると考えて大過ない。
 
 ここで注意しなければならないのは、観の完成がすなわち覚りではないと言うことである。観の完成によってさらに覚りを生じるには、それらをつなぐ因縁が必要である。それを一大事因縁と呼ぶ。
 
 それでも観の完成を見れば心解脱の完成は認められる。観の完成に伴って名称(nama)の解脱が達成されるからである。これにより修行者は少なくとも不還果となる。

観とはならないもの

 世間では、観ならざるものを観、あるいは観の補助となるものと見なして努力している者がある。しかし、観ならざるものにいくら熱心に取り組んでも、それによって解脱することはできない。

 
 論理的考究は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 哲学的探究は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 法学的研究は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 神学的追求は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 瞑想(メディテーション)は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 肉体的静止は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 音楽活動は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 ”ハイ”は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 薬物作用は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 知識の結集は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 経験の集約は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 見識の転用は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 ひらめきは観ならざるものであり、観とはならない。
 
 啓示は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 言葉で伝え得るものは観ならざるものであり、観とはならない。
 
 表情で表し得るものは観ならざるものであり、観とはならない。
 
 表象は観ならざるものであり、観とはならない。
 
 情念の結びは濁りであって観ならざるものであり、観とはならない。
 
 煩悩そのものは観を生じる基底ではなく、観とはならない。


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