閉じる


<<最初から読む

26 / 42ページ

聖求は喚起できるか?

 最初の節で「聖求なき者に聖求を与えたり喚起することは誰にもできない」と書いた。本当にそうなのであろうか? 結論を言えば、これはこの通りであるとしか言いようがない。

 
 では、「聖求なき者が自分自身で自分の聖求を喚起できるか?」 という問いならばどうだろう。
 
 これについては別の答えになるだろう。
 
  『聖求なき者が、仏道には聖求というものがあることを聞き知って、自分もその聖求を持とうと思ったならば、それが聖求を持つことの始まりとなり得る。』
 
 これは、いわゆるその気になるということである。そして現在聖求を持っている修行者といえども、生まれながらに聖求を持っていたというよりも、むしろ仏教のことを聞き知ってその気になり、今世において聖求を持つに至ったというのが的を射た言い方かも知れない。
 
 また、ある人の場合、他の人が仏教の進んだ境地に至ったことを知って発心し、その発心と同時に聖求を持つに至ったという事実も認められる。(涼風尊者の例) 彼女は、明らかに最初は聖求がなかった。
 
 これはたとえば独身貴族を楽しんでいて結婚する気などさらさら無かった人が、乗り気でないお見合いに無理矢理出席させられたところ相手の人に一目惚れしてしまい、同時に結婚したいという気持ちをも生じたなどと言う場合に似ている。
 
 すなわち、自分自身によって自分自身の聖求を喚起することは充分にあり得ることであると言えよう。

具足戒

 仏弟子たる修行者には、戒律が授けられる。戒律を授かったとき、その修行者は出家者として認められるのである。そして、戒律を破れば破戒僧となりサンガ(僧伽)を破門される。

 
 サンガ(僧伽)においては、より多くの、完全な戒律を授けられて修行する方が、不完全な戒律を授けされて修行するよりもすぐれていると周知されている。そのため、破戒して破門される恐れが増すにも関わらず、釈尊の時代にも多くの修行僧が完全な戒律を授けられることを望んだと言う。
 
 ところで、仏や阿羅漢は破戒の恐れがない。彼らは完全な具足戒があるので、破戒することがないのである。具足戒とは、授けられた戒律ではなく自ら備わっている完全な戒律である。
 
 たとえば、大人は子どもじみた行為をすることができない。遊びとは言え、今更かくれんぼや鬼ごっこをすることはできない。身体機能に障害があるのではない。健康体であるが、かくれんぼや鬼ごっこはできないのである。形式的にさえもできなくなる。それが大人になると言うことである。具足戒も同様である。すでに完全な解脱を果たした仏や阿羅漢は、戒律を破ろうとしても破ることができない。完全に身についていてつねにその戒は体現されている。それで”具足戒”と名づけるのである。
 
 修行者がたもつべき戒律としての具足戒を授けられそれを守ったならば、基本的には仏や阿羅漢と何ら変わらない行為を為すことになる。一般の人々(衆生)から見たとき、具足戒を授けられた修行者と、具足戒がある仏や阿羅漢との違いを見いだすことはできないだろう。それでそのような修行者は仏や阿羅漢に対して行なわれる布施・供養と同じものを人々(衆生)から受けることになる。結果、その修行者は仏や阿羅漢と同じ功徳を得ることができるのである。このことが、多くの修行者が完全な戒律を授けられることを望んだ大きな理由である。
 
 『人は行為によってバラモンともなる。』 釈尊のこの言葉は、それを完全に裏付けている。

修行者が持つべき戒律

 最低限度、修行者が持つべき戒律は次のものである。

 
 邪なことをしない。
 
 自らの悪を放置しない。
 
 自ら得たもの・与えられたもので暮らし、盗まない。
 
 自ら為すべきことを見失わない。
 
 とくに身近かな人を、悲しませない。
 
 言葉によって他の人を迷わせない。
 

観の実践

 観こそが、覚りの修行の王道である。観(=止観)を完成させてこそ、慧解脱は起きるからである。観の要諦について、以下に述べよう。

 観を行なうにあたって最も大事なことは、観の対象である。「衆生」を観の対象としなければならない。そうして、観においてこの衆生を完成させたとき、修行者は仏に出会うことになる。

 観は、観るということである。どこを観るかではなく、どう観るかでもなく、相手を観るのでもなく、自分を観るのでもない。正しく観るということであるが、それはありのままに観ることでもない。

 正しく観たならば、咄嗟のことが想起され、同時に仏を見ることになる。それを為し遂げたとき、観は正しく為されたのであり完成したのである。

 不味いものをいくら食べても、美味しいということは絶対に分からない。美味しいということを知るためには美味しいものを食べなければならない。美味しいものを食べて、美味しいということの意味が分かった人だけが美味しいということを知る。それと同じく、観でないものをいくら為しても、観でないものの情報をいくら集めても、それによって観が分かることはない。まして観を為し遂げることには絶対に結びつかない。魔境に陥る危険が高まるだけである。観は、正しい観を為してこそその本質が分かり、観を完成させる可能性が生まれる。

 観を為すことができるかどうかは、その人の功徳次第である。すでに観を為すだけの功徳を積んだ人だけが観を為し、ついに完成させる。そうして、仏と出会うのである。


公案を援用した方法

 公案は、ある程度まで観の代用品となるものであるが、代用品はどこまで行っても代用品に過ぎない。まして公案で覚りに近づくことができるなどと考えてはならない。精神統一をしたいのに、精神集中で代用するようなものである。円を描きたいのに、多角形で代用するようなものである。まるで本質を欠いた行為なのである。

 
 ただし、公案を解く過程においてそれが観になる場合がある。公案が観に化けたのではない。公案を解いているつもりで、実は観を実践してしまったのである。この場合に限り、公案は観を援用するものとして働いたと認められる。
 
 このようなことが起こるのは、取り組んだ公案がまるで曖昧な表現を持ち、しかもより本質的なものだったからである。そのような公案として(久松真一氏の)基本的公案が挙げられる。すなわち、
 
 「どうしてもいけなければどうするか」
 
を公案とするのである。


読者登録

SRKWブッダさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について